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近代工芸のあゆみ

白石和己

1)明治から昭和初期の工芸 ― 技術の系譜

明治時代に入って日本の工芸は大きな転機に立たされました。日常の必需品はともかく、手の込んだ美術的な工芸作品は、需要層である武士階級の没落、さらに社会的混乱などの渦中にあって、今までどおり維持することが困難になったのです。一方、明治政府は、西欧のさまざまな制度や技術、思想、文化などを採り入れて、近代国家への脱皮を目指していました。そのためには産業を振興させて、国力の増強をはかることが大きな課題となっていました。この頃は、西欧諸国では各地で万国博覧会が盛んに行われていた時代でした。産業革命による機械技術の発展、大量生産と大量消費、大都市の出現など社会が大きく変わりつつあった時代でした。万国博覧会は進んだ技術、それによって生み出された製品の発表の場として、また、各地の特産品を紹介する場として利用されたのです。

日本の政府は万国博覧会を、西欧諸国の進んだ技術、道具などの習得とともに、日本の特産品を紹介する絶好の機会としてとらえ、積極的に参加するようになりました。中でも、明治6年に開催されたウィーン万国博には、たいへん力をいれて参加しました。こうした海外の万博への参加によって、新しい技術、材料、道具などの知識を得るとともに、産業などさまざまな面で、現地で市場調査を行うことができましたし、美術、工芸の考え方などについても、欧米諸国の実情を直に知ることができました。万博では日本からの出品の中では、工芸がたいへん好評でした。これら日本の工芸品が好まれたのは、西欧の人々にとって異国情緒あふれる新鮮なデザインにありましたが、技術的に繊細で緻密なことにもありました。江戸時代に高度に発達した工芸技術が、伝統として受け継がれていたのです。

輸出産業を模索していた当時の政府は、こうした反響を見て、陶磁器、漆器、金属器などの工芸品が有望であるとして、積極的に取り組みました。その一つは半官半民の「起立工商会社」の設立です。ここには第一級の技術者達が従事し、輸出用の高級な工芸品を制作しました。同様のものが、精工社、金沢銅器会社など各地で設立されています。明治初期の混迷の時代にあって、高い技術を伝える意味では、一定の役割を果たしました。また、万国博覧会の国内版ともいうべき内国勧業博覧会が、明治10年に開催され、その後、東京、京都など全国各地で、さまざまな種類の博覧会が開催されたています。

一方、明治22年には東京美術学校(現・東京藝術大学)が創設され、絵画、彫刻とともに、金工、漆工の科目が設けられて、工芸作家が輩出されて行くことになります。さらにこの前後には、京都や金沢、会津など伝統的な工芸の盛んなところでは、それぞれ技術の伝承・教育機関が作られ、後継者の育成が図られました。また、明治23年、帝室技芸員制度が設けられました。優れた美術家、工芸家を保護奨励し、発展をはかろうとする制度でした。金工の鈴木長吉、陶芸の宮川香山ら、すこし遅れて板谷波山ら、当時を代表的する工芸家が選ばれています。こうした高い技術を積極的に評価したことは、日本の伝統的な工芸の継続性に重要な役割を果たしたことになります。

そうした中で、輸出としての工芸品は、次第に飽きられ、不振に陥ってくるようになったため、当時の欧米の人々に好まれるような製品を創り出そうと、図案の改良が叫ばれるようになりました。そのため、大正2年から農商務省主催によって、全国規模の公募展が開かれました(農展)。農展の本来の目的は、産業工芸の振興のためでしたが、美術的な工芸を志す人達も出品するようになり、当時、工芸としては唯一の全国規模の公募展として大きな役割を果たしました。


2)大正末期から昭和前期の工芸革新運動

一方、西洋の美学が日本に採り入れられることによって、工芸は、絵画や彫刻などいわゆる純粋美術とは異なるものだとして、明治40年から開催されるようになった文部省主催美術展覧会(文展)からは、除外されました。このことは当時の工芸家にとって非常な不満を抱かせ、文展参加の運動が起きた・閧オました。これらを契機に、一部の工芸家は、当時の技術中心のあり方から、作者の内面を表現する美術としての工芸の方向を模索し始めました。これまでの工芸は、長い時間をかけ師匠の下で修業を積んで技術を磨き、一人前の職人として独立していったのです。そのため芸術的創作を行うというよりは技術的工夫を試みることに主眼があり、デザインは古典を写したり、画家などに依頼することが多かったのです。工芸の革新運動は大正時代を通じて、さまざまな形で行われていましたが、大正末ころに結成された「无型」は、ヨーロッパで流行していたアール・デコや構成主義などの様式を、積極的に取り入れた作品を発表しました。強い線の構成、表面の精緻な装飾をあまり用いない作品は、これまでの日本の工芸とは印象が大変異なり、当時の工芸界に大きなインパクトを与え活況を呈しました。しかし、大きな盛りあがりを見せた工芸も、次第に戦争へと傾斜する時代にあって、勢いを失って行ったのです。ただし、この頃の工芸改革運動は、日本の工芸の展開の上で非常に重要だったことは間違いありません。なによりも制作する人達にとって、作家としての意識の重要さを植え付けたのでした。


3)民芸など

またこの時期、さまざまな運動が起きていますが、重要な新しい運動として民芸もありました。民芸は無名の民衆の手によって作られ、用いられたものにこそ、本当の健康な美しさがあるというものです。それまで下手物として等閑視されてきた、民衆の日常の生活器具の中に美を見出したのです。柳宗悦の考えに共鳴する河井寛次郎、浜田庄司、芹沢 介、黒田辰秋ら工芸作家が、そうした理念を実作品に生かそうと制作しました。この理念は、その後も受け継がれて、各地で実践されています。

そのほかにもデザインの面から、ヨーロッパの考えを取り入れ、新しい時代に対応した産業工芸を模索する動きや、従来の技術的側面を重視しながらも創作を目指す人達も活躍しました。また、古典を再評価することによってその中から新時代に対応した制作を進めようとする工芸家などもいました。

戦後の工芸は、困難な時期にあって、制作は容易ではなかったと思われますが,開放された雰囲気の中で、いろいろな主張を掲げた団体が組織され活動しました。その中の主要な運動は、戦後の工芸界をリードし、現在に至る大きな枠組みを作ってきたといえるでしょう。


4)伝統工芸

昭和25年、文化財保護法が制定されました。これは戦後の混乱による文化財の流出、法隆寺金堂など貴重な文化財の火災など、また効率第一主義により連綿と伝えられてきた伝統文化が崩壊する危険にありました。このため文化財保護の制度を確立させる必要がありました。このとき無形文化財も取り上げられ、消滅の危機にあったさまざまな技術が、保護の対象となったのです。その後、何度かの改正があり、重要無形文化財の制度となっています。そしてこの重要無形文化財の技術保持者が、いわゆる人間国宝であり、人間国宝を中心とた工芸作家が集まり、開催した公募展が「日本伝統工芸展」です。この特色は、各地で制作されている長い伝統を持った、さまざまな工芸に対して、それぞれの良さを認め、規模の大小に関わらず対等に見ようとすることにありました。そこでは、伝統的な工芸技術を基礎として、技術的追求の中から、現代にふさわしい工芸を創作する方向が打ち出されています。伝統工芸という言葉は、これから明確な一つの傾向を表すものとして一般に認識されるようになりました。もちろん伝統工芸展出品作品ばかりでなく、地域に根ざした伝統的ないろいろな工芸にも用いられています。


5)日展の工芸

昭和21年、日本美術展覧会(日展)が開催されるようになりました。これは戦前の文展、帝展などの官展を継承するものでしたが、昭和33年からは社団法人となり民間団体となりました。そして同36年日展の出品作家が中心となり、現代工芸美術家協会が結成されました。日展の工芸は伝統工芸展に対抗する形で、芸術表現を求める方向へ向かうことになります。そして作者の美的イリュージョンを基に、工芸素材を使って独自の美を表現する、という理論のもとに、創作性を追求したパネルや大型の造形的な作品が多く出品されるようになりました。


6)クラフト

戦後の多様な運動の中で、新しい時代にふさわしいデザインの工芸を制作しようとする動きがありました。クラフト運動です。こうした考えは戦前からヨーロッパのデザイン運動の影響などによって見られましたが一層盛んになり、生活に潤いをもたらす手作りの工芸に対する要求は、作り手だけではなく、利用者の側にもありました。使い勝手のよい、充分に吟味された形であり、しかも入手しやすい価格の工芸が求められたのです。


7)走泥社 ― オブジェ焼

走泥社の運動もまた、これらの多彩な動きの中のひとつと言えましょう。昭和23年、八木一夫らによって結成されたこの団体は、京都で活躍する陶芸作家を中心とし、純粋に美術としての工芸の創作を目指しました。そして機能を求めない作品を制作し、オブジェと称されました。工芸としての素材と技術、制作工程にその本質を求めました。走泥社はそれほど大きなグループではありませんでしたが、他の作家などに大きな影響を与えました。


8)現代の前衛工芸

現代の工芸は、実にさまざまな傾向の作品が制作されています。これまでに述べた伝統工芸や日展系の工芸などは現代の工芸として大きな位置を占めています。また産業工芸も盛んに行われていることはもちろんです。そのほかにも、工芸の素材技術などを駆使して、新しい実験的な試みがさまざまに行われています。これまではさまざまな主張を持つ団体に参加したり、団体の主催する公募展へ出品するケースが多かったのですが、近年は個展やグループでの展覧会によって作品を発表する作家が多くなってきました。特に、前衛的な作品を制作しようとする作家は、既成の団体の主張にとらわれることを嫌い、個人としての表現がより自由に発表できる個展などを選ぶようになりました。現代の前衛的な工芸活動を行っている作家は、大胆な表現を表す場合が多いが、技法や制作過程において伝統性の強いものもあり、ある方向性を持つというよりは、個人の考え方、主張、意識などによりいろいろで、きわめて個性豊かな作品が展開されていると言えましょう。

(しらいしまさみ・三重県立美術館長)

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