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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1986 > 作品解説 黒田清輝展図録 1986

出品リスト

作品リストは、作品名、制作年、材質、寸法、所蔵者名、初出展の順に記載した。作品名の英訳(およびあいさつ文)は山梨絵美子(東京国立文化財研究所美術部第二研究室研究員)が担当、作品解説は三重県立美術館学芸員が分担執筆した。

油彩 OIL PAINTINGS

1
田舎家

Rural Cottage
1888年(明治21年)
油彩、画布 42.3×54.3cm
東京国立文化財研究所


 黒田のパリ生活は、工部省留学生として藤雅三が渡仏した1885年から急転回をみせる。黒田の画才をみぬいた藤は当時パリにあった山本芳翠や林忠正とともに、本格的な絵の就学をすすめ、黒田自身「少しく画学を始めんかとも思ヒ居候」と父清綱への手紙(1886年2月10日)に書いている。そして時をおかず1886年5月21日付のやはり父への手紙のなかでは、さらに一歩すすんで、「今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心」したと語っている。7月に渡仏した久米桂一郎とともに、アカデミー・コラロッシのラファェル・コラン教室に通いはじめるのはこの年10月。その1年後の10月には法律大学も退学し、周囲の説得もすべて終え、「私ハ画学と共に死する心得に御座候」(1887年5月26日、父宛への手紙)という画家としての進路はさだまった。

 この『田舎家』は1888年にパリ郊外で描かれている。母への手紙に、「わたくしこと大げんきにてさる二十二日よりぱりすより一じかんばかりかゝるいなかにまいりましてこゝでいなかやなどをかいてをります。まことにおもしろいことでございます(略)こゝはじゅいあんじょざすと申ところにてにっぽんじんのだいくのげんべいといふひとがひとりをります」(1月26日付)と報告している場所、Jony-en-Josasである。この少し前1月20日付の手紙では、「学校ニテハ今迄ハ只焼炭ノ画ノミ稽古致し居候得共此ノ二週間程前より午後のみハ教師の許ヲ得て油画ノ稽古致候事に御座候」とあることを考えると、この作品は票田の油彩のもっとも初期のものといってよい。彼がグレーを発見する三か月ほどまえのことである。

(東俊郎)
22
読書

Reading
1890-91年(明治23-24年)
油彩、画布 99.0×80.Ocm
東京国立博物館
サロン・ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセ


 1890年(明治23)6月1日、前月にも数回訪れたことのあるグレーに向けてパリを出発した黒田は、まずオテル・シュヴィヨンに滞在し、サロンへの出品を目標に、この『読書』と『郷の花』の制作に取り掛かった。7月中旬には、モデルに使っていたマリア・ビヨー(Maria Billault)宅に住まいを移し、8月初句頃まで本図の制作に集中した。

 書簡等によると、『読書』の発想には、当時、雨期に入った現地の気象条件も関係しており、室内で制作できる主題として、本図が考え出されたという。当初の計画では、1か月ほどで完成の予定であったが、ほぼ完成したのは、着手してから2月後の8月中旬のことであった。本図のモデル・マリアは、よく知られているように、グレーで豚肉屋を営んでいた家の娘で、当時、20歳頃であった。画家とモデルの関係のみとどまらず、私生活の面でも黒田とかなり親密な関係にあったこの村娘は、本図のほか『厨房』など黒田のグレー時代の作品に度々登場している。なお、マリアについては、平川祐弘氏によって詳細な報告がなされている(同氏「黒田清輝のモデル、マリア」『文学界』昭56年5月号)。

 8月中に、本図の制作をほぼ終えた黒田は、12月の初め、グレーで描いた作品を手に、パリへ戻った。それらをコランに示して批評を乞うたところ、コランは、『読書』を大いに賞賛して、サロンヘ出品することを勧めたという。

 1891年(明治24)1月4日、黒田は再度グレーに帰り、『洋灯と二児童』などの制作を始める一方、サロン出品の準備を行い、2月中に本図にも補筆を施し、額縁の手当も行っている。コランの教示によって、画面左に日本人の作であることを示すべく、漢字で「明治二十四年 源清輝写」とサインの入れられた本図は、『マンドリンを持てる女』、木炭画3点と共に、ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに出品され、コランの予見通り入選となった。本図には、その後、林忠正から購入の申し出があったが、黒田は、同年8月、本図を日本の父宛に発送し、明治美術会から出品要請があれば、応じるように託した。これによって、本図は翌1892年(明治25)の明治美術会春季展覧会(3月25~5月31日 芝公園弥生館)に参考出品されることとなった。

 このように、『読書』は、フランスにおける黒田のデビュー作というだけでなく、我国の美術界に彼の名前を始めて知らしめた記念的作品である。 しばしば指摘されてきたように、鎧戸の傍らで読書するマリアの周囲には、明るい日の光が満ちており、ブロンドの髪の毛や、色白の頬、紺色のスカートに映える光線の表現には、外光派の特徴を強く認めることができる。本図は、その後の黒田が進むべき絵画表現の方向や、更には黒田によって指導されていく日本の洋画界の動向をも明瞭に示している点で、非常に重要な作品であるということができる。

(毛利伊知郎)
24
ブレハの少女

A Girl of Bréhat
1891年〈明治24年)
油彩、画布 81.0×54.Ocm
石橋財団 ブリヂストン美術館


 黒田は、1891年(明治24)9月、ブルターニュ旅行を計画し、同月9日、久米桂一郎、河北道介の両名とともにモンパルナス駅を出発、11日夕刻プレア(Bre(')hat)島に到着した。プレア島は、サン・マロ湾入口に近く、日本の松島に似た、何百という小島の点在する景勝地であるが、黒田はこの地が余程気にいったらしく、書簡に「景色よき処の上生活安く先ず西洋の極楽ニ御座候」とか「先づ西洋で今迄見たる内ニてハ此の地が第一ニ御座候」(同年9月24日付父宛)といった称賛の言葉を書き記している。

 既に隈元謙次郎氏の指摘にあるように、ブレア島への旅行は、絵画制作に主要な目的があったのではなく、むしろグレーでの作画の疲れを癒し、休養することが目的であったようである。プレア島には20日間ほど滞在したが、その間に黒田は、当地に逗留していたオランダやスウェーデン、フランスの画家たちとも交遊を結び、酒宴を催すなどして、心休まる日々を過ごし、そのかたわら数点の作品を残した。

 当地で制作された作品としては、写生帖に遺された人物画や風景画、あるいは『ブレハの村童』と題された油彩画などが知られているが、そのうち最も有名なのがこの『ブレハの少女』である。

 本図は、暗い褐色や青、黄色を多用して、壁にもたれて立つ、髪の長い現地の娘を描いたものである。丁寧で繊細な筆使いになる作品の多いこの時期には珍しく、本図は筆致も荒々しく、作者の情念が表現された即興的な作品と言うことができる。滞仏期の作品としては、異色の作品である。

 ブレア島での短い休息を楽しんだ黒田は、島に残った久米、河北の二人と別れ、9月30日午後パリに向けて出発し、10月3日にはサロン出品作制作のためグレーに戻っている。

(毛利伊知郎)
37
舞妓

A Maiko Girl
1893年(明治26年)
油彩、画布 81.3×64.8cm
東京国立博物館


 明治25年(1892)7月末、パリ遊学を終えて帰国した黒田は、2ケ月ほど東京で休養した後、10月に入ると、久米桂一郎を同道して京都へ出かけ、11月中旬まで滞在し、その間、市中の旧跡や風俗の写生にいそしんだ。

 この京都旅行は、黒田の帰国後の二つの重要な作品、『昔語り』『舞妓』制作の契機を与えたことで、忘れることはできない。

 感受性の覚醒期といえる10代の後半から10年ほどを異国の風土のなかで過ごした黒田に、京都の風物がいかに眼を驚かす奇異な世界として写ったかは、『名流談海』(大橋乙羽編)で黒田自身が語っている。「京都に来て始めて日本と云ふ一風変った世界の、外に在る様な珍しい国に来た様な心持がしました、先づ旅人として第一番に見物したのは円山から祀薗町でした、其処で其祀園町の舞妓抔に至っては天下無類ですねへ、実に奇薦なものだと思ひました、西洋人が日本の女は小さな奇麗な鳥見たいなようなものだと云いますが、成程奇麗な触はつたら壊れそうな一つの飾物だと思う、何しろ珍しくてたまらない様な感じが起った、直に此の不思議な人間の写生を始めました」。『名流談海』はこのあと『昔語り』の着想を語るくだりが続く。

 黒田には、残存するものだけで40冊の写生帳があり、39冊が東京国立文化財研究所に収められている。そのうち3冊(十、十一、十二号)がこの京都旅行の時のものであり、特に十二号には舞妓のスケッチが含まれており、文中の言葉と整合している。このスケッチが『舞妓』に結実するのである。

 『舞妓』は、モデルを鴨川に面した窓縁に座らせ、近づいてきた童女に応じる、というシチュエーションで構成している。ここでは、晴やかな場にたつ舞妓の風俗を描くというのではなく、日常の場で“奇麗な触はつたら壊はれさうな日本の女”を生写するというところに主眼が置かれているかのようである。日本の伝統的な美意識から疎遠なところで美術教育を受けた黒田が、おそらく、当時の日本人画家ならだれしもほとんど無意識のうちに・ォずることにならざるをえない伝統的な風俗画の型をまったく意識することなく、『読書』『婦人図(厨房)』に向けたのと同じ眼、同じような日常的シチュエーションで、この“日本の女”を描いたところに、黒田を同時代以前の日本画と峻別する新しさが認められよう。

(山口泰弘)
43
昔語り下絵(構図Ⅱ)

Study Sketchfor“Talk an Ancient Romance”(Composition Ⅱ)
1896年(明治29年)
油彩、画布 41.1×63.3cm
東京国立文化財研究所
第1回白鳥会


 明治29年(1896)10月の第1回白鳥会展覧会への出品だが、2年後の完成作、『昔語り』の画稿である。なおこの画稿と関連する『昔語り構図Ⅰ』も残されているが、そちらの方では笛を吹く僧が腰を掛けた姿勢にされている。この展覧会に黒田は、京都で制作した『昔語り下絵』の木炭画21点、油彩画下絵11点を出展した。黒田が『昔語り』の着想をもったのは、フランスから帰国した直後の京都旅行(1893年秋)のときである。清水寺付近の高倉天皇陵の近くにあって、通称〈歌の中山〉と呼ばれていた清閑寺に立ち寄ったとき、寺の僧から「平家物語」で有名な小督悲恋の物語を聞かされた。「二十六年の十月の末か、十一月の始でしたが清水(きよみず)寺辺の景色を写しに行った序(ついで)に、アノ清閑(せいかん)寺へぶらぶら遊びに出掛けた。彼処(あそこ)は散歩に大変宣(よ)い。行て見ると其処に穢(きた)ない坊主が居た。其穢(きた)ない妨主は即ち後に私が手本に使った妨さんです。(中略)話が上手で何んだか変な心地になって釆た。まるで昔の時代が其儘(そのまま)出て来るやうな気がした。……実に不思議だ、之(これ)を一つ何かに拵(こしら)へて遣(や)らうと思ったのです。」(大橋乙羽編『名流談海』)と黒田は語っている。

 寺の門前近くで、笛を吹く真似をした僧の立ち姿を描いているが、これは清閑寺での体験を活かしたものであろう。僧を取り巻くように、物語を聞く若い男、舞妓、仲居らを配置しているが、黒田が意図したのは、単なる歴史ではなく、歴史を含んだ当代の風俗画的な構想画であったと思われる。

 こうした構想に従って、制作に着手したのは二年後の、『朝妝』事件の後で、時の文部大臣、西園寺公望の斡旋によって、住友家と契約し、制作が始められることになった。作品制作は京都円山公園内の写真家、松原精一の敷地を借り、小屋を建ててアトリエとした。モデルは、清閑寺住職の岩佐恩順(僧)、紙商の庄次郎(若い男)、玉葉(彼に寄り掛かる舞妓)、お栄(かがんで煙管を持つ仲居)、三代子(舞妓)、それに住職が捜してきた草刈り娘である。各人物に関して、全身、部分を木炭素描で丹念に描き、さらにそれぞれを、油彩によって正確に描くという力の入れ方で、黒田がこの作品に全力を傾けていたことが窺われる。

 300号の大作、『昔語り』の完成作品は、明治31年夏、日光で完成され、この年の第3回白馬会展に出品された。残念ながら、完成作は昭和20年(1945)の戦災で焼失し、習作しか残っていない。黒田の絵画思想が集約されたこの構想画は、成功したとは決していえないにしても、後代の青年画家たちに与えた影響は非常に大きく、以後、この種の現代風俗を扱った構想画は、多くの画家たちによって描かれることになる。

 石井柏亭は、「『昔語り』には人物の組立と平たみのある取扱ひとにピュヴィス・ド・シャヴァンヌの壁画を偲ばしめるものがあるが、黒田も恐らくはピュヴィスを頭に置いてゐたのではないか」(『画壇是非』)と述べている。

(中谷伸生)
70
感(智・感・情のうち)

Impression(Wisdom,Impression,Sentiment)
1899年(明治32年)
油彩、画布180.6×99.8cm
東京国立文化財研究所
第2回白馬会


 明治30年(1897)、第2回白馬会展覧会への出品作である。本作品は、3体の裸婦を描いた3枚1組の作品、『智・感・情』の中の『感』であり、隈元謙次郎氏の綿密な調査によると、黒田は同年2月にモデルを雇って、自宅のアトリエで『智・感・情』の制作に着手した。3月に最初の1枚、4月に2枚、4月末から5月頃に3枚目が完成したと推定される。

 『智・感・情』は後に補筆され、1899年の年紀を記されて、明治33年(1900)のパリ万国博覧会に出品され、銀賞を授与されている。3人の裸婦のいずれが『智』、『感』、『情』に該当するのか、以前には研究者間に異論があった。しかし白馬会展出品に際しての紹介記事を載せた「美術評論」第2号および「日刊京都」第340号附録の掲載図版のタイトルから、右手を額に当て、左手を脇腹近くで水平に差し出す女性像が『智』(右側画面)、本展出品作の真正面向きに立つ女性像が『感』(中央画面)、右手で頭髪に触れ、左手を垂らした女性像が『情』(左側画面)であることが明らかになった。

 『智・感・情』制作の前年の明治29年(1896)4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会において、裸体画は社会の風紀を害するという理由で、黒田の『朝妝』(焼失)が槍玉に上げられた。風俗上の次元で裸体画を非難する陣営に対して、黒田は西洋の正統な構想画、すなわち 『智・感・情』を描くことで、実際的な反撃に出た可能性が高いということである。

 三輪英夫氏の説得力のある仮説によれば、この作品は、北方絵画の伝統的図像構成からヒントを得て、左右の女性像を「アダム」と「イヴ」、中央の女性像を「父なる神の図像の女性化」と解釈することができるということである。つまり黒田はこの寓意的な3部作において、「原罪」のテーマを当世風の日本女性の裸体に託して描いたということになる。加えて、並立するモニュメンタルな人物像の構成は、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの壁画的効果を意図した黒田の知的、実験的作例と考えられるかも知れない。

 ともかく本作品は、黒田の生涯を通じて唯一の理想画(構想画)、すなわち抽象的観念(「愛」、「希望」など)を具体的な視覚形象に置き換えて表現する類の絵画であるといえよう。また日本で描かれた日本女性の全裸による全身像は、それまで全く見られなかったものである。

 石井柏亭は、この作品について「万囲博へ出した時コランが黒田は日本へ帰ってまずくなったと云ったさうである」(『画地是非』)と回想している。

(中谷伸生)
83
木苺

Raspberries
1912年(大正元年)
油彩、画布 45.0×33.0cm
第6回文展


 黒田の作品群のなかでは、草木を背景にして少女を描いたものに傑作、とはいえなくても佳品がおおい。滞仏時にはすでに『赤髪の少女』(1892年)があり、帰国後の1894年には、黒田としてはもっとも野心的な色彩効果を狙った『昼寝』が制作され、それにこの『木苺』(1912年)と『もるる日影』(1914年〉がつづく。晴れた日の光の散乱を印象派的な手法で描くという目的もくわわって、これらの作品はどれもあかるく初々しい感覚にみちて、小さなものに対する黒田の愛情がよく感じられる。

 『木苺』は1912年の初夏6月にモデルをつかって着手、秋に完成、この年10月の第6回文展に『習作(赤き衣を看たる女)』とともに出品された。石井柏亭と高村光太郎のやや辛口の批評があったが、木下杢太郎は『美術新報』のなかで、「自家の世界を有しそこに著住し、乃至かゝる世界を予感してゐる」稀有な洋画家に黒田の名をあげ、「予の今も尚黒田氏の絵に喜ぶものは色彩そのもの、筆触そのものに生活を賦与する機巧である。子細に『木苺』の絵を見るものは直ちに予の所説を肯ふであらう。」(第12巻1号)と蓄き、また同じ『美術新報』の合評では「『公園の一隅』(註;藤島武二の出品作)と同じ様な気持ちを受ける。色調にも雅趣あり、筆触も軽快で、心地よき作。

▽小さい画面から激しい外光を発してる、黒田氏の近作として相変らず程の宜い物である、無邪気なる小児、背景の光凡て申し分がない。とにかく常に感興を以て書かれて有るのは愉快である。」と、概ね好評であった。第5回文展に出品した『百日紅』に対する高村光太郎の評、「乾燥は為てゐるが感興がある。上品な、確かな、人間の苦み等を見返りもない淡泊な味のよい芸術作品である」もかんがえあわせて当時の一般的な黒田観がわかる。

(東俊郎)
91
桜島爆発図(連作6点)

The Eruption of Volcano Sakurajima(Six Pictures)
1914年(大正3年)
油彩、画布 各14.0×18.0cm
鹿児島市立美術館


 1866年(慶応2)6月29日、父・黒田清兼、母・八重子の長男として鹿児島市高見馬場に生まれた黒田清輝は、4歳のとき、伯父・黒田清綱(父の兄)の養嗣子となるが、これは黒田清輝誘∈生のときから定められていたといわ・黷トいる。

 1914年(大正3)、鎌倉で正月を迎えた黒田清輝は、郷里鹿児島に実父・清兼を見舞うため、1月7日朝鎌倉を立ち、翌日鹿児島に着き、早々に父を見舞い、薩摩屋の別荘に宿泊している。3日後の11日に地震があり、12日から歴史的な桜島の大爆発に遭遇している。これは全く偶然の出来事であり、難を逃れるために避難しなければならない状況であったが、桜島の天変地異は画家黒田清輝の制作意欲を触発させることになる。『桜島爆発図』は24日に帰京するまで再三桜島を訪れた黒田が、爆発の変化を6枚の小品に表現したもの。14日昼間に鹿児島築地付近から桜島を眺めたもので、盛んに噴煙を出している桜島の情景を正面から描写した『噴煙』、16日黄昏時に火焔が噴煙に投影し、それらが海面に映っている様を描いた『噴火』、18日鹿児島市東北部の丘陵から遠望して、溶岩が海面にまで達し水蒸気を発している『溶岩』、19日、宿泊した薩摩屋の庭に火山灰が降積している様子を描いた『降灰』、23日男性的な桜島と、爆発によって荒廃した蜜柑畑を対照的に写した『荒廃』、制作日は不詳であるが流れ出た溶岩が海に達したために水蒸気が海面から噴出する様をとらえた『湯気』の連作6点となっている。

 これらは、数日間にわたり桜島が刻々と変化する情景を、記録画といってもよい程的確に描写したものである。黒田は、この連作を同郷の地震学者である今村明恒に贈っている。

 黒田はこの作品以後、制作の中心を東京から鎌倉に移し、以後海景あるいは雲の連作など自然を主題にした作品を多く手掛けている。

(森本孝)
99
雪景

Snowscape
1919年(大正8年)
油彩、板  26.0×34.8cm
三重県立美術館


 黒田清輝には、帯仏期『雪景』・『残雪』(1892)にはじまって、ソシエテ・デ・ザルティスト・アンデパンダンのサロン出品『ロアン河辺の雪景』、白馬会十周年記念展に出された『雪の後』と雪景を描いた作品が意外に多い。1909年以降はそれが毎冬、恒例のように制作されている。その多くは東京麹町平河町の、養父黒田清綱の庭園で制作されたもので、小品ばかりだがいずれも画格の高い作品となっている。黒田は雪への関心を「雪は常に色や調子の変化が見える。或は赤く、或は緑を帯び、光線や空気や周囲の景物の映帯する時に、決して雪は雪其物丈の単純な白ではない。雪の色が白いといふ時は殆んどないと云っていい。そして他の周囲の関係から、其色が柔かで、穏かな調和をなして非常に気持がよい」(『美術新報』13-9)と語っている。

 この『雪景』は、1919年2月の東京には珍しい大雪に際して描かれたもので、この冬にはこの他にも数点の雪景色を残している。黒田は、前掲文中で「私は風景画の専門家でもなく亦特に雪景を得意がって居るのでもない、技巧の上では研究も到らず、中々思ふ通りには行かないが、唯其快い色の調和や、美しい色の調子を描き現はそうとするのが楽みなので、研究よりも興味で筆を執るのである」と、その執筆動機を明快に語ってもいる。

(牧野研一郎)
108
梅林

Garden of Plum Trees
1924年(大正13年)
油彩、板 25.9×別.8cm
東京国立文化財研究所


 絶筆で未完成の作となった『林』を除けば、この『梅林』は黒田清輝最晩年の油彩作品である。

 大正12年(1923)の7月末に、長年住み慣れた麹町平河町の邸宅から麻布笄町の別邸に移った黒田清輝は、同年9月1日の関東大震災に遭遇し、その後は同邸内に居住することになった。『梅林』は、この麻布算町邸内の離れ座敷の中から庭を描いたものである。大正12年の暮、宮内省出勤中に狭心症を起こして以来、黒田は病床についていた。

 画面には、前景構図の中心に花を咲かせた梅の木を据え、中景から背景にかけて、当時東京山の手の邸宅によく見られた、種々の灌木、松などを配している。色調は赭褐色を主調として、白、朱、緑でアクセントが付けられている。特に中心の梅の木の幹に用いられたシルヴァー・グレイは瀟酒な趣を示している。

 ペインティング・ナイフを用いて草々たる筆触で描かれた本作品は、19世紀末の象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー最晩年の油彩を髣髴とさせる。もはや、ものの形や色彩を超越して、対象に向かう、死を予感した画家の心象風景が投影されているものと思われる。

(荒屋鋪透)
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