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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2000 > 洲之内徹の「気まぐれ美術館」 酒井哲朗 気まぐれ美術館展図録

洲之内徹の「気まぐれ美術館」

酒井 哲朗

「気まぐれ美術館」は、洲之内徹が『芸術新潮』1974年新年号に連載をはじめた美術随想のタイトルである。それは絵についてふれながら、絵とは直接関係のないことを自由に書きたいという洲之内の意図によるものだった。絵との出会い、人との出会い、旅、記憶、日常等々、美術をめぐって話題は自在に出没し、洲之内徹という独特の個性的人物の感情や思想をちりばめた言説の世界に読者を巧みにひきこんでいく。

この随想は、根強い読者の支持によって14年間165回に及び、1987年11月号をもって、彼が脳梗塞で亡くなったため、ようやく終止符が打たれた。洲之内は、この連載がはじまる以前に『絵のなかの散歩』(1973)という随想集を出版しており、雑誌の連載中に『気まぐれ美術館』(1978)、『帰りたい風景』(1980)、『セザンヌの塗り残し』(1983)、『人魚を見た人』(1985)、没後『さらば気まぐれ美術館』(1988)、さらに『洲之内徹の風景』(1995)という7冊の随想集が新潮社から単行本として刊行された。

洲之内徹は画廊経営者であり、美術批評家であり、随筆家であるという多面性をもった、いわば多重人格者である。しかし、この多面性は決して矛盾するものではなく、洲之内徹という一個の人間のそれぞれの側面であった。というより、そのどれかにおさまることのできない、つまり一筋縄でいかない人物だったという方がよいだろう。気に入った絵は人手に渡すのが厭で、自ら愛蔵するという一風かわた画商であった。洲之内にとって、画廊経営というものは、好きな絵や人間に出会うための一種の方便であったといえるかも知れない。好きな絵に出会うということは、全人間的な価値観がかかわる、すぐれて批評的な行為である。彼はそれを生業(なりわい)とし、その経験を「気まぐれ美術館」という文学的行為によって表出した。

洲之内徹という人物を知るために、簡単に経歴を紹介しておこう。愛媛県松山市に生まれ、美術学校進学を希望したが父親の同意を得られず、多少実用性のある建築学科ならいいだろうということで、東京美術学校建築学科に入学する。非合法下の左翼運動に熱中して中退、検挙、投獄、転向という経過をたどり、その経歴を買われて中国大陸で特務機関員として働くことになった。このような屈折した挫折体験は、彼をすっかり政治嫌いにし、個々の人間や美だけしか信じないという、心の奥深くに虚無をかかえた人間にしてしまったようだ。戦後は小説家志望で、芥川賞候補になったほどの文才の持主だが、絵にとりつかれてしまった。

『肉体の門』で知られる三重県出身の作家田村泰次郎が経営する現代画廊で働いたのがきっかけだった。二年ほどで田村が手を引いた後、洲之内がこの画廊を引き継いだ。画廊の名は現代画廊のままだったが、田村の「現代」はカレル・アペルや「ミシェル・タピエの推す現代日本15人展」など、当時最先端の抽象絵画であったのに対し、1961(昭和36)年10月の洲之内の最初の企画展は「萬鐵五郎展」、1968(昭和43)年に銀座松坂屋裏に移ったときは「靉光画稿展」だった。日本の近代美術の上できわめて重要なこれらの画家に、早くから注目していたのは今泉篤男や土方定一らごく少数の人々であったことを思えば、洲之内徹の批評精神のあり所が推測されよう。

今回展観される洲之内コレクションは、洲之内徹が画廊経営のなかで扱った作品のうち、最後まで手元に残した作品群で、彼の没後、宮城県美術館にまとまって収蔵されることになった。それらの作品について、洲之内は随想「気まぐれ美術館」 のなかで縦横に語り、またそれが単行本にも収録されていて、洲之内徹を知る人々にとってはすでに親しい事柄であるが、未知の方々に彼のコレクションの特色を知ってもらうため、その一端を紹介しておこう。

洲之内コレクションの代表作の第一に、靉光の《鳥》(1940)をあげたい。東京国立近代美術館所蔵の《眼のある風景》(1938)とともに、靉光の傑作である。《眼のある風景》では、明瞭に描かれた眼を中心に不分明な不気味な形象が描かれているのに対し、《鳥》は、逆に「眼のない風景」が描かれている。鳥の眼窩は虚ろで、その周辺の事物は細密に描かれており、色調も暖色系と寒色系という風に、このふたつの絵は対照的である。京橋の国立近代美術館でこの絵を見たとき、洲之内徹は「これが靉光か」と感慨をこめて立ちつくし、「この絵は欲しいな」と思ったという。画廊で働く以前のことである。のちに靉光の遺作展が開かれたとき、彼は会場に一番乗りをして、ついにこの絵を手に入れた(『絵のなかの散歩』)。

「どんな絵がいいかと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。-買えなければ盗んででも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である、と。写真家の土門拳さんが鳥海さんの「うづら」を画廊へ売りにきたとき、私はまさにそういう気持ちになった」(『絵のなかの散歩』)。田村泰次郎が経営していた頃のことで、鳥海青児の《うづら》を、洲之内は何としても自分でもちたいという思いで買ったという。

海老原喜之助《ポワソニエール》との出会いは、さらに劇的である。魚売りの若い女を描いた、「海老原の青」がひときわ鮮やかな清爽なこの作品を、洲之内は中国山西省で対敵情報収集に従事していたころ、現地である新聞記者がもっていた海老原喜之助の画集によって知った。「どうしようもなく心が思い屈するようなとき」はこの絵の図版を見せてもらい、そうすると不思議に力が湧いてきた、というのである。ところが、彼が現代画廊で働きはじめたころ、鎌倉のある家で実物と対面することになった。事情を話してもなかなか手放そうとしない所蔵家をようやく説得して、思いをとげたのがこの作品である (『絵の中の散歩』)。

海老原喜之助や靉光の作品のエピソードにみられるように、洲之内は画廊で働く以前に、すでにある種の絵との出会いがあり、はっきりとした彼自身の価値観をもっていた。しかし、現代画廊という場を得て、それまでの片思いのような絵との関係が、所有という現実的行為を介して、きわめて濃密なものとなる。「盗んででも欲しいと思う絵がいい絵だ」といい、「一枚の絵を心(しん)から欲しいと思う以上に、その絵についての完全な批評があるだろうか」などという、鳥海の《うづら》や靉光の《鳥》に関する言表が、所有という関係性においてリアリティをもつのである。

洲之内徹の絵に対する態度は、生理的、直覚的であったといえよう。彼の好みははっきりしている。見てもらいたいといわんばかりの絵は拒絶し、描かずにはいられなかったという風な絵を評価する。絵には芸術的側面と経済的側面、いわば聖と俗の両面があり、洲之内は絵を売り買いする画商という俗の立場から美術とかかわることになったわけだが、彼は俗を徹底することによって批評的立場を確保し、聖なるものの虚妄や真実に肉薄する。

連載「気まぐれ美術館」は、さながら一篇の私小説だったといわれるが、洲之内コレクションにもまた、彼の「私性」へ強い執着が認められる。すべてが洲之内徹の眼力と好みによって選ばれているのはもとよりだが、たとえば彼が愛した松本竣介についてみれば、彼が好んだのは《ニコライ堂》や《建物》のような作品であり、竣介の代表作として知られる《画家の像》や《立てる像》のようなモニュメンタルな作品には拒否反応を示した。

そのコレクションの特色を小品主義といってもいいだろう。画廊にも自宅にも大きい作品を保管する場所はなかったし、財力もなかったから、したくてもできないという現実的制約はあった。しかし、大きなものや公的なものを拒絶して、小さなもの、私的なもののみを信じるのは価値観の問題である。これ見よがしの展覧会の作品や価値観の定まったものには眼をくれず、洲之内が見つけだし、執着し、結果としてのこったのが洲之内コレクションである。

萬鐵五郎《風景・春》《自画像》、中村彝《自画像》、村山槐多《風景》、佐分真《男》、児島善三郎《ギャルソンヌ》、野田英夫《メリーゴーラウンド》、長谷川利行《酒祭り・花島喜世子》《裸婦》《街景》、長谷川■二郎《道(巴里郊外)》《猫》など、個性的な画家たちのそれぞれの特色が凝縮した、小品の魅力を堪能させてくれる作品が収集されている。赤い背景に若い女の横顔を描いた林武の《星女嬢》を収集するとき、洲之内は、海老原のあの美しい青い絵《ポワソニエール》を思い浮かべたにちがいない。このふたつの絵は大きさもほぼ同じで、好対照をなすため、そんな想像をしてみたくなる。洲之内は、小野幸吉や佐藤哲三、佐藤清三郎、木下晋ら物故、新人さまざまな画家たちを発掘した。また、そのコレクションには、北朝鮮へ帰って消息を絶った曹良奎の《マンホール B》のような、戦後の美術シーンを思い起こすとき、忘れがたい作品も含まれている。

洲之内コレクションの素描作品も興味深い。岩橋教章(水彩)、浅井忠、萬鐵五郎、村山槐多、梅原龍三郎、安井曾太郎、北脇昇、木村荘八、西脇順三郎、前田寛治、野田英夫、今西中通、鳥海青児、鶴岡政男、麻生三郎、松田正平、四方田草炎らのデッサン群は、画家の創造の気息を直接伝えるデッサンの魅力というものを熟知していた、洲之内徹のたしかな眼識をあらためて確認させてくれる。


連載「気まぐれ美術館」は、洲之内コレクションの作品をめぐる随想である。言い換えれば、洲之内コレクションの作品には、洲之内徹というひとりの人物の言葉の網の目が絡みついている。そのなかには、彼が光をあてなければ、歴史の闇のなかに埋没してしまったかもしれない作品も多く存在する。これらの随想のなかで、洲之内徹が多くの言葉を費やしていっているのは、美術というものの真実は、学問的に権威づけられた書物のなかや体系化された美術館の展示のなかではなくて、人が生きる体験そのもののなかにあるということであろう。

展示されているのは洲之内徹が選んだそれぞれに含蓄の深い作品であるが、私たちは彼がしたように、洲之内の言説から自由に、それぞれの作品と直接心を通わせてみたいものである。

(前三重県立美術館長)

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