このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

ひらかれた迷宮を旅する─パウル・クレー年譜

編=東俊郎

凡例

1.この年譜はクレーの生涯を旅行と居住を中心的なテーマとしてとらえ、クレー自身の日記・手紙その他の引用をまじえて編集したものである。

2.年譜のそれぞれの年の最初に、単独の行で記されている地名は、概ね当該年にクレーが定住していた場所を示している。 
  2-1 ただし、1902年や1929年のように、旅行先で1月をむかえた場合は、不自然さを避けるために、あえて記さなかった。
  2-2  また、1932年のように、「デッサウ─デュッセルドルフ」と二つの場所を記したのは、ほぼ均等に居住していたからである。
  2-3  また年度の途中で単独行の地名がでてくる場合は、引越し後の定住地であることを示している。

3.引用文は引用後に(b)(f)(t)(w)の略号で示した。それぞれの出典は以下の通り。
  (b) 『クレーの手紙 1893-1940』南原実訳/新潮社/1989年(原著:Paul Klee "Briefe an die Familie 1893-1940" DuMont Buchverlag,Koln,1979)
  (f) フェリックス・クレー『パウル・クレー』矢内原伊作・土肥美夫訳/みすず書房/1978年(原著:Felix Klee "Paul Klee" Diogenes Verlag,Zurich,1960)
  (t) 『クレーの日記』南原実訳/新潮社/1964年(原著:Paul Klee "Tagebucher 1998-1918" Verlag M.duMont Schauberg,Koln,1957)
  (w) 和田定夫『パウル・クレーとその旅行(国内限定版用解説)』(原著:Sadao Wada "Paul Klee and his travel" Nantenshi gallery,Tokyo, 1980)
  3-1  略号の次の数字は当該文献のページ数を表わしている。
     (例) (b26)…は、『クレーの手紙 1893-1940』の26ページ。
  3-2 ただし、(tn)の場合、あとの数字はクレーがつけた通し番号である。
     (例) (tn26)…は、『クレーの日記』の通し番号26番。
         (t26)…は、『クレーの日記』の26ページ。
  3-3 (w)はページ数がふられていないので、記載しなかった。

4.引用文は地名・人名もふくめて原文を尊重しあえて変更しなかったから、図録の他の部分の表記と若干ちがったものがある。
    (例)1894年の項  フリブルク(フリブール)
       1901年の項  ゼノヴァ(ジェノヴァ)

1879年
 ミュンヘンブーフゼー
 12月18日、スイス、ベルン郊外ミュンヘンブーフゼーで生まれる。父はハンス・クレー(1849-1940)、母イーダ・マリア(旧姓フリック1855-1921)。パウル(以後クレーとする)は姉マティルダ(1875-1953)に続く第二子。

1880年  1歳
 ベルン
 クレー一家はベルンに移転。幼児期、母方の祖母アンナ・フリックがクレーに絵の描き方を教える。祖母にもらった色鉛筆でベルン近郊の風景をモチーフにしたカレンダーを模写したり、フランスの絵本『犬と猫』『弟ルーセル』をお手本にしたりした。

1886年  7歳
 ベルン
 小学校へ入学。6歳のころからヴァイオリンを習い、やがてヨーゼフ・ヨアヒム門下のカール・ヤーンに就く。ブルクハルトを愛読する美術通のヤーンの家で、ラファエロとレオナルドの複製をみせてもらう。叔父フリックのレストランでよく絵をえがいたりした。「レストランには、みがきあげられた大理石の机があった。その表面には、化石のいろいろな模様が見える。謎のようにいりくんだ線の中から、グロテスクな人間のかたちを見つけ出し、鉛筆でなぞる…怪奇なものへの私の志向は、この頃すでにはっきり現われていたといえよう。」(t27)

 フリブール。マルリー。この頃フリーブル近郊のマルリーにゆき、そこで「家のように大きい船にのって航海した」という外国の少年のはなしに興味をしめした。(t30)「フリブールへは、子供のころ何度か行った。その頃、私たちは、よくマルリー・ル・グランに泊まったものだ。それは、私の記憶にでてくるはじめての旅であった。お伽話の世界の・謔、な町、カトリック教、ブレックファールト。毒虫。見慣れぬ外国の子供たち。長い衣を着ていつもふざけあっているカトリックの坊さん。野原で食べたおやつ。岩魚。小川での水浴。茶色の穂先をつけた葦。」(t506)

 フリブール。マルリー。この頃フリーブル近郊のマルリーにゆき、そこで「家のように大きい船にのって航海した」という外国の少年のはなしに興味をしめした。(t30)「フリブールへは、子供のころ何度か行った。その頃、私たちは、よくマルリー・ル・グランに泊まったものだ。それは、私の記憶にでてくるはじめての旅であった。お伽話の世界のような町、カトリック教、ブレックファールト。毒虫。見慣れぬ外国の子供たち。長い衣を着ていつもふざけあっているカトリックの坊さん。野原で食べたおやつ。岩魚。小川での水浴。茶色の穂先をつけた葦。」(t506)

 ベアーテンベル。ベアーテンベルクには「叔父のホテル」(t36)があって、一家は折にふれてそこに逗留した。また、「若い頃、叔母が経営していたベアーテンベルクの<森の端(ヴァルトラント)>というホテルでいつも休暇を過ごし、そこにいたフランス人のコックにいろんなことを習ったのだ、と父はしばしば話していた。」(f44)

1889年  10歳
 ベルン
 この頃から、「アルプスの風景と真剣にとりくんだ。」(f122)

1890年   11歳
 ベルン
 初等高等学校へ入学。同窓生にはハンス・ブレッシュ、フリッツ・ロートマルがいた。

1891年   12歳
 ベルン
 ルツェルン。この頃、ベアーテンベルク─インターラーケン─ブリエンツ湖─マイリンゲン─ルツェルンへ旅行。ラングナウ経由でベルンへ。

1893年 14歳
 ベルン

 ベアーテンベルク。7月、父への手紙。「山はやたらとたいくつで、おまけに天気が悪いんです。第一週目はとてもよかった。ブルクフェルトとかベアートゥスの洞窟とかヴァルトブラント=ユスティス渓谷とかケンツェリなどはやたらとハイキングをしました。」(b7)

 ルガーノ。8月、ルツェルン─フィアヴァルトシュテッテル湖─アルトドルフ─ゲシェーネン─サンゴタール峠─ベリンツォーナ、ルガーノに旅行。

1894年 15歳
 ベルン

 カンダーシュテーク。この頃修学旅行で、グリムゼル峠─フィーシュ─エギスホルン山頂─ロイク─ゲミ峠─カンダーシュテーク─フルーティゲン─シュピーツ、そしてベルンに戻る。(t62)この頃、「もっと本質的な印象をうけたのは、ベルン市の光景や、それ以上に、両親とともに何度もその近くで避暑の時を過ごしたフリブルクの町の光景であり、そのほか、さらに、トゥーン湖とアルプス、聖ベアーテンベルクとその高い山頂だった。その後、アーレ河が明るく幻想的に流れているベルンの近郊にもまた感銘を受けた。」(f8)

1896年  17歳
 ベルン

 カンダーシュテーク。この頃、ジーゲリストと旅行。シュピーツ─カンダーシュテーク─キーン渓谷─ライヘンバッハ。(t62)

 ベルン。この頃から、クレーと画家志望をともにするヘルマン・ハラーとつきあいはじめ、「一緒に野原へスケッチに出かけた。」(t314)

1897年  18歳
 ベルン
 4月、一家はオープストベルク通り6番地に転居する。

 バーゼル。秋、バーゼルの親戚の家に滞在。翌年の秋にも。

1898年 19歳
 ベルン
 7月、ベルン近郊ビール湖の聖ペーター島へはじめての制作旅行。
 9月、ベルンの人文高等学校を卒業。将来の進路について迷ったあげく、最後に画家志望をかためる。「造形美術にはいささか心惹きつけるものがあった。そうはいうものの、ぼくの心を誘ったのは、最初のうち、芸術そのものというよりは、むしろ、できるだけ早く遠い国外へ、どこかもっと偉大で、興味深く、生き生きしたところへゆきたいという希望であった。芸術の本能的な、まともな本質を会得したのは、ずっと後になってからのことだった。」(f9)

 ミュンヘン
 10月13日、美術学校入学のためミュンヘンのアマー・潟Gン通り24番地1に止宿、月末にルイーゼン通り39番地3に引越し。人体素描の基礎的な訓練の必要をかんじ、美術学校校長ルートヴィッヒ・レフツのすすめでハインリヒ・クニルの画塾に学ぶことにする。

1899年  20歳
 ミュンヘン
 この頃クレーは風景画家をめざす。父宛の手紙。「いままで素描を何カ月も勉強しましたから、アカデミーの素描コースに入ることなどわけありません。でもいまのぼくは風景の偉大な力にすっかり魅せられていて、もう二度と石だたみの町へ出る気は絶対になく、すぐにでも緑の自然のなかへとび出したくてたまらないのです。」(b42)

 ブルクハウゼン。7月1日−17日、ミュールドルフを経由してブルクハウゼンへ画塾仲間と旅行。「着くとすぐに一カ月の約束で部屋を借りた。…一緒にいった仲間では、まずブリッタードルフがいる。彼がしてくれたシチリアのはなしはおもしろい。」(t70)知己をえた銅版画家ツィーグラーの刺激でエッチング、リトグラフに関心をむける。帰途ザルツブルクを見物。「こうして、私ははじめて異郷に─外国に、たったひとりで降り立ったのだ。…私はまめに歩きまわったから、このすばらしい町の隅々まで知ることができ、小さな旅行案内を片手に郊外にまで足をのばし、名所旧蹟をまわった。とくに印象深かったのは、モーツアルト記念館、メンヒスベルク、大伽藍、大きな泉、音楽がかなでられ外国人のゆきかう山の上のレストラン、墓地、調子はずれの鐘の音など。」(t71)そこからインスブルック─ランデック─ファドゥーツ─チューリッヒを経由してベルンへ。

 ベルン。夏はベルンの両親のもとですごし、登山家の友人ジーゲリストとマイリンゲン─グロースシャイデック峠をこえてシュヴァルツホルン、ファウルホルンに登頂。グリンデルバルト─インターラーケンへ下りる。

 ミュンヘン。10月26日、ミュンヘン、レオポルト通り63番地3に引越し、さらに2ヶ月後くらいにゲオルゲン通り48番地3へうつる。?→(b51)
 12月、フィッシャー夫人の家の音楽会でピアニストのカロリーネ・ゾフィー・エリザベート・シュトゥンプ(リリー)(1876-1946)と出会う。

1900年  21歳
 ミュンヘン

 ベルン。5−9月、ベルンに滞在、しばしば小旅行。シェルツリーゲンからアーレ河をさかのぼってメルリーゲンへ、ベアーテンベルクへ登って、それからオーバーホーフェンへ。ベルンから夜間徒歩でソロトゥルン─ヴァイセンシュタイン登山。

 ミュンヘン。10月、ミュンヘン美術学校入学、フランツ・シュトゥックに指導をうけるが、得るところは少なかった。。「色彩の勉強は少しもはかどらなかった。だが、私は感覚的に形を扱うことが得意であったからこの点を伸ばしたいと思った。また事実、シュトゥックのもとでは、フォルムについて多く学ぶところがあったのだ。色彩が進歩をみせないのは、私の非力のせいだけではなかった。」「絵画の本質とは何か、シュトゥックが、このことをもっとよく教えてくれていたならば、私もあれほど苦しい目に会わないですんだことと思う。画の本質がわかるようになったのは、ひとり苦しんだあげくのはてであった。」(t122)

1901年  22歳
 ミュンヘン
 3月、シュトゥックの教室に通うのをやめる。
 4月27日、バーラー通り57番地、ホテル・ガルニ「カトーリッシェス・カジノ」に転居。

 ベルン
 7月1日、ミュンヘンでの生活を終え、ベルンに戻る。

 オーバーホーフェン。7月、「ぼくのおばさんたちが経営しているホテルがある」(b91)オーバーホーフェンへゆく。トゥーン湖で魚を釣り、外国人の観光客を品定めし、雨の日はゲーテを読んですごす。

 イタリア旅行。10月22日、ヘルマン・ハラーとともにイタリア旅行に出発。ミュンヘンでの試行錯誤の総仕上げとして、「私は、すべてをイタリアに賭ける。」(t171)

 ミラノ。「ミラノはたくさんの宮殿、美しい庭のあるすばらしい大都会です。ドーム前の広場は交通がかなりはげしく十を超える市電がぐるぐると走っています。ドームには強い印象を受けました。内部は神秘的な美しさをみせ、ぼくにははじめてのものでした。また美術館には思いがけずたくさんの有名な作品がありました。とくにぼくの目についたのはマンテーニャの遠近法で縮めて描いたキリストで、大胆きわまる表現手段による圧倒的な描写、さらにルイーニの壁画の女性像も目にとまり忘れがたい印象を残しました。」(b111)

 ジェノヴァ。はじめて海をみる。「海とはどういうものか、私はだいたい想像していた。だが、港がこんなだとはおもわなかった。」(t278-9)「昼、この路地には肌をさすような日の光、下を見れば海が金属のようにちかちかと光る。いたるところ光の海。」(t280)「海の旅は、すばらしかった。星の種粒のように煌めく夜のジェノヴァの町が、おもむろに海の彼方に沈み、満月の光に吸い込まれていく。一つの夢が、いま一つの夢に呑み込まれてゆく。十時、ゴタルド号で出帆、夜中まで甲板にたたずむ。」(t282)(fp123にも訳あり)この「ゼノヴァのすばらしいドラマは、ローマの印象によっても追い払うことができなかった。」(f11)ジェノヴァから海路でリヴォルノ、ピサへ。

 ローマ。10月27日、ローマに到着、アルチェット通り20番地(b112)に止宿。年内をローマに滞在。まずシスティーナ礼拝堂のミケランジェロに圧倒される。サン・ピエトロ寺院。「マルクス・アウレリウスに目を向ける者は、だれ一人いない。ピエトロ像の幼稚なぎこちなさ。ただ勝手気儘にぬりかためた泥のなかに永遠がひそんでいるとは!」(t285)ラテラノのキリスト教美術館。初期キリスト教芸術に感動する。「崇高な美にあふれた素朴な彫刻。人の心に迫ってやまない力強い表現力にみちている。この完成とは程遠い未完成になぜまたこれほどの力がひそむのか、」(t290)→(f11)「このようにフォルムを観察する私の目は、建築物をみて養われたのだ。ジェノヴァのサン・ロレンツォ、ピサの大伽藍、ローマのサン・ピエトロ大寺院。私はよくブルクハルトの《チチェローネ》に反発する思いにかられる。」(t290)ヴァチカン美術館。「ヴァチカンの古代のもの。ベルヴェデーレのアポロに感嘆する。私自身成長したことがわかる。ミューズは、私は前から好きだった。ラオコオンは、わからない。…クニドスのヴィーナスは、わかりはじめる。これについては、私もブルクハルトに賛成だ。」(t335)「ヴァチカンの美術館での感銘は、何よりも第一に─色彩的にも─マンテーニアのピエタ、次にレオナルドの未完成作品ヒエローニムスだった。」(f11)

1902年
 ローマ。1月、ドイツ芸術家協会に通ってフォルムとしての人体の研究。色彩については、「私の画では、色はただ造形的な印象を飾るにすぎない。他日、自然を私のそのときどきの造形力に直接翻訳する実験をしてみようと思う。」(t374)

 アンツィオ。2月25、26日、ローマ西南の町アンツィオへ。「アンツィオの海岸は、美しい。しばしこの世にいることを忘れる。見るものことごとく珍奇だ。小さなアネモネの花から蘆薈やサボテンに至るまで。木は、どれも盆栽のように小さい。海岸を歩めば、あとからあとへと新しい風景がひろがる。そこから千差万別の線が生れる。」(t376)

 ナポリ。3月23日、ハラー、シュモル、アルトヘルとナポリへ。到着早々サン・カルロ劇場でオペラ観劇。栄光と悲惨、豊と貧困、光と影、あらゆる種類の明と暗が平然と共存しているナポリに強烈な印象をもつ。水族館の魚の無限に変化する形態に驚き、また国立考古学博物館ではポンペイから出土した古代壁画を熱心に見た。「とくにいまの私は、このヘレニズムの芸術を身近に感ずるのだ。影の扱い方など私自身こうではないかと前に予感したとおりなのだ。…この画は、私のために描かれたのだ。私のために発掘されたのだ。」(t391)しかしなにより、すでにジェノヴァで目覚めたクレー生得の南国への憧憬がナポリの風光で完全にみたされる。「血のしたたるように赤く燃える太陽。深い海。斜めに傾いた帆かけ舟が海面に浮いている。つきることのない素材。自分自身分かちがたくこのなかに融け切ってしまいそうだ。人間であること。古典古代的であること、すべて幼稚で、無にすぎぬ。それにもかかわらず幸福なのだ。」(t392)

 ポンペイ。4月1日、カスパールがおくれて到着し、以後ふたりでポンペイ、ソレント、アマルフィ訪問。

 ローマ。4月7日、ローマへ戻る。4月10日、ハラー、シュモルとともにティヴォリへ遠出。(ヴィラ・デステ・ハドリアヌス離宮)「夕やみ迫るころ、すべては厳粛で地味な色彩に沈みこむ。ふつうイタリアというと、けばけばしくどぎつい色を思いうかべるが、それはここには少しも見いだされない。この控えめな落ついた色には、倫理的な迫力がある。」(t397)→(f124)「アマルフィで初めて意識された東洋風の印象─ドーム。…ティヴォーリ近辺にあるハドリアヌス帝離宮の風景の優雅さと物静かな色調とが、はっきりぼくの心に刻みこまれたので、ぼくの色彩感覚はふたたび確かになったように思われた、いうまでもなく、将来のための投資といったもの以上の体験だった。」(f12-13)

 フィレンツェ。4月16日、フィレンツェへ到着。ハーグ夫人経営のヴィラ・デイ・ベンチに止宿。4月17、18日、ウフィッツィ美術館。ボッティチェリの『春』をみる。「こんなにすばらしい画だとは、いままで夢にも思っていなかったのだ。その見事さにいまさら心を打たれる。」「ボッティチェリの方がむしろ色彩画家であり、またマンテーニャとくらべてもさらに色彩的である。」「ボッティチェリは、小品のなかで色彩をきわめて弱いコントラストに還元する。かくて、ここに無色彩性ともいうべきものが生れる。それは、いかなる官能的な色調におきかえることもできず、汚れのない愛の表現のように、それ自身内側から静かに光り輝いている。」(t403)と、以外に好意的。4月23日、考古学博物館で「すばらしいエジプト、エトルスク、またゴブランのコレクション」をみる。(t404)4月25日、国立バルジェッロ美術館。ドナテルロ。「もっとも興味をひかれたのは、ドナテルロだ。洗礼者ヨハネの立像は、完璧なスタイルを見せている。古代ギリシア・ローマやバロックよりもはるかに強い感銘を私に残したのは、本当はほかならぬゴシックだったのだ。」(t406)「バロックがぼくを驚嘆させた。それからフィレンツェで発見したゴシックは、ぼくの心を奪った。その結果は、一九〇三年から六年にかけて制作したぼくの銅版画にさえも、ゴシック的古典的な跡をとどめた。」(f11)

 5月2日、フィレンツェをたってベルンへ。イタリアでのもっともおおきな感想は、「いま、私は古代ギリシア・ローマの偉大な文化と、そのルネッサンスを概観できるようになった。ただこれらは、われわれの生きている時代となんら芸術のうえで関連がないように思われる。いま反時代的な活動をしても、それはただ荒唐無稽と思う。」(t294)や「古代イタリアは、私にとっていまでも大切であり、また私の中心だ。しかし、いまこの土地へきて、現代が古代イタリアと隔絶しているのを見れば、何となく淋しい。」(t371)に代表される、西洋文明衰亡にともなう過去と現代の断絶感だろう。それを踏まえて、しかし成果があったことを、たとえばこんな風にクレーはいう。「イタリアでは、造形美術の建築学的なもの─私の関心はあくまで抽象芸術であった。─を把握した(いまなら《構成的なもの》と呼ぶべきか)。次の目標は─それはまたはるかかなたの目標でもあるが─建築学的な絵画を詩的な絵画と調和させる、─少なくとも関連づけることである。」(t429)

 ベルン
 決意。「私は、初歩の初歩から始める。画について何も知らないつもりで、まず形をとることから始める。」(t425)

 ミュンヘン。7月19日ー28日。リリーとシュタルンベルク湖のオーバーペキンへ旅行、最後はミュンヘンに滞在。

 ミュンヘン。9月20日ー30日、ミュンヘンでリリーに会い、イザール渓谷バイエルブルン、コンラーツヘーエ、ブーラッハに遊ぶ。徴兵局に出頭。

 オーバホーフェン。10月、トゥーン湖畔のオーバホーフェンへゆく。

 ベルン。10月、ベルン音楽協会の非常勤ヴァイオリン奏者となり、ヌーシャテル、ブルクドルフなどスイス国内を巡遊。

1903年  24歳
 ベルン

 オーバーホーフェン。4月、オーバーホーフェンで休暇。
 シュヴァルツェンブルク。5月、ハンス・ブレッシュとシュヴァルツェンブルク、グギスベルク、グッゲルスヘルンリへ旅行する。レヒトハルテン─フリブールを経由してベルンへ帰る。

 ミュンヘン。5月28日ー6月14日。徴兵検査のためミュンヘンへ。5月30日、「予備徴員」ときまり、以後は分離派展をみたり、リリーと会ってポッセンホーフェンへ行く。

 ベルン。最初の銅版画『樹上の処女』、『喜劇役者』。この後1906年まで主として銅版画制作に集中。

 ベアーテンベルク。11月9−11日。休養しベアーテンベルクへ登山。

 ベルン。12月、「イタリアで建築芸術の理解を深めてくると、ものを見る目が肥えてくるのが、自分でもすぐわかるのであった。どの建物も実用のために建てられたのに、そこにあらわれている芸術は、ほかの芸術分野の作品にくらべて、はるかに調和のとれた純粋さを保っている。この空間の有機的構造というのは、どんな先生にならうのよりも大きな収穫であった。」(t536)

1904年  25歳
 ベルン
 「しかしイタリアは、まだ十分消化しきれず、長いあいだ足手纏いとなった。便秘した頭脳の圧迫感。思い切って自由な行動ができなかったのは、やはり「自然」のせいであった。」(t555)「まだ時は熟さぬ。戦いと敗北の糸毬の縺れはまだ解けない。」(t564)

 ムルテン。4月、ブレッシュ、ロートマルとラウペン─ムルテンに旅行。

 オーバーホーフェン。4月下旬、トゥーン湖畔のオーバーホーフェンで休養。

 リーギ山。5月、ブレッシュとトゥルネンからリーギ山へ登る。

 オーバーホーフェン。6月末、マックス・ブラックを同行し、トゥーンを経てシュトックホルンへ登山。エルレンバッハ─ヴィンミス─シュピーツから船でオーバーホーフェンへ渡って魚釣りをする。

 オーバーホーフェン。8月中旬、リリーとともにオーバーホーフェンを基点にインターラーケン─ラウターブルンネン─ヴェンゲン─ヴェンゲル・アルプ─グリンデルヴァルト、ベアーテンブルク。またジュネーブに旅行、ローザンヌ、モントルーにも立ち寄る。

 ミュンヘン。10月15日ー25日。ミュンヘンに滞在。ビアズリー、ブレイク、ゴヤなどをみる。とりわけゴヤの『プロヴェルビオス』『ロス・カプリチョス』『戦争の悲惨』に感銘をうける。

 ベルン
 この年から翌年にかけて『女と獣』『王政主義者』『ペルセウス』『翼ある英雄』『年老いた不死鳥』など次々に銅版画が生れる。

1905年  26歳
 ベルン
 3月、この頃ブレッシュとスペイン旅行を計画する。「ぼくはマドリード(プラード)とトレドとエル=エスコーリアルを見てこようと思っているのです。…スペインに期待するものにくらべたらパリもロンドンもベネチアもその比ではありません。行くとしたら五月になると思います。」(b215)しかしこの計画は実行されなかった。

 オーバーホーフェン。「聖週間の終り近くまで一週間、…父と過す。…この湖は、復活祭のころとくに美しい。」(t621)グンテン、メルリンゲン、トゥーン、アイニゲン、シュピーツと、トゥーン湖周辺を踏破する。
 パリ。6月1日、ハンス・ブレッシュ、ルイ・モワイエと初めてのパリ旅行。ルーヴル美術館とリュクサンブール美術館に連日のようにかよい、ダ・ヴィンチ、ゴヤ、ヴェラスケス、ティントレットからマネ、モネ、ルノワールに関心をもつ。また一般公開のパンテオン内のシャヴァンヌ作の壁画をみる。(t644)「(ヴェラスケスより)ゴヤの方が、はるかにこのもしい。灰色から黒へ移っていくすばらしい色彩。その中間に、繊細な薔薇のような肉色の色合い。親しみのもてる画面の大きさ。レオナルドの系統。それ以上どのような系列に属するか、調べる気を起させない。」(t645-649)ゴヤへの関心はリリーへの手紙にもみえる。「最近の最大の造形的印象といえばシモンとゴヤ、ロップスには純粋に造形的というよりも文化的な興味がそそられます。それに反してゴヤは造形的な意味でもまたぼくの心をいっぱいにしてしまいます。かれはその真価が認められるのにこれからも先長いあいだかかる唯一の芸術家です。レオナルドやヴェラスケスやデューラーなどに匹敵します。銅版画家としてはレンブラントと肩をならべ、さらにかれには近代的な感覚、あらゆる意味での革命的な性格があります。」(b234)

 ベルン。6月14日、初のパリ旅行をおえてベルンへ戻る。この前後からガラス絵の制作はじまる。

 オーバーホーフェン。7月、「二,三日を過す」(t662)このすぐあと『日記』には「オーバーホーフェンでの幸福なひととき。知もなく徳もない。浮世を離れて浮世を眺める。自然のふところに懐かれて眠る幼児。わが生涯において、はじめて乖離を忘れるこのひととき。」(t714)とあるが、クレーにとってオーバーホーフェンとは、およそそんなトポスだった。

 ベルン。7月、「絵というものは、たとえいかに純粋な絵そのものとして描かれようとも、つきつめてみれば、もはや絵ではないのだ。それは象徴なのだ。幻想の線が画面に投影され、高い次元に深くくいこめばくいこむほど、ますますすばらしい画となるのだ。」(t660)「対象そのものには、たしかに生命がない。大切なのは、ある対象を目前にしたときの心の動きなのだ。」(t670)「自然を動かしているその根源の法則が大切なので、これは、他ならぬ芸術家によって折にふれて発見されるものなのだ。」(t677)

 レマン湖。8月、リリーと旅行。モントルー、ヴィルヌーヴ、サン・モリスなどレマン湖方面。またロイク、ゲミ、カンダーシュテーク、フルーティゲン一帯やインターラーケン、ブリエンツ、ロートホルン周辺へもゆく。

 ベルン。12月、リリーをチューリッヒまで迎えにゆき、クリスマスをともにすごす。オーバーホーフェンへゆく。

1906年  27歳
 ベルン
 「私は著しい進歩をとげた。というのも、自然とむかいあっても、自分自身のスタイルがくずれぬようになったからなのだ。私はいまやものを生み出すことができる。苦渋にみちた孤独な戦いは終わった。」(t756)「私は、「自然」をじかに自分のスタイルに移しかえることに成功したのだ。…なんでもクレーとなるのだ。」「色彩の領域でも、いつかこの境地に達することがあろうか。とまれ、道はひらかれたのだ。」(t757)
 リリーとベルリンに住む計画をたてたが、実行におよばず。

 スギーツ。3月、ブレッシュとヴィステンラッハ(ヴィーイ)山に登る。(地図あり→b257)

 バーゼル。3月、演奏会のためにヌーシャテルからバーゼルにゆき、フランス美術展でカリエール、ルノワール、モネ、ドガ、ロダンをみる。

 ベルリン。4月、ブレッシュとともにバーゼル、フランクフルト、フルダ、エルフルト、ワイマール、ハレをとおって、9日ベルリン到着。国立画廊、ベルガモン博物館、カイザー・フリードリッヒ美術館をみる。16日、ひとりでベルリンを離れ、途中リリーと、そして18日、カッセルで再びブレッシュと合流、レンブラントのコレクションをみる。23日にゲーテの生家を見物した後、24日、ミュンヘンにかえるリリーを見送ってクレーはカールスルーエに。そこの美術館で「クラナッハの美しい何点かの肖像画、ベックリン」(b260)、そしてなによりグリューネヴァルトの『キリストの磔刑』をみて感激、その日バーゼルをへてベルンに帰還。

 ベルン。ゴヤへの親近と闘い。「ゴヤは、私のまわりに幽霊となって出没。これが、間違いのもとだったのだ。私はゴヤを克服しなければならない。」(t768)

 トゥーン。6月初、トゥーンに滞在。ロートマルとシュピーツからライシゲンへ。

 ミュンヘン
 9月15日にベルンでリリー・シュトゥンプフと結婚。10月1日、二人はミュンヘンのアマーリエン通り32番地の2に移る。

1907年  28歳

 ミュンヘン
 ハイネマン画廊の印象派展でマネの『アプサンを呑む人』に注目。「私がトナリテにまた興味を覚えだしたのは、この作品に感銘したためなのだ。」(t785)6月、「トナリテということがわかった。瞼をひくひくとさせながら、私は目を細める。(もっと早く、誰が先生が教えてくれていたらよかったのに……)なぜ木炭で描くのか、いま、その理由もわかった。」(t793)

 ベルン。8月ー9月、ベルンで過ごす。

 ライシゲン。9月、リリーと「しばらくライシゲンですごす。」(t796)

 ミュンヘン。11月30日、長子フェリックス誕生する。この頃、夏は毎年のように、ベルンの生家ですごす。

1908年  29歳

 ミュンヘン
 遅々として進まない色彩の進歩に不安をかかえながら、「トナリテ」の考えははっきりと暗中模索をぬけて結実しはじめる。「トナリテ(着色あるいは無色)と色彩術とを区別できるようになった。つかめた!」(t811)「私は、偶然的なもの、言葉をかえれば「自然」から自己をとき放つことに成功した。素描でもトナリテでも、自然を離れて自由自在に振舞えるようになったのだ。」(t813a)3月、ブラークル画廊とツィンマーマン画廊でゴッホ展をみる。ゴッホについて。「いまの私は、ゴッホにしきりと共感をおぼえる。正確に言えば、書簡のなかに姿をあらわす《ヴィンセント》に心がひかれるのだ。ゴッホこそ新しい時代の画家である。」(t804)「病的《pathologisch》にまでパトス的《pathetisch》――この危険に曝されたゴッホは、ゴッホ全体を把握できないものには危険をもたらすであろう。頭脳は、星辰の烙印のもとに苦しみもだえている。しかし、作品のなかでは、破局寸前でみずからを救っている。ここに演ぜられているのは、最高の悲劇なのだ。」(t816)

 ヴァルヘン湖。4月、コッヘル、ケッセルベルク、ヴァルヘン湖へ旅行。

 ベルン。8月6日、クレー一家はミュンヘンからベルンへ。12日から29日まで、ベアーテンベルク、ゲメンアルプホルン、ニーダーホルン、など登山。(t835)

 グギスベルク。9月8日、リリーと、ランツェンホイザー─グラースブルク─シュヴァルツェンブルク─グギスベルク。またリリー、ブレッシュ、ロートマルとライヘンバッハへ。

 ビール湖。10月、父とノイエンシュタットへ。エルルラッハで魚を釣る。

 ミュンヘン。10月19日、ミュンヘンに帰る。トナリテと線描。「一九〇七年のある日迷い込んだ装飾芸術の袋小路から、私はとうとう抜け出ることができたのだ。自然主義的な習作で腕を磨いた私は、いままた、魂の即興画という、私本来の領域に足を踏み入れることが許される。…自然はもはや間接的な役目しかはたさない。…」(t842)
 12月8日、ファイリッチュ通り3/4番地2に新しいアトリエを借りる。

1909年  30歳
 ミュンヘン
 3月、ミュンヘン分離派展出品のセザンヌをみる。「セザンヌのものを8点見る。セザンヌは、ファン・ゴッホにもまさるすばらしい私の先生となりそうである。」(t857)「分離派展出品のセザンヌ、これまでにおける最大の絵画的事件。ゴッホ以上に高く評価」(f21)

 ベルン。6月ー10月、病後のフェリックスの予後治療のためベルンで暮らす。この間、ベアーテンベルクに二回、そしてヴォーレン、フリースヴィールフーベル、アールベルク、ゲメンアルプホルン、グンテン=シグリスヴィール、ユスティス渓谷などへ遠足。(t858)この頃、独自のスタイルが確立し、自然を扱う手つきも自由になる。リリー宛手紙。「なまの自然を相手に描いているのですが、ただこの自然からぼくが必要とするのはほんのわずかだけ。そしてぼくの絵を自然とみなして眺めることがしばしば。絵の方が決定的に重要な位置を占めているのです。」(b285)

 ミュンヘン。12月、ブラークル画廊で大規模な「ゴッホ展」をみる。

1910年   31歳
 ミュンヘン
 一進一退の攻防。「素描と色彩が結合したスタイル」(t875)の探求に疲れ、「戦いを中断して、「線そのもの」という基本に戻るべきか。」(t877)と躊躇う。ともあれ「油絵はまだ描けないのだ。」(t872)

 ベルン。7月、個展の準備のためベルンへ。 8月、クレー初の個展がベルンの美術博物館を皮切りにチューリッヒ、ヴィンタートゥール、バーゼルと巡回。8月ー9月、クレーはベルンですごす。(t881)ムルテン近くのスギーツ、ブロイエ河で魚釣り、ヴィーイ山登山。リリーとベルプ山、レンゲン山を歩き、ベアーテンベルクで数日をすごす。またギュルベ河─ベルプ湿地帯、ケールザッツ─ヴァーベルン。

 ミュンヘン。12月、ミュンヘンにもどる。

1911年  32歳
 ミュンヘン
 1月、アルフレート・クービンが来訪。 再びゴッホについて。「いま、私にはファン・ゴッホがわかりかけてきた。」「印象主義につちかわれながら、しかも印象主義を克服する線がある」「私の画には、ひっかきむしった傷あとのように勝手気儘にとびはねる線と、それを押さえつける太い輪郭の線がある。いまゴッホの線を目の前にすると、この二つが一つにおさまっていくのを感ずる。私は大きく成熟してゆくのだ。入り乱れた細かな線は、太い線に跡方もなく呑みこまれてしまう。」(t899)6月、前年の巡回展の規模を小さくした個展をタンハウザー画廊でひらく。

 ベルン。7月末からベルンに滞在。トゥーン湖、ビール湖。ベアーテンベルクで2週間を過ごす。
 9月、ルイ・モワイエの紹介でアウグスト・マッケと知りあう。

 ミュンヘン。10月、やはりモワイエを通じてカンディンスキーと知りあう。12月、タンハウザー画廊で第1回「青騎士展」ひらく。ロベール・ドローネーの作品に強い印象をうけてグループに参加。

1912年  33歳
 ミュンヘン
 2月、ゴルツ書店の『青い騎士』第2回展に版画を出品。

 パリ。4月2日ー18日、リリーと二度目のパリ旅行。11日、かねてから関心をもっていたドローネーをカンディンスキーの紹介で訪問。また、ノートルダム、サクレ・クール、ルーヴル美術館、ルクサンブール美術館のほか、W・ウーデのコレクションからルソー、ピカソ、ブラックを、カーンヴァイラーのところでドラン、ブラマンク、ピカソを、ベルネーム=ジュヌでマチス、ゴヤを、それぞれ感銘深く見た。デュラン=リュエルの自宅も訪ねる。

 ベルン。夏をベルンで過ごす。叔母のいるフィルターフィンゲンからグンテンへ。ルツェルン─ヴェギス─チューリッヒ、フィーアヴァルトシュテッテル湖─アンダーマット。(t913)

 ミュンヘン。ドローネーから手紙と論文が送られる。この論文「光について」はクレーの翻訳で翌1913年に雑誌『デア・シュトゥルム』1月号に掲載された。この頃マルクを通じてヘアヴァルト・ヴァルデンを知った。ヴァルデンは3月ベルリンにシュトルム画廊をひらいて活発な活動をはじめたばかり。10月、タンハウザー画廊でひらかれたヘアヴァルト・ヴァルデン主催の未来派展を見る。10月、オデオン広場に開かれたゴルツ画廊のオープニングに出品。

1913年  34歳
 ミュンヘン
 「私は、ただ線だけで描く。物質のくびきからときはなたれた、純粋な精神の表象である線を用いて描く。よけいな分析的なものは切り捨て、大胆直裁に本質そのものに迫る。」(t920)

 ベルン。12月、クリスマスの休みはベルンですごす。フェリックスがインフルエンザにかかり、そのまま翌年1月末まで滞在。

1914年  35歳
 ミュンヘン

 チュニス、サン・ジェルマン、ハマメット、カイルアンなど北アフリカ旅行。4月3日、フェリックスを祖父母に預けるためベルンへ。4月5日、ベルンでルイ・モワイエ、アウグスト・マッケと合流、ジュネーブ─リヨン─アヴィニョン─アルルと通過してマルセイユ到着。4月6日、マルセイユから「カルタゴ」号で出帆。

 チュニス。4月7日、チュニス港に到着。ベルン出身の医者イエギの家に投宿。「ドクターの案内で、夜のアラビアの町を散歩する。物質と夢が、時を同じくしてある。第三のものとして、この私という自我が、何の不自然さもなくそのあいだに入っている。」(t926e)4月8日、「頭の中は、昨夜の印象で一杯だ。芸術─自然─自我。すぐに仕事にとりかかり、アラビア人街で水彩画を描く。都市建築と絵画建築の綜合をもくろむ。」(t926f)4月12日。サン・ジェルマン、「夕暮れの美しさは、筆舌に尽くし難い。かてて加えて、満月がのぼる。…この自然を前にしては、私は無にひとしい。」「この夕暮れは私の心の奥底深くしみわたって永遠に消え去ることがないであろう。北の国にブロンド色の月がのぼるのを見れば、私はこの南国の月を思い出すであろう。…」「自分の姿を見出すとは、すてきなことだ。私自身は、南国の月の出なのだ。」(t926k)、シディ=ブウ=サイド、カルタゴの遺跡。

 ハマメット。4月14日、チュニスから汽車でハマメットへ。「町はすばらしい。海にのぞみ、道はくねくねとまがるかと思うと直角に折れ、また蛇のようにまがる。ときどき城壁の上に登って海を見る。…ここでは、墓地にも自由に入れる。海に面して、美しい墓地が一つある。家畜が二三匹草を喰んでいる。何と魅力のある風景か。私は、筆をとって画に写そうとした。蘆と藪が美しいリズムの縞をなしている。」「夕方、キャフェにいると、盲目の歌手が入ってくる。少年がタンバリンを鳴らしながらつきそっている。永遠の旋律!」(t926m)「私は腰をおちつけ、いままでと調子をがらりとかえて、あくまで自然に忠実に、水彩画を描く。」(同)「それとも、チュニスの乞食が二人で唄った、すばらしい二重唱をもう一度きけたらいいと思う。人ひとり通らぬ白い小路、ひるさがり堅く閉じた家の門のまえだった。一人が問うと、一人が答える。それから二人で、二、三拍子声をあわせて歌い、最後に思いかけず突然、低く声が消えてしまう。…」(t1122)

 カイルアン。4月15日、カイルアンにつく。旅の感興は頂点に。「まず、大いなる恍惚。その最高潮は、夜中のマリアージュ・アラブだ。ここには個人というものなど微塵もない。あるのはただ全体のみ。そしてまた、すべての個を超える全のすばらしさよ。千一夜物語の心髄。そしてまた、その九分九厘までが現実にここにあるのだ。」(t926n)
 4月16日、「私は、いま仕事を止める。なにか知らぬが、心深く、なごやかに染み渡るものがある。それを感ずると、私の心は、安らぐ。齷齪するまでもない。色は、私を捉えた。自分のほうから色を探し求めるまでもない。私には、よくわかる。色は、私を永遠に捉えたのだ。私と色とは一体だ。」(t926o)イタリア旅行のとき、すでに卵胎してきっかけを待っていた色彩の発見。このあとクレーは、せっかく掬った水を手からこぼさせまいと帰心を募らせる。

 チュニス。4月19日、多数の水彩画を携えて、ひとりだけで乗船、パレルモにむかう。パレルモ─ナポリ─ローマ。ローマからフィレンツェ、ミラノを経由して、4月22日ベルンへ到着。

 ミュンヘン。4月25日ミュンヘンへ帰還。この頃、「創造的なのは、まさに途中の過程であり、これこそもっとも大切なもので、生成(Werden)は存在(Sein)にまさる。」(t928)「神秘の合唱を生み出すこと。それは何百人としれない子供によって合唱される音楽なのだ。ひとたびこの神秘の音楽を発見した人間は、あくせく骨を折るまでもない。私は次から次へとたくさんの作品を描いているが、すべては、この神秘にいたるためなのである。」(t933)
 8月、第1次世界大戦勃発。友人のマッケ9月26日戦死の報をうけて悲嘆する。

 ゴルダッハ。9月末、クレーはリリー、フェリックスとともに、スイスに難を避けたカンディンスキーをボーデン湖畔のゴルダッハに訪ねる。

1915年  36歳
 ミュンヘン
 第一次世界大戦をめぐるクレーの終末論的危機感。「この世が恐怖に充ちていればいるほど(まさに現在の如く)、芸術は抽象的となる。此岸的な芸術は、幸福な時代に栄えるものなのだ。私たちの生きている時代は、過渡期である。昨日の世界から今日の世界への移行なのだ。」(t951)
 フランツ・マルクがミュンヘンに戻った折り、ベネディクトボイエルン近郊のリードで会う。

 ベルン。夏をベルンですごす。シュトックホルン山に登る。グンテンに逗留する。レマン湖畔のサン・プレに住んでいた、ヤウレンスキーとヴェレフキンに会う。

 ミュンヘン。11月、クレーを中尉となったマルクが訪問。マルクは翌年3月4日、ヴェルダンで戦死する。

1916年  37歳
 ミュンヘン

 ランツフート。ついにクレーも召集され、3月11日ドイツ陸軍に入隊。ミュンヘン東北のランツフートヘ配属。ガーベルスベルガーホフ部隊の新兵訓練の合間にはヴァイオリンを手にとったりする。リリーとフェリックスが面会に来た4月16日の数日前にクレッツルミュラー通り16番地に部屋を借りる。復活祭休暇をミュンヘン近郊ヴィースゼーで過ごす。

 ミュンヘン。7月20日、配属換えでミュンヘンへ。マックス高等学校内第2予備軍歩兵連隊第1補充中隊。すこしずつ軍隊生活にも慣れ、部隊内でクレーが画家であることが知られはじめる。自己表現ではなく呪術としての芸術論。「先ず自己を全体のなかへ解消させてしまう。」「人間、動物、植物、岩石、四大の霊、はたまた輪廻の輪をえがくもろもろの力─これらすべてがあることのできるための呪文を、私はとなえる。」「私の作品に描かれる人間とは、人間という種とか類ではない。それは、宇宙の座標といったらよいであろうか。…」(t1008)

 シュライスハイム。8月、シュライスハイム航空予備隊、格納庫中隊へ転属。

 ケルン。11月13日、飛行機輸送の隊長としてケルンへむかう。16日ケルン到着。任務終了後、博物館でボッシュ、ブリューゲルなどをみた。18日、シュライスハイムへ帰還。

 ブリュッセル。11月27日、第二回目の陸送。ケルンからアーヘンを通ってフランスのオーモン─サン・カンタン─カンブレ─ビュシニ─そして目的地エシニ=ル=プティ。帰途ブリュッセルを経由し、ナミュール─ルクセンブルク─メッツ─シュトラースブルク─カールスルーエ─シュトゥットガルト─ウルム─ミュンヘン。12月12日到着。(t1026a)リリー宛手紙はいう。「すべて順調にすらすらと運んでいます。ぼくたちはベルギーの奥深く入ってシャルルロアにいます。幻想的なスタイルの石炭の町。何と印象的。そしてまた滅茶苦茶に射ちくだかれた城壁、人工のボタ山、交通施設。夜、国境を越えました。小さな山こぶの多い地方。汽笛が鳴るごとにトンネル、リエージュ、ムーズ川にそって。せまい運河に小さな蒸気船、船を一生懸命引張っている。ナミュール…ゲレオンから混成列車となって目的地はベルギーとフランスの国境。そこでばらばらに切り離されて各前線にむかうというわけです。」(b347)

1917年   38歳
 シュライスハイム

 ノルトホルツ。1月4日から、ノルトホルツのクックスハーフェン空軍基地へ飛行機の第三回輸送。ライム─ゲッティンゲン─ハノーヴァー─ブレーメン─ゲーステミュンデ─ハンブルブ─ベルリン─ライプツィッヒ─ホーフ─(t1043)輸送中中国の短編小説をよみつづける。帰途ベルリンでヘアヴァルト・ヴァルデン、ベルンハルト・ケーラーを訪問してそのコレクションを一覧する。

 ゲルストホーフェン。1月16日、第五航空学校へ転属となり、アウグスブルク、ガブリンゲンを経由してゲルストホーフェンへ。「いまでは、仕事らしい仕事もない。私はたくさん読書ができ、ますます中国風になる。李太白の詩の訳は、あまりにも軽佻だ。クラブントは、ときどきこのような悪い癖を出す。小説の訳だって、あまり信用できない。」(t1054)2月、書記となって会計局へ移転。これでマルクやマッケのように戦死の危険からは遠ざかった。事務室は晩以降クレーのアトリエと化す。悪条件のなかでクレーの造形思考はかえって成熟した。7月、「昨晩は、うまく絵が描けた。微細画の様式の水彩画が生れた。べつに目新しいものではないが、いままでに描いた微細画の作品にちょうとうまくマッチする。…いま、この恵まれていない環境の下で、どれだけこの構想を実現できるか、わからない。しかし、たとえ刹那であれ、機が熟していれば、それまで考え抜いたことはたちまち形をとって生れ出るのだ。」(t1079)版画も準備する。「私は、来るべき未来を予想して、研究しているのだ。あまり早く目的地につかぬほうがよい。のぞんだものを手に入れたときほど、危険な瞬間はないからである。」(t1080)また、時間を空間に変換するポリフォニー絵画の萌芽が育つ。「ポリフォニー絵画は、音楽より優れている。そこでは、時間的なものはむしろ空間的であるからなのだ。同時性という概念が、ここでははるかに豊かにあらわれている。」(t1081)

1918年  39歳
 ゲルストホーフェン
 3月、上等兵に昇進。夜は作品制作の時間にあてる。ゲーテを読んで感心。すでに前年の日記「一切の無常なるものは只映像たるに過ぎず。目に見えるものは、仮の提言であり、可能性であり、代用なのだ。まことの真理は、目に見えず奥底ふかく隠れている。」(t1081)にもゲーテが響くか。この頃から作品が売れだし芸術家として自活する自信もうまれはじめる。いっぽう膠着状態だった戦争はドイツの敗色が濃厚になる。11月、「戦闘機部隊が到着したので、ごったがえしている。身の毛もよだつような敗戦の話。この大混乱を前にすれば、私のつつましやかな部屋は、このうえない平和に溢れている。」(t1132)こういう雰囲気のなかで『日記』にはクレー芸術の核心、「芸術では、見るというのは、見えるようにすることほど、大切ではない。」(t1134)が現れる。

 ミュンヘン。12月、クリスマス休暇でミュンヘンに帰還、そのまま翌年2月除隊。

1919年  40歳
 ミュンヘン
 この年ミュンヘンでは革命の機運が最高潮に達するが、クレーは、アルトシュヴァービングのヴェルネック通り1番地《シュレーヌ》にアトリエを借り、油彩にむけて制作が本格的にはじま・驕B「部屋からは、洞穴や曲がりくねった道のある原始的な公園やそれに隣接したイギリス公園が眺められた。…パウル・クレーは、毎日午前と午後、事務所へゆくように正確に、この新しいアトリエへ通った。」(f55)

 ベルン。6月ー7月、4月に成立したバイエルン・レーテ共和国の崩壊にともない、クレーは厄介を避けてベルンで制作。

 チューリッヒ。6月、アルプ、トリスタ・ツァラ、など「ダダ」のメンバーと接する。

 ミュンヘン。ミュンヘンへもどったクレーは10月、ゴルツ画廊と契約。

1920年  41歳
 ミュンヘン
 5月、ゴルツ画廊で大規模なクレー展。

 ポッセンホーフェン。1920年から22年まで、毎夏避暑のためミュンヘン郊外ポッセンホーフェンのシュタルンベルク湖畔に家族で行く。

 アスコナ。9月、ヤウレンスキーをアスコナに訪問する。

 ワイマール。11月、ワイマールのバウハウスからの招聘をうけ、グロピウスに会う。「9月、私の両親はアスコナにいる友人ヤウレンスキーとヴェレフキンのところへ行った。そのとき、ヴェイマルの国立バウハウスに父を招聘するという電報が来た。…ヴァイマルにはすぐ住居が見つからなかったので、父は最初のうち二週間ごとにヴァイマルとミュンヘンを往復した。」(f57)

1921年  42歳
 ワイマール─ミュンヘン
 1月、バウハウスでの教育活動開始。住居がみつからないので、ミュンヘンとワイマールのアム・ホルン39番地の宿「ハウス・ツア・ゾンネ」を2週間ごとに往復。3月、ハウゼンシュタイン著『カイルアン、あるいは画家クレー』出版。母宛の手紙でいう。「レオポルト・ツァーンの〈パウル・クレー〉が出て、本屋に積んでありますが、出版社からぼくのところにまだ送ってきませんので、そちらにお届けできません。もう一冊の、ずっとすてきなクレーの本は、〈カイルアン、パウル・クレーと今日の芸術の物語〉という題で、ヴィルヘルム・ハウゼンシュタインの書いたものです。著者用の分がやっと刷り上がったところで、著者はぼくにすぐ送ってくれたので、早速読みましたが、なかなかよくできていると思います。」(b392)

 ベルン。3月、母イーダが逝去。

 ポッセンホーフェン。夏をシュタルンベルク湖畔ですごす。「日曜日には、近くのミュンヘンから、たいてい招かれざる客が押しかけてきた。そのため父は陸路ペッキングの─そこは本来中国にあるはずだというのが彼の意見だったが─マイジンガー湖に近い沼沢地へ散歩に出かけた。」(f57)

 ワイマール。9月、ミュンヘンからワイマールのアム・ホルン街53番地に移転。

1922年  43歳
 ワイマール

 ポッセンホーフェン。夏、G・フィッシャーのもとに滞在する。

1923年
 ワイマール
 8月、「バウハウス展」がひらかれる。『国立バウハウス・ヴァイマール1919-1923』に「自然研究への道」を発表。

 バルトゥルム。9月、「バウハウス展」を通じて知りあったブラウンシュヴァイクの蒐集家オットー・ラールフスのすすめで、ドイツとオランダの国境近くにある東フリージア諸島のひとつバルトゥルムへ妻子と旅行。3週間ほど滞在する。進歩の時間が停止してしまっているこの風の強い島の、海面すれすれの砂丘には見渡す限り浜麦が群生して、その超植物的な運動感から多くのヒントをえた。

1924年  45歳
 ワイマール

 イエーナ。1月、イェーナ芸術協会で「クレー展」。『現代芸術について』を講演。

 シチリア島、タオルミナ。リリーとともに9月1日ワイマールを出発、ベルンを経由し、ジェノヴァで乗船。シチリアにはカターニャから上陸し、シラクサ、ジェラを観光、そこから北上し、タオルミナのマッツァロに二週間滞在。メッシーナから船で本土へ渡り、鉄道でサレルノ─ナポリ─ローマ。ローマで旬日をすごし、フィレンツェ─ミラノ─ベルン─ワイマール。

 ワイマール。11月1日、ワイマールに帰還。12月、バウハウスが閉鎖される。

1925年  46歳
 ワイマールーデッサウ
 4月、ワイマールのバウハウスの閉鎖をうけて、バウハウスはデッサウにうつる。クレーは宿舎ができるまでワイマールとデッサウのあいだを二週間ごとに往復した。デッサウでは(一時期)モルトケ通り7番地のカンディンスキーの借家に同宿する。

 デッサウ。10月、バウハウス叢書として『教育的スケッチブック』刊行。
 この年、5月、ミュンヘンのゴルツ画廊で二度目の大規模なクレー展が開催される。7月、ブラウンシュヴァイクで、オットー・ラルフスが「クレー協会」を結成する。

1926年  47歳
 ブラウンシュヴァイク。1月、ラールフス「若き芸術愛好家協会」主催のクレー展開催のため来訪。展覧会前日ヴォーリンガー講演「見ることと観ること」を聴く。

 デッサウ
 7月、クレー一家はデッサウのブルクキューンアウエル通り7の共同住宅にはいる。ここには他にグロピウス、ファイニンガー、カンディンスキーなども住む。クレーのアトリエは広く、「父の仕事部屋は、ほとんど正方形で、主な壁は黒色だった。この部屋で大型の絵が多くでき上がった。部屋が広かったことが、おそらく、クレーの芸術に新たな展開を与えた直接の動機だった。」(f61)オラニエンバウムやヴェルリッツへの遠出。「三十分ばかり離れたところに、造園術の真の奇跡、ヴェルリッツがありました。かつてのデッサウの城主はすばらしい公園を造ったのです。花の女神をまつったお寺や、山登りの岩や、人工のヴェスーヴィオ火山のそばを、クレーが逍遙しない月はありませんでした。」(tp447)「そこはまさにパウル・クレー本来の領域だった。私たちは、植物や水流をテーマにした彼の絵の多くから、彼のヴェルリッツ公園散歩を推測することができる。」(f62)

 エルバ島、ポルトフェライオ。妻リリー、息子フェリックスとともに8月24日デッサウを出発して、ミラノ─ジェノヴァ─リヴォルノ。船でエルバ島のポルトフェライオ。マガッツィーニに3週間滞在する。帰途はピサ─フィレンツェ(ドゥオーモ近くのナルディニ館に宿泊。ウフィッツィに日参。)─フィエゾーレでベックリンの別荘を訪問─ボローニャ─ラヴェンナ。ラヴェンナ。かつてビザンチン帝国の支配下にあった、この町の教会はサン・ヴィターレをはじめ堂内をモザイクで飾られ、「おそらくイタリアらしくないこのラヴェンナの町には、色彩鮮やかなビザンチンのモザイクがあり、それはクレーに特別の魅力を与えた。一九三〇年に始まった彼の点描風な時期は、その主な刺激をおそらくラヴェンナのモザイクから得たのである。」「私たちは馬車でテオドリックの墓とクラッセの立派なサン・アポリナーレ教会へゆき、さらに…海辺へでた。そのさい、広い運河に浮かんでいる、独特の絵をかいたいろんな色の帆船をみて、その美しさに感嘆した。」(f66)ミラノ─ベルンを経由してデッサウにもどったのは、10月29日。

 デッサウ。12月、グロピウス設計のバウハウス校舎完成。

1927年  48歳
 デッサウ

 ポルケロール。7月、「ポルケロールのきれいな絵葉書何枚も有難う。そちらに行きたいと思うけれど、いつまで滞在の予定ですか。正確に分かればひょっとして行くかもしれません。」(b436)と、息子フェリックスに誘われたクレーは21日デッサウを出発、フェリックスとバウハウスの舞踏家カルラ・グロッシュのいるポルケロール島にトゥーロンから渡り2週間滞在。
 コルシカ島、カルヴィ。その後トゥーロンからコルシカ島にわたる。カルヴィ─バスティア─コルテ─そしてナポレオンの生地アジャクシオと、島の北半分を周遊。「私たち若者が海水浴をしているとき、父は時折岩間に身をさけて、ハンカチを拡げ、心ゆくまで自然をスケッチした。その後彼は独りでさらに遠くへでかけていったが、彼が行ったコルシカ島については、ほかよりもずっと感激した調子で話してくれた。」(f68)帰途マルセイユからアヴィニョンにもたちよる。

 デッサウ。9月末か10月初にデッサウにもどる。

1928年  49歳
 デッサウ

 ベルリン。3月、フレヒトハイム画廊での新作展のためベルリンを訪れ、その際にエミール・ノルデに会う。

 ブルターニュ、ペグメイユ。7月、リリーとブルターニュ旅行。ペグメイユに3週間滞在。キベロン滞在中旧新器時代のドルメン、メンヒルなど巨石記念物遺跡が密集するカルナック、ラ・トリニテ、スールメール、ロックマリアッケをまわる。

 デッサウ。8月31日ベルンへ。9月8日、デッサウに戻る。

 エジプト、カイロ。12月17日オットー・ラールフスが工面した旅費でエジプト旅行に出発。シラクサ、クレタを経由して12月24日アレキサンドリアに上陸。即日カイロにはいり一週間滞在。「彼はナイル河畔を歩いて、そこを行き来する小舟を見たり、ベンチに腰をおろしエジプトの12月の太陽を浴び、まるでヨーロッパの6月のようだと感じました。国立博物館を訪れ、ツウタンカーメンの棺や小物を鑑賞してますが場内にある棺の列を見て、まるでオペレッタの舞台装置のよう、とあざけっています。ギザのピラミッドを見に行った折り、その巨大さに圧倒され、うっかりハンカチを置き忘れ、傍らにいた案内の子供が持ってきてくれたと云うエピソードもあります。」(w)

1929年 50歳
 ルクソール。新年を神殿ちかくのルクソール・ホテルでむかえる。「クレーは近くにあるカルナック神殿にも行き、その規模のそう大なことにも驚きました。続いて、ナイル河を渡り王家の谷と云われている昔の墓所の地帯を驢馬に乗って見物しましたが、洞窟内に描かれている王様の功績や戦闘の模様などの壁画や天井絵に深い感銘を受けたようです。」(w)ルクソールでも一週間滞在、カルナックを訪れる。1月7日、アスワンまで足をのばす。エジプトの忘れがたい印象はやがて結実しはじめる。たとえば「ぼくは、たとえば〈王侯の谷〉の荒涼とした山から肥沃な土地を眺望したような風景画を描いた。地下と大気との間の多声音楽(ポリフォニー)はできるだけ自由に保たれている。さて次はヴォリュームを直接造形する試みで、色彩はくすんだ暗いものにする」(f75)と書いた1932年の手紙のように。

 シラクサ。エジプトからの帰途シラクサに12日到着。古代劇場などをみる。

 デッサウ
 帰途ナポリ、ミラノを経由して、1月17日、デッサウに帰る。

 フランス、バスク。7月19日デッサウを出発、リヨン─ボルドーバイヨンヌを経由して、スペイン国境にちかいビタールで約1ヶ月をすごす。妻リリーと息子フェリックス同行。一日を割いてスペイン側のバスク地方(サンセバスティアン、ロヨラ、パンプローナ)に遊ぶ。ちかくのアンダイユにきていたカンディンスキーと会う。帰路はピレネー山脈にそって地中海へぬけ、トゥルーズ―カルカッソンヌ―セート─アヴィニョン─リヨン。

 デッサウ。9月8日、デッサウにもどる。12月18日、クレーの50歳の誕生祝いが盛大におこなわれる。
この年、10月、ベルリンのフレヒトハイム画廊で大規模な二度目の「クレー展」。

1930年  51歳
 デッサウ
 5月、翌年4月までにバウハウスを退職する旨了承を得る。

 シルス・バゼルジア、ヴィアレッジョ。7月、ベルン─フルカ─クーアを経由してシルス・バゼルジア(シルス・バゼーリャ)で一カ月余休暇したあと、8月、ピサから程遠くないイタリアのヴィアレッジョに滞在。ここで2週間をすごす。
 デッサウ。9月7日デッサウへもどる。この月、バウハウスは10月21日までに閉鎖と決定される。

1931年  52歳
 デッサウ
 4月、デッサウのバウハウスを退職。
 デュッセルドルフ。6月、ラインラント・ウント・ヴェストファレン芸術協会で「クレー展」が開催される。7月、デュッセルドルフ美術学校教授に就任することを決意。「こうしてバウハウスから離れ、二週間ごとにまたデッサウとデュッセルドルフのあいだを行ききすることになりました。両方の町にすばらしいアトリエをもち、…」(tp447)「この招聘はクレーの希望にかなっていた、彼は、偏狭な国家的色彩をおびてきてやや行き詰り状態にあるバウハウスの方針よりも、もっと自由に仕事ができる方を選んだのである。…海の近くを感じさせる柔らかな陽光と、ライン河畔の住民の旺盛な生命力とに刺激されて、クレーは新しい幾つかの絵画的テーマをつかんだ。」(f72)

 シチリア島。デッサウを9月2日出発。リリーが同行。ジェノヴァから乗船、ナポリを経由、シラクサに9月12日上陸。17日まで滞在し、ラグーザ─ジェラ―アグリジェント─パレルモ。パレルモに一週間滞在。「植物園を見、ノルマン宮の中にあるパラティノ礼拝堂」(w)で、またパレルモ近郊のモンレアーレのドォーモのモザイクをみる。10月11日、デッサウに帰る。

 デュッセルドルフ。10月、ゴルトシュタイン通り5番地に部屋を借りる。デッサウの住居はひきつづき、1933年4月まで所有した。

 デッサウ。12月、機関誌『バウハウス』(1931年第3号)がクレーの特集を組む。

1932年  53歳
 デッサウ─デュッセルドルフ
 3月、「ぼくの仕事は、目下のところ完結される性質の絵よりもむしろいろんな新しい地色の試みだ。それによってぼくはふたたび透明な色を全体に塗る方法にもどってゆく。いずれその方法といわゆる点描法とを結びつけることになるだろう。」(f75)

 デュッセルドルフ。モーツァルト通り4番地に部屋を借りる。

 ヴェネチア。10月、チューリッヒでピカソ展をみたあと、ベルン、ミラノを経由してはじめてヴェネチアに遊んだ。リリーへの手紙で猫がいっぱいて喜んだ後、「町は歩けますがそれこそ大変で、橋がやたらとあって…それも丸くもりあがった橋、でももっと大変なのは方角を定めるものが何もないこと、。磁石がなければどうしようもありません。」(b491)と報告している。10月8日から13日まで滞在。ドゥカーレ宮、アカデミア美術館を見学。帰途パドヴァで一泊。デッサウ出発10月4日、デッサウ到着10月15日。

 デッサウ。10月、バウハウスがナチスにより閉鎖される。

1933年  54歳
 デッサウ─デュッセルドルフ
 1月31日にナチスが政権を掌握する不安のなかで、クレーの創作にはかえって熱がはいる。リリー宛で「ヴェネツィアから帰ってきてこのかた、ぼくはこの二週間のように仕事をしたことは今までにない。…それと同時に、厄介な底荷になりかけていた多くのものが自由になった。みんな投げ捨てられたのだ。二,三のデッサンは、この底荷の除去と明らかに関連がある。」(f76)と書いたのは2月5日。

 デッサウ。4月1日、デッサウの住居の立ち退き勧告。それに先立ちナチスにより自宅が家宅捜索され、クレーは身の安全のため数週間スイスへ立ち退いた。

 デュッセルドルフ。5月1日、デッサウからデュッセルドルフのハインリッヒ通り36番地に転居。(tp447)

 南フランス、ポール・クロ。10月、ニース、モナコなど南仏に遊ぶ。サン・ラファエルに滞在。イエールから船でポル・クロへゆき、滞在。帰途リヨン経由でパリのピカソを訪問した。デュッセルドルフ出発9月30日、デュッセルドルフ帰還10月27日。

 デュッセルドルフ。11月、デュッセルドルフ美術学校から翌年1月1日をもって解雇するとの予告。

 ベルン。12月、クリスマス直前にドイツからスイスのベルンへ逃れ、ひとまずオプストベルク通りの父と姉の元に同居。「ベルンへ帰ろうと言出したのは、母でした。母こそ先見の明があったといえましょう。しかし、引越しの準備はなかなか進まず、故郷の町ベルンに移ったのは、年の瀬もおしつまる頃でした。」(tp448)

1934年  55歳
 ベルン
 1月、コラー通り6番地の借家にはいる。5月、キストラー通り6番地に移転。「クレーはこうしてまたミュンヘンの町へ出た人生の出発時と同じように、さして大きくない部屋で仕事をすることとなったのです。」「ドイツからスイスへ來てみれば、やはり空気は何となく自由で、父も元気に制作に励んだようでした。一日の時間割りをきちんときめて、画を描き、料理をし、ヴァイオリンを弾いていました。」(tp448)

1935年  56歳
 ベルン
 2月、ベルン美術館で「クレー展」。その後、バーゼル、ルツェルンに巡回する。8月、気管支炎にかかる。11月、皮膚硬化症の最初の兆候。体調不良で翌年2月まで起臥をくりかえす。

1936年  57歳
 ベルン
 4月、制作活動を再開する。

 タラスプ。6月、H・ルプフの招きで、スクオール近郊のタラスプに、また8月、ヴァリス州のモンタナに転地療養。この間殆ど制作せず。この頃医師から喫煙とヴァイオリンの演奏を禁じられた。

1937年  58歳
 ベルン
 晩年様式はじまる。「晩年の彼の三年間というものは、火山の爆発に比することができるだろう。」(f82)

 アスコナ。9月初ー11月初、妻リリーをともないマジョーレ湖畔のアスコナで療養し、制作に励む。

 ベルン。11月、ピカソがカーンワイラーの仲介でクレーを訪問する。
 この年、7月、ミュンヘンでひらかれた「頽廃美術展」にクレーの作品17点が展示された。また8月、ドイツ国内各地の美術館で現代美術の押収。クレーの作品百二点が没収される。

1938年  59歳
 ベルン

 ベアーテンベルク。8月ー9月、ベアーテンベルクに妻リリーと滞在、静養する。

1939年  60歳
 ベルン
 4月、ジョルジュ・ブラックがクレーを訪問する。4月、スイス市民権を得るため履歴書を下書きする。

 ムルテン。9月ー10月、リリーとともにベルン近郊ムルテン湖畔ファウークで静養する。

 ベルン。12月、「私の主要な仕事のための時間さえも、もはや私には十分残されていないのだ。制作のテンポが高まると同時に、制作の拡がりも増してゆく、そこで私は次つぎ生れるこの子供たちの後をもはやついてゆけない。子供たちは跳んで逃げてゆく。デッサンが優勢になることによってある程度の調節は行われる。それにしても、一九三九年の一二〇〇枚という作品の数はこれまでのレコードだ。」(12月29日、フェリックス宛手紙、f80)

1940年  
 ベルン
 1月、父ハンス逝去。スイスへの帰化申請のため履歴書をかく。2月、チューリッヒでクレーの60歳を記念した展覧会が開かれる。

 ロカルノ。5月、ロカルノ近郊オルセリーナのサナトリウム・ヴィクトリアに入院。スイス帰化申請のためベルンに出頭するよう呼び出しをうけたが、ゆけず、結局クレーはドイツの市民にとどまった。6月、ロカルノ近郊ムラルトのサンタニェーゼ病院に移る。6月29日、ムラルトのサンタニェーゼ病院で心臓麻痺のため逝去。7月1日、ルガーノで火葬。

 ベルン。7月4日、ベルン市民病院礼拝堂で葬儀。

ページのトップへ戻る