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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1998 > 1-29 古賀春江《煙火》 毛利伊知郎 コレクション万華鏡展図録

1-29
古賀春江
《煙火》

古賀春江《煙火》
1-29 古賀春江《煙火》
1927(昭和2)年 油彩・キャンバス
90.9x60.6cm



挿図
 古賀春江の《煙火》といえば、文学者川端康成が画家自身から譲り受け、愛蔵していた作品がよく知られているが、三重県立美術館では古賀が描いたもう一つの《煙火》を1998年度に収蔵した。

 川端康成旧蔵の《煙火》(現在、財団法人川端康成記念会蔵・挿図)は、1926年(大正15)から古賀が描き始め、1928年(昭和2)に終わった、パウル・クレーの作品を髣髴させる夢幻的な雰囲気をたたえる一連の作品に属し、同時に新感覚派の旗手として注目を集めていた川端康成が古賀作品に寄せた深い共感を伝えるものとして、つとに知られている。

 住居が近かったこともあって、古賀と頻繁に接触していた川端康成は、「古賀春江と私」(『藝術新潮』5巻3号1954年3月)の中で、この作品を古賀から贈られた当時のエピソードを記している。それによると、どれでも好きな作品を贈ると言われた川端は、数点見せられた作品中から、川端夫人の決断で《煙火》を選んだが、古賀自身も好江夫人も《煙火》を手放すことに残念そうであったという。

 当館が収蔵した《煙火》は、これまで展覧会や文献等でほとんど紹介されたことがなく、近年の古賀春江研究においても言及されることはほとんどなかった。そうした意味で、この《煙火》は半ば忘れ去られた存在であった。 ところで、「煙火」という題名は画中に描き込まれた花火に由来すると考えられ、現在では通例《煙火》と表記される。しかし、《煙火》は、発表当時には「煙花」と記されることも少なくなかった。煙花という言葉には、花火という意味はないが、「煙火」を「花火」と記した文献もあり、現在《煙火》と表記されるこの作品の題名は、発表当時必ずしも統一されていなかったことが知られる(以下、本稿では煙火に統一する)。

なお、古賀自身がこの作品に付した解題詩は次の通りである(『古賀春江画集』1931年 第一書房)。
 境界もない真つ黒い夜の空間に/パツと咲く花火/昔の如く静かに/物語の王者の如く高貴に華々しく/
 煙火は萬物を蘇らせる/流れる光 音のない静かな嵐/混溷としたる現実にカッキリと引く一本の白線/人はその上を捗りたがる/人はみな逆さになつて煙火を見てゐる/絞のある紫紺の羽の大きな蝶になつて/

ここで先ず、三重県立美術館蔵《煙火》の基礎データと伝来等について確認しておこう。本作品には、裏面の木枠に名刺大の紙が貼り付けられていて、そこには〈「煙花」B/古賀春江/東京市本郷動坂町二-七〉と、墨とインクとによって記されている。

これによって、この作品が《煙火》Bと題され、連作中の1点であった可能性が高いこと、古賀が本郷区駒込動坂に転居した1931年(昭和6)頃には作者自身が所蔵していたことが知られる。

確実な制作時期は明らかにできないが、題名に「B」と書き込まれていることからすれば、川端康成旧蔵《煙火》とあまり時期を隔てずに制作されたと考えて大きな誤りはないだろう。二つの作品が同じ大きさで、共通するモチーフ、近似した色感、画面構成、画法などが認められることも、両作品が近い関係にあること、連作として描かれた可能性が高いことを示しているだろう。

ところで、川端康成旧蔵の《煙火》は、1927年(昭和2)の第14回二科展に出品され、古賀が歿した翌年の1934年(昭和9)には、第21回二科展において特別陳列された。また、この川端本《煙火》は、古賀の生存中に自ら解題を付して刊行された『古賀春江画集』(1931年 第一書房)を皮切りに、歿後の画集類にも度々掲載されてきた。

しかし、三重県立美術館本《煙火》は、古賀の生前展覧会に出品されたという記録はなく、画集等に掲載されたこともない。この作品が公開された展覧会としては、現在のところ、1940年(昭和15)11月15日から20日まで東京日本橋の白木屋を会場に、明治美術研究所の主催で開催された、「紀元2600年奉祝 明治大正昭和 物故名家油絵回顧展」が唯一の例で、この展覧会の画集が確認できる唯一の図版掲載文献である。ただし、この時の所蔵者は明らかでない。

その後、この作品は最近まで三重県四日市市の個人所蔵家が所蔵してきた。この作品を入手した人物(故人)は、東京帝国大学文学部で土方定一と同級で、美術にも強い関心を持ち、四日市市では名士として知られていたが、入手に至る経緯や時期については明らかでない。

1975年に福岡県文化会館で開催された「古賀春江回顧展-生誕80周年記念」の図録には、参考図版として上記1940年(昭和15)の展覧会画集から図版が転載されているが、これが本作品の戦後における唯一の紹介である。

以上が、古賀春江のもう一つの《煙火》に関する基本的な事実関係である。では、もう少しこれら両作品を比較してみよう。

二つの作品を見た時、まず気づかされる大きな相違は、川端本の方が、全体に色調が明るいこと、三重県立美術館本には見られない少女の姿が川端本には見られること、画面上方の花火の向きが異なること等であろう。

また、川端本では少女の向かって左にヨットが大きく配されているが、三重県立美術館本では、ヨットは画面左上隅に小さく描きこまれるだけである。川端本では、この大きなヨットと横向きの少女とが画面上かなり大きな比重を占め、ヨットの帆柱先端の後方に明るく描かれた花弁状の花火が画面全体の核となり、建物のモチーフはあたかも点景のように画面脇に配されている。

川端本では、少女像、花、建物、花火、船、ヨット等々のモチーフの位置や大きさが整理され、相互のバランスを保ちながら配置されていて、全体として統一的な画面がつくられている。

画面上方で花火が描く左方向へのカーブは、左向きの少女の姿と呼応し、この絵に動きを与えると同時に、画面右側の建築モチーフと、左側の船やヨットを結びつける重要な役割を果たしている。こうした曲線によって画面に統一感を与える方法は、《山ノ手風景》(1928年)や《題のない画》(1929年)《素朴な月夜》(1929年)など、1928年(昭和3)以降の作品にも受け継がれていく手法であるが、こうした画面構成上の手法は、三重県立美術館の《煙火》では必ずしも成功していない。

三重県立美術館本では、軒下に赤い提灯を掲げ、明かりが灯った建物が画面下部中央に配されて、この絵を見る者の視線を誘導する。そして、この画面中心の建物を浮き出させるように、暗い空間の中に、塔のような三角屋根の建物、船やヨット、花、花火などが配されている。各モチーフの間には特に有機的な脈絡は認められず、川端本に見られる画面全体が整理された印象は伝わってこない。

このように両者の表現を比較してみると、三重県立美術館本の方が絵画作品としてはより末分化な段階にあることは否めないだろう。この二つの《煙火》は、近接して制作されたと考えるべきだが、上記のような比較の結果は三重県立美術館本が川端本に先行して描かれ、その反省に立って再構成されたのが川端本であることを示している可能性が大きいと思われる。

そうした意味では、私たちは三重県立美術館本と川端本とをあわせ見ることによって、《煙火》をめぐる古賀春江の模索の過程を窺い知ることができるのではないだろうか。

(毛利伊知郎)

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