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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1999 > はるはいちめん 東俊郎 小林研三展図録

はるはいちめん

東 俊郎

たとえばなだらかな緑の丘のうえにちいさな家がみえる。家のまわりは北極星をとりまくように花ざかりの木があって、空はあおく太陽はいまそのところをえて点のようなちいさな鳥の群れと草原の動物たちに対している。たとえば池のなかを水鳥がおよいでいる春の午後のひととき。洗濯ものを乾しおえて一息つく女がいて、家のなかには絵をかいている男がいる。さわやかな風は家をとおりぬけ女の頬をかすめシーツをなびかせ、満開の花の一片を空にとばせて、とおい鳥のありどころにまでうららかな春情をかよわせている。またたとえばきちんと植林された森のちょうどまんなかを縫うように川が流れている。きのうふりつもった雪はまだ融けることなく青い空のしたにしずかな銀世界をひろげている。すがすがしく透明な空気があたりにみちている。空き地につつましく建っている人家がいくつか。そしてさいごに眼にはいってくる雪のなかをかけまわる動物と羽根をやすめて流れにうかんでいる鳥。

いったい小林研三さんの絵のせかいはこんな風にはじまりこんな風におわるのだが、そのはじまりとおわりはほとんど区別がつかない。静止した一瞬のものがたりでありながらあるときふいにもっとおおきく循環するある存在をかんじさせることがあるのだけれど、しかしそのことはまたのことにしていまはただ小林さんの絵をみるというのはいつもおなじ野原、いつもおなじ鳥や動物、いつもおなじちいさな家、いつもおなじ…をくりかえしみるという経験なのだとまづいっておいていいだろう。

野原と家と空と動物たち。まったく小林さんはあきることがないかのようにそれらを、まったく無造作にみえてじつは時間をかけていることがわかる丹念な筆のさばきで画面のあちこちに配置する。とにかくすべてがちいさくて、小国寡民をねがった老子のユートピアの小林さんによる変形ともみえる童話的なみかけはみかけとしてぼんやりみていると、その外見のしたからふいに或る手づよく反応をかえすものに出会うかもしれない。もっともそれはつよい衝撃なんかではなく、気づいたらそうなっていたという風などこまでもやさしく浸透してくるちからなのである。そんな風に小林さんの絵にであったひとはしあわせになる。それをもっと感覚にそくしていうこともできて、緑なら緑、白なら白という色彩のやわらかで深い奥行きにつつまれるというか、色彩に全身をたっぷりとそめられる経験なのである。ゆたかさと幸福のためにほとんど静止したがってゆっくりとながれている時間。ところでこのみちたりてすべてがそろっているようにみえるせかいをえがく小林さんの手もちの駒はとてもすくない。生活はできるだけシンプルなかたちでというねがいにみあっているといえようか。あす手にはいるはずのりっぱな材料でひとの住めない宮殿をつくるよりも、いまここにあって、なんどもみずからつかいこんで暮らしに根ざしたもので小屋をつくって雨風をしのげればそれでいいという知恵。それは野のめぐみを必要以上につみとらない山人とか神と自分のため以外にむやみな殺生をしない海の民の全身をめぐってあやまたないいのちのエチカによくにている。したくないことはしないで、したいことだけをするこのちからは単純かもしれないが、このいさぎよい断固とした拒否にささえられおよそ汚れたものはなんであれ一掃され、無垢の光にすみずみまで照らされることになった。

こんな小林さんの絵のことをかんがえるといつもぼくはモーツァルトの音楽をおもいだす。ベートーヴェンみたいに独創的であることをのぞまず、きのうときょうを楽しんだあとで、明日くるかもしれない恵みを祈るためにさしだされただけのふつうの音楽。ただの音楽である音楽であるからどの曲も他の曲ととてもよくにていてみわけがつかない。それはいつもかれの身体のふかさが自然にであったところで音楽がつくられていたからであって、そういうことならそこに嘘いつわりがなければないほどいつもおなじような作品ができてしまうのは道理というもの。もうひとつ例をあげれば小津安二郎の映画もそうだったなとぼくはここでひとり合点するけれど、小林さんの絵にもまたこのおなじ性質、ひとつの絵にもうひとつの絵がかさなって、そのかさなりがかえってせかいを不染汚の透明に澄んだものにかえてゆく奇跡をみないわけにはいかないのである。

ようするにそこに自由はあっても自由なイメージはなくせかいは制限されてなんどもくりかえされパターンにちかづくので、ふつうの絵かきだったらさけたがるはずの類型化も小林さんのようにかけばすこしちがってくる。かれはパターンならパターンをいっこうにおそれていないどころか、もし問われれば、日々のくらしというのがそういうもんだからしょうがないわさと、こともなげにいってのけるだけの度胸があって、そして当然だけれどこれはけっして負けおしみなどといったことではない。ここにはだいじなことがふたつある。ひとつは日々のくらしと藝術とのどちらをとればいいのかなどというよくきかれる愚問の拒否であり、もうひとつは、日々のくらしをつまらないものの代名詞とみる眼とは逆に、あたらしいとはふるくならないための刻々の意志であるという万物咸新のおしえをふまえた、よく暮らすことへの賛歌である。えがくということはだから生きるための格律にふかくつながっても、藝術の神に犠牲をささげるというかんがえにはなりようがないのである。

いずれにしてもこれは作品をつくるということはそんなにたいしたことじゃないというところにゆきつく。そこから絵がうまくてもそうでなくてもかまわないというところまではほんの一歩だろう。そしてこの一歩の危険を小林さんは聡明にもよくまぬがれている。誰にでも絵がえがけるしえがいていいと小林さんがいうとき、人間はみんな平等だとあたまから信じこんでいるヒューマニズムから発せられたところに漂うやりきれない甘さは微塵もないはずだからである。だいいち小林さんはいきとしいけるものの頂点に人をおいたうえでその人間の平等をしたりげに説くヒューマニストをぜったいに信じていない。ではなにを信じているのかというと、べつのせかいからその信はやってくるようで、しかもそれは南泉斬猫の峻烈が一衣帯水をわたってくるうちに島国の野原をふく春風にかわったけはいなのであって、小林さんの作品はそれをみればみるほどはっきりとかたってくるが、それならば、ひねもすのたりのたりかなとのどかな日永の風景にはそれそうとうの元手がかかっている。どこにもない場所に小林さんはどこにもあるのに誰も気づこうとしない種をひろってくる。生涯是春をいまここにひきよせるためのたたかう絵である。わがままなやさしさをとおすためにみえないところで汗も血もながし地道にながい時間をかけてそれを育てるという意志を持続しつづけて、ひとに媚をうるが自分にはいらないものをぜんぶすて、絵であるだけでじゅうぶんのただの絵というところに現在の小林さんはいるのだ。

ようするに小林さんは大胆にも絵をすてたのだといってもおなじことだが、だからといって過激なことはなにひとつしてはいない。ただ不毛で石ころだらけの大地にひとつ又ひとつと花をさかせていっただけなので、いま流行のことばでかわいいといわれることさえおそれなくなったとみえる現在からふりかえると、いくつかの材料のうちのひとつにすぎなかった鳥にしだいに焦点がむすばれ、しろい虚空の宇宙のなかをただの記号となった鳥が飛んでゆく時期をへて、さいごは一羽だけがおおきくえがかれるにいたった1950年代の後半から1969年にかけての「鳥の時代」のその鳥をえがいてゆく過程のなかで、小林さんはすこしずつ「藝術」をそのカッコとともにすてていったのだといえる。そしてのこったのはまるごと日々の暮らしとかえられる重さをもち、暮らしが暮らしであるように絵が絵である、そんな絵なのであると、ぼくもまたおなじことをくりかえしかたってみたにすぎない。

(ひがし・しゅんろう 学藝員)

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