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6−21
川喜田半泥子
《粉引茶碗 銘 雪の曙》


粉引茶碗 銘 雪の曙

大侘び茶碗 銘 大吹雪

急所だけ力を入れ、その外は気を抜いておく。茶碗なら先ず高台をしっかりと締めて、大きい高台であろうと小さい高台であろうとびりっともしない力を集めておく。扇でいえば要。次に腰を張らせて充分に力をもたせる。茶碗の大小にかかわらず、形の如何にかかわらず、この力が充分でないと大がまえではない。それから力を軽く抜いて胴を無心で上げる。いよいよ飲み口まで来たら、キューツと−呼吸あるべきだ。これは「いけころしの説」として『泥仏堂日録』に所収されている文章の要約である。ぐっと高台を引き締めて、無心となってすさまじい速さでロクロを引き上げる。「百碗作れば百の悟り、千碗作れば千の悟り」と述べているように、半泥子の場合、同じ碗を作ろうとする意識はない。瞬時の判断で趣の違う茶碗をつくろうとする意識が強い。この「雪の曙」の口縁部はべべら状になっているが、これはロクロ引きの余韻であり、引き上げた速度が表出して作品の見所となっているわけである。堅くて引けそうもない土や石コロ混じりの土を相手に、凄まじい速さで引き上げて、あるときは泥状に近い土をだましながら引き上げているのである。そして高台削りもシャアシヤアと削り出すことはしない。ただ一回の高台削りで終わっている場合がほとんどである。「大佗び茶碗 銘 大吹雪」(挿図参照)など、高台周辺は土味を見せ、削り出しの勢いが加わった豪放な作風が半泥子のロクロ引き成形による茶碗の魅力となっている。この「雪の曙」をはじめ半泥子の茶碗は、小さな高台からすっと自然に伸びた姿が美しく、腰の辺りには作者の指の跡がくっきりと残り、これも見所のひとつとなり、作意を感じさせない釉調が破格の美を形成しそいる。

雪のような白と淡紅色が、あたかも片身変りのようである。淡紅色は窯変によって生じたものといわれている。内部も口縁周辺は白で、大半は淡紅色となっている。高台周辺に少し見える土を見ると、かなり鉄分が多い土が胎土になっていることがわかる。なぜ淡紅色となったのか解明されているわけではないが、鉄分が焼成中に何らかの作用を及ぼして淡紅色に発色したものと想像される。

同じ釉薬を施しても胎土が違えば釉薬の感じは全く異なるものになったりする。尾張・喜多山翠松園の土に灰釉を施せば唐津になるというように、土を探ることが釉薬の追求にとって重要な要素になる。37歳のときに京都御室の鳴滝に開窯、趣味として始めた陶芸に一意専心した乾山が『陶工必用』に「世界赤白ノ土何レカ陶器ニ不成ト云事アルベカラズ、其善悪窯ヘ入レヤキ候テ試ミ可相分、度量狭少ナルハ何之道モ成就スベカラズ」と記していることに共感を示し、半泥子は「おらが宿そこらの土も茶碗かな」という句のとおり、半泥子も茶碗にならない土はないという想念から、あらゆる土を試し、その土味を生のまま生かして作陶している。

「単味で焼いたやき物は、灘の生一本だ。合わせ土は安物のコクテルだ。日本人という事を忘れて犬の遠吠えのような声で謡ったり、西洋人が賞めなけりゃ、ありがたいと思わぬ連中の飲むコーヒー茶碗を作るには、丁度安物コクテルが性に合っている。だから、本当にイイ焼物を作りたけりゃ、イイ陶土を見出す事だとツクズク思う。自分が下手だからいうじゃないが、ロクロの上手下手なんぞ、どうでもイーサ」(『泥仏堂日録』「や√きものの土味」p6−9)と記しているように、半泥子は合わせ土やアテガイブチの土を嫌い、自分で使う土を探し、単味のまま、しかも取ってきた直後にロクロに乗せて引こうとした。そうすれば土に含まれていた様々な物質が水に溶けてしまうこともない。だから黒い斑点状の鬼板も自然に出ることになる。ここにも偶然性を自己の作陶に取り込もうとする半泥子の姿勢がうかがわれる。

米国コロラドスプリングの赤土、中国明の十三陵土や長城の土、サイゴンの土をはじめ、朝鮮半島や日本各地の土など、半泥子が使った土を列挙することが不可能なほど各地の土を使っているが、その中でも多く使われた土は限定される。それは自邸があり、しかも戦前に窯を築いた千歳山の土、現在は住宅地となっているが、当時は川喜田家所有地であった津の観音寺の土、戦後窯を築いた広永周辺の土、半泥子お気に入りでかなりの頻度で取り寄せていた韓国南西部にある全羅南道・咸平の土などである。千歳山時代には鉄分を多量に含む土は千歳山または観音寺の土であり、淡いベージュ色の土は咸平の土である場合が多く、戦後の広永時代は広永周辺の長谷山の土が中心となっているようだ。

半泥子は「概念的ではあるが、私は古志野、古唐津、瀬戸黒、李朝初期、古染付、楽焼では光悦、長次郎が好きだ。伊萬里、京焼、高麗雲鶴、青磁の類には親しみが持てない。仁清、ノンコウの輩に至っては虫が好かない。尤も、イイといってもこれらの名前ならみんな好きだとはいえない。又、土味から云うと、志野と瀬戸唐津、井戸が好きだ。焼物は何と云っても胎土、ロクロ、焼成が肝心で、この三つが欠けては、形や、絵付や、釉の色で、いくらゴマカシても駄目だ。この意味から云っても、仁清や、ノンコウを嬉しがる連中の気が知れない。お気に障ったら、これらのヨサを教えて貰いたい」(『泥仏堂日録』「抹茶茶碗の感想」p150)と自己の好みを記していて興味深い。半泥子が用いた釉薬は、複雑なものより単純なもの、濁ったものより澄んだもの、暗いものより明るいものを好む方向がある。したがって、半泥子の代表作にはやはり侘びた雰囲気のものが多く、赤絵・色絵染付の茶碗、水指や香合など茶碗以外の陶芸作品は半泥子の遊び心が感じられ、また別の趣がある。

昭和5年、荒川豊蔵(1894−1985)は関戸家所蔵の筍絵志野茶碗を見た直後に全く同じものの陶片を美濃で発見して以来、桃山時代に焼成された陶芸を復興させようとする機運が高まり、単なる再現でない独自の作風を確立させようする動きが出始めるのが昭和11年頃のことであった。半泥子のお茶碗づくりが本格化したのもこの頃で、年齢のことも無関係ではないが、半泥子が禅の精神と深くかかわる茶の湯と心通わせる数寄者であったことから、桃山時代の茶陶再興に心躍らせる陶芸家たちと積極的に交友関係を持った半泥子が精神的な支柱の役割を演じていた。

桃山時代に茶の湯との関わりのなかで突如生まれた茶陶は、過去に存在しない器であり、オブジェの創造に通じる作為による世界に類例のない陶器であった。桃山時代に完成された伝統に半泥子はこだわることをしなかった。秋草を思わせる刻文が入り信楽や伊賀のように灰が被った「志野茶碗 銘 おらが秋」をはじめ、半泥子の志野茶碗を例にあげても、唐津風の文様を付けたり、備前の緋色の技法を採用することも自在であった。半泥子は釉が剥げ落ちても、お隣さんの断片が付着してもそれを景色に見立てている。半泥子はあらゆる陶技を試み、偶然の変化を喜ぶ。こうした半泥子の作陶の精神が近代の陶芸家たちに大きな影響を与えたのである。

参禅によって「無とは何か」を教えられ、無になろうとする絶え間ない努力によって、自由自在に作陶する精神を培い、名を残すつもりもなく数寄者の一人として作陶を楽しむ光悦の魂そのものと心通わせる川喜田半泥子の茶陶は、自由で大らかな雰囲気に満ちていて見るものを楽しませてくれる。

(森本孝)

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