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エデュアルド・パオロッツィ
Eduardo Paolozzi

パオロッツィの版画作品からわれわれが直観的に見てとることができるものは,<現代の科学技術そのものを視覚化した機械的な硬質さ>とでも言うべきであろうか。より具体的に述べるならば,そこにはテクノロジーのイメージが観念的であると共に即物的な表現によって呈示されている。すなわち彼の制作した作品「零エネルギー実験電池」(1970)や「As is When(〜の時のように)」(1965)の版画シリーズは,明確な意味内容を持つ言語としてのモティーフを知的に構成しているという意味できわめて観念的であり,また,今日の社会の隅々にまで行き渡っている電子機器,たとえば複雑なトランジスタ回路や,ビデオの画面に映し出されるコンピュータ映像などを直接採用しているという点で徹底的に即物的だと言えるであろう。ここには人間の知能の内部で働いている知的なメカニズムそのものが,原子力潜水艦,戦車,航空母艦,飛行機の操縦席を占める種々様々な機械類,エンジン,ロケット ジェット機,人間の脳髄の断面図,そして動物や人間のポップ・アート的なモティーフなどを媒介として,形態的には秩序立って,言語学的,意味論的には無株序なやり方で表現されている。

パオロッツィは自己の観念とイメージを作品化するにあたって,芸術家,すなわちパオロッツィ自身を凌ぐ高度な技術をもった専門技術者の手に制作の一部分を委ね,自己の想像力を最大限に拡大することを狙った。その結果,彼の作品は形態と色彩の両面において,機械的,映像的,金属的とでも形容すべき斬新な美しさを獲得することに成功した。しかも,そうした方法で完成された作品群は,それらを見る観衆を作品内に主体的に参加させる性格を保持している。たとえばシルクスクリーンを使った「ムーンストリップス・エンパイア・ニューズ」(1968)においては,箱の中に入れられた100枚ほどの版画がバラバラになるように収められており,観衆はそれらの紙片を無限に組み合せることで,自ら新しいイメージを創り出す作業に駆り立てられるのである。ここでは芸術作品と鑑賞者という伝統的な関係図式が打ち破られている。パオロッツィは従来の芸術家たちが果たした役割を遙かに越えて,科学とテクノロジー,あるいはマス・メディア(大衆媒体)の言語を把握するために作品制作を続行した。彫刻家として数々の卓越した作品を制作している彼は,高度に発達した工業化社会のイメージを視覚化するために,一種のプログラマーとして最高度に洗練された版画の技術を利用する道を選んだと考えられる。

ただ注意すべきは,彼がテクノロジーのイメージを作品化するにあたって,形態,色彩,質感などの形式的側面のみに力を入れたわけではなかったことであろう。「零エネルギー実験電池」のシリーズを丹念に観察していくと,人工衛星や超高層ピルデイングと並んで,人間をむさぼり喰う怪物の野蛮な姿が表現されている作品に惹き付けられるはずである。この作品は「地球の未来の支配者は昆虫の種属から現われるのだろうか」という副題をもっているが,まさにパオロッツィはここで人類が産み出した機械文明の非人間化に対して,鋭い警告を発しているのではなかろうか。ただこの場合にも彼は各々が全く異なる意味内容をもつ美術の言語を,機械的に整然と並置するのみで,一義的に固定された陳述という思考を完全に放棄し,単なる文明批評の平板な論理に陥ることを注意深く避けている。パオロッツィは芸術家の立場から科学文明を作品の素材と見なして積極的に肯定することを,そしてまた現代社会の一員として機械文明を厳しく批判することをも共に拒否している。彼の狙いは,現代人が知的に想い描く文明の夢を硬質な形と鮮かな色彩によって表現することであった。

(中谷伸生)

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