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ボードレールの傷痕

桑名麻理

コレクションを形成するのに、時代の眼というものがあるのかどうかはわからないが、でも、もしあるとするならば当館所蔵の西洋版画のコレクションは、ボードレールの美的判断に潜在的に負っているような気がする。


等身大の現実

 1862年の5月、フランスで腐食銅版画(エッチング)協会が設立され、18世紀以来衰微にあったエッチングは復活を告げた。協会員にはドーミエやクールベ、マネ、ルグロ、ヨンキントが名を連ね、ボードレールの旧友カダールが版元となった。そんなこともあり、ボードレールはかなり積極的に宣伝役をつとめ、4月には『逸話評論』に「腐食銅版画(エッチング)は流行中」を、9月にはその小文を大幅に改めて「画家たちと腐食銅版画(エッチング)家たち」として『ブールヴァール』誌に掲載した(1)

 「画家たちと腐食銅版画(エッチング)家たち」は版画を顕彰するだけでなく、ボードレールの後期美術批評の視座を示している。

 「美術と文学がフランスにおいて同時的な爆発を見せたあの変革期*このかた、美しいもの、力強いものに対する感覚、それどころか画趣ゆたか(ピトレスク)なものに対する感覚さえ、常に減じ、堕落し続けてきた。〈フランス派〉の全栄光は、多年にわたって、ただ一人の人**の裡に集中しているように見え(むろん私はアングル氏のことを言おうとしているのではない)、この人の豊饒さや精力がいかに偉大であろうとも、他の者たちの貧しい分までわれわれを慰めてくれるには足りなかった。」(2)*ロマン主義のこと **ドラクロワのこと

 冒頭からドラクロワとロマン主義の偉大さを確認せずにはいられないボードレール。思えば、ボードレールの美術批評はドラクロワの絵画を言葉にすることからはじまったのだった。そして、続いて若手の登場としてマネ、ルグロをとりあげる。

 「マネ、ルグロ両氏は、現実、すなわち現代の現実に対する断固たる嗜好をもち、−これだけでもすでに良い微候なのだが−、この嗜好に、活発、また広闊で、敏感で、大胆な想像力を結びつけている」(3)。だが、ここでボードレールはドラクロワやマネを挙げて近代絵画史を粗描したわけではない。むしろ、ロマン主義絵画を偉大なる絵画の伝統の末裔とみなし、そうした伝統の新たな発芽を次世代に求めようとしていたのである。

 1862年当時、多くの人々の目に晩年のドラクロワはすでに過去の人であり、ロマン主義は写実主義やサロン絵画にとってかわられていた。ボードレールにとって、それは絵画の老衰でしかなく、マネでさえ「芸術の老衰の中での第一任者に過ぎぬ」(4)としか映らなかった。

 老いゆく絵画への郷愁、ドラクロワに匹敵するような新たな才能を発見できぬ落胆。絵画の袋小路に入り込んだかのように見えるボードレール。そこから生まれた美的判断にボードレールの後期美術批評の魅力がある。

 「画家たちと腐食銅版画(エッチング)家たち」の残りの文章はすべてエッチングに捧げられている。複製芸術エッチングを「高尚な芸術」とさえ呼び、ぐっと熱がこもる口調。ロマン主義の落日にかわって現れたエッチングヘの愛着。

 ボードレールがエッチングに対して積極的な言及をはじめたのは、おそらく3年前の1959年のサロン評(5)が最初である。ロマン主義への郷愁を告白しはじめたのもこの時期だ(6)

 1859年のサロン評は、『フランス評論』の編集長への手紙の体裁で同誌に掲載された。ボードレールにとって、このサロンは「矮小さ、幼稚さ、好奇心の欠如、自惚(うぬぼ)れの大凪(おおなぎ)といったものが…熱情の、高貴さの、荒れ狂う野心*の後を継いだ」(7)ものだった。ドラクロワらの作品が数点展示されていたにもかかわらず、全体として凡庸なサロンに、ボードレールはたった一度しか足を運ばなかったらしい。サロン評もおおかたはカタログを参照して書かれた(8)*ロマン主義のこと。

 むしろ、ここでのボードレールは想像力こそ芸術における「諸能力の女王」であるという想像力理論に紙面を割いている。なかでも想像力の欠如した写実主義の風景画は手厳しく断罪された。ドラクロワが言ったように「自然とは一冊の辞書に過ぎず」、画家の持つ想像力こそが自然に新たな相貌を与え、一枚の絵画に変えるのである。ところが、このサロンにはそのような才能は見あたらず、ボードレールがよすがとしたのはメリヨンのエッチングとブーダンのパステル習作だった。(ブーダンの習作はそれ自体で一つのテーマをなすので、ここでは脇に置くことにする。)

 「今から数年前、人の話では海軍士官だという、力強くて風変わりな男が、パリの最も画趣ゆたか(ピトレスク)な眺望を基(もと)にして、一連の腐食銅版画(エッチング)集作を始めました。そのデッサンの苛烈さ、繊細さ、確実さによって、メリヨン氏は、昔のきわめて優れた腐食嗣版画(エッチング)家たちを思い起こさせたのです。巨大な都市のもつ自然な荘厳さがこれ以上の詩情(ポエジー)をもって表象されたのを、私は稀にしか見たことがありません。積み重ねられた石の偉容、指で空を指し示す鐘楼たち、天空へ向けて彼らの煙の連合軍を吐き出す工業のオベリスクたち、修復中の記念建造物(モニュメント)の驚くべき足場が、建築の堅固な本体の上に、かくも逆説的な美しさをもったその透(すか)し細工の建築をあてがうさま、怒りと怨恨をはらんで騒ぎ立つ空、そこに含まれる劇(ドラマ)のすべてを思わせることによっていよいよ深みを増す遠近法の奥行など、文明の悲痛で栄光に輝く書割を構成する複雑な要素のどれ一つとして、忘れられてはいませんでした。もしもヴィクトール・ユゴーがこれらのまことに優れた版画を見たなら、満足したに違いありません。…」(9)

 そしてこのメリヨン論が1862年の文章の予兆だった。

 59年のサロン評からはこんなことが言えるだろうか。

 かつての大芸術の衣鉢を継ぐロマン主義絵画が存在し得なくなったとき、ボードレールは〈現在〉というものに直面した。つまり、絵画と版画や習作をあくまでも区別するボードレールの美的判断からして、ドラクロワという理想の英雄(ヒーロー)/絵画が目前から消え去ろうとしているとき、新たな英雄(ヒーロー)の代わりに、等身大の現実/エッチング(あるいは習作)を見出したと。

 ところで、エッチングに肩入れをしていたこの時期、詩人ボードレールも意欲的に創作をしていた(10)。1857年、ボードレール唯一の韻文詩篇『悪の華』の初版が反道徳的、反宗教的のかどで出版停止の処分を受け、6つの詩の削除を余儀なくされる。この後、1861年には『パリ風景』として知られる新たな詩編を加えて『悪の華』は再版された。また、散文詩篇『パリの憂鬱』などもこの時期のことで、「純粋な想像力」による作品が集中して生みだされたのである。

 等身大の現実/エッチングと詩作はボードレールの奥底で関係しているのではないだろうか。


1)シャルル・ボードレール(阿部良雄訳)「腐食銅版画(エッチング)は流行中」、「画家たちと腐食銅版画(エッチング)家たち」『ボードレール全集』W(筑摩書房 1987年)pp、224−225,pp.226−231


2)同上p.226


3)同上p.227


4)ボードレールからマネ宛の手紙(1865年5月11日)『ボードレール全集』Y p.551


5)「1859年のサロン」『ボードレール全集』V pp、296−384


6)ボードレールはこのサロン評の風景画論で、「いまだに私は、ロマン派的風景画を…懐(なつ)かしく思っているのです」と告白する。ドラクロワ、ロマン主義絵画へのこのような思いがサロン評全体にちりばめられている。


7)『ボードレール全集』V p.299


8)ボードレールからナダール宛の手紙(1859年5月16日)『ボードレール全集』Y p.360


9)『ボードレール全集』V p.365


10)ボードレールの研究者クロード・ピショワの指摘によれば、ボードレールの創作活動が活発になったのは、1842年から48年までと57年から61年までのわずかな期間だという。

 構張誠「〈呪われた部分〉の選択−ボードレールとバタイユの出会う地点」『ユリイカ ボードレール特集』1973年5月臨時増刊を参照した。

メゾン・ジュジュ

 「一つの港とは、人生の争闘に疲れた魂にとって、快い棲処(すみか)である。空のたっぷりした広がりや、雲の流動する建築や、海の移り変わる彩(いろど)りや、燈台のきらめきは、決して眼を倦(う)ませることなく楽しませるのにすばらしく適したプリズムだ。複雑な策具をつけた船のすらりとした形態(フォルム)に、波のうねりが諧調(ハーモニー)ある振動を伝達して、人の魂の中に、律動(リズム)と美への嗜好を保(たも)たせるのに役立つ。それから、わけても、もはや好奇心も野心ももたぬ者にとっては、望楼(ベルヴェデール)の中に横たわりあるいは防波堤に肱をついて、出発する者たちや帰ってくる者たち、まだ意欲する力や、旅に出ようとか、金持ちになろうとかいう欲望をもつ者たちの、ああした動きのすべてを眺めていることに、一種不可思議で貴族的な快楽がある。」
〈港〉『パリの憂鬱』より(11)

 オンフルールには、ボードレールの母の再婚相手オーピック将軍が1855年に老後のために買った別荘があった。1857年に将軍が亡くなると、オーピック夫人はこのオンフルールの港を望む別荘に隠棲する。別荘はメゾン・ジュジュ(おもちゃの家)と呼ばれていた。

 「家は二階に屋根裏部屋がついているだけで、一階はすこし床が高く建てられ、料理場は地下にあった。…家の東側、すなわちオンフルールの町に面している側に、大きなヴェランダーが一つあった。将軍が「展望台」Mi−radorと名づけていたものだ…そのヴェランダーは鉢植えの植物が飾られたちょっとした平土間で、見晴らしがいいからよく人がすわりに行った。…眺めはずっと砂礫の渚つづきに、港湾の口からセーヌの流れをさかのぼって、ラ・ロックの岬、タンカルヴィルまでのびていた。雲の隊商が過ぎて行く空の大きな一角のもとに、静かにひろがる雄大なパノラマ。この展望台からは、港に出入りする商船や漁船の動きを脹で追うことができた。家の正面からは、眺めは木ですこし被われていたが、西側には隙間があって、砂州のほうにひらけ、海の落日が眺められた。」(12)

 メゾン・ジュジュからの眺めが、散文詩『パリの憂鬱』の〈港〉となんと近似していることか。

 オーピック夫人が隠棲してまもなく、ボードレールはオンフルールで母とともに暮らすことを何度となく手紙で告げる。

 「繰り返し申し上げますが、オンフルールヘ行って定住しようというきわめて固い決意をいだいているのです。二月の初めのことだろうと期待しています。一月の末にはもう、私の身のまわりのものを入れた小包や箱を一つ一つ、そちらへ向けて発送し始めるでしょう。」(13)1858年10月を最初に断続的な滞在だったが、パリから離れたノルマンディの港町オンフルールの別荘こそ、やっと実現した母と二人きりの世界だった。母と海に見守られた胎内のような安息地で『悪の華』の追加分や散文詩『パリの憂鬱』を構想したのである(14)

「…僕の部屋にいたいという、何という強い気持をもっていることでしょう!そして僕の反古類のすべて、版画のすべてを、再び見たいという気持…(15)

「そうです、私はオンフルールへ帰ることを必要としています。私は母を必要とし、私の部屋を、私のコレクションを必要としています。…私はオンフルールで、山ほどある未完成の物、『パリの憂鬱』(かくも久しく中断している)、『哀れなベルギー!』そして『わが同時代人たち』を仕上げるでしょう。…」(16)

 オンフルール行きを繰り返し告げるボードレールの手紙。そこには、つくりかけの詩とともに版画のコレクションの話題がつねに登場する。作品の断定こそできないものの、ヨンキントやホイッスラー、メリヨンなどの版画をメゾン・ジュジュに持ち込んでいたのである(17)

 詩作や母との会話の合間に、ボードレールは版画を整理したのだろう。薄い紙に印刷されたメリヨンやホイッスラーの版画を手に取ると、部屋を満たす光が透けて、インクの黒と余白の自はいっそう詩趣を深めただろう。両手で持てる小さな寸法の版画を一枚ずつ手にとってためつすがめつたのしむというのは、どこか秘め事めいた個人的な世界で、おそらく、版画におけるそういったたぐいのことをボードレールは「貴族的」(18)と呼んだのだ。
11)『ボードレール全集』W p.89


12)井上究一郎「『悪の華』の周辺に」『忘れられたページーフランス近代文学点描』(筑摩書房 1971年)pp.277−295

 井上氏はピショワによるメゾン・ジュジュの描写を翻訳しているが、それを再録した。


13)ボードレールからオーピック夫人宛の手紙(1858年1月11日)『ボードレール全集』Y p.325


14)『悪の華』や『パリの憂鬱』には、オンフルールの情景を思わせる描写が頻繁にでてくる。

 『忘れられたページ』p.284.阿部良雄『群衆の中の芸術家』pp.260−261を参照した。


15)ボードレールからオーピック夫人宛の手紙(1864年8月8日)『ボードレール全集』Y p.521


16)ボードレールからナルシス・アンセル宛の手紙(1864年10月13日)同上p.528


17)『忘れられたページ』p.287


18)『ボードレール全集』W p.231

腐刻の線を愛でること

 1862年の文章で、ボードレールはホイッスラーのテムズ河畔の眺めの連作にも触れている。「即興や霊感のように軽妙で、溌剌としたものだった。船具、帆桁、綱具の素晴らしい錯綜。霧と、溶鉱炉と、渦巻く煙との、混沌。巨大な一首都の深く複雑な詩趣(ポエジー)」(19)。しかし、ホイッスラーはこれらの言葉にこう反応した。「ボードレールはテムズ河について詩的なことをたくさん、しかしエッチングそのものについては何も言っていないではないか。」(20)ホイッスラー特有の皮肉のなかに、エッチングの技法に関するボードレールの無頓着を指摘したものだろうか。しかしエッチングを自ら蒐集し、インクの錯綜や盛り上がりを間近で見ることのできた者が、果たして「エッチングそのもの」に無頓着でいられただろうか。版画家のように技術に通暁するのは無理だとしても、その効果を肌身に感じていただろう、そのうえでの言葉ではないのか(21)

 カンヴァスの上に絵具を塗り重ねてゆく絵画と違い、エッチングは銅板を削る。この削られ、腐食された傷痕は、たとえ現実の風景を描写したものであっても、否定的、自虐的な性格のものだ。それでも、ボードレールはそこに「自己の最も内密な個人的性格を刻む」「最も手早ななぐり書き」(22)を見たのである。それはおそらく、パリやオンフルールの情景に自分の魂が刻印されたとき、「悪」や「憂鬱」などの言葉を選ぶボードレールの詩作と同質のものだったのだろう。エッチングの傷痕はボードレールの傷痕でもあったのである。
19)同上p.229


20)同上pp.526−527


21)詩人安東次男は、版画家駒井哲郎との対談で、ボードレールのメリヨン評価は、エッチングの本質を把握したうえでのものと解釈している。

 「時間の偶然性みたいな…、それにほかの手法と違って、腐食だと作品をかなり大幅に修正ができるからね、描き加えたり消したり、そうすると、いろんな状態を刷りによって保存しながら、イメージをどんどんつくりかえていくことができる。これが腐食銅版の最大の利点だろうな。ボードレールはさすがにそれを見ていた。かれがメリオンの仕事を評価したのは、近代都市へと変貌していく過渡期のパリを表現するのにこの手法がふさわしいと思ったからだろう。メリオンはずいぶん版を直しているからね。現代のような乱世には、魂の状態を記録するのにふさわしいと思うがね、エッチングというのは。」安東次男「ディアローグ2 駒井哲郎」『みづゑ』781pp.36,43


22)『ボードレール全集』W pp.229,231

駒井の傷痕

 日本において、エッチングを傷痕としてとらえた版画家は駒井哲郎が最初ではないだろうか。そこにボードレールの存在を感じるの突飛なことではない(23)

 駒井とエッチングの出会いは運命的なものだった。「内面的な絵画への欲求が、ある偶然によって、真の銅版画を見る機会を得て触発され」(24)エッチングを自分の仕事と決めたという。ある偶然、それは父の元へ送られてきた『エッチング』誌のことで、14歳当時の様子は、慶應普通部3年生のときに同誌に寄せた「エッチングを描いて」に記されている。

 「一昨年の十二月に、ミレーの『耕作』と言ふ『エッチング』が、第一頁に載って居る本誌を送っていただいて、初めて『エッチング』と言ふ物を知り、僕も一ぺん描いて見たいと思って居りましたけれど、仭どうしたら善いのか解らず、西田先生著の『エッチングの描き方』に依って一つ試みて、腐食して見ました。

 其の後も二三枚描いて見ましたが、『プレス』がないので如何ともしがたく、エッチング研究所に度々かよわしていただいては、本当の『エッチング』と言ふ物をお教へいただきました。…」(25)

 駒井の文中に登場する西田という人物、西田武雄は絵画からエッチングに移行した画家である。また『エッチング』誌の発行人、エッチング研究所の所長であり、室内社画廊を経営する画商でもあった。駒井にとっては事実上の師で、この室内社画廊でレンプラント、ホイッスラー、ムンク、メリヨンなどの本物にも触れることができた(26)

 「僕が戦慄を覚えたのは、どちらかと云えば硬質な感じのマチエールを持った材質感の作品であった。金属面の凹部につめられ、顔料が刷り取られて紙の上に堅固な物質感を形成している作品なのであった。」(27)物質的にエッチングに惹かれていった駒井。そしてまもなくそこにボードレールの世界が重なる。

 「僕は版画家になることを志して、旧制中学時代から、美術学校の受験準備のために、放課後、東京赤坂・乃木坂の小林万吾先生の塾に通いました。そこで辻朗氏に出会ったのです。僕より一つか二つ年長でした。研究所ではすでに重鎮で、コールテンのズボンがとてもよく似合う人でした。

 彼は芸術的環境で生まれ育った人なのでしょうか、ぼくはほんとうに彼のおかげで芸術に対する眼を開かれたような気がします。詩や音楽の美しさを教えられました。ボードレールやデカルトの名前も知りました。銀座の喫茶店で朝十時から夕方の六時ころまでというぐあいに、毎日のように何時間も、一杯のコーヒーで、レコード音楽をきくことも彼から教えてもらいました。ドイツ音楽以外に近代フランス音楽の美しさに、わからないながら、初めて触れることが出来たのです。…」(28)

 当時の駒井がボードレールにかなり入れ込んだ様子は、岡田氏が指摘しているところで、日本でボードレール全集が翻訳された当初から親しんでいたらしい。(29)しかし、おそらくボードレールの精神性にはまだ遠く、作品も《夢シリーズ》や《フューグ・ソムナンビュール(夢遊病者のフーガ)》のように、現実と乖離した夢の世界を抜け出すことはなかった。

 駒井が現実を意識せざるを得なくなったのは、第二の西洋体験ともいうべき1954年の渡仏である。デューラー、カロ、レンブラント、マスター・E・S、ショーンガウアーが並んだロスチャイルド・コレクションの展覧会。ルドンなどのあらゆる版画を手にとって眺められる国立図書館の版画室、版画専門の画商。質量ともに日本と比較にならない西欧の銅版画の「強靱な伝統」に打ちのめされた「苦渋に満ちた感動の経験」は、帰国後「自信喪失の記」を書かせ、一時的ではあるが創作の力さえ駒井から奪ってしまった。

 「一年半ばかりのヨーロッパ滞在から帰ってきてからの作品で、渡欧前のあまりにも叙情的な作品にあきたりなくて、銅版をより細微にえぐって、夢の傷痕そのものを銅版の腐刻と一致させようとしはじめたように思う。いままで無意識にやっていた刻るという行為を意識しはじめたのかもしれない。ヨーロッパで実際に触れて来た銅版画の強靭な伝統は真に素晴らしいものであり、ちょっとぶちのめられた感じで、日本に帰ってからは実に苦しい時を過ごした。」(30)

 渡仏時、そして帰国直後の作品が寡作なことから、駒井が受けた精神的打撃が推しはかれるが、東野芳明氏はそのなかのひとつ《ある空虚》について「版を細微にえぐってゆくたびに、ふやけた幻想の息の根がとめられるかのようで、そこにはあたかも、夢の傷痕そのものをきざんでいるかのような過酷さがある。」(31)と述ペている。エッチングの線は、西洋の強靭な伝統、「外界、物質のすさまじさ」をとらえ、現実からははなれまいとする必死の線の集積となった。最終的なイメージが幻想的なものとしても、それはもう夢の傷痕(32)というよりボードレール的な意味での傷痕であり、駒井はフランスでメリヨン、ブレスダン、ルドン、長谷川潔の向こうにそのようなものを見たのではないだろうか。


 駒井が、53歳のときに書いた一文中、「なんといっても普通の描写的な仕事には満足出来ず具象的な作品でも、現実にそのままあるものを描いても、その裡にまた別のものを表現したいように何時も思っていた…」とは、ボードレールの「同時に客体(オブジェ)と主体(シュジェ)とを、芸術家の外の世界と芸術家自身とを含むような、一個の暗示的魔術を創り出すこと」(33)という言葉と響きあう。現実と内面との対峙に苦悩し、立ちのぽる幻想を刻む詩人と版画家。二人は時に抗い傷痕を残したのである。
23)岡田隆彦氏は、これまでに駒井哲郎とボードレールの比較対照を試みている。

 岡田隆彦「心の姿を映す影像−駒井哲郎とボードレール」『版画芸術』no.80 1993年pp、93−98

 同著「駒井哲郎−西洋の誘惑」『果実の受胎』展カタログ(埼玉県立近代美術館1994年)pp.36−38


24)駒井哲郎「夢と現実」『白と黒の造形』(小沢書店1977年)p.23


25)駒井哲郎「エッチングを描いて」『エッチング』第39号 1936年1月

  駒井の著書『銅版画のマチエール』(美術出版社1976年)では、ミレーが掲載された26号よりずっと前の18号で、すでにルドンのエッチングを見て衝撃を受けたことが記されている。『銅版画のマチエール』p.169


26)中村稔「西田武雄」『束の間の幻影−銅版画家駒井哲郎の生涯』(新潮社1991年)pp.53−71


27)駒井哲郎「私の芸術」『白と黒の造形』p.19


28)駒井哲郎「火花散らすように」『日本経済新聞』(1967年9月19日朝刊)

 中村『束の間の幻影』p.84から再録した。


29)岡田「心の姿を映す影像」『版画芸術』p.94

 ボードレール全集は1939年に河出書房から全5巻で出版された。大正末から戦前までのボードレール輸入の時期は佐藤正彰『ボードレール雑話』(筑摩書房1974年)を参照した。

 岡田氏との対談(『プリントアート』第22号 1975年10月)で、駒井は懐かしそうに何度もボードレールのことに触れたという、文献は未見。また、フランス文学を原文で読むために駒井は東京外語学校にも通った。


30)駒井「私の技法」『白と黒の造形』p.49


31)東野芳明「駒井哲郎−明日を期待される新人群」『美術手帖』129p.50

 また、当時のそれぞれの作品については粟津氏が詳細に論じている。粟津則雄「駒井哲郎論−線『駒井哲郎版画作品集』(美術出版社 1979年)pp.129−143


32)1956年8月『美術批評』で駒井にとっての初の本格的批評がなされた。この評論の結びは駒井の心境を代弁していたのだろう。晩年の駒井は、当時を振り返ったとき、東野氏が発したこの言葉「夢の傷痕」を自分の言葉として使っている(註30)。帰国後の駒井にとって、東野氏の批評はおそらく友人安東次男の言葉とともに支えになっていたに違いない。「彼のいう『外界の、物質のすさまじさ』をとりとめるには、今こそ、夢見る力の豊かさが必要だ、というのにとどめる。風土に抗い、想像力を潤沢に振い、外界の峨々たる相貌に立向う内面の構築だけが、いつも作家を現実的にするのだ。夢は、常に、傷痕からたえまなく立ちのぼるのだ。」東野芳明「夢の傷痕−駒井哲郎をめぐって」『美術批評』56pp.34−40


33)『ボードレール全集』V p.284
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