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金刀比羅宮――過去から現代へ

毛利伊知郎

はじめに

日本全国こ数ある神社ので、今なぜ金刀比羅宮が注目を集めているのだろうか。伝来の美術作品数、創建年代、参拝者数ならば、他に金刀比羅宮を凌ぐ神社を見出すことも難しくないだろう。それにもかかわらず、近年、金刀比羅宮が頻繁に話題にのぼるのは、何よりも他に例をみない活発な活動を展開しているからに他ならない。

平成13年(2001)から行われてきた境内のリニューアルを目的とする「琴平山再生計画」、山内の施設を会場とした各種イベント、本年夏から来年末にかけて東京、琴平、三重、パリで行われる社宝の展覧会等に象徴されるように、近年の金刀比羅宮はきわめてアクティヴである。

そうした現在の活発な活動は、突発的に生まれたものではない。今日の金刀比躍宮のありようは過去の歴史や信仰と深く関わっているとみるべきだろう。そこで、本稿では金刀比羅宮が現在に至るまで宗教と文化双方に果たしてきた役割の一端について紹介を試みることとしたい。


金刀比羅宮の歴史と信仰

他のテキストとも重複するが、最初に金刀比羅宮の歴史と信仰について、アウトラインを確認しておこう。ただ、同宮では、天正6年(1578)から12年(1584)に至る戦国大名長宗我部元親の讃岐国侵攻によって、それ以前の古記録がほとんど失われたために、古文書等で歴史をたどることができるのは近世以降のこととされる。

金刀比羅宮の確実な創建年代は、明らかではない。しかし、平安時代には大物主神を祀る琴平神社として信仰を集めていたという。古代末、中世以降、同社は神仏習合によって同地の真言寺院松尾寺と合併して、社名も金毘羅権現(大権現)と改称されて仏教と神道を兼ねた組織となった。長い神仏混淆時代が終焉を迎えて、今日の金刀比羅宮が誕生したのは明治元年(1868)の神仏分離令後のことであった。

現在の金刀比羅営は大物主神と崇徳天皇の二神を祀るが、もとは大物主命が主神で、中世になって本地垂迹説により仏教の鬼神・宮毘羅大将も祀られた。大物主神は水神としての性格を持ち、また宮毘羅大将はヒンズー教の川神・クンビーラ(Kumbhira)に由来することから、同宮は特に海上交通や漁業関係者の守り神として知られるようになった。同時に、大物主神は豊饒、技芸どの守護神でもあることから多方面の尊崇を集めてきた。その象徴が近世以降盛んになる「金毘羅参り」であった。

江戸時代中後期になると、金毘羅参詣は伊勢参りとともに一生の願いとして民衆の間に定着した。それに伴い、経費を積み立てて金毘羅参詣を行う参詣講や代参講が全国各地につくられていった。金毘羅講は東北から九州まで全国各地に広がり、その数は伊勢神宮参拝を目的とした伊勢講に次いだという。また、高野山の高野聖、伊勢神宮の御師たちと同じように、金毘羅信仰を広めるために全国を行脚した金毘羅道者と呼ばれる宗教者が存在したことも知られている。

このように、金毘羅信仰の中心は近世の一般民衆であった。しかし、庶民の信仰とともに、近世の金刀比羅宮が徳川幕府や朝廷、諸大名、三井家に代表される富裕層から支持を受けていたことも忘れてはならないだろう。讃岐藩主をつとめた生駒氏、松平氏は社殿の整備に力を尽くしたし、徳川家光以来の歴代将軍は朱印状を与えて金刀比羅宮を保護した。また、宝暦3年(1753)に桃園天皇によって金毘羅大権現が勅願所となるなど、歴代の天皇からも庇護を与えられていた。

金刀比羅宮の立地と信仰との関わりについても確認しておく必要があるだろう。金刀比羅宮が鎮座するのは、姿が象の頭に似ていることから象頭山とも呼ばれる琴平山の中腹である。遠方からもはっきり確認することができる特徴的な山容の象頭山は、聖なる山としで古代から神聖視されてきたといわれる。金毘羅信仰は、海上交通、漁労などと関連づけて説明されることが多いが、象頭山という霊山に鎮座していることによって、修験道との関わりも指摘され、山岳宗教的な性格も帯びている。

以上のように、金刀比羅宮の宗教と信仰は重層的で、多方面に及んでいる。その核である金刀比羅宮の活動も、宗教世界の中だけで完結するものではなかった。金刀比羅宮は世俗世界と様々な交渉を持ち、その中では文化、芸術との関係も大きな比重を占めていた。このことを端的に表しているのが、同宮に伝来した様々な美術工芸芸品、この地を訪れた文学者や画家たちの足跡である。


歴代別当と両書院障壁画

金刀比羅宮には、古代中世の仏像や仏画、工芸品も伝来している。しかし、今日集積された美術作品は、同宮に近世社寺のイメージを強く与えている。そこに表書院と奥書院を飾る円山応挙、伊藤若冲、岸岱らの障壁画群が人きな役割を果たしていることはいうまでもない。

こうした美術作品の集積に中心的な役割を果たしたのが、近世以前は金光院とも呼ばれた歴代の別当と明治以降の宮司であった。別当は初代の宥範から第19代の宥常まで19名を数え、宥常は神仏分離令後に琴陵宥常として権宮司(明治19年から宮司)に就いている。

彼らの中で美術との関わりという点で先ず注目すべきは、江戸時代中期に活躍した第10代別当宥存と、幕末・明治の激動期を生きた第19代別当宥常(琴陵宥常〉の二人だろう。

第10代別当宥存(1739〜1787)は宝暦11年(1761)に別当職に就いている。伊藤若冲による奥書院障壁画制作、円山応挙による表書院障壁両制作プロジェクトが開始されたのは、その在任中のことであった。また、宝暦から天明年間にいたる宥存の時代は、京を中心とする上方文化が隆盛を見た時期に当たり、与謝蕪村はじめとする文人たちの金刀比羅来訪も多く、社の内外が殷賑を極めた。

表書院は別当職の客殿として万治年間(1658〜1661)に建立され、諸儀式や参詣した貴顕の応接等に使われていたという。表書院はあわせて7室からなり、その上段の間、二の間と、南側の3室(七賢の間、虎の間、鶴の間)に円山応挙による障壁画が残されている。画面に記された落款から、それらは天明7年(1787)と寛政6年(1794〉の二度にわたって制作されたことが知られる。

金毘羅大権現の御用仏師・田中家の古記録である「田中大仏師由緒書」は、田中家第31代の弘教利常が別当の意を受けて円山応挙に依頼し、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだことを伝えている。

別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるといわれる。表書院の障壁画制作には、京画増の最新状況に詳しい別当宥存、経済的に他に並ぶものがない豪商三井家、平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙という、京と金刀比羅宮の文化、経済環境が集約されているということができるだろう。京を遠く離れた讃岐国にありながら、金刀比羅宮が中央の文化、経済と直接関係を結んでいたことも、注意しておいてよいだろう。

一方、別当職の私的施設として、江戸時代前期から中期にかけて建立された奥書院の伊藤若冲による障壁画は、現状では上段の間の《花丸図》が現存するのみである。しかし、当初はこれ以外に《山水図》(二の間)、《杜若図》(三の間)、《垂柳図》(広間)が書院を荘厳していたと伝えられている(《垂柳図》の一部と考えられる《飛燕図断片》が、今回初公開されることとなった)。

ここで、京師の画師若冲が奥書院障壁画を描くに至った経緯に触れておこう。奥書院の確実な建立年代は明らかでないが、享保2年(1717)頃には完成していたと考えられている。しかし、当初の障壁画の破損が著しかったために、明和元年(1764)に伊藤若冲に新しい障壁画制作が依頼されたという。この若冲への発注に、京で生まれ育ち、絵事にも明るい別当宥存の意向を認める説が奥書院障壁画を最初に紹介した土居次義氏によって唱えられている。説得力のある所説というべきだろう。


京画壇の画師たちとの関わり

若冲が明和元年(1764)に描いた奥書院障壁画は時の経過とともに損傷が進んだようで、天保15年(1844)には上段の間の《花丸図》以外は、京の画師岸岱(1785〜1865)に障壁画を新しく依頼したことが記録されている。現在私たちが見る奥書院は、この天保期にリニューアルされたものである。

岸岱は、岸派の祖岸駒(1749/56〜1839)の長子。岸駒は、応挙門人であったが、後に一派をなして有栖川宮家の近侍となり、禁裏の画事にも携わった。記録では、有栖川宮の代参として金刀比羅宮を訪れた岸岱が奥書院障壁画新修を申し出たとされるが、詳しい経緯は明らかでない。

応挙や岸岱らの障壁画制作に関して興味深い事実として、各室の画題は以前の障壁画のそれが継承されているとの指摘がある。表書院の各室は、応挙が障壁画を描く以前から「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の名称で呼ばれ、奥書院についても、岸岱は若冲が描いた障壁画の画

題を継承しているというのである。これと同様のことは、明治35年(1902)に邨田丹陵(1872〜1940)が表書院に《富士山図》と《富士巻狩図》を描いた際にも行われたという。

こうしたことから、障壁画の画題継承は画家の意志というよりは金刀比羅宮の意向であった可能性が強いと考えられている。内向きの私的な性格の奥書院と外向きで公的な表書院とでは考え方が異なっていたかもしれないが、そこには障壁画の発注者たる金刀比羅宮が書院空間のグランドデザインに積極的に関わり、文化的素養を備えた歴代の別当が中心的役割を果たしたという構図が想定できるのではないだろうか。

金刀比羅宮と京画壇との関係は、その後も続く。嘉永5年(1852)には、森寛斎(1814〜1894)が金刀比羅宮出入り絵師になっている。寛斎は、現在の山口県萩の生まれ。大坂の森徹山に学んだが、後に京に移って円山派の中心的存在として活躍した。金刀比羅宮での寛斎は、本殿彩色、応挙による表書院障壁画の補修を行った他、崇敬講社本部座敷の襖絵制作なども担当し、幕末から明治にかけて同宮に少なからぬ足跡を残している。

岸岱、森寛斎の時代は、第18代の宥黙と第19代の宥常が別当職にあった時代だが、この時期に金刀比羅宮と関わりを持った画師として、冷泉為恭(182う〜1864)にも触れておく必要があるだろう。

為恭は京狩野家の傍流の家系に生まれたが、平安時代の大和絵に魅了されて冷泉姓を名乗って大和絵復興を志し、制作のかたわら古典絵巻の模写にも精力を注いでいた。万延元年(1860)、金刀比羅宮で第4代別当宥盛の250年忌を記念した御開帳が行われた際、当時仕えていた九条尚忠の特使として金刀比羅宮を訪れたのが、為恭と同宮との関係の始まりであった。その際、為恭は《琴棋書画図小襖》4面などを現地で描いた他、全生亭二の間天井画揮毫の依頼を受け、翌年6月に完成した《天井龍図》を納めている。

尊皇撰夷運動の渦中に身を置いていた為恭は、長州藩士の襲撃に遭って元治元年(1864)に42年の短い生涯を閉じた。しかし、為恭と金刀比羅宮との関係は没後にも引き継がれることとなっ

た。神仏分離令によって神道専念となった琴陵宥常は、奈良春日神社宮司・富田光美を通じて為恭が残した絵巻や有職故実書などの模本180余巻を受け入れたのである。これら模本類が金刀比羅宮に納められた正確な時期、詳細な経緯は明らかではないが、同宮が京画壇の画師たちと積極的に関わっていたことを伝える資料として忘れることはできないだろう。


高檎由一への援助

前述のように明治元年(1868)に出された神仏分離令は、金刀比羅宮に大きな影響を与えた。廃絶された仏堂、焼却された仏像類も少なくなかった。しかし、明治8年(1875)には御本宮再営が始められるなど、境内の整備が進められた。この頃の金刀比羅宮と美術界との関わりということでは、洋画家高橋由一(1828〜1894)との関係に先ず注目すべきだろう。

金刀比羅宮と高橋由一との接点は、明治11年〈1878)年8月に由一が《二見ケ浦》を奉納したことに始まる。この年、由一はさらに《貝図》《月下隅田川≫を金刀比羅宮崇敬講社本部2階広間に描くなど関係を深め、11月には画塾天絵社拡張資金の融資を依頼している。資金融資は容易でなかったようだが、翌年2月に由一は自作35点を奉納して、200円を同宮から受領することに成功した。由一が奉納した油絵は、明治12年(1879)3月から6月まで開催された琴平山博覧会で公開されたのを皮切りに、以後も場所を変えながら境内の施設で展示されて現在に至っている。

その後、明治13年(1880)暮から翌年1月にかけて由一は琴平に滞在し、《鯛(海魚図)》《桜花図》を奉納、また同宮の依頼を受けて現地で制作を行い、《琴平山遠望(図)》《琴平山下石淵川之図》《深見達雄像》《琴陵宥常像》などを残した。こうしたプロセスを経て、金刀比羅宮の高橋由一コレクションは形成されたのである。

以上のことは、高橋由一を中心とした明治初期洋画史の一こまとして語られることが多い。しかし、これを金刀比羅宮に即していうと、江戸時代の若冲、応挙、岸岱らに始まる画家たちとの関係の展開と見ることができるだろう。

由一の場合、当初は画家が資金援助依頼という行動を起こすことによって、両者の接点が生まれたが、後に金刀比羅宮は由一に作画を依頼し、また森徹山模写の油画を由一に贈るなど、両者の関係は相互的なものとなった。

日本の伝統的な絵画技法によっていた画師たちにとどまらず、当時としては先進的な西洋伝来の絵画を目指していた高橋由一とも積極的な関係を金刀比羅宮が結んだことは注意しておいてよいだろう。

考えてみれば、若冲、応挙も活躍を始めた当初は、京画壇の革命児であった。そうした革新的な文化、芸術を受け入れる気風が別当・宮司を中心とした金刀比羅宮には一貫して受け継がれているということだろう。金刀比羅宮の山内には、明治以降宝物館(明治38年)、学芸参考館(大正15年)といった博物館施設や、図書館(大正12年)などが設置されている。こうした施設の設置、あるいは大正期から戦前にかけて刊行された『金刀比羅宮史料』90冊、昭和前期に相次いで刊行された各種作品集や目録類、『金毘羅庶民信仰資料集』など大部の報告書も、文化、芸術、学術に対する同宮の姿勢を現しているだろう。


琴平山再生計画

こうした文化、芸術、学術に対する積極的な姿勢が現代に引き継がれたことを端的に示しているのが、冒頭にも記した平成13年(2001)に始まる「琴平山再生計画」であろう。このプロジェクトは、琴陵容世現宮司が2000年、フランス・ノルマンディで礼拝堂再生のプロジェクトを終えた田窪恭治(1949〜)を金刀比羅宮に文化顧問として招聘したところから始まる。宮司は田窪恭治のアイデアにより金刀比羅宮山内を社殿ゾーン、文化ゾーン、散策ゾーン等に分けて、現代にふさわしい姿に各ゾーンを整備しようと計画した。社殿ゾーンには、田窪プロデュースによる新庁舎(社務所、神札授与所)、緑黛殿(斎館、参集殿)などが建築家鈴木了二の設計で整備された。そこでは、鉄やコンクリートなどを素材とした無機的な建築意匠と伝統的な木造社寺建築とが融合し、従来の神社建築のイメージを覆す新しい宗教空間が生まれている。

江戸時代に遡る金刀比羅宮と画家との関係、新しい障壁画制作は今も見ることができる。そのひとつが白書院(新書院)の障壁画である。白書院は新書院とも呼ばれ、明治8年(1875)に奥書院の南側に建てられた5室からなる木造建築である〈明治10年建立説もある)。その南側の長さ12間に及ぶ襖と長押に、ヤプツバキをモチーフとしたパステルの障壁画が平成17年(2005)から田窪恭治によって描かれた。また、文化ゾーンにも「神椿」と名づけられた鉄筋コンクリート造の新しい茶所(休憩所)が田窪の建築デザインで建設され、その内部には白書院障壁画と同じくヤプツバ

キを主題とした有田焼の大規模な陶壁も田窪によって制作された。

愛媛県今治出身の田窪恭治は1968年に多摩美術大学に入学、在学中から活動を始め、1970年代のパフォーマンスやオブジェなど実験的な作品を経て、80年代には木や金箔を素材とした立体作品を発表して注目を集めた。その後、1989年から99年にかけて田窪は、荒廃していたフランス・ノルマンディー地方のサン・ヴイゴール・ド・ミュー礼拝堂再生プロジェクトを組織し、自身の作品でこの礼拝堂の内外をリニューアルすることに成功した。金刀比羅宮新書院、茶所での障壁画制作に、このノルマンディーでの礼拝堂再生の経験が活かされていることはいうまでもないだろう。ノルマンディーの礼拝堂を飾った林檎は、琴平ではヤプツバキに姿を変えて書院と茶所を荘厳することになった。

18世紀(若冲、応挙)、19世紀(岸岱、森寛斎、邨田丹陵)の障壁画群に、現代の障壁画が加わることで、金刀比羅宮の絵画シーンはより一層厚みを増した。それは、同時代の文化、芸術を積極極的に取り込みながら歩んできた金刀比羅宮の姿勢が今も変らぬことを示しているだろう。

神道には、祭神の霊威更新、信仰の強化、境内整備などを目的に一定期間毎に社殿などを新造、あるいは改築する式年遷宮と呼ばれる習わしがある。式年遷宮の内容や間隔は神社によって異なり、金刀比羅宮では33年に一度御神体の遷座を伴う御本宮の檜皮茸き替えが行われ、この遷座祭は金刀比羅営の一大行事となっている。

金刀比羅宮の遷座祭が宗教的目的を第一義とすることはいうまでもない。しかし、平成16年(2004)に行われた遷座祭はそれにとどまらず、各種文化催事や新施設の整備などを行うことによって、これまでの金刀比羅宮と文化、芸術との関係に新たな局面が開かれた。それは、琴陵容世宮司が提唱している「常若」という常に若々しくあることを意味する神道の思想によって、信仰のみならず文化、芸術、学術、娯楽、経済などあらゆる面で金刀比羅宮を今日的な姿に変身させることであった。歴代の別当、宮司に率いられた金刀比羅宮のそうした意思は、歴史性と今日性との融合を目指す同宮の道伝子として今後も受け継がれていくであろう。

(もうり・いちろう 三重県立美術館副館長長兼学芸普及課長)


主要参考文献

渡邊一「讃岐金刀比羅宮表書院への応挙の襖絵」『美術研究』22号、1933年

『金刀比羅宮應挙画集』金刀比羅宮社務所、1935年

『金刀比羅宮由一画集』金刀比羅宮社務所、1940年

『重要文化財金刀比羅宮奥書院修理工事報告書』金刀比羅宮奥書院修理委員会、1960年

『重要文化財金刀比羅宮表書院修理工事報告書』金刀比羅宮表書院修理委員会、1965年

琴陵光重『金刀比羅宮』学生社、1970年

『琴平町史 第1集』琴平町史刊行会、1970年

土居次義『讃岐金刀比羅宮の障壁画』マリア書房、1974年

土居次義「讃岐金刀比羅宮の伊藤若冲」『國華』1046号、1981年

『円山派と森寛斎』山口県立美術館、1982年

『金毘羅庶民信仰資料集』金刀比羅宮社務所、1982〜1988年

『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』雄山閣、1987年

琴平町史編集委員会編『町史ことひら1〜5』琴平町、1995〜1998年

田窪恭治『林檎の礼拝堂』集英社、1998年

文化財建造物保存技術協会編『重要文化財金刀比羅宮表書院及び四脚門保存修理工事報告書』金刀比羅宮、2002年

『金刀比羅宮と美術の至宝−円山応挙、高橋由一から田窪恭治へ−』図録 ふくやま美術館、2002年

『高橋由一作品集』金刀比羅宮、2003年

田窪恭治『表現の現場』講談社現代新書、2003年

『金刀比羅宮の名宝−絵画』金刀比羅宮社務所、2004年

『冷泉為恭とその周辺−模本と復古やまと絵』金刀比羅宮社務所、2004年

『金刀比羅宮と櫻展』図録 香川県歴史博物館、2004年

伊藤大輔『金刀比羅宮の美術』小学館、2004年

「特輯 金刀比羅宮の繪畫」『國華』1334号、2006年

「物質試行49 鈴木了二作品集1973−2007』lNAX出版、2007年

『金刀比羅宮 書院の美 応挙・若冲・岸岱』図録 朝日新聞社、2007年

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