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高橋由一と金刀比羅宮

田中善明

高橋由一の人気

幕末から明治を生きた高橋由一(1828-1894)ほど、多方面から注目された画家はいない。

特に、昭和39年神奈川県立近代美術館で開催された「高橋由一展」を契機として、この画家が急速に再評価され、数々の書籍や論文、あるいは展覧会で頻繁に取りあげられてきた。近代日本美術史の専門家は言うに及ばず、第一線の西洋美術史家、近世美術史家、現代美術の評論家、そして画家や修復の専門家らによって研究、議論され、ささやかな発見でさえ話題となってきた。

何故それだけの注目を浴びてきたのかというと、由一の絵画自体が不思議な魅力をたたえているだけでなく、子息源吉が編んだ『高橋由一履歴』をはじめとする一級資料が幸運にも残されていること、幕末明治期の激動する社会を背景にした由一の旺盛な洋画普及活動などがその大きな要因となっている。こうした理由とあわせて、研究者たちの心を少なからずくすぐったのは、高橋由一の代表作の多くが、金刀比羅宮という、時間の流れを超越した「場」に、ひっそりと息づいてきたことであろう。

いずれにしても、明治前期の美術を考えるときの基本「軸」は高橋由一にあるといっても過言ではない。それほどの「巨人」であった。油絵の絶対的価値を自負した由一は、当時多くの人間と関わりを持ち、多角的な活動を展開した。そして作品のクオリティも、他者との積極的な交流の中で洗練されていく。近代最初の美術は、複雑な様相を示しているがゆえに、まだまだ調査研究しなければならない課題が多くある。しかし、この時代を概観する際に、キーパーソン由一の作品と資料が数多く残されていることが、どれほど暗所を照らす指標となっているのか計り知れない。そこが偶然にも海上交通の守護神・金刀比羅宮のイメージと重なってくる。


金刀比羅宮との関わり

 現在金刀比羅宮所蔵の高橋由一の油絵は27点にのぼる。それぞれの作品の詳細は、個々の作品解説を参照していただくとして、ここで、由一の油絵が金刀比羅宮へと奉納された、その経緯をたどってみたい。

 現在確認できる由一と金刀比羅宮との最初の関わりは、明治11(1878)年8月20日、由一が《二見(ふたみ)ヶ(が)浦(うら)》の油絵を金刀比羅宮に送り、奉納した記録で、当時の金刀比羅宮主典であった松岡(まつおか)調(みつぐ)の『年々日記』に記載されている。それによると、「東京より高橋由一のかける油絵の額をよこせり 伊勢の二見の真景なり 二三間隔て見(る)に 午前五時の頃 かしこの浜辺をあゆめる心ちせり 由一はうわさには其上手と聞えつ」とある。当時、由一にどういった動機があったのかは詳らかでないが、おそらく、このときからすでに自らが経営する画塾(天(てん)絵楼(かいろう)・明治6年創設、明治8年に天絵社と改称)の拡張資金を集める目当てがあったのだろう。伊勢神宮にほど近い二見ヶ浦を画題にした油絵を由一が奉納作品に選んだことにも興味をそそられる。そして、何よりこの油絵を受け取った松岡が、4〜5メートル離れた位置からこれを鑑賞し、絵の中に自分の身を置いて、早朝この浜辺を自分が歩いているかのような気分を味わった。とても素直で気持ちのよい感想に驚かされる。

 この《二見ヶ浦》には珍しく「由一」のサインが画面右下に書き込まれた。画面にサインが確認できるのはこの作品と同じく金刀比羅宮が所蔵する《貝図》だけである。「由一はうわさには其上手と聞えつ」と松岡の日記にあるように、東京でこそ、名の知れた由一であったが、琴平の地での知名度は皆無であったろうから、自負心の強いこの画家であってもサインを入れることは致し方なかったのではないか。いや、敢えてこの際名前を売ろうとする積極的な意思表示だったとも考えられる。

 そして、同年の11月、由一は東京日本橋浜町に経営していたこの画塾を拡張し、不足備品の購入等の資金を得るため、深見速雄宮司に援助を申し入れることになるが、直接ではなく、改めて高崎正風(まさかぜ)にその斡旋を依頼した。当時宮内省の御歌掛を勤めていた高崎正風は、由一の宿念を理解しつつも深見宮司とは面識がなかったため、伊勢神宮宮司であった田中頼(より)庸(つね)に書簡で由一の願いを伝達した(1)

 また、同月30日付で深見速雄宮司が由一宛に出した書簡によると「…速二御揮毫被成下一同拝覧御練磨ノ然ラシムル所トハ申ナカラ 希代ノ御妙手何レモ感入…就中小襖用貝尽二至テハ一々真ニ迫リ衆人ノ目ヲ驚シ 別而大慶仕居申候…」と喜びを伝えている。記録には残っておらず、あくまでも推測であるが、前述の8月に届いた《二見ヶ浦》を見て由一の油絵を評価した金刀比羅宮側が、早速崇敬講社本部の袋戸棚を飾る油絵をその際に注文したのではないかと思われる。この書簡には《貝図》だけが言及されているが、《月下隅田川》も同時に納入された可能性がある。

 時に、金刀比羅宮では、翌年明治12(1879)年の3月1日より6月30日までを会期に、第2回琴平山展覧会が予定されていた(2)。それに先立つ1月12日に、由一は奉献するための35点の出品リストを作成、梱包作品は、開会間際に到着し、2月28日に書院で開梱。資金援助として200円を受け取った(3)。そして、リストの作品(4)と別便にて送った2点をあわせた37点が琴平山博覧会に出品、由一の作品は書院の長押に展示された。その出品作品のうち、半数は博覧会終了後に民間の手に渡り(5)、現在も所在のわからないものがある。

 天絵社は、金刀比羅宮からの資金のほか、多方面からの協力を得、東京府の認可を受けて、この年の6月26日に天絵学舎に改称された。以後、予科、本科、別科を置き、通学生のほかに寄宿生も受け入れ、ひと月のうち3と8のつく日だけ授業を受ける特別コースをなくし、日曜日を除く(6)毎日の授業とし、由一と息子の源吉らが指導にあたった。明治13年4月には『臥遊席珍』という、日本で最初の美術雑誌が洋画普及のために天絵学舎内から刊行されたことも特筆に価する。天絵学舎は、洋画受難の時代に耐えられず、明治17年に廃校となったが、由一の画塾は原田直次郎や日本画家の川端玉(ぎょく)章(しょう)、荒木寛(かん)畝(ぽ)など150人を越える生徒を育て、そのなかには学校の美術教師として全国で活躍したものもいる。

 話が少し前後したが、由一が37点を出品した第2回琴平山博覧会開催翌年の明治13年12月5日、由一は宮司からの制作依頼があり、琴平を訪れた。その前月の11月、天絵学舎拡張の援助を再び求めて金刀比羅宮宮司に書簡を送っていたので、制作達成と資金援助の交渉との2つの目的があったわけである(7)。資金援助を成就させようと、由一は先手を打ち、東京を発つ前に別便で《鯛(たい)(海魚図)》と《桜花(おうか)図》を送り、作品到着後奉納する。しかし、援助を求めた総額は2800円と高額のためか、交渉はうまくいかなかった。ただし、宮司の深見らは、由一の熱意を支持し、できる限りの協力をおこなおうとした。『高橋由一油画史料』には、年代は不明だが、「油絵に依る徴古資料作製事業への捐資奉加帳」という文書が残り、その50円寄付の人名欄に深見らの名が挙がっている(8)

 由一は翌明治14年1月15日までの約一ヵ月間滞在し、委嘱された《琴平山遠望》を当地で描いたほか(9)、《琴平山下石淵川之図》を奉納し、先の資金援助でお世話になった深見速雄と琴陵(ことおか)宥(ひろ)常(つね)の肖像画を完成させた(10)。そして『高橋由一履歴』によれば、この訪問時に社務所より森徹山(11)模写の油絵を受領したとある。琴平を下山した由一は、その後神戸に2月11日まで滞在し、横浜経由で13日に帰京した。
1 金刀比羅宮社務所文事課編『金刀比羅宮由一画集』(昭和15年4月発行)を参照した。


2 実際には途中コレラの流行により6月15日までで打ち切られたが、総入場者数約268,940人が訪れた。出品点数は82,508点(『琴平山博覧会報告書』より)。


3 『高橋由一履歴』によれば、200円を受領したのは3月と読めてしまうが、ここでは金刀比羅宮社史等の記述に従った。


4 奉納するために送った35点のうち1点は出品せず、前年奉納した《二見ヶ浦》が出品された。


5 田口慶太「金刀比羅宮と高橋由一」『没後100年高橋由一展』図録1994-95 p.210を参照。ちなみに、『明治12年琴平山博覧会出品目録』と現在金刀比羅宮が所蔵する作品を照合すると、27点のうち第2回琴平山博覧会出品作は18点。《東京木下川之図》《摂津国布引雄瀧之図》などが所在不明で、今後の発見が待たれる。


6 毎月第一日曜日には天絵学舎の月例展観会があったため、その前日土曜日が休みとなった。


7 前掲田口氏の論文p.210を参照。『高橋由一油画史料』2−31によれば、天絵学舎に改称後も生徒が増え続け、画塾は狭くなり、入塾を断る事態にまでに至ったとある。また、拡張の際には工芸家らを対象とした画学の一科を設置することも企画していた。


8 『高橋由一油画史料』1−18。この奉加帳には金刀比羅宮主典・神崎勝海らの名も挙がっている。


9 前掲『金刀比羅宮由一画集』p.6参照。


10 これらのほか、田口氏の論文には、この滞在中、これまで世話になった金刀比羅宮主典松岡調のために《琴平山遠望》と全く同構図の《琴平山遠望景》(個人蔵)を描いたことと、当時の記録から宮崎富成の肖像画(所在不明)を描いたことが言及されている。


11 金刀比羅宮の出入絵師・森寛斎の師であり養父。

 その後、高橋由一は、高崎正風の紹介で山形県令(知事)三島通(みち)庸(つね)を知り、7月から東北地方に出発。鬼県令と呼ばれた三島の依頼で栃木、福島、山形の新道を写生し、あるいは宮城県令松平正直(まさなお)から風景画の依頼を受けるなど、一層多忙な日を送る。金刀比羅宮との関わりについては、明治14年以降、その記録が見出せない。

 序文で、高橋由一の油絵がひっそりと金刀比羅宮で息づいてきたと述べたが、それは、金刀比羅宮学芸館に展示されていた頃のことである。昭和15年4月発行の『金刀比羅宮由一画集』によれば、大正12年に開館した図書館に、昭和3年付属学芸参考館が創設され、昭和11年の増築後学芸館と改称されたとある。高橋由一の作品は、8室ある展示室のうち、2号館の鉄筋コンクリート造和風木造平家建第6号室が高橋室とされ、書簡1点とフォンタネージの作品1点とともに長期間展示されていた。 

 平成14年から、由一の油彩画27点は、金毘羅庶民信仰資料収蔵庫の一階展示室を改造し移転された後、さらに現在は旧社務所が高橋由一常設室(高橋由一館)としてリニューアル移転され、表参道に近くなった。目立たない裏参道の学芸参考館の、情趣的な魅力は捨てがたいものがあったが、扉を開放したまま外気の影響をまともに受けていた当時の環境、それにこの重要な画家の作品が「知る人ぞ知る」といった人通りの少ない場所に置かれていたことを考え合わせれば、この移転はまさに英断であったと思う。

金刀比羅宮作品の魅力

 高橋由一といえば、国の重要文化財にもなった東京藝術大学大学美術館所蔵の《鮭(さけ)》や《花魁(おいらん)》が有名だが、この2点に負けず劣らずの作品群が金刀比羅宮に収められている。制作年代の幅は、わずか7年間ほどになるが、由一の画風の変化が顕著にあらわれた、きわめて重要な時期の作品であり、しかも由一作品のエッセンスがすべて網羅されている。

 《二見ヶ浦》で少し触れたように、絵画表面にサインをほとんどしなかった由一は、それだけ他の画家と区別できるだけのオリジナリティが自作にあることを自負していたのであろう。そのオリジナリティとは、由一の油絵に対する姿勢にもあらわれている。彼がまだ20歳代であった江戸時代の嘉永年間、友人に西洋の石版画を観せてもらったとき、その迫真性に心打たれただけでなく、その石版画には「一ノ趣味アルコト(12)」をすぐさま察知したところからはじまり、「画ハ物形ヲ写スノミナラス併セテ物意ヲ写得スルカ故ニ人ヲシテ感動セシムルニ足ル(13)」ものであるという信念をこの画家はつらぬき通した。由一の油絵には、本物があたかも絵の中にあるかのような迫真的な表現のその向こうに、見据えるモチーフ(対象物)の真の存在感や「情趣」といったような感覚的な要素を呼び起こそうとする目的意識が感じられる。《読本(とくほん)と草紙(そうし)》に見られる書初めや羽子板、《墨堤(ぼくてい)桜花(おうか)》の散りゆく花びらなど、金刀比羅宮所蔵の風景画と静物画には、心憎いばかりの季節感が盛り込まれている。さらに付け加えれば、わざとらしく感じるほど凝りに凝った画面構成も「一ノ趣味」に通じるだろう。こうしたモチーフの構成方法は江戸絵画の流れを汲んでいるといえるが、西洋で発達した油絵具を使って対象物の材質感に肉薄したことで、立派なオリジナル作品と呼べるものとなっている。

 そして、もうひとつ、由一が油絵に求めた記録性についても触れておかなければならない。由一は、当時の銀板写真に絵付けをしたり、写真をもとにいくつかの作品を描いたりしていることが、近年の数々の調査で一層明らかにされてきた。写真の効用を認めながらも、その頃の写真は退色著しく、保存性の高い油絵の優位性を各界に主張した。激動の明治期に廃れていく文化や風俗、景観を残そうとした、その記録性を考慮した視点は注目に値する。娼妓(しょうぎ)の兵庫(ひょうご)下髪(さげがみ)という髪型容姿を記録した(14)《花魁》はその代表例であるが、金刀比羅宮には、丁髷(ちょんまげ)に鉢巻をした働く人物を大きく配した珍しい《左官》がある。そして、どれほどの記録性を意識しているかは定かでないが、《百万塔(ひゃくまんとう)と鎧袖(がいしゅう)図》、四つ手網漁を画面中央に置いた《洲崎(すさき)》、《江之島図》に点在する人物なども、その範疇に入るかもしれない。

12 前掲『高橋由一履歴』p.2


13 「展観会規則緒言」『高橋由一油画史料』2−32


14 1872年4月28日付の『東京日日新聞』の記事「或人花街の光景在昔に異りて娼妓の形容随て変じ兵庫下髪の廃たるを患い是を油画に遺して其古典を存ぜんと例の高橋由一に託し・・・」より
 西洋の石版画に魅せられた高橋由一だったが、西洋画の習得を志したものの、良師にはなかなかめぐり合わなかった。ようやく油絵を本格的に描きだせたのは、横浜居留地に住むイギリス人チャールズ・ワーグマンに入門した慶応2(1866)年、由一数え年で39歳のときだった。ワーグマンはイラストレイテッド・ロンドン・ニューズの特派員を兼ねた画家であり、現存する作品を見る限り、どちらかといえば、すばやく対象物を捉える技術にすぐれていた。《左官》や《江之島図》に登場する人物たちは、由一が描きためた写生帖からの引用であるが、瞬間的に捉える習慣はワーグマンに負うところが大きいだろう。そして、ワーグマンの油絵風景画の空の部分には左上から右下へのタッチが見られる作品があり、金刀比羅宮所蔵の由一作品のいくつかとも共通している。ただ、由一作品の、対象物に食らいつくことで生まれた絵具の材質感(マチエール)は、ワーグマンの作品とは趣を異にする絶対的な個性がある。

 ワーグマンとの出会いから10年。次に由一はイタリア人画家フォンタネージとの出会いによって技術に磨きをかける。イタリア・トリノ王立美術学校の風景画教師であったフォンタネージは、お雇い外国人として日本政府に招かれ明治9(1876)年に来日、官設の工部美術学校で指導にあたることになった。ヨーロッパのアカデミックな教育を実践できる画家が、ようやく日本にあらわれた。壮年の由一は、当然のことながら入学できず、その代わり子息源吉を入学させ、自身はフォンタネージの画室をたびたび訪れ、教えを請い、制作現場を見学した。

 金刀比羅宮所蔵の作品を例にすれば、風景画では《芝浦(しばうら)夕陽(せきよう)》や《浅草遠望》、《洲崎》などがフォンタネージと出会って以降の作品である。構図は相変わらず名所図絵的な要素が残るものの、透明色系の油絵具を溶油で薄めて何層にも塗り重ねる「グレーズ技法」や白などの不透明色を薄め塗り重ねる「ヴェラトゥーラ」という技法が画面に見受けられ、深みのある複雑で高度な表現へと飛躍している。そして、明治13、14年の琴平旅行のときに描いた《琴平山遠望図》あたりになると、佐々木静一氏が述べる(15)ように、名所図絵的な定式的な自然観照から抜け出て、自分の眼で自然をみつめようとしはじめている。たしかに、前景に大きな樹木を配して、そこから一気に遠景を小さく見せる方法などはこの時期から極端に少なくなっている。一方、静物画では、その差が歴然としている。フォンタネージ来日以前の作品《読本と草紙》や《巻(まき)布(ぬの)》と、来日以後の《なまり》や《鱈(たら)梅(ばい)花(か)》を見比べると、後者では描く順序に無駄がほとんどなくなっているし、白色部分の組み立てにおいても、完全ではないが明度の階調にあわせた白色絵具の厚みの調節が意識されており、西洋で生まれ発展した油絵技法を、ようやくここで体得したことがわかる。

15 佐々木静一「高橋由一の『鮭図』について」 美術史研究3 昭和40年2月p.95
 それらに比較すると、肖像画の多くは、お世辞にも上手だとはいえない。その多くが白黒の紙焼き写真などを参照し描き起こしたためで、当時の露光時間の長い硬直した顔つきの写真がそのまま表現され、精細さを欠いている。しかし、幸いにも由一が琴平滞在中に描き、長らく所在不明となっていた《琴陵宥常像》が平成13(2001)年に発見された。本人を前にして描いた肖像画であるだけに、陰影表現は他の肖像画と比べより自然であり、琴陵宥常の人柄が伝わってくるようである。

おわりに

当時金刀比羅宮から資金援助を受けた200円は、現在の価値に換算すれば、おおよそ200万円ぐらいであろうか。金刀比羅宮側にしてみても、神仏分離後の境内の施設刷新で多額の費用を要していたことを考えてみても、決してたやすく供出できる金額ではなかったはずであり、由一の求めに応じたその理解力には驚かされる。ところが、現在由一の作品は、度重なる再評価によって、市場に出た際の価格は相当高額になっている。「文化の大パトロン」金刀比羅宮には当時から先見の明があったのだった。

(三重県立美術館学芸員 田中善明)

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