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主要作品解説:高橋由一と金刀比羅宮

田中善明

1■読本と草紙 (とくほんとそうし)
油彩・キャンバス
39.0×54.0 cm
明治7〜8年(1874〜1875)

明治7年文部省発行の読本、羽子板、色提灯、朱筆の入った習字(草紙)、お手玉、メモ帳、鉛筆、小箱におもちゃの小さな皿と茶碗が描かれている。この作品が、どの時期に金刀比羅宮に納められたかは不明である。制作年は、この読本が由一の次女のものである可能性が高いことから、入学した年度かその次の年度の正月前後の時期に描かれたとする説が有力である。それぞれのものに対する視点がバラバラであることはよく指摘されているし、光がどの方向から差し込んでいるのかも判別がつかないが、ありのままに写し取ろうとする由一の熱意が感じられる。


2■巻布 (まきぬの)
油彩・キャンバス
36.3×48.2cm
明治8〜9年(1875〜1876)

明治12年の琴平山博覧会に《絹布之図》の題名で出品され、奉納された。絣と無地の反物に朱の鹿子絞の布が、畳に敷かれた褐色の反古張渋帖紙の上に構成されている。画面に対して水平垂直の要素が全くなく、俯瞰した構図が面白い。ほつれた糸や紙の破れ、紙の微妙な色調の違いまでも執拗に観察され、描きこまれている。実物の替わりにあえて油絵で描いた反物を献納したのだとすれば由一の粋な計らいであろう。


3■左官 (さかん)
油彩・キャンバス
33.4×44.1 cm
明治8〜9年(1875〜1876)

明治12年の琴平山博覧会に出品され、奉納された作品のうちの1点。初期の作例として貴重である。丁髷姿で作業する左官の仕事が、今後廃れる文化のひとつだと、由一は予想したのであろうか。手桶や漆喰、土蔵の足場までを小さな画面に詰め込まれて描かれている。由一の写生帖に、同じポーズをした左官のスケッチがあるが、左腕の処理が油絵では変更されるなどして、体の動きがむしろ固くなってしまっている。土蔵や、奥の黒っぽい塀は、写生帖にはなく、背景は想像図の可能性もある。


4■墨田堤の雪(墨堤雪) (すみだづつみのゆき)(ぼくていせつ)
油彩・キャンバス
44.0×73.5cm
明治9年(1876)

《本牧海岸》とともに、琴平山博覧会に《東京隅田川堤雪之図》の題名で出品された後、当時の金刀比羅宮教院に勤めていた宮崎康斐(やすひ)の所有となり、昭和10年に子息で宮司の宮崎康平によって金刀比羅宮に納められた。横長の画面に、雪の積もった桜の木が前景を大きく占め、遠景の中央には浅草寺の堂塔が顔をのぞかせている。隅田川堤防を歩く二人、大川に航行する二隻の帆掛舟、小さくてわかりづらいが二羽の鳶が、それぞれ一対をなしてゆったりとした時間の流れを演出している、まさに江戸情緒そのものの作品である。由一の写生帖に同構図で明治9年1月30日付けのスケッチがある。


5■海岸(江島児淵) (かいがん)(えのしまこぶち)
油彩・キャンバス
33.4×45.5 cm
明治9年〜10年(1876〜1877)

本作品は、昭和14年発行の『金刀比羅宮由一画集』の解説によると「此図は近年入手したるものにして、由一の筆と伝ふるものなり」とある。昭和に入ってから金刀比羅宮所蔵となり、裏書きにもあるように伝由一とされてきたが、歌田眞介氏らの絵画材料分析調査によって、由一の作品であるとみてほぼ間違いないとの判定が下された。

また、由一の写生帖に、壬申(明治5年)6月13日の年紀のある、同構図の鉛筆淡彩のスケッチがあり、その図を元に人物や帆掛船などを追加して完成されたと考えられる。制作年も、写生帖に基づいて、従来は明治6年から9年頃とされてきたが、フォンタネージに学んだグレーズ技法の使用が認められることから、明治9年から10年頃という説で現在は落ち着いている。


6■本牧海岸 (ほんもくかいがん)
油彩・キャンバス
60.6×121.2cm
明治10年(1877)

《墨田堤の雪》とともに、琴平山博覧会に出品された後、当時の金刀比羅宮教院に勤めていた宮崎康斐の所有となり、昭和10年に子息で宮司の宮崎康平によって金刀比羅宮に納められた。横浜ベイブリッジで有名な本牧埠頭のあたりが取材地であるが、今はその面影がほとんどない。この絵のように、かつては風光明媚な海岸で、切り立った断崖は、横浜へ向かう外国船などの目印となった。本作品は、明治10年3月4日の天絵社月例展に出品した《本牧十二天社の景》が該当すると推測されている。画面左隅には本牧十二天社の鳥居がみえる。樹木の重厚でありながら軽妙なタッチや、グレーズ技法を使った透明感ある青い海、帆柱を上げる船上の人物の緻密な表現が魅力的な作品である。


7■芝浦夕陽 (しばうらせきよう)
油彩・キャンバス
66.0×120.5cm
明治10年(1877)

本作品も金刀比羅宮博覧会に出品されたあと、一時民間にあったといわれている。高い帆柱を付けた泊り舟が前景に大きく配置され、その向こう側には茜色に染まった海に舟人たちがシルエットで映し出されている。突き出した帆柱が、画面上部で切れているところ、それに泊り舟を大きく見せているところなどは、広重の《泉市版江都名所 永代橋之図》の手法に通じるものがある。しかし、手前の舟の立体感と、藁や板などそれぞれの材質への表現のこだわりが、より迫力ある画面に仕上がっている。


8■墨堤桜花 (ぼくていおうか)
油彩・キャンバス
66.3×119.5 cm
明治10年(1877)

明治12年の琴平山博覧会に《東京隅田川堤桜花之図》の題名で出品され、奉納された作品。隅田川の堤の桜の季節は、花も美しいが美人も集まる。江戸後期の儒学者安積艮斎(あさかごんさい)が漢詩文で若者にうつつを抜かすなと戒めたほどに有名で、文人墨客にも好まれた場所であった。由一も自宅からほど近い隅田川浅草周辺を何度も写生地に選んでいる。明治7年、由一の親戚で三重県出身の安藤信光が油絵の展覧場を創設し、由一に油絵を注文、由一はこれに応じて数十点の油絵を用意した、と『高橋由一履歴』にあるが、その中に含まれていた作品にも「墨陀の櫻花」が含まれている。また、由一の写生帖に同じ場所近くでスケッチした鉛筆淡彩画があり「長明寺門前土坡桜花、明治七 四月第九日」と記されている。本図の写生位置からもう少し右側に回りこんだところからならば、遠方に浅草寺が見えるはずである。


9■豆腐 (とうふ)
油彩・キャンバス
32.8×45.2 cm
明治10年(1877)

明治12年の琴平山博覧会に出品され、奉納された作品のうちの1点。新聞など、数々のメディアでしばしば取り上げられた、金刀比羅宮所蔵由一作品のなかでも一番知られた作品であろう。使い古したまな板の上の手前に、豆腐、焼豆腐、油揚げが置いてある。文人画の山水に登場しそうな、対象物のジグザグした配置方法の妙に感心させられるが、おそらく、この作品のもっとも意図したところは、さまざまなところで言及されているように、日常のありふれたものを油絵で描けば、これだけ本物に近い表現が可能だということを由一は宣伝しようとしていたのだろう。まな板の濡れた感じだけでなく、包丁の跡までもが克明に表現され現実感を引き出している。今から130年前に食されていた豆腐や油揚げが今日のものと見た目がまったく変わっていないことを、本作品をひと目みればわかるのは油絵の保存優位性を信じた由一のおかげである。


10■百万塔と鎧袖図(鎧袖塔) (ひゃくまんとうとがいしゅうず)(がいしゅうとう)
油彩・キャンバス
45.4×75.4 cm
明治10年(1877)

明治10年7月1日の天絵社月例展の出品作であり、明治12年の琴平山博覧会では《鎧袖併百万塔之図》の題名で出品され、奉納された。古びた机に奈良十大寺の百万塔と、塔内に納められた無垢浄光経陀羅尼一巻、そして黒絲縅鎧(くろたどしのよろい)の右片袖が置かれている。由一は「古宝物真写願」などをはじめ、油絵でもって失われていく古器旧物を記録しようと多方面に働きかけており、こうした意図がこの作品の念入りな描写からうかがえる。背景壁の右下がりの筆の流れに呼応するかのように、机が右肩上がりに構成され、絵画的にも変化に工夫を凝らした作品である。


11■なまり (なまり節)
油彩・キャンバス
41.4×54.8 cm
明治10年(1877)

明治10年9月2日の天絵社月例展の出品作であり、明治12年の琴平山博覧会では《鉛節之図》の題名で出品され、奉納された。さすがに「鮭」の画家だけあって、魚類を描かせれば格段に充実したクオリティを示す。開成所勤務時代に公務として魚類図譜の制作をおこない、何匹もの魚を写生した経験が生かされたのか、あるいは、魚類に限らず由一は実物を前に終始制作をおこなうことで自己の能力がもっとも発揮される画家なのか。いずれにしても、背景から竹皮、なまり節にいたるまで、その描き手順に迷いがなく、それぞれの材質感が見事に表現されている由一代表作の一点である。


12■鱈梅花 (たらばいか)
油彩・キャンバス
54.8×75.8cm
明治10年(1877)

明治10年2月4日の天絵社月例展に《鱈魚之図》として出品され、明治12年の琴平山博覧会出品の際には《鱈梅花之図》の題名となり、奉納された。《読本と草子》や《なまり》と似かよった背景設定に、すり鉢、荒縄を通した鱈、梅、蕗の薹が配され初春の季節を演出する。すり鉢の中でねじれた鱈は、その頭部と尾びれとの距離感こそ描き分けがあいまいだが、光と影が由一の作品としては珍しく、かなり丁寧に観察されている。こうした光の意識や、筆の勢い、荒縄の見事な材質感は重要文化財《鮭》に通じるものがある。おそらく両者の制作時期は、ほとんど同じで、由一はこの頃もっとも充実していたのであろう。


13■愛宕望嶽 (あたごぼうがく)
油彩・キャンバス
65.0×121.0cm
明治10〜11年(1877〜1878)

明治12年の琴平山博覧会出品に《東京愛宕山遠望之図》の題名で出品された後、一時民間の手に渡り、昭和の初期にふたたび奉納された。明治11年1月6日の天絵社月例展に出品された《愛宕望冨嶽図》が、本作品に該当するものと考えられている。

愛宕山の山上太い樹幹の間から白雪の富士を望む。近景がしっかりと描きこまれ、中景は淡い灰色をベースに、青色と紫の二つの諧調で景色が整理され、空は淡い褐色でほぼ統一されている。歌田眞介氏は、本作品の技法について、グレーズだけでなく、上層の絵の具をかすらせるようにのせて描き、上層と下層の色調が響き合う効果を示す一種のスカンブリングの技法にも注目し、由一の技術的な発展を指摘している。


14■田子富士 (たごのふじ)
油彩・キャンバス
40.2×48.0 cm
明治10〜11年(1877〜1878)

明治12年の琴平山博覧会に《従駿河国田児浦富士山眺望之図》の題名で出品され、奉納された作品。由一は、明治5年、ウィーンで翌年開催予定の万国博覧会に《富嶽図》出品を同事務局から命ぜられ、6月11日から8月27日まで東海道などを取材した。由一の写生帖には「壬申(明治5年)八月廿日(8月20日)/親しら須子しら寿」と記述のある同構図の鉛筆スケッチが残されている。『高橋由一履歴』には、明治5年の取材から帰宅したのち富嶽図を完成納品したこと、それに明治7年宮内省より田子の浦富嶽図の注文があったとの記述があり、《愛宕望嶽》をはじめ、由一は富士を相当数描いたことがわかる。

本図にはグレーズ技法と思われる透明感があることと、闊達な筆致がみられることから、フォンタネージとの出会い(明治9年)以降に描かれたとする説が現在有力である。


15■屋上月 (おくじょうのつき)
油彩・紙
33.3×46.7 cm
明治11年(1878)

明治12年の琴平山博覧会に《屋上月夜之図》の題名で出品され、奉納された作品。東京芸術大学大学美術館所蔵の写生帖に同構図のスケッチが残されているが、年代等の書き込みはスケッチブックには見られない。月の輝く澄んだ夜空に星がいくつも点在している。家並が暗い色調で抑えられているなか、土蔵の白壁が明るく照らし出されている。屋根の稜線や手すりに映る月光も、繊細に表現されている。昭和15年の『金刀比羅宮由一画集』では、本図に《中洲夜景》の題名がつけられているが、琴平山博覧会に出品された由一の別の月夜の作品(所在不明・由一が作成した奉献目録では《中洲月》に該当する)と混同され命名された可能性がある。いずれにしても自宅またはその付近で描かれたのであろう。ゴッホの《星月夜》の誕生は、由一の《屋上月》から11年後のことになる。


16■二見ヶ浦 (ふたみがうら)
油彩・キャンバス
51.8×115.3cm
明治11年(1878)

金刀比羅宮所蔵の多くの作品は、明治12年に奉納されているが、本作品は由一が金刀比羅宮へ最初に奉献した作品。明治11年8月20日付の金刀比羅宮史料『年々日記』に作品到着の状況が記されている。

由一の写生帖に「勢州二見浦」と記された鉛筆スケッチが残されている。このスケッチは明治5年の一連の東海道・関西取材(《田子富士》の作品解説を参照)の際に由一が伊勢に立ち寄り写生したものであろう。スケッチでは、夫婦岩だけがクローズアップされており、周囲の景色までは描かれていないし、夫婦岩の輪郭がスケッチと本作品とでは異なることから、別の写真などの資料も参考にした可能性がある。奉納した年の3月3日の天絵社月例展に《二見ヶ浦の景》と題した作品が出されており、本作品が該当するものと考えられている。


17■牧ヶ原望嶽 (まきがはらぼうがく)
油彩・キャンバス
51.5×115.1cm
明治11年(1878)

明治12年の琴平山博覧会に《従駿河国牧原富士山眺望之図》の題名で出品され、奉納された作品。本図は明治11年4月の天絵社月例展出品の《牧の原より富士を遠望する図》と考えられている。題名どおり牧ノ原台地から駿河の連山越しに富士を望む景色で、手前には大井川が流れている。手前の緑色を呈した連山の表現が、少々重厚すぎるきらいがあるが、後景の空はやわらかい筆使いである。横長の画面両側には、ぼかしを効かせた描き残しがあり、水墨画のような世界を感じさせる。


18■洲崎 (すさき)
油彩・キャンバス
51.6×115.0cm
明治11年(1878)

明治12年の琴平山博覧会に《東京洲崎漁舟之図》の題名で出品され、奉納された作品。明治11年6月2日の天絵社月例展に出品された《洲崎の図》が本作品に該当すると考えられている。江東区の隅田川河口の東部、現在の東陽町あたりから品川沖を望む風景である。四手網漁をする舟を手前に大きく捉え、その遠方には汽船と帆掛舟が小さく顔をのぞかせている。影の方向から推測すると夕刻近くであろうか。手前の海の透明感から沖合表面の光の反射へと移つる水の表現が見事で、静寂なひとときを詩情豊かに描きあげてみせた秀作である。


19■貝図 (かいず)
油彩・キャンバス
小襖四面
各32.0×86.5cm
明治11年(1878)

金刀比羅宮崇敬講社本部床脇地袋の小襖用に描かれた作品。昭和15年発行の『金刀比羅宮由一画集』には、由一が金刀比羅宮を訪れた際(明治13年12月から明治14年1月)に本図を描いたとされているが、明治11年11月30日付の宮司深見速雄が由一宛に出した手紙のなかに「…就中小襖用貝尽二至テハ一々真ニ迫リ衆人ノ目ヲ驚シ 別而大慶仕居申候…」とあることと、滞在中の記録に本図の記載が見つからないことなどから、現在では明治11年以前の作品であるとの説が有力となっている。

褐色の地を背景に、種々の貝がちりばめられており、その配置の妙もさることながら、貝に付着したフジツボに至るまでを細かく表現しているところが興味深い。《二見ヶ浦》と同様の朱色のサインが右下にある。


20■月下隅田川 (げっかすみだがわ)
油彩・キャンバス
小襖二面
各23.6×66.2cm
明治11年(1878)

本作品も、金刀比羅宮崇敬講社本部の袋戸の小襖として描かれた。《貝図》と同様に明治13年12月より、明治14年一月の由一琴平滞在中に描かれた作品とされてきたが、現在では依頼された時期が《貝図》と同じであると推定され、本作品も明治11年の制作とされている。
 画面右隅に架かるのは両国橋であろうか。隅田川の水面に照らしだされた月明かりは、下の絵具がおおよそ乾いてから、擦れるようにその上に絵具を置くスカンブリングの技法が使われている。画面全体は装飾的で色彩は抑制され、静かな叙情をたたえている。


21■浅草遠望(関屋の里) (あさくさえんぼう)(せきやのさと)
油彩・キャンバス
39.9×48.3cm
明治11年(1878)

明治12年の琴平山博覧会に出品された。博覧会目録中、本作品が《東京関屋里之図》に該当するのか《東京浅草遠望之図》なのかはわからない。

背の高い雑草、向かって右はヨシ、左はメハジキであろうか。それらを近景に大きく配し、遠くの森には浅草寺相輪が小さく顔をのぞかせる、初秋の夕暮れ時の澄みわたる景色である。手前の雑草を克明に描き、遠くはぼかす。まるでその場にいるかのようなジオラマ風の画面構成である。写生帖などを元に油絵に描きおこすことが多い由一の手法は、ときとして現実味のない、とって付けたような印象をもつこともあるが、本作品のように浅草周辺の、住居からほど近い馴染みの場所を題材とした作品については、静物画と同様の緊張した写実性を十分に感じさせる。


22■燧具(火打具) (ひうちぐ)
油彩・紙
45.2×66.6cm
明治11年(1878)

明治12年の琴平山博覧会に出品され、奉納された作品。その直前、明治11年11月3日の天絵社月例展では《火打具の図》の題名で公開された。

表面の細かい亀裂で少々わかりづらいが、当時の台所に常備されていた火をあつかう道具(火打がね、付け木、火吹き竹、火箸など)が描かれている。由一が本作品を描いたこの頃は火打具にかわってマッチの国内生産が始まっていたというから、それらを描いた動機は、失われつつある生活道具の記録にあったのかもしれない。布に貼られた洋紙に油絵で描かれている。


23■鯛(海魚図) (たい)(かいぎょず)
油彩・キャンバス
45.0×60.2cm
明治12年(1879)

明治13年12月、由一が金刀比羅宮を訪れる際、奉納するため前もって東京から送った作品。明治12年10月5日の天絵学舎月例展に《魚菜の図》、翌明治13年の同展に《鯛の図》が出品されており、いずれかに本作品が該当するのではないかと考えられている。

本作品をめぐっては、装飾性をねらいすぎて、空間設定がおろそかで色彩が浮いているといった意見や、平板な日本画のような表現におわっているなどの意見があるが、そうした負の要素を勘案するとしても、以前と比べて随分と手際が良くなっており、みずみずしさに溢れた秀作であることに間違いない。


24■桜花図 (おうかず)
油彩・キャンバス
51.4×63.9cm
明治12年(1879)

《鯛図》と同様、明治13年12月、由一が金刀比羅宮を訪れる際、奉納するため前もって東京から送った作品。明治12年4月6日の天絵学舎月例展に《桜花の図》の題名で出品され、その後の明治13年9月20日の宮城県博覧会にも出品、一等賞牌を受賞した作品に該当すると考えられている。昭和15年出版の『金刀比羅宮由一画集』には「昭和11年琴平町琴陵光熙(てるさと)より献納」とあることから、一時金刀比羅宮の外にあったことがわかる。

桜の木が生けられた手桶が画面を大きく占めている。桶の置かれた前景は雑草が生え、その奥は森であろうか、それらの前後の位置関係がよくわからない。手前の雑草部分が土手のような場所で少し高い位置にあり、そこに桶が据えられているようでもある。さらに、手桶に対して雑草が小さすぎるのも気になる。風景画と静物画がドッキングした、由一としては珍しい作品であるだけに、謎が解明できずに残念である。


25■江之島図(江島全景) (えのしまず)(えのしまぜんけい)
油彩・紙
47.2×161.5cm
明治11〜13年(1878〜1880)

『金刀比羅宮由一画集』によれば、本作品は昭和11年に画家有島生馬が当時の香川県知事木下義介を介して金刀比羅宮に納入されたとある。東京藝術大学大学美術館が所蔵する『高橋由一写生帖第七』に、「壬申(明治7年)八月廿三日(8月23日)/江島全景ノ一、其二」と記述のある同図鉛筆淡彩スケッチが残されている。由一の江之島を描いた油絵は、本作品のほかに個人蔵の《相州江之島図》と神奈川県立近代美術館所蔵の《江の島図》があり、いずれも当時本州と地続きであった江ノ島を片瀬方面から描いている。

鮮やかな色彩を用いつつも全体は落ち着いた統一感のある画面となっている。遠方にまで描きこまれた旅人や商人たちのそれぞれの動作も面白い。


26■琴平山遠望 (ことひらさんえんぼう)
油彩・綿布(板に張込)
61.0×141.5cm
明治14年(1881)

明治13年12月から14年1月にかけて、由一が琴平に滞在していた際に描かれた作品。裏面には「琴平山遠望図 明治十四年一月上澣 東京 高橋由一謹写」とある。

向かって左の山は神林愛宕山、右手の象頭山には、金刀比羅宮が細かく丁寧に描かれている。写生帖などを参考にした作品ではなく、実物を何度も見ながら描かれた作品であるだけに、風景が生き生きとしている。しかし、空や山の部分には、残念なことにところどころ大きな亀裂が見られる。描く初期の段階でビチュームといわれる、セピア色で美しくはあるが乾燥固化しない欠点をもった絵具が使用されているためである。


27■琴陵宥常像 (ことおかひろつねぞう)
油彩・キャンバス
64.4×56.8cm
明治14年(1881)

本作品も明治13年12月から翌年1月中旬まで琴平滞在中に描かれた。ながらくその所在が不明となっていたが、平成13(2001)年に宮司宅の引越しの際、書斎の押入れから120年ぶりに発見され、テレビや新聞で話題となった。

由一の描く肖像画の多くは、写真や先人の絵画から油絵にされているため、生硬な感じが否めないが、本作品は琴陵宥常本人を前にしての制作だけに、描く際の力の抜き差し加減がよい。宥常は、速水宮司を助けながら金刀比羅崇敬講社を立ち上げ、水難救済会を設立するなど金刀比羅宮発展の基礎を築いた功労者として知られている。

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