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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1993 > 線型思考のアルケオロジー 東俊郎 韓国現代美術展図録

線型思考のアルケオロジー

東 俊郎

(Ⅰ)

ここ数年のあいだ、ぼくは尹伊桑の音楽をよくきいてきた。この韓国うまれの作曲家がつくった、たとえば『ムアーク』でも『イマージュ』でもいいのだけれど、それらのいうにいわれない魅力のひとつは、クラリネットとかハープをはじめとする楽器からうまれでる音のひとつひとつがクセナキスやノーノとはちがい、ジョン・ケージでさえもたぶんだせない微妙な粒子のゆらぎをもつところにある。このはたらきをすこしおおげさに音色とリズムの異化といってしまうことにすると、はなしはもっとひろがって、ひとり尹伊桑だけのものでなくなってしまう。あきらかに日本の伝統楽器のつかいかたを意識した武満徹のいくつかの作品にもそれはあるからだ。音が建築されてはじめて音楽になるのではなくて、たったひとつの音にさえいのちのパルスをききとる東アジアの感受性か。

それはそれでいい。けれども尹と武満がおなじだとかたるときのその場所をまた、そっくりそのまま尹と武満がわかれる場所でもあると、いつでもひっくりかえしてみることのできる視線をもっていなければ、やはり困ったことになる。

アジアはけっしてひとつではなかった。

一衣帯水とはつまり、海峡はむすび海峡はわかつということにひとしい。たとえばこの尹伊桑にまなんでその音楽のことばをつかうことができる細川俊夫と武満にはあるが尹にはないものがあるし、その逆に、尹にはあって細川と武満にはないものがあるのも、これは当然だ。このあとのばあいについて、そうそうこんなのもあったかとふとおもいうかべたのは、ほかでもない、柳宗悦が李朝の陶磁器や新羅の石仏のおもいがけないうつくしさに驚いて、そのおどろきのままに、「美しく長く長く引く朝鮮の線」とか「流れる様に長く長く引くその曲線」とか、あるいはまた「たわやかな細く長く引く線」などとかたったときのその線のイメージである。

柳の眼はくるいなくはたらいて、海をへだてた半島にすみつづけた民族の伝統のかたちを、そこまではまちがいなくみているといってかまわない。かれのまちがいは感受性からでなく思想からきた。やわらかくつかんだこの線の比喩をもうしばらく手のなかにとどめていればよかった。それをあわててのみこんだあげく「悲哀の美」だとか、「哀傷の美」というきれいなことばの呪文をはきだしたとき、すでにそこにあって、柳よりずっと民衆の生活にちかいところで地道に寡黙に朝鮮の美を愛した浅川巧のほうがたぶんよくわかっていたはずの、もっとゆたかでたくましいなにかはみえなくなりはじめる。

いっぽうぼくらはといえば、尹伊桑の音楽にみちている線のイメージにたすけられて、柳の思考のゆがみならゆがみをもとにもどすことができる。もちろんそれは浅川のしごとのなかから不言の言として現成してくる或るかんじと似ていなくてはいけないし、じっさい似ているのである。それならその尹伊桑が音楽のかたちでぼくらにつたえる線のかんじは、ということにはなしはなる。

それはけっして、ひといきのうちにひかれたみじかい線ではない。呼吸と呼吸のあいだに放電される無の状態のうちに一気にあらわれる線ではない。そんな空中の虹みたいなきれいさのかわりに、もっと大地をひっかいた傷に似たざらざらした線。

息に息をついでふとったり痩せたりしながら、とぎれそうでとぎれることなくどこまでものびてゆこうとする、したたかに腰をすえて持続するちからにみちた線である。

はりつめると弦はきれやすい。そのもろさをかかえて一瞬のうちに永遠を、一粒の砂に全宇宙をかんじるのは美学である。けれど生きてゆくちからは倫理にかかわる。時間をゆったりとおおきくつかんで、いっけん不器用そうなその倫理的な手つきは、よけいなものはすくえないが、いのちにかかわるだいじなものをにがすことはけっしてなかった。ところで、はりすぎずゆるすぎず、風のながれに身をまかせてのらりくらりとかたちをかえる、そういう姿勢のもつ本来のたくましさは、日本のエトスからだけみていてはなかなかわかりにくい。じじつそれはみかけよりずっとしぶといし、それにしたがって、たんなる哀傷をこえたおのずからのあかるさと楽観がそこにそなわるはずである。

どこかもうひとつの半島イタリアがうたう線にも似た骨のふとさ。―もちろんそれは尹伊桑の線にかぎったわけではない。柳宗悦にくりかえしかたらせるほどつよい印象をのこした「美しく長く長く引く朝鮮の線」、「流れる様に長く長く引くその曲線」、「たわやかな細く長く引く線」などのあれら線たちにも、そっくりそのままあてはめていいので、ながれる水のように風のようにひかれた線のかたりたがったほんとうの意味というか性格は、そこにこそあったというのがただしい。


(Ⅱ)

さて、そういったところでこんどの展覧会のはなしになる。しかし韓国の現代美術といっても、ぼくなどはまだほんの一瞥したにすぎないから、森のぜんたいの姿についてぼんやりとした輪郭が眼をとじればみえてくるだけで、その個個の木のよしあしはまだかたれるかどうか。ただちょっとみても、第二次世界大戦後のアート・シーンの中心になったアメリカ風の圧倒的な支配からはじまっていることはすぐわかるし、それをいちはやく模倣した日本の影響だってちいさくなかったとおもうが、1990年代にいたって両者の水準はほとんどかわらない、といえば嘘になるというか、活気があって、あついこころがじかにつたわってくる分だけ、韓国のアーティストのしごとのほうがぼくには刺激的でいっそうふかく共感できる。たとえばためしにみかけの似た日本と韓国の作品をならべてみると、風土のちがいのせいにしたくはないが、華奢で繊細にみえてしまうのはどうしたって日本のほうだ。

じつにたんねんな、たんねんすぎるほどのマチエールへのフェティッシュな愛。この仕上げの職人的な細心こそ、彼我の差異によって露呈せずにいない、清潔という幻想につかれた日本の芸術の反芸術/アルティザン的な性格ではないか。

ところで日本のアートの現在は、おもいきっていうと、もうほとんどなにもいうことをもっていない。なくてもすむからで、そのいうことのなさ自体を、メタ・レベルのみえないカッコでくくりつつその空の空に耐えるちからわざが、わずかにのこされた芸のみせどころになった。それはいうべきことを先おくりし、いってもいわなくてもいいことを延々としゃべりつづける饒舌とほとんどみわけがつかない。劇場国家のエピステーメーのもとでたわむれる記号たちの群れ。ひとが作品をつくるのではない。せかいがふたたび閉じようとするここでは、形式がみずからを無限に複写しつつ作品をうみだす。もっともそこにはたらくのがポスト・モダンはすなわちプレ・モダンというしかけなのだから、気がつけば、こうなるのはごくしぜんだった。

こういうみえない迷路にいらだちながら、それでもせかいをとざしたくない、とじてはいけないとおもうとき、いっけんよく似ていそうでやっぱりちがうとなりの国の現代美術にふれるのは、それだけでもとてもいいことだ。ことばはすこしつよかったが、まえに刺激的だといったわけもそこにあって、そこで、ひとはまだ退屈なんかしている暇がないし、身ぶりおおきく、いいたいことをいっぱいかかえている。だから記号というべんりな貨幣のたすけをかりず、ひとと作品はともにじかにとりひきをするだけの元気があるのだ。
 つくられた作品からはそれをつくったひとの匂いがつよくたちこめ、うわのそらで通りすぎようとするひとを正気にもどすくらい、感情のつよさと激しさがもろにでている。こういった印象のでどころをさぐって、かれらには政治をふくめてのきびしい現実があったからだといっても、こころのもちかたがちがっているからだといってもおなじことだ。ともかくそんなあやふやな穿鑿のまえに、こういう肌にすこし油が浮いたようなぬくもりとか、ごつごつとした感じはかえってなつかしい。いきるちからの初心にかえって、わすれかけていたなにかにもういちどあえるからだろうか。

フランツ・カフカは日記に「たいていのばあい、探しているひとはすぐちかくにいる。」とかいたことがあった。となりの国の現代美術にたいするぼくのきもちは、いわばそういうことで、だからまだしばらくは尹亨根も鄭相和も河鍾賢もその箇性を分別してみられない。ちがったひとを通底するおなじかたちばかりがみえてくる。その森のかたちを、どうしても木によってえがこうとするとき、ほんとうはだれでもいいわけだが、それならなんどか個展をみたひとがいいだろう。ためしに尹亨根をえらんでみる。


(Ⅲ)

尹亨根。いったいこのひとについて、ぼくはここ数年の作品しかみてはいないけれど、いま手もとにある画集『YUN,HYONG_KEUN』(INKONG GALLERY,1989)をのぞいてみると、現在にいたる骨格はだいたい1974年頃にはもうできあがっていて、その後スタイルにかんしての迷いはないらしい。あふれる才気にまかせてつぎつぎと作風をかえ、又おもいがけないふいうちや展開をみせるのでなく、いってみれば愚直なまでにひとつの方向をまもるたちとみえるが、ただの努力型というのでないのははっきりしている。画面をおおきく包みこむちからの磁力はなかなかふつうではないからだ。構図はとても単純で、ひとめでつかめる。題にしてもごくかんたんに素材からとった『UMBER』か『UMBER_BLUE』にかぎって、おもわせぶりな暗示などははじめからいさぎよくすててある。地のままのカンヴァスのうえに、黒とも褐色ともみえるふかい色づかいで石筍のようにのびた棒状のかたちが数本ならんでえがかれている―かれのせかいのしかけはそれですべてだ。

粥状にうすくのばしてなんどもぬってあるらしいその絵具は油絵につきものの粘りけや光沢というゆたかな富を、むしろのぞんですてたがり、そのため、ぜんたいが古色がそなえるおもさのなかに沈んでゆくけはいだ。もっと端的にこれは、すこし黄色味がかった韓紙にえがかれた水墨画、―ただし抽象の、にみえるといったほうがはなしがはやい。えがかれたときすでに古色をおびたアンバー/ブルーが内部にむかってかかえこむ色を撥無した色のこのふかみこそ、単純であることだけなら或はマーク・ロスコやモーリス・ルイスのエビゴーネンにすぎなかったかもしれない尹亨根に、アメリカの軸象表現主義をこえた、もっとひろい地平をあたえることになったアルファでありオメガである。

かれの画面からひろがるのはまだなにもないニュートラルな現在なんかではない。なによりも時間が、歴史がある。ところでいま時間といい歴史といったそのことばを、もういちど伝統といいかえていいだろうか。伝統のないアメリカにはうまれるべくもない、そして別の伝統をもつ日本にはそだちにくいこの色の感覚。

これは色じたいのもんだいにとどまらなくて、もっとだいじなのは、はじめあった多様な色を淘汰しながら、さいごにはなぜかかぎりなく単色に接近してゆく思考のかたむきにおいてもっとも朝鮮的なるものをはからずも体現してしまったということのほうではないか。尹の初期の作品には原色的な緑や黄や青、そしてなによりあざやかな赤がつかわれていた。やがてそれらが画面から消えていったのは、色のせかいを表現にとってよけいなものとかんがえたからでなくて、はんたいに、一のなかの多をみる感覚をとぎすませ、ついにすべての色をふくんだ単色にであったためである。すべての物質をとかしこんでひろがる積水としてのアンバー/ブルー。真のゆたかさはこの単色にこそある。ふりかえってみれば、高麗の青磁、李朝の白磁といわれる、あれら朝鮮の陶磁の色がそうだった。さまざまな色のなかから、かれらはみずからの生の経験をもっともおおきく包みこみ、すべての善悪をそのままとかしこんでくれる色をただひとつえらんだのだ。

尹亨根の色がそれにつながり、それを想起させるから伝統をいうのではない。伝統は主語になることがなく、それじしん光をもたない貧血ぎみの無である。いやそれは零度の伝統で、それが活用されてはじめて伝統はその名にふさわしくはたらく。

すでにここにいまあって、ぼくらを過不足なくとりまいているが、ふつうはみえないかたちのマトリックスの、そのつどのあらたな発見だ。

そしてそれは記憶からでなく自然からやってくる。四季自然のなかにふかぶかと沈んでいる色の自然を、古人の感覚にたちかえってふたたびみつけだす尹の筆からうまれでた光、無からでて無にかえるものをてらすその光のなかではじめて、伝統ということばに生気がもどってくる。そしてだいじなのはもちろん、自然の発見ということのほうにきまっていて、尹亨根はじぶんをとりまく風土の色を発見した、とは、表現のちからの重点をおいていえば発明した、といってよかった。


(Ⅳ)

ぼくはたった一度だけ、しかも数日ソウルの周辺の風景をちらりとみただけなのに、それでも尹亨根の色にであったとたん、たしかにこれは朝鮮の風土の色だといわせてためらわない、この判断するちからはいったいなにか、それがどこからやってくるのか、とても不思議なことである。そしてこのはたらきのただしさはといえば、それにさきだちすでに絶対なのだった。自然の底につきあたったこころのふかさから表現がでてくるときにかぎって、とくべつにしたてた世界視線の普遍のネットワークがはたらくかのように。ともあれいったん回路がひらけば、それはうまれてはじめて風景をみた幼児の瞳のような色をおびる。それが懐かしさの色なので、たとえば尹亨根の色はぼくには懐かしい。これを感傷というならその感傷ということばの泥をもういちど洗ってみなければならず、それならこれはしっかりした感覚だった。ぼくがいま舌たらずのことばでいおうとしたのは、朝鮮の木工品について柳宗悦が、

凡て物差しから生れたものでないから、精密さを缺いてはゐるが、それだけにゆとりがあつて温かい。却つて雅 品の點で一番優れて了ふ。それは冷たかつた場合がない。いつも含みがあり、味はひがある。理知の業や技巧の働きや神経の鋭さ等、この前に出れば、意味が薄らいで了ふ。(『朝鮮の木工品』)

とかたり、いっぽう三島手について浅川巧が、

無造作の様で何処かに細心の処があり纒まらない様で落ちつきを失はず、放胆でありながら安定さと温味を傷けない、華やかでないが沈んでもゐない。(『窯跡めぐりの旅を終へて』)

とかたったこととけっして無関係ではないどころか、みかけよりもっとふかくむすびついている。時代をこえてくりかえしあらわれてくるものこそが、ほんとうの意味であたらしい。つよい箇性と自然がであって共働するところだけにうまれる非箇性のかがやき。
 そして、いそいでつけくわえておくと、そんな風にむすびつけていいのは尹亨根ひとりきりでないし、さきに名をあげた鄭相和や金泰浩や河鍾賢だけでもなく、さがせばさがすだけみつかるはずである。あっさりしているようで、いがいに粘っこくしぶといかれらのテクステュアは、やわらかそうで勁いし、つめたそうであたたかい。それは感情をきりすてる直線のちからと、どこまでもそれにしたがう曲線のもつ持続のちからでは、きまって後者をえらぶことからくるしぜんでもあった。

もっともこころがすでに曲線のかたちに似ていたのだったので、どこからでもはじめられるし、どこでおわってもいいというノンシャランや、骨太く世をわたってゆこうとする意志なき意志みたいな気のながさがこの曲線のうえにのってくる。せかいは一日でえがけない。十日で一水をえがき、五日で一石をえがくという水墨のおしえ。

これは山の自然なかたむきに足をまかせて一歩に一歩をつないでゆけば、頂上はむこうのほうからやってくるという曲線の思考にほかならない。息をきらせてとおくまでゆくことはできない。

それにしても尹亨根の画面に曲線はみあたらなくて、怪石文にも似てふとく肥えた直線でできているようにみえる。けれどかれのこころが、鶏龍山の鉄絵のやきものをつくりだしたあの古人たちとおなじく、かたいちからをやわらかく吸収してのびるあのたおやかなながい線のかたちをしているとしたら、たとえ線のかたちはみえないとだれかがいえば、いやそこにあるじゃないかと、すこしばかりの強引は承知でいいつのりたくなってしまう。たとえば村上華岳がえがいた『紅葉の山』の画面をもっともっと線でうめつくしてみたら、そして満洲や朝鮮の風土の刻印をとどめた山口長男の色面ほどフラットに塗りこめないとしたら、と想像してみること。

このアンバーを大地にみたてるなら、それは屋根の勾配や道のまがりぐあい、山の稜線と河のながれから季節の風や雲のうごきまで、みえるかたちもみえないかたちもひっくるめて、かつて尹のこころにうかんだあらゆる曲線の記憶が堆積した地表の零度だ、といった風に。

立方体の六つの面をひとはいちどにみることができないが、それをみようとしてかれのスタイルはうまれた。なにもえがかれないのではなく、すべてをいちどに現成させようとしたこのゆたかな無、或は無のゆたかさにとって、こういうシンプルなテクスト/テクスチェアはほとんど必然となる。もちろん幾何学の正六面体なんかではなくて、かれがみようとしたのは天地四方をあわせた六合、すなわち宇宙―といっておおげさなら風景だった。

じっさいの尹亨根の作品をみていると、なにも再現しようとしないその筆づかいの抽象からときに、たかい崖のうえの林、ながくつづいた人気のたえた路、日がのぼるまえの大地の黒い粒だち、あけはなたれた窓からみあげる空、木立にかこまれた村をかんじることがある。もうひとつの山水画。しかしこの感覚ははっとするほどあたらしい、まちがいなく近代のものだ。そしてこのあたらしさがたぶん線をよわめ、大地の色のなかにぬりこめてしまった。線はきえる。ただし線はきえても線がになってきた性格はのこったといってもいい。ここがだいじだ。簡潔にひきしまったうつくしさと光をうちにふくんだ雅味は、かたちの変化をいきのびて、あらたにここにうけつがれている。

尹のばあいそこにあるがみえない線はべつのところ、たとえば河鍾賢のカンヴァスのなかでは線のままあらたにうまれかわった。『壁の修理』などをはじめとする鳥海青児の絵画をおもわせる河の密度のあるマチエール。こういう作品のまえにはいつまでもたっていたいとおもう。この単純はぼくらをけっしてあきさせない。簡潔にひきしまったうつくしさと光をうちにふくんだ雅味ということばでもいいが、それよりももういちど「無造作の様で何処かに細心の処があり纒まらない様で落ちつきを失はず、放胆でありながら安定さと温味を傷つけない、華やかでないが沈んでもゐない。」とくりかえしたほうがいいかもしれない。そしてこういう印象のつねとして作品の、どこかに人間のけはいがする。

この絵画が連想させる風景はとても地上的だし、ひとの姿がみえない空林に人語のひびきはとぎれることがない。しかもそれはふつうのひとのふつうのことばなので、こういうふうにひとの気配が濃くなったりうすくなったりしながら、けっして絶えないというのこそ、ほんとうの意味で人間らしいということだろう。こういうかれらの作品にはたぶん尹伊桑の音楽はよく似あう。尹伊桑だけでなく、それなら細川俊夫もアルヴォ・ペルトもとうぜんそれらと現代をわかちもって共鳴しあうだろう。

(三重県立美術館学芸員)

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