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第2章  光の探求と色彩の発見

チュニジア−ゲルストホーフェン−ミュンヘン 1914-1920

1901年から2年にかけてのイタリア旅行は、クレーにおおくのものをあたえた。なによりそこには澄んでみはらしのきくイタリアの光と人間を尺度とする精神にもとづいた建築があった。クレー本来の北方的な思考はこれからあとも、たとえば「生成」ということばとともに深まってゆくのだが、もうひとつこれと対をなす、「建築すること」とでもいうべき、たえざる手の訓練と造形理論とのディアレクティクは、このイタリア経験なしにはぜったいに生れなかったはずである。「私は、初歩の初歩から始める。画について何も知らないつもりで、まず形をとることから始める。」とかいたのは、イタリアから帰って直後のベルンでのことだった。

まだみたこともない絵にむかう旅への決意もあらたに、これから数年間はベルンで、そして結婚して居をうつしたミュンヘンで、描くことそのものだけでなく、過去の栄光の残映のなかにたつ廃墟の時代に画家であることの意味するものをくりかえし問いなおすクレー。しかしそのあいだも、トゥーン湖畔のオーバーホーフェンでの休暇はわすれることがなかった。ミュンヘン定住後も夏季にはかならず故郷ベルンへもどっている。この間1905年と1912年にはパリを訪れて、とりわけ再遊したパリではかねがね関心をもっていたロベール・ドローネーに会い、ドローネーの『光について』を翻訳することになる。1911年には「青い騎士」に参加。しかしかれを勧誘したカンディンスキーやヤウレンスキーにくらべても、クレーの本領は線描にあって、それがいっそう自在をえてゆくぶん、色彩の領域では自由にふるまえない不安といらだつ思いの日々がつづいた。

そういうときにやってきたのだ。チュニジア旅行という事件が。1914年4月7日、クレーはマルセイユから海路チュニスに至る。チュニス、サンジェルマン、ハマメット、カイルアンを訪ねる旅は、イタリアの旅とくらべようもない短さだったが、オリエントとアフリカが渾然一体となったこの非ヨーロッパせかいの空気が終生死ぬことのない痕跡をクレーにのこすことになった。けだし特筆すべきは色彩の体験だろう。クレーはここでトポスの力をえて色彩画家に一大変身をとげたからである。いや、それまでの線描の魔術師はそっくりそのままに、そこに色彩の妙手がつけくわわったというべきか。この感激をクレーはこうかたっている。「こっちから無理に色彩を追い求めなくていい。はっきりとわかった。わたしのほうが色彩につかまったのだ。わたしと色彩はもう永遠に切り離されることがない、というこのうえのない至福の感覚。」

色彩発見の喜びに自信をえたクレーが、この後一気にヨーロッパのアート・シーンに登場してもべつに不思議ではなかった。けれども運命はいましばらくの猶予を命ずる。第一次世界大戦がはじまってクレーもまた召集されたからである。しかし、絵筆をとる時間こそ極度に制限されたけれど、自己と絵画をめぐる思索は、この逆境でかえって深まったし、最後の転属地となったゲルストホーフェンでは、深まった造形思考にみあった筆だめしをする余裕もでてきている。雌伏の時代はおわろうとしていた。

(東俊郎)

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