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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1996 > とらえがたき子ども-その表現の可能性 桑名麻理 子どもの情景展図録

とらえがたき子ども-その表現の可能性

桑名麻理

そもそも、子どもって何だろう。こんな問いから始まった。子どもとは単に身体的、年齢的なことがらの総称ではない。「大人の中の子ども」、「子どもの中の大人」ということばがあるように、ときに精神的な状態を意味したりもする。だから、子どもを語るのは容易なことではないのである。話の内容しだいで子どものもつ意味は、実に変わってしまう。

そうはいっても、大人にしてみれば、子どもに関して揺るぎない事実がふたつある。ひとつは、「子どもらしさ」が子どもを大人と区別しているということ。もうひとつは、結局、子どもは「可愛い」のであるということ。今回の展覧会の準備でも様々な表現をする作家たちが、最後には、「でも、やっぱり子どもって可愛い」ということばを使っていた。

つまり、子どもの認識には異なるふたつの次元が同時に存在するのである。一方は可視的・外見的な次元で、大人/子どもという認識を前提としている。もう一方は不可視的・精神的な次元で、これは大人と子どもの区別を曖昧にしてしまう。そして、非常に個人的な思いで、この二つの次元の間を行き来しながら子どもを考えることができるのである。これは、造形作家にとっても同じことで、個人的な体験・志向によってその表現の仕方に幅が出てくる。

しかし、ここて興味深いのは、以上のような子ども認識は、近現代的な考え方であるということである。なぜなら、フランスの歴史家フィリップ・アリエスが、著書『〈子供〉の誕生』において述へているように、中世の子どもは、小さな大人として認識されていたのだ。それは、人間の不完全な状態であり、子どもを子どもとして注目するようになったのは近代のことなのである。日本においても、〈児童の発見〉は、大正期になされている。


1.近代的子ども認識と「他者」のまなざし

子どもの容姿、仕種が「子どもらしく」「可愛い」、と目尻を下げながら評価するという感覚は、以上のことからそれほど古いものではない。アリエスが、膨大な文献調査をもとにそのあたりのことを述べている。彼によれば、近代化する以前の西欧では、キリスト教の価値観が人々の感覚の根底を支えていた。それは、性悪説に基づいた価値観で、人間は良くない状態で生まれてくるという考え方だった。そのため、幼いということは、まさに悪い状態としてみなされていたのである。この悪い状態を宗教の教義によって教育し、良い方向へと矯正していくというのが、子どもから大人への進歩の過程だった。つまり、「子どもらしさ」が、人間における汚れなき崇高な状態として大切に考えられるようになったのは近代以降のことなのである。子どもは「子どもらしく」とは、実に近代的な考え方なのだ。そして、「子どもらしさ」を肯定することは、同時に「父親らしさ」、「母親らしさ」という家族関係の意識化をも促した。

要するに、冒頭に記した「子どもって可愛い」という表現は、大人/子どもの区別が、完全に意識されていることを前提とする。ここには、「他者」のまなざしがあり、大人/子どもという揺るぎない距離が絶対的なものとして存在している。


2.「他者」のまなざしの変遷

「子どもらしさ」と「可愛さ」という可視的なことがらで絶対的な他者の立場から認識されていた子どもだが、しだいにその他者性が細分化した。例えば、ジギスムント・フロイトは、精神分析の分野で、人間の意識・無意識の根源を子どもにまで遡ったし、また、文学においてはジャン・コクトーが子どもの精神世界の暗部を取り上げ、子ども特有の残酷さを描写した。また、美術の分野でも子どもの創造力に富んだ視点は、たびたび作家の理想となっている。やや時代が下ってからは、ジャン・テュビュッフェらによるアール・ブリュトとしてムーヴメントとなった。

これらは、「他者」のまなざしが子どもの精神世界にまで及んだことを意味している。大人に従属して、保護されていると思れれた子どもの世界は、はるかに自律的で複雑なものであると認識されたのである。子どもは、もっと中身の不透明な、何が出てくるか予想のつかないブラック・ボックスのような精神世界を持った存在だった。大人はその不透明さに惹かれ、そこに自分たちのルーツを、あるいは正反対に自分たちにはないものを探し出そうとした。子どもからなにごとかを得ようとする大人。両者の距離は、「他者」のものさしだけでは測りきれなくなった。子どもの存在は、「他者」としてのまなざしだけでなく自己へのまなざしにおいても認識され始めたのである。


3.「他者」の脱構築、もしくは反転するまなざし

近代の成立方らすでに百年以上が経った。もう、歴史的過去とみなして然るべき頃合いである。事実、近代と現代の境界をどこに置くかということが、近年の話題である。ただ、はっきりとしているのは、脱構築的な考え方が現れたことだろう。近代から続いてきた価値体系、つまり、マジョリテイ/マイノリティという権力構図、を根本から問い直す見直し作業である。マイノリティに目を向けることで、近代的な価値判断を脱構築するのである。ここでは、子どもも大人に対する社会的弱者、マイノリティとして扱われた。

「子どもらしさ」と「可愛さ」という子ども認識も、マジョリテイ(大人)による子どもへの抑圧のイメージとされた。「他者」のまなざしも抑圧のメタファーとなり、相対化を余儀なくされた。そのため、まなざしの反転が可能となり、「子どもらしさ」、「可愛さ」の反転が引き起こされた。
 まなざしの反転とは、見る/見られるの逆転現象である。子どもは、これまで常に他者である大人に見られる立場だった。これは、「可愛い」ものへの愛情、保護者としてのまなざしである。しかし、価値体系の脱構築では、子どもは見られることを拒否し、逆に見る主体へと転じるのである。子どもに見られる用になった大人は、立場の逆転に戸惑い、子どもの存在感に対して居心地の悪さを感じ、ノルタルジーの裏側を刺激される。「可愛さ」への愛情も、同時に不気味なもの、グロテスクなものへの理解不能なまなざしへと変質を余儀なくされる。

こうした子どもの認識の反転は、実際、現代の日本社会の幼児化現象と無閑係ではないだろう。絶対的な価値の喪失は、「子どもらしさ」が大人の「子ども性」へと転用することを許容する。コミック、キヤラクター、オタクの文化はその肯定的な現れの例であるし、幼児虐待やオウムなどの社会問題などはその否定的な現れであろう。


4.現代の表現

歴史は積あ重なるもので、決して失われはしない。三つの部分に分けて整理した子どもの認識も全てが積み重なって人の意識となっている。それ故、現代の作家はこの積み重なった意識の中から自分の選択で表現している。

海老澤功、松田光司は、「子どもらしさ」の崇高さに魅せられた父親としてのスタンスを強く感じさせる。そして、子どもの持つ崇高性という意味では、中澤英明も独自の表現世界を築いている。彼の作品からは、異形は神聖さの現れであるという伝承を思い起こさせる。

また、和田千秋は、障碍を負っている愛息のリハビリテーションを通じ、子どもに教えられる自分を感じている。さらに、障碍の意味を広げ、特殊な密室状態を作り上げてしまった現代美術を障碍を負った美術とみなし、美術を万人の手に取り戻すことを目指している。彼のレディ・メイドの使用、稚拙に見えるテクニックはそのための戦術である。

かなもりゆうこは、子どもや子どもらしいもの(服やぬいぐるみなど)の肌触り、質感が好きだという。他者としてのまなざしを保つその感覚は、おそらく彼女の内在する子どもを柔らかく、ノスタルジックに刺激していると思われる。

イケムラレイコ、太郎千恵蔵、奈良美智、吉本作次の作品は、脱構築的な子ども認識をかなり取り込んでいるようだ。

イケムラレイコの場合は、子どもに対して他者としてのまなざしを持たない。彼女は、子どもを自己に内在する人間の原初的な存在として認識しているのだ。その作品には、子ども性に導かれる原初的でエネルギッシュな創造というものが力強く現れている。

太郎干恵蔵は、一種のフィールドワーク的な作業によって現代社会を捉える作家である。彼は、テクノロジーとメタファーに社会を凝縮させる。子どもは社会の固定観念に抑圧されるマイノリティのメタファーである。ここでは、大人によって望まれた子どものイメージに対し、身体のない子ども提示することで、マイノリティからのまなざしの反転をおこなっている。

奈良美智の作品にも、さまざまな価値の反転が見られる。自分が弱い存在であることをすでに知っていて、体あたりでまなざしを返す子ども。幼児体型が誇張されてデフォルメされたその姿。子どもは見られる側から見る主体へと反転し、「可愛さ」は不気味なものへと変わる。見られる大人は強い視線と不気味な存在感に耐えかねると同時に、パラドックス的に自ら内在する「子どもらしさ」を彼らのいたいけな姿に感じノスタルジックに思い出す。

吉本作次も、他者としてのまなざしには、重みをおいていないようだ。彼の認識には「大人の中の子ども」、「子どもの中の大人」という意識があるだけだ。その表現には、自分の内在している子ども観が軽やかに現れている。

子どもの認識をめぐる表現は、日本だけでなく、外国においても注目されている。ただそこいは、冷ややかな客観性が感じられ、日本の場合のような独特なロマンティシズムは見られない。事実、幼児虐待だけでなく、人種差別、性差別、戦争の惨禍などの社会告発も、社会的弱者としての子どものイメージを通して表現されている。マイノリティを生み出したマジョリティ世界への脱構築化の試みの中に、子どもの存在が意識されているのである。

最後に、水の入ったバケツをひっくり返す子どもじみた振る舞いのように、敢えてもう一度、冒頭に書いたフレーズを繰り返そう。なぜって、これほどまでに子どもに注目が集まる理由として、私たちは彼らを未来の存在として考えているのだし、かつ社会的な位置づけと個人的な位置づけとの間で様々なパラドックスが生まれ、結局、子どもはとらえがたき存在なのだから。

そうはいっても、大人にしてみれば、子どもに関して揺るぎない事実がふたつある。ひとつは、「子どもらしさ」が子どもを大人と区別しているということ。もうひとつは、結局、子どもは「可愛い」のであるということ。今回の展覧会でも様々な表現をする作家たちが、最後には、「でも、やっぱり、子どもって可愛い」ということばを使っていた。

(三重県立美術館学芸員)

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