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間部時雄の辿った道

森本 孝

明治美術に関する研究が進むなかで、遺族のもとから大量の作品が発見され、展覧会のかたちで紹介されることが近年になって少なくはない。鹿子木孟郎、榊原一廣などもそうであり、間部時雄の場合も作品は眠り続け、発見されたのは1989年のことであった。京都において浅井忠に学んだ作家は多いが、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)において浅井に育てられた、いわば直系の後継者といえば間部時雄がまず第一番目に挙げられてもおかしくはない。しかし、間部の作品としてその存在が知られているのは千葉県立美術館所蔵の「田園風景」(1906年、油彩)、京都工芸繊維大学所蔵の「暮るる島」(1914年、水彩)、東京国立近代美術館所蔵の「パリの冬」(滞欧作、銅版画)くらいで、ほとんど拝見する機会がなく、その力量も推測の域を出ない状況にあったが、1989年4月、東京の美術研究藝林で「間部時雄顕彰展」が開かれて間部の画業の一端が紹介された時期に、間部に熱い視線を当て精力的に作品を収集するなど、高野光正氏の献身的ともいえる努力によって、その全貌が徐々に明らかになりつつある。現在では高野コレクションにおける間部の作品は、約500点に近い量となっている。今回の「間部時雄展」出品作品のほとんども高野コレクションである。

間部時雄は、1885年(明治18年)7月、熊本県上益城郡大川村上仲間(現在の上益城郡嘉島町)に生まれている。間部自筆の履歴書には「士族」と記され、旧家の出であったことが容易に想像できる。1898年3月に熊本高等小学校を卒業し、熊本県工業学校染織工科へ入学するが、成績優秀であったことから翌年の10月には地元を離れ京都市染織学校機織本科に転校、1902年3月に同校を卒業し、新設されたばかりの京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)図案科別科(卒業時には第二部に改称)に入学している。この京都高等工芸学校での浅井忠との出会いが間部の画業にとっても最も大きな出来事であった。

1898年(明治31)東京美術学校教授となり、1900年からフランスに留学、1902年8月に帰国した浅井忠は9月に京都に移住、京都高等工芸学校教授として、図案科の図画実習、図画法、染色科の自在画を担当している。「総て消極的でなんにもしないで是から社会を退て遊んで仕舞んとの覚悟である。夫故京都へ引込んで陶器でもいぢって暫く遊ばんが為転任の約束をして置た訳である。」と手紙を弟へ送った浅井忠であるが、静かにそして熱心に後進の指導に当たったことは周知のことである。このカタログの所収の『浅井忠先生の思い出』に浅井の指導、そして浅井と間部との子弟関係の様子が詳しく記されている。じっと作品を見つめて、なかなかよく出来たとまずほめて、それから細部にわたって指導する様子、絵具をもらったこと、そして東宮御所(現在の赤坂離宮)の造営に際し、皇太子の室となる東二の間の壁飾額面制作を依頼された浅井忠の助手(名義は宮内省臨時造営局雇)として、馬上の若手の武士のモデルになることを浅井に頼まれて、木馬の上に鞍を置いてその上にまたがってモデルを勤めたこと。「武士の山狩」の原画の部分を模写し、絵を描くことで初めて収入を得たことなど、当時のことを知る貴重な資料となっている。

この『浅井忠先生の思い出』は400字原稿用紙30枚に記述され、間部は恐らく出版することを念頭に置いて書いたものと想像できる。この資料が見つかったのも最近のことで、

『法隆寺金堂』
『奈良三月堂の仏様』
『南フランス』
『モナコ モンテカルロのバクチ場』
『ロードス陶』
『雲崗石仏古寺』
『バン ゴッホ』
400字原稿用紙8枚
400字原稿用紙14枚
400字原稿用紙19枚
400字原稿用紙10枚
400字原稿用紙247枚
400字原稿用紙59枚
400字原稿用紙86枚

といった遺稿も同時に発見されている。

間部は1905年(明治38年)7月、京都高等工芸学校を主席で卒業、翌年から同期の霜島正三郎(1884−1982)と共に母校の助教授となり、浅井の助手として活躍することになる。

毎年春に開催される関西美術会主催の競技会で間部は、1906年、油絵の部で三等賞、水彩画の部で一等賞。1907年、油絵の部一等賞。1908年、油絵の部で一等賞なしの二等賞、1909年も同様で、油絵の部で二等賞。この間、第1回文展に出品した「落陽」(油彩画)、「仲秋」(水彩画)が入選、第2回文展では「潮岬」(水彩画)、第4回文展では「京ノ暮」(油彩画)が入選、1912年、関西美術会第11回展覧会に出品した「山かげ(八瀬)」(油彩画)が、宮内省御用品となるなど、画家として順調な道を歩んでいた。

また、1912年、当時の皇太子妃(後の大正天皇皇后)の服地の図案を製作、1914年の農商務省展覧会に図案を出品し、三等賞を受賞。翌年、翌々年の農商務省展覧会でも褒状を受け、1917年には皇后陛下御料の卓掛の図案を製作するなど、図案の方でも卓抜な才能を発揮していた。

京都高等工芸学校に入学した1902年の制作は、鉛筆スケッチであった。水彩画は例外的に「白川にて」(1902年、No.2−1)があるだけで、最初の2年間は鉛筆スケッチによって対象に迫り、誠実に写し取ることに重点が置かれ、こうした作業の中で基本的な運筆、構図の取り方、主題の設定、そして水彩画の制作に必要となる光の微妙な変化を表現することを課題としていたようである。そして、1905年になると鉛筆スケッチを卒業して水彩画に移行している。

明治39年頃から大正初年の頃の水彩画のなかで制作年がはっきりしているのは、古い家並と樹木、細い川、草木を配した「路傍の小屋」(1909年、No.2−20)と、すがすがしく明るい色彩が魅力的な「川沿いの小屋」(1909年、No.2−21)のみである。前景に樹木を描き、紫色の山を背景に釣道具を持った男が小さく描かれた「釣人の歩む道」(No.2−22)は、色数が控えられて水彩画の特徴を遺憾なく発揮した秀作である。「水辺」(No.2−23)は緑・黄緑などの色彩が美しい。緑色から紅葉に移り変わろうとする初秋の時期であろうか、煙と農婦が点描的に描かれてアクセントとし、茶褐色と緑の色彩の調和が見事で、澄みきった空気さえも表現されたような「八瀬の秋」(No.2−27)など、完成度の高い一連の水彩画は、この時期の作品であろう。

パスポート、ビザなどと一緒に、「京都高等工芸学校助教授 間部時雄 絵画研究ノ為満二年英吉利国仏蘭西国瑞西国伊太利国白耳義国ニ在留ヲ命ス」という文部大臣従三位勲一等中橋徳五郎の名で出された大正九年十月十三日付の辞令と、文部大臣鎌田栄吉の名で出された「文部省在外研究員 問部時雄在留期間ヲ大正十三年一月十四日迄延期ス」という大正十二年一月二十七日付の辞令が残されている。間部がヨーロッパに向けて出発したのが1920年11月27日で、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ベルギー、ドイツ、スペイン等各国を巡り加茂丸で帰国したのが1925年(大正14)1月のことだから、最後の1年間に関する辞令がない。2年間の海外出張はともかく、約1年間在留期間を延期する辞令が出ることは異例のことであったようで、再び延長する、辞令が出されることは先ず不可能であったと考えるのが妥当である。それからさらに帰国を1年延期している現実をどう解釈するとよいのか、何が間部を引き留めたか事実を明らかにするのは難しそうである。さらに最後の1年間の制作の量も少なかったように想像され、不思議な空白の1年間という感じもする。帰国後何か不都合が生じ、東京に向かったのであろうか。

滞欧期の作品で多いのはパリ、パリに近いオーベール シュル オアーズ、そしてカンヌとニースの中間に位置する南フランスの小さな街のキャーニュである。間部が残した「南フランス」を読むとキャーニュの街の様子、そして三宅克己夫婦と一緒に出かけたことなどが記されている。

間部はオーベル シュル オアーズに度々滞在したようである。2冊のスケッチブックと数多い作品が遺されているが、大きな出来事として、ポール・ガッシェと出会い、ガッシェを通じてゴッホとセザンヌを知ったことが挙げられる。

画家でもあり、ドーミェ、ピサロ、セザンヌ、ルノワール、マネ、シスレーなど印象派の画家たちと交友関係を深めていた医師ガッシェのいるオーベルに、ゴッホは1890年5月21日から移り住み、ピストル自殺を試みて7月29日に没するまで住んだ、ゴッホにとって最後の地であった。ドクトル・ガッシェはゴッホのパトロンでもあったようで、ゴッホ没後約30年が過ぎドクトル・ガッシェは没していたが、間部はガッシェの家にあった「ガッシェ博士の肖像」、「オーベルの教会」など20点余りのゴッホの作品を拝見し、当時のことをドクトル・ガッシェの息子、ポール・ガッシェから聞いている。

間部とポール・ガッシェとの親交関係を証明するものとして、間部が贈った「我思永」という印をポール・ガッシェが非常に大切にしていたこと。そしてガッシェがゴッホの銅版画をプレゼントしたことである。この銅版画の裏面には

  パイプの人(ドクトル・ガッシェ)
   バン・ゴッホ作のただ1枚のエッチング
    1890年5月25日、オーベルにて
   同好の岡部君に呈すポール・ガッシェ
        オーベル 11月20日 1921年

と記されてあった。1890年5月25日、ゴッホがオーベルに来て4日目の作で、ゴッホは一晩中かかって仕上げ、翌日まだ乾かずぬれたままの状態でドクトル・ガッシェのもとへ持ってきて、銅版腐蝕などあとの仕事はすべてドクトルがやったと400字原稿用紙86枚におよぶ間部著の『バン ゴッホ』に記載されている。

セザンヌについてもゴッホ同様間部はポール・ガッシェから当時の話を聞いている。ガッシェ家にはドクトル・ガッシェが銅版腐蝕を行っている姿を描いたデッサン、縦長の15号くらいのセザンヌの「草花」(油彩画)もあったそうである。

ゴッホの影響を窺わせる油彩画として「オーベル シュル オアーズ」(1922年No.1−5)がある。ベージュ色をベースに、朱と緑が鮮やかで、リズミカルな筆触が印象的な作品である。2点のミレーの模写もゴッホの影響であるのかも知れない。

また、「並木道」(1924年、No.1−19)はセザンヌの影響を受けたことを物語っている作品である。画面の両側に樹々を配する構図でセザンヌを思わせる色彩があたえられている。「キャーニュの並木道」(1923年、No.1−9)、「地中海キャーニュ」(1923年、No.1−10)、「ビューキャーニュ」(1923年、No.1−13)なども、セザンヌのように果物が腐ってしまってもなお平気で描くような姿勢ではなく、筆は比較的速く動き短期間に完成されたようであるが、それでいてセザンヌを感じさせる作品である。

その他、間部の滞欧作のなかで、「風景(フランス)」(1924年、No.1−17)を忘れることはできない。季節は春から夏に移行する頃であろうか。陽光を浴びて水面も家並の壁面も光輝き、清らかな透明感に満ちた秀作である。シャルトルの選択場に取材したのであろう。

また、滞欧期に間部時雄は的確な線描の銅版画を数多く遺しているが、前出の遺稿の『バン ゴッホ』には、銅版画を「やってみたいと思いながら一度も手をつけたことがなかった」、「なかなか面白味のあるものだと言う事も分り、昔から沢山の版画を残した人達の仕事ぶりも了解出来、興味もわいて新しい視野が開かれた様な気がした」と記され、銅版画の技術はポール・ガッシェから学んだことが明記されている。

間部は油彩画、水彩画、銅版画を制作する一方、陶磁器、特にその文様に強い関心を寄せ、陶磁器を中心とした古美術品の収集に力を注いでいる。所蔵品を描いた画帳やまくりを大量に遺しているが、陶磁器の文様写しとその研究には相当の時間を使っているようである。地中海に浮ぶロードス島の陶器に関する400字原稿用紙247枚に及ぶ遺稿は圧巻である。工芸意匠にまで興味を示す姿には、浅井忠の影響を読みとることもできる。

それにしても間部時雄については謎が多い。特に帰国後がそうである。なぜ急遽東京に移ったのか。これが最も奇怪である。間部に関する研究は始まったばかり。こうした謎は今後解かれて行くのであろうと思う。

今回出品された「真如堂の塔」(1905年、No.2−14)は、牧野克次(1864−1942)の作品ではないのかという説がある。「井戸のある風景」(No.2−28)には「T.Mabe」のサインが、「真如堂の塔」には「211」、「真如堂の塔」、「三八 七月十二日」、「散住」、右下に「地(B)」と、ともに裏面に記されている。今回、間部の作品群のなかから裏面に「224」「加茂の林」、「芝什」、右下に「天(A)」のサインがあり、消されてはいるが表面右下に、右側から書かれた「牧野克次」、その下段に「T.Makino」と読めるサイン、「亦可」の朱文長方印のある作品も発見されている。この時期の水彩画の表面にサインが明確あるのは「路傍の小屋」(1909年、No.2−20)のみで、裏面には何等かの記録のための記述があるはずであるが、同時期の他の水彩は釘を抜けば額が壊れるような状態で封印されていて、裏面を見ることはできない。

「亦可」の印のある作品が間部時雄の作であるのか、牧野克次のものであるのか、『隠された水彩画 間部時雄と牧野克次』(三彩504 1989年)で岡部昌幸氏によって既に、仮説が記述されている。

間部の性格は、姑息な手段を用いる人物ではなかったように想像でき、作品を展覧会に出品するわけでもなく、遺族のもとにあって最近発見されるまで死蔵された状態であった以上、サインのある誰かの作品を間部が自作としなければならない理由は、現在のところ考えられない。「芝什」は40、「散住」とは30のことであり、「天」「地」は優良可と同様、生徒の作品を評価する天地人の「天」であり「地」であると思う。様々な疑問はあるが、牧野のサインを消さなければならない何かがあったと考えるのが妥当で、考えれば考えるほど「加茂の林」でさえも間部の作品であると思えてくる。封印された間部の作品群、そして「亦可」の印のある作品群のすべての裏面を調べることによって、この大きな謎は解けるであろうし、その結果によって間部の座標もより鮮明になるはずである。

(三重県立美術館普及課長)

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