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赤の槐多・赤の白秋

(一)

 村山槐多はからみあう二匹の蛇身をもった古代中国の神伏ギと女カであり二重螺旋をもつDNAだった。すなわち、たんに画家として未完の大器だっただけでなくてどんな変貌をみせるか予測もできない春秋に富んだ詩歌のひとであったとあらためていま痛感するしかないのだが、その彼の死のあとにのこった少なくはない詩をさきにいちど探ったことがあって(『金色の天の使はかなしけれ』、「村山槐多展」図録、三重県立美術館 1997年)、そのとき、いったいどこからこの詩たちはきたのかその詩心のみなもとをつぎはたしかめてみたいとおもいながら筆をおいた。その残心をふたたびかきたてつつどこからはじめてもいいこころみの一歩として、いまためしにこんな詩をとりあげてみよう。


   チョコレート口にふくみて
   美しき五月の末
   薄青き空に見入れば
   悦び身に滿つ
   紫の酒の
   玻璃杯に滿つるが如く(1)


 どこか槐多の槐多らしさのかけらくらいは感じられ、すでに一個独立するせかいの雛形が胎動しているかともみえる。けれどあわててはいけない。この詩のかたわらに、たとえば、

   空氣銀緑にしていと冷き
   五月の薄暮、ぎやまんの
   数々ならぶ横町の玻璃問屋の店先に(2)


 をおいてみると風景がすこしかわってくる。槐多の詩のばあいはそのすぐあとに短歌、


   草の葉に五色の露のやどれりと見入ればさびし五月の朝やけ(3)


 がつづくその息づかいからしてこれは五月を詠もうとしているとわかるのだが、そして「五月」といえばそうそう木下杢太郎がこよなく愛した季節でもあった。と、それにこだわるのは杢太郎の『食後の唄序文』にいう「小さい歌曲を以て、如何に東京の五月の美しく、舶來の酒の香しきかを歌つた」にひきづられたせいだとしても、このこじつけにも一理はあるかなとおもわせるような匂いがなんだか槐多のほうにもありそうだからである。鬱屈をかかえつつ春情にさそわれて鋭敏な眼をやすませることなくさまよう美の狩人のイメージ。よくよくながめればどこかに一点響きあうものがたしかにある。あるいはまた槐多の別の詩、


   ほのかにもるゝ銀笛の響は
   わが思ふ子の美しい家の窓から


   「にぎやかな夕ぐれやおへんか
   ほんまににぎやかやおへんか」
   この時泣いて片戀のわれはつぶやく(4)


 と、つぎのような詩句


   今日もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、
   銀の小笛の音もほそく、ひとり幽かに、
   すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、(5)


 のばあいもっとその同毛同臭はあきらかで、かたちになることをためらうゆえにかえってつのってゆく切ない恋慕の情のふかさにおいてこのふたつの詩句のあいだの距離はほとんど無にひとしくて、われてもすゑにあはむとぞおもふ、おなじ水のながれとみえてきそうである。まづこのへんを手がかりにしたいわけだが、ところでいま槐多とならべてみたふたつの詩はだれのものかもういちどいえば木下杢太郎と北原白秋であった。

 もちろんこれだけではまだなんともいえないが、はなしをすすめてゆくために、さて、しばらくその詩でつくる意味のほうはとわずに、詩をつくる素材にはなしをかぎってみたい。つまりことばをことばとしてとりあげてみると前者では「五月」と「玻璃」(とたぶん「薄暮」)が、後者では「銀の笛」「泣く」と、そしてこちらははっきりと「薄暮」の三語がどちらにもつかわれている。たぶんにそのせいで、それをくみあわせた全体のほうも一族の儀式にあつまった親戚どうしのように、無雑作にみせる表情の一瞬にどこかおなじ骨格をふとかんじさせるのである。

 村山槐多がなみはずれた早熟な少年だったとはすでにおおくの証言にあきらかで、その小説戯曲をちょっとでものぞけばたちまち尋常ではない異能ぶりに圧倒されるのがふつうだ。その年歯ににあわないことばづかいにといってもいい。すでに小学生で金枝玉葉を口にして教師をおどろかせたかれのこと、谷崎潤一郎の『神童』の主人公ではないけれど旺盛な読書欲にまかせて少年時代によんだ書物の領分はぼくらの想像をぜったいに裏切って、はるかとおくにおよんでいるだろうことを林達夫は久野収との対談で暗示しているが、残念ながらその全貌はいまとなっては知るすべがない。とりあえずできるのはかれの『日記』など書きのこしに散見する書名や人名をすこしずつひろいあつめてみることくらいで、それはじっさいこんな風である。


   プラトン、ダヌンチオ、「レルモントフの浴泉記」、
   ポー、イプセン、『古事記』、ヘロドトス、ベルグソ
   ン、「ピルロン」、モーパッサン『女の一生』、『坊ちゃ
   ん』、トルストイ『戦争と平和』、萩原朔太郎『月に吠
   える』、アンドレーエフ『アマテナ』、森田草平『自叙
   伝』、シェンキェヴィッチ『クオヴァディス』、末広
   鉄腸『雪中梅』、「ニイツヱ」、オスカー・ワイルド、
   竹友藻風、上田敏、ドストエフスキー『虐げられし
   人々』、ランボウ『酔ひどれの船』、「ベルハーレン」


 ところでいまもんだいにしたい白秋と杢太郎については、わずかにつぎのような記述がみつかったにすぎない。


   菊五郎の南蛮寺門前見たかったがポケットが怪しくて止した。(6)


   「印象派以後」と云ふ木下杢太郎の本は悪本だ。(7)


   白秋の「雲母集」おもしろい。(8)


 このうち、さいしょの「菊五郎の南蛮寺門前」云々には説明がいるかもしれない。もちろん『南蛮寺門前』は明治42年に発表された木下杢太郎の戯曲のことで、これが大正3年11月に「楽劇」として六代目尾上菊五郎一座によって東京市村座で公演されたことがあきらかに前提になっている。もしこのとき槐多の懐があったかければ、ドイツから帰国したばかりでホフマンスタール、リヒャルト・シュトラウス合力のオペラにつよい刺戟をうけていた山田耕筰作曲の野心的な音楽を舞台とあわせて楽しむ一夜がめぐまれたはずだったが、それはそれとしてはなしをもどそう。ようするに白秋も杢太郎もほとんど引用は一回あるかないかということになる。それを材料がほとんどないとかんがえるか、それともひとつでもなにごとかだとみるか、これはだいじなわかれめになる。かかれた事実がかえって真実をかくすことさえあるとは歴史家だけの常識ではない。あるはずの破片がないということからさえ考古学者の推理ははたらく。たとえば森鴎外のばあいをどうかんがえるのか。あとでふれるが槐多は鴎外から有形無形の恩恵をうけとってそれなしに槐多はうまれなかったといっていいくらいだけれど、槐多文中に鴎外の名がでてきたのをぼくは知らない。


1)村山槐多『日記』大正2年5月25日(『村山槐多全集』彌生書房、1976年。P.347)以下全集と略す。


2)木下杢太郎『玻璃問屋』


3)村山槐多 全集p.347


4)村山槐多「にぎやかな夕ぐれ」全集p.43


5)北原白秋「断章」


6)村山槐多『日記』大正3年12月 全集p.409


7)村山槐多『日記』大正6年7月11日 全集p.361


8)村山槐多『日記』大正6年7月12日 全集p.361

(二)

 村山槐多の詩をよんだことのあるひとなら誰でも気づくことは特定のことばによせるかれの偏愛である。「廃園」「赤」「金」「紫」「血」「笛」「五月」「太陽」「玻璃」「ダイヤモンド」「宝玉」「薄明」「泣く」「美しい」「さびしさ」「強さ」そして「神」などなど。かれの詩はその場その場のよみすてという西行的方法をとる。いきるために詠むことはあっても詠むためにいきるのではない。そしてそのこととある語への固着は、いっけんあいいれない盾と矛ともみえるが、いまもんだいにするのはそのことではない。さきにあげた白秋杢太郎との比較であがってきた語彙、「五月」「玻璃」「薄暮」「笛」「泣く」はすべて槐多偏愛のことばでもあった。このことをかんがえたいのである。だいじなことだからいっておくがこれはけっして偶然ではなかった。現代からふりかえるのでなく、明治大正の交のこととしてそれをいうなら、やはり槐多は白秋杢太郎に学ぶところがあったとみるほうがどうもただしいようである。いま影響ということばをさけもうすこし柔軟にかんがえるとしても、白秋杢太郎を槐多はよく読んでいたということでなければならない。

 あのがむしゃらにつよい線をすてずに絵をかきつづけた村山槐多が、『邪宗門』の耽美主義者かつ幼年連祷の詩人北原白秋やその白秋に「予等は無論互に刺戟し合ひ、影響し合ひ熱狂し合つた」(『食後の唄』序文)といわせた南蛮趣味のひと木下杢太郎とただならぬ因縁があるといえば、これは意外と驚いても、すなおにうなづくひとはあまりいないんじゃないだろうか。絵かきの槐多をみなれていると、だいじなもうひとつの顔をわすれがちになるから、もういちどいっておくが槐多は絵もかき文もやる双頭の龍だった。そういうわけでかれらの詩集をなんどもくりかえしはぐっていると、槐多とかれらのあいだに共通する語彙はさがすだけいくらでもでてきそうなけはいで、「チョコレート」だとか「石竹」だとか「薊」などもじつは気になるのだけれど、いまは「玻璃」ということばをとりあげてみる。この玻璃という須彌山神話から西洋近代文明の一象徴までつらぬいて晴れやかでかつ妖しい響きを底にたたえたことばを槐多はいつもたづさえてはなさない。他の鍾愛のことば以上に乱用ぎみでさえある。

   玻璃の空眞に強き群青と
   草色に冷たく張らる(9)


   いまわれは故わかぬ罪業に唯顫へつつ
   玻璃色の影の如くに美しき人を思へり(10)


   美しい玻璃の玉が
   絶えまなく転がる(11)


 しかしかれがこのせかいのはじめての発見者でなかったのはもちろんである。いったいこの「玻璃」こそは、あまたある詩語をおさえて「パンの会」の若きパルナシアン白秋と杢太郎の異国によせる胸くるしい憧憬を共有し、そのなかにたがいの孤心をそそいで差しだしあった杯ともみえ、かれらの詩せかいを荘厳する切札のひとつ、しかももっとも効果的なそれとしてしばしばあらわれている。


   薫濃き葡萄の酒は
   玻璃の壺に盛るべく(12)


   ほの暗き玻璃の窓ひややかに愁ひわななく(13)


   玻璃器に古酒の薫香
   なみなみと‥‥‥遠く人ごゑ(14)


   が白秋だとすると、いっぽう杢太郎のほうも、


   杯よ、薄玻璃の杯よ、また褐き該里の酒よ(15)


   それから故しらなく悲しく−玻璃窓から月夜に(16)


 をはじめこれまた枚挙に遑がない。これらがつくりだす気分に酔ったあと、さてあらためてこんどは槐多の、


   眞紅の玻璃窓に身を凭せ
   深夜の街を見下ろせば
   ああ遠方に雨ぞふる見ゆ
   つぶやく如く泣く如く(17)


 などをおもいだしてみると、ここにあるのはなんだまったく杢太郎ばり白秋もどきの情調そのままと、口のわるいひとにはいわれてしまうかもしれない。また意地のわるい眼には類似をこえて槐多の摸倣はかくしようがないとみえるのである。けれどこんなこともある。白秋は玻璃にしばしば「ギヤマン」とルビをふっているし、『南蛮寺門前』で杢太郎が童子にうたわせた、

   玻璃のふらすこ、ちんたの酒は、きらきら光る


 の玻璃を「びいどろ」とよませているということ。これを槐多とくらべるとちがいがすこしはっきりする。つまり槐多の玻璃は実在をこえてただ「ハリ」と呼ばれることばになりたがっているので、「ぎやまん」とか「ビードロ」という、なにかなつかしい響きのこもった、この眼のまえにあってふれれば響くそんな現実のはかなさをたちきって玲瓏と出現する金剛せかいの先ぶれのようなものを感じてしまうのだが、それは後の槐多が「ギヤマン」ならぬ「ダイヤモンド」を多用することになることをすでに知っていての後知恵なのかもしれない。ともあれいまここでの気分をデッサンできればそれで足れりとし、手ぢかにあるものは誰のものでもぶんどってかえさない。それが槐多の流儀といえば流儀だが、それならもうひとつ、借り物をつかっているうちにいつのまにか自然にじぶんのものにしてしまうということをいっておかないと片手落ちになるだろう。

 そのことはもうひとつあげたい「薄暮」にあってもおなじである。白秋杢太郎では「くれがた」とルビをふられることのおおいこのことばは槐多になると薄明、たそがれ、夕ぐれその他に分散するが、いづれにせよ世紀末の「黄昏」趣味の余映をひきずっているのはたしかである。その意味でこのことばについては白秋杢太郎経由というより、もっと視点をたかくとり、上田敏『海潮音』や蒲原有明、薄田泣菫などを一貫してうまれた明治日本のフランス・サンボリスムの受容のなかに白秋杢太郎とともに槐多をおいてみるほうが親切だろう。


   ゆるやかに、薄暮のほの白き大水盤に
   さららめく、きららめく、暮春の鬱憂よ。(19)


   窓の彼方はあかあかと沈む入日の野ぞ見ゆる。
   泣かまほしさにわれひとり。(20)


   身ぞ濕る廃園の春
   音樂す廢池の水面
   幽かなる夕ぐれか人くるけはひ(21)


 とかいたかれらの心中無限事をさぐれば、『海潮音』のこととしてローデンバッハの例の「黄昏」はもちろん、さらにアンリ・ド・レニエの絶唱、


   あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し、
   あな、あはれ、あすゆゑに、夕暮苦し、
   あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し。(22)

 をとおい木霊とききながら共振するよく似たかたちの波紋であるのに対し、

   はや薄暮なりき、そことなく
   晩鐘のおとぞなりわたる(23)


   あかしやの金と赤とがちるぞえな
   かはたれの秋の光にちるぞえな(24)


   それでもたそがれで宜しゆおした
   わたしは薄闇をよいしほに永いこと
   あなたをそばでみとれてた(25)

 のほうではすこしちがう。黄昏はかれらがげんに目撃している極東の一小国の都の空から空にくりひろげられるそれであり、音に鋭敏な杢太郎の耳は薄暮につつまれて過ぎてかえらぬすべての悔恨を鳴る鐘とともにきき、白秋は歌謡の源流をくみつつ澄んであかるい貼絵のかなたに感情をとじこめ、そして槐多は夕焼けが刻々に紫にかわってゆく京洛の街かどをうつくしい少年少女の影をおって夢遊しながら人外とみなしたその身の悪の栄光と悲惨を反芻する。

   われに來てやまざる
   燈火の如く美しき薄明あり
   それは惡神の如く
   「汝ただれよ」と心を襲撃す(26)

 とはいえここには悪をひきうける誇りが書巻の匂いとともにまだのこっているともみえて、白秋杢太郎をふりきり世紀末の気圏をやぶって槐多が槐多になるのはもういちど抛物線をえがいて突入してゆくつぎの段階の太陽がひつようだった。


   走る走る走る
   黄金の小僧ただ一人
   入日の中を走る、走る走る(27)
9)村山槐多「四月短章」全集p.18


10)村山槐多「闇の中に」全集p.47


11)村山槐多「球の躍り」全集p.61


12)北原白秋「ただ秘めよ」


13)北原白秋「醋の甕」


14)北原白秋「微笑」


15)木下杢太郎「珈琲壺と林檎」


16)木下杢太郎「邪宗僧侶刑罰図を眺むる女」


17)村山槐多 全集p.34


19)木下杢太郎「緑金暮春調」


20)北原白秋「思ひ出」


21)村山槐多 全集 p.35


22)アンリ・ド・レニエ「銘文」上田敏訳『海潮音』収載


23)木下杢太郎「夕」


24)北原白秋「片恋」


25)村山槐多「一人の美少女に」全集p.45


26)村山槐多「薄明」全集p.21


27)村山槐多 全集p.109

(三)

 村山槐多が類まれな「赤」好みだったことはすでに神話の域にたっしている。


   世界は赤だ、青でも黄でもない。(28)


 こんな風に、随分景気よく啖呵を切られると、こっちはその威勢におされっぱなしになるほかないし、じっさい『尿する裸僧』をはじめとして至るところに赤が氾濫したその作品をまえにすれば、かれのほうに嘘いつわりのないことは承知のうえ、でもちょっとまってくれといってみたくなってくる。そのさっぱりした影のなさがかえって気になるのだ。たとえば、


   自分は是れまで自然を冩實的に見る事がすくなかつ
   たので冩實的に向ふとすくなからず困る自然の色が
   ウルトラとガランスばかりにならないかな、(29)


 という発言をどうよめばいいのか。やっぱりここは、「自然を写実的に見る事がすくな」いひとの赤狂いとはいったいなにを語るのか、そこをきいてみたいという風にぼくならなる。すると高村光太郎が自然主義の風潮にだいたんに棹さして「緑色の太陽」があってもいいじゃないかといった、それとおなじ反自然の主張にそって赤をつかっていた可能性が槐多にひらけてくるからである。せかいが赤にみえたのではなくて、赤でせかいをつくってみた。なんだかあたりまえのことをもっともらしく喋っているような気になってきたが、ようするに赤いのはせかいでなくじつは槐多の頭脳のほうだということになる。「世界は赤だ」というのを「わたしの世界は赤い」といいなおさなくちゃならない。


   泥酔の赤き都は
   今覚めぬ眞晝まん中(30)


   惡女の赤よりあざやかに
   われは眞赤にひとりこの深夜の玻璃窓に照さる(31)


   ああわれは鬼にして
   赤き面も恐ろしく(32)


   ああ苦痛よ、赤きなさけよ(33)


   美しの金の赤の村々
   北山ののどかさに立つて(34)


   水を汲む濁りし河に春はいま苦しき赤と變はりはてつつ(35)


 都市はあかく、なさけもまた赤い。物象というからだの衣をぬいで赤外赤の姿もあらわに、ここで赤はかれにとってだいじで切実な或るせかいの存在をしめすための一種の暗号としてはたらくことになった。自然を逸脱しつつそれをつかうひとの感覚の自然だけがリアリティーを保証する赤。表現としての赤。これらの赤をたたいてみると澄んだノミナリスムの響きがかえってきそうで、それなら赤は色から色をうばった「ことば」であり、そこからはことばに対する槐多の柔軟な感受性がみてとれるとするなら、その「ことば」がまたべつの柔軟な「ことば」につよく引かれた経験からうまれてきたんじゃないかと自然かんがえたくなってしまう。ではどこからその赤はきたのか。

 このへんでそろそろ白秋を登場させていいだろうか。槐多出生以前の赤の詩人はだれなのかかと、いまの問いをいいかえてもよくて、そのこたえはいうまでもなく北原白秋である。とりわけ『邪宗門』の白秋である。『邪宗門』におさめる詩はすべて百十九篇。そこにつかわれた「赤」をざっとかぞえてみても八十はくだらないし、「赤き僧正」「赤き花の魔睡」「空に眞赤な」「赤き恐怖」「あかき木の實」と、題にさえかれは赤をいれたがっているのだ。


   空に眞赤な雲の色
   玻璃に眞赤な洒の色(36)


   はずいぶん有名になったが、


   黄昏の薬草園の外光に浮きいでながら、
   赤々と毒のほめきの恐怖して顫ひ戦く、(37)


   色赤きいんくの甕のかたちして
   ひそかに點る豆らんぷ息づみ曇る。(38)


   緘みたる色あかき唇に、あるはいやしく
   肉の香に倦める猥らなる頬のほほゑみに。(39)


   狂ひいでぬる赤き花、
   赤きく言。(40)


   嘴にまたあかき實を塗る
   淫らなる鳥にしあれば、(41)


   などその典型的な例とさえいえず、それなら、


   世界は赤だ、


 というのは白秋にこそふさわしいことばであって、びいどろ、夢、あまりりす、なやみ、唇、いんく、声、悲苦、帆、くるしみ、駒、神経、旗、屋根、郵便函、戦慄、わななき、幻想、都市、精舎、花、靴下、乳房、自動車、札、火、帯、実、月、灯、空、顔、硝子、星などほとんど無差別に「赤い」「赤き」という形容を乱発している印象がのこる。ようするに『邪宗門』は赤にはじまって赤におわる赤の詩集なので、石井柏亭装丁明治四十二年刊初版本をみると表紙右半分から背表紙裏表紙にかけて朱赤をめぐらせているのも、白秋の赤への深いおもいをじゅうぶん承知したうえでの柏亭の考案か、もっと直接に白秋のうるさい注文のせいかどちらかだろう。

 ともかく白秋は赤が大好きなのであり、その『邪宗門』の評判はその赤を筆頭とする色彩のあたらしい感覚にあったのはたしかで、室生犀星はなけなしの給料をはたいても手にいれようとしたという。その初版発行の年槐多は京都府立第一中学に入学して、かつて白秋も耽読した鴎外訳『即興詩人』や『海潮音』にのめりこんでいる。自然主義とも人道主義とも一線を画した傾向をかれもまたいきようとしている。また年譜をみるとこの十二月二十八日に、京都にたちよった森鴎外を槐多は母とともにその宿舎にたずねてはなしを交わしたとある。はたしてその夜の鴎外がこの才気煥発な少年にむかってまわりをとりまく有望なわかき詩人たちを話題にしなかったかどうか、と、あわててそこまでいけばいきすぎか。ちなみに木下杢太郎は『邪宗門』を評して絵画的といい新印象主義の点描になぞらえたうえでこういっている。


   作者は自然から其好む元素を選び來つて、詩草に織
   つて讀者の前に開展した。而してそれ以上何等の説
   明を為やうとは欲しない。唯朧げなるものを暗示す
   るのみである。故に讀者は各自の聯想作用を此織物
   に結び付けなくてはならぬ。故に此詩は静的でなく
   て動的である。讀者の聯想作用の如きによつて、尚
   且、能く作者自個の聯想作用を蔽ふ底の人が尤も能
   く此詩を解する階級である。(42)


 必要なのは創造的に詩をよむことだった。そして赤い死の仮面をかぶってオカリナをふく槐多少年はじゅうぶんすぎるくらいそれをした余勢をかってみずから詩をつくった。かたほうに赤を惜しげなくちりばめた白秋の詩集があり、もういっぽうに槐多のやはり赤をぶちまけた詩があるのは、そういう面授面受の秘儀がおこなわれたからで、ふたりの詩語のあいだのつながりはその消息のまたとない証言でけっして偶然などではない、とはいえないだろうか。赤は白秋にでて白秋より赤いその村山槐多の出藍の赤、と。
28)村山槐多 全集p.128


29)村山槐多『日記』大正6年12月31日 全集p.372


30)村山槐多 全集p.31


31)村山槐多 全集p.34


32)村山槐多「孔雀石の小箱」全集p.37


33)村山槐多「死と過去と」全集p.51


34)村山槐多「穀物のにほひする女」全集p.53


35)村山槐多 全集p.160


36)北原白秋「空に眞赤な」


37)北原白秋「赤き僧正」


38)北原白秋「蜜の室」


39)北原白秋「沈丁花」


40)北原白秋「狂へる椿」


41)北原白秋「鵠」


42)木下杢太郎「詩集『邪宗門』を評す」、『スバル』1-5、明治42年5月

(四)

 それにしても村山槐多と森鴎外はふしぎなネットワークでむすばれている。いったい槐多の父谷助は鴎外の弟潤三郎を教えたことがあり、いっぽう母たまも一時森家で女中をしたことがあってかれらの結婚はたぶんに鴎外の尽力によるものだった。たまの姉たけもまた鴎外宅ではたらいていたことがあり、これも鴎外の父静男の代診をした山本一郎と結婚している。そして絵をかく槐多のナチェローネとなった山本鼎はその山本一郎とたけの子息だったから、槐多と母方の従兄鼎との出会いも大観すれば鴎外が用意したといっていいかもしれない。

 こういうわけで血縁ではなくても村山家と森家はたがいの消息をつうじる親族なみの交際をしていたようで、じっさい槐多が鴎外の息子於菟にあてた年賀状が現在ものこっていてそれが家族ぐるみだったことをうかがわせる。それなら鴎外の動静がはやくから槐多の耳にとどいていて不思議はないし、長じて文藝にしたしめばしたしむほどこの高名な「テエベス百門の大都」の精力的な活動は気になったはず、まったく無関心だったとすればそれこそ不自然だろう。ありようはその逆に鴎外の著述という著述はかたっぱしからむさぽっていたとみるほうがじじつにちかいはずである。ひとつ例をあげようか。「レルモントフの浴泉記を讀んだ。實に歯切れのいい、痛快な小説である。」(43)という感想をかれはかいているのだが、これはあきらかに小金井喜美子が「しがらみ草紙」に発表した翻訳小説『浴泉記』をよんでのはなしで、そして小金井は鴎外の妹であり、この小説がのちの明治三十年春陽堂刊行で森鴎外著とされた『かげ草』に収載されているのだから、「しがらみ草紙」ではなく『かげ草』のほうで鴎外のついでによんだのではないかと想像される。エドガー・アラン・ポーヘの度はずれた熱狂のきっかけを槐多にあたえたのも、みずから『うつしほ』『十三時』『病院横町の殺人犯』などを翻訳した鴎外にちがいなくてもこれすら氷山の一角にすぎず、槐多が槐多になるために不可欠なひとだった鴎外はまた、それゆえ、槐多から白秋への接線のひとつとしてわすれるわけにはゆかない存在である。

 ところでもうひとつ白秋へむかって接線をひきたい。こんどは山本鼎からである。美術雑誌『方寸』によった石井柏亭森田恒友山本鼎などと北原白秋木下杢太郎らが会同したのは明治41年の暮れのこと。そこでうまれた「パンの会」というゆたかな土壌があってはじめて鼎と白秋の友情はそだったとみえるのだが、翌42年1月に雑誌『昴(スバル)』が創刊されて白秋杢太郎の活発なしごとがはじまるなかで、山本鼎と白秋はいっそうふかくむすびついていったのである。そのかたみとして白秋の『邪宗門』をあげてもよくて、挿入された山本の木版画が杢太郎のデッサンとともに詩の雰囲気をもりあげているし、珍しいものでは釣鐘型マントをはおった兄弟のような写真さえのこって酒に談論に寧日のない交友のさまがしのばれる。いったい槐多にとってこの従兄の存在は、ちょうど白秋に東京から新刊の詩歌を送ってくれた叔父石井道真にひとしく、とびきりいきのいい情報をつたえて少年のあらずもがなの夢をあおったとすればこの画家以外になかった。そうであれば「パンの会」の熱狂のただなかにいた山本鼎が槐多に白秋をおしえないはずはない。むしろ槐多のほうからせがんだかもしれない。失恋からの逃避をかねて上洛した山本鼎が槐多に絵の道具一式をあたえ「パンの会」同人たちの自由な精神をかたったとあるが、それ以前から『スバル』について知っていてもぜんぜんおかしくはない状況である。そしてなにより『スバル』の背後には敬してやまぬ鴎外がひかえているのだから、『明星』からはじまった詩歌への関心が『スバル』につながるのはごくあたりまえといえよう。そしてこれは白秋への関心とほとんどおなじことだった。明治42年1月の『スバル』創刊号には奇しくも白秋の「赤き僧正」「赤き花の魔睡」など七篇が『邪宗門新派體』の題のもとに掲載されている。槐多がこれをよんだのかどうか決定的なことはいえないとしても、ここにそれ以外の号で槐多がたしかによんだ『スバル』があるにはあった。たったひとつ大正2年3月29日の日記の記述、「スバル(ヘルゲランドの海豪)二幕まで」がその手がかりになって、これは同年2月発行の『スバル』にあたってみると、萬造寺斉が訳出したイプセンの「へルゲランドの海賊」のことだとわかるからである。そしてその号しかよんでいないと断言するのはかなり無理なことだろう。

 さてここまでくると鴎外鼎の交点の、とりわけ『スバル』を背景にして白秋の姿がくっきりと槐多のこころに影をおとして、しかもまちがえようもなく濃いといいきりたくなるが、ここでもういちどふりかえって、


   白秋の「雲母集」おもしろい。


 をおもいだしてみようか。簡潔なところがかえって含蓄にとんでいそうで、すくなくとも、


 「月に吠える」と云ふ詩集をみる。
 僕はきらいだ(44)


 のよそよそしい拒絶とくらべると、その口調になにやらあたたかみを感じてしまうのは気のせいでもないだろう。もしそうならその温もりはながく慣れしたしんだ愛読の時間のほうからやってくるはずであるし、さらにだいじなのはそれをかきつつある槐多の「現在」の火に依然としてあつく触れるものがあったとよめそうなことである。そのためには白秋における『雲母集』の意味をかんがえればよくて、『邪宗門』で官能的退廃的世紀末の血と火と悪をうたった白秋はここにはいない。実生活のうえの波乱をのりこえたかれがまったくあたらしい境地をひらいたとき『白金之独楽』『真珠抄』そして『雲母集』が誕生したといわれている。自然への敬虔な礼拝と、とりわけ太陽賛美にかれはめざめることになった。


   金色の飛沫つめたく空をうつ大海の波は悲しかりけり(45)


   驚きてわが身も光るばかりかな大きなる薔薇の花照りかへる(46)


 槐多はこういう声の奥にひろがるせかいにするどく反応していたはずである。「おもしろい」とはかれの同意のさけびでもあった。なぜかといえば、かれの詩もまた奇しくも『雲母集』に軌を一にするかのように大正4年あたりを潮目としておおきく変貌してゆくからである。薄明と美をうたうことをやめたかれは自然がもつしなやかなつよさにやっと気がついたみたいにあおい眼をむけ、それとともに貧血ぎみの赤は太陽の赤、太陽の金に変身してゆく。はたしてこれもまた白秋の影響なのだろうか。そうではなかった。


   濁つたわが心と肉と
   金色に光る
   美しい夏の日の
   大島の海べに(47)
43)村山槐多 全集p.292


44)村山槐多『日記』大正7年1月7日 全集p.374


45)北原白秋『雲母集』


46)北原白秋『雲母集』


47)村山槐多 全集p.90

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