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契月のみた欧州

道田美貴(三重県立美術館学芸員)

清澄で理知的な雰囲気をたたえる人物画で高い評価を得ている菊池契月。気品溢れる流麗な描線で像主の内面に迫る人物表現は、典雅な中にも厳しさをたたえ、契月芸術が至高の境地へ到達していることを物語る。契月はいかにしてこの画境に至ったのだろうか。

本展覧会では、契月の画業を年代順に四期−「画家をめざして」「模索の時代」「欧州視察から得たもの」「完成と成熟の時代」−に分類し、その画風変遷をたどった。芳文のもと、華々しく順調なスタートをきった契月が、独自の画風を獲得するために試行錯誤を重ねたことは、「模索の時代」の作品が物語る。そして、表現方法と主題の両面で研究を続けた契月が模索期を脱し、独自の画風を確立するひとつの契機となつたと考えられるのが、一九二二(大正十一)年の欧州視察である。およそ一年間に及ぶこの欧州遊学については、これまでも、契月の画業における最も大きな転機であると指摘されているが、残念ながら契月は渡欧について多くを語っておらず、遺された資料も限られている。具体的な旅程についても判然としないのが現状であるといえよう。本稿では、緒先学の研究成果に基づき、欧州における契月の足取りを追い、関心の在処を探っていく。

契月の足跡を辿って

一九二二(大正十一)年四月十八日、契月は、京都市立絵画専門学校より、同校の中井宗太郎教授、入江波光助教授とともに、欧州に派遣された(註1)。同行の中井宗太郎(一八七九−一九六六)は、同校で美学美術史を担当しており、西洋美術理論を積極的に紹介、京都の若く意欲的な画家たちに多大な影響を与えた美学者である。また、京都における最も重要な日本画革新運動・国画創作協会の顧問でもあり、理論的指導者としての役割を担っていた。一方、入江波光(一八八七−一九四八)も、国画創作協会で重要な位置を占めた日本画家である。この三人の他に、中井の妻愛子、洋画から日本画に転身し、国画創作協会展に出品していた吹田草牧(一八九〇−一九八三)、表具商伏原佳一郎が同行している (註2)


管見の限り、契月欧州視察の詳細を伝える資料はない。しかしながら、幸い同行者である草牧が、詳細な書簡と日記を遺している (註3)。第三者による私的な記録であるが、文字資料の少ない滞欧期の契月を現在に伝える貴重な資料といえる。以下、吹田草牧の書簡と日記に基づき、契月の旅程を辿る (註4)



一九二二(大正十一)年

四月十六日 神戸に向けて京都を出発 (註5)

四月十八日 午前 鹿島丸にて神戸港から出発 (註6)

四月二十二日 上海寄港 龍華寺、仏蘭西公園、太馬路、骨董店に立ち寄る。

四月二十七日 香港寄港

五月三日 シンガポール寄港 植物園、ゴム園水源地、タンジョン・カトン海岸を見学。契月、波光、草牧は、植物園で現地人を写生、中国人居住区で爪哇更紗店に立ち寄る。

五月四日 帰国途中の小野竹橋(喬)とともに植物園を見学 (註7)。契月と草牧は、パン売りの老爺を写生、多数乗船したインド人の神秘的な風俗と少女の美しさに惹かれる (註8)

五月六日 ペナン寄港

五月十一日 コロンボ寄港

五月二十四日 スエズ寄港 汽車でカイロヘ。ピラミッドやスフィンクス、モハメッド・アリ寺院を見物。驢馬や駱駝に乗る。

五月三十日 朝、マルセイユ着。ロンシャン美術館で、シャヴァンヌ、ミレー、コローの作品に触れる。夜行でパリヘ。

五月三十一日  パリ着。パリでは、ルーブル美術館を中心に、リユクサンブール美術館、ギャラリー等を見学。黒田重太郎が師事していたアンドレ・ロートの展覧会を見て、契月が感心していたとの記述あり (註9)

六月二十二日  草牧、野長瀬晩花、土田麦僊とともに、ドリゥエ画廊にてルドンの油彩展を観る、ギュスターヴ・モロー美術館見学。

八月六日 パリからロンドンヘ。ブリティッシュミュージアムやナショナルギャラリーなどを見学。インドの芝居を鑑賞。
 
八月十六日 パリへ戻る。(他のメンバーはベルリンへ向かっているが契月は同行していない模様。)

九月二十五日 サンジェルマン通りの本屋で、ドガの本を購入。(コンコルド近くの店でドガの彫刻展示あり。)

十月一日 パリからミラノヘ。

十月二日 ミラノ着、ブレラ美術館、ポルデイ・ペッツォーリ美術館、ドゥオーモ、スフォルツァ城、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ、アンブロジアーナ絵画館などを見学。草牧、波光とともに、サン・マウリッツィオで、ルイーニのフレスコ画を模写。

十月七日 ミラノ発、パドヴァ着。アレーナ礼拝堂見学、模写。

十月十日 パドヴァ発ヴェネツィア、その後フィレンツェヘ。ヴェネツィアでは、サン・マルコ、ドゥッカーレ宮殿など見学。(草牧、波光と別行動となるため、移動日、見学筒所等詳細は不明。ヴェネツィア、フィレンツェでそれぞれ再会。)フィレンツェでは、ウフィツィ美術館、サンタ・クローチェ教会、アカデミア・ディ・ベッレ・アルティ・フィレンツェ、サンタ・マリア・ノヴェルラ教会、アカデミア美術館などを見学。契月はアカデミアに通って模写を行う。

十月二十六日 中井夫妻とともに、フィレンツェ発アッシジヘ。草牧と別行動になるため、後の行動は不明 (註10)。)

一九二三年(大正十二年)

一月二十八日 パリに戻った草牧たちに、自身が購入したルノワールの花の絵、アンドレ・ロートの鉛筆画を見せる。

二月九日 ルノワールの展瞥見会、ヴラマンクの水彩を主とした展覧会を見学。

二月十七日 ギメ美術館、ロダン美術館を見学。

二月二十二日 パリ発

二月二十五日 筥崎丸にてマルセイユを出発

四月四日 神戸着 (註11)



以上が、草牧の書簡及び日記等から浮かび上がる契月の旅程である。断片的ではあるが、契月が確実に立ち寄った都市、寺院や美術館等の一部が明らかとなった (註12)。さらに、草牧の書簡には、旅程以外にも、契月の真摯な研究態度を示す興味深い記述がみられる。


「菊地(ママ)さんの熱心な勉強ぶりにはつくづく敬服をして居ます。昼飯もたべずに、やつて居られるので、中井さんらが心配して居られます。」 (註13)


「菊地(ママ)さんたちが帰られたら、日本の新聞紙上を賑はすことでせうが、今度のあの連中で、洋行が一番きゝめがあつたのは菊地(ママ)でせう。まじめな人ですから、すつかり書生に返つて、一生懸命勉強し、考へこまれたやうでしたが、この近比の菊地(ママ)さんの絵の見方や、云はれる事のしつかりして来たのにはつくゞ関心しました。あれだけの大家で居て、あんなに真面目な人はまるでありますまい。(略)それによく辛抱が出来ると思ふ程、質素な生活をしてられました。買物も古いエジプトの彫刻から、現代のフランスのキュビズムに至るまで、随分沢山の美術品を買つて行かれました。」 (註14)


欧州で、草牧が接した日本人画家は少なくないが、契月の学習態度は特筆すべきものであったようだ。実質十ケ月足らずの欧州滞在の間、エジプト彫刻からキュビスムに至るまで、時代、地域、ジャンルを超え、契月が多くの美術作品を摂取すべく精力的に活動したことは間違いない。西欧で多様な美術作品に触れた契月は、何に心動かされたのだろうか。

註1:『二葉』(京都市立繪畫専門学校・京都市立美術工藝学校校友會編 一九二三(大正十二年号))



註2:吹田草牧については、『吹田草牧−日本画と洋画のはぎまで−』(笠岡市立竹喬美術館二〇〇五年)に詳しい。



註3:書簡は、『美学美術史論集』(成城大学人学院文学研究科 第八輯第二 一九九一年一月)、日記は『視る』三〇三(京都国立近代美術館 一九九二年九月号)から連載として紹介された。



註4:当然のことながら、必ずしも草牧と契月が行動をともにしているわけではないため、契月の行動が完全に把握できるものではない。ここでは、基本的に、契月が行動をともにしていることが判るものを採り上げる。



註5:前掲書(註1)および『日出新開』(一九二二年四月十七日)。『日出新聞』はこのときの様子を、京都駅プラットホームに、竹内栖鳳、都路華香、西山翠嶂らをはじめとした在京日本画家や画商など百余名が見送りに集まったと伝えている。契月の画壇における位置、契月の欧州視察に寄せる期待のほどをうかがうことができる記事であろう。また、契月らが乗船した鹿島丸は十八日の午前十一時出発であるが、契月はあえて二日前に神戸へ向かい、自宅を離れて二日間を日本における事前の準備に充てており、契月のこの視察に対する静かな意気込みがうかがえる。



証6:『日出新開』(一九二二年四月十七日)。



註7:竹喬(一八八九−一九七九)は、黒田重太郎(一八八七−一九七〇)、野長瀬晩花(一八八九−一九六四)、土田麦僊(一八八七−一九三六)とともに、一九二一年十月に神戸港を出発、遊学し、他メンバーより一足早い四月五日に帰国の途に就いている。



註8:契月の写生帖には、インド人らしき男女の写生がみられる。インド人の美しさには皆圧倒されたという(No.81)



註9:黒田重太郎は、吹田草牧のいとこにあたる。契月たちより半年早く欧州遊学を開始した黒田重太郎は、草牧はもちろん、契月たちにパリを案内したようだ。契月も、晩年のインタビューで、「丁度、黒田重太郎君がいつていて、引張つて貰いました」と述べている。難波専太郎『画家を訪ねて』(一九五四年 美術探求社)。



註10:草牧、波光は、アッシジののち、ローマ、ナポリへ向かっている。



註11:『二葉』(京都市立繪畫専門学校・京都市立美術工藝学校校友會編 一九二三(大正十三)年号



註12:欧州視察の拠点としていたと思われるパリの主要な美術館、画廊には、繰り返し足を運んでいると思われる。



註13:前掲書(註3)姉しづ宛書簡 十月二十五日夜



註14:前掲書(註3)姉しづ宛書簡 二月二四日夜

模写・写生帖から

 本展では、洋行中の模写十五点と、洋行中に描いたと思われるスケッチ数頁含む写生帖一冊が出品されている。欧州視察の成果が、十五点の模写と数ページの写生であるとは考、えられず、実際ははるかに多くの模写や写生が行われたであろうことは想像に難くない (註15)。しかし、遺された模写がすべてではないにせよ、契月が目にし、関心をもった作品を写したものであることもまた事実であろう。以下では、滞欧期の模写から、契月の関心の在処を探りたい (註16)


まずはじめに、ウフィツィ美術館が所蔵しているジョット・ディ・ボンドーネ《栄光の聖母》とパドヴァにあるアレーナ礼拝堂の壁画《我に触れるな》(No.83/No.84, 85)の模写をみていきたい。いずれも、部分模写であり、前者は面貌表現や顔、首部分の立体感、後者は個々のモチーフの量感表現、人物と背景とのかかわり、色彩などへの関心をみることができよう。《模写6》(No.95)についても同じく、ジョットの《栄光の聖母》と考えられるが、先述のNo.83と異なり、興味は、全体的な量感の表現にある。また、《模写7》(No.96)、《模写8》(No.97)は、部分模写であり、なおかつ厳密な再現性を求めた模写でないことから、主題、作品の特定は難しいが、十四世紀初頭のジョット派の可能性が高い。


さらに、《受胎告知の大天使ガブリエル》(No.86)、《受胎告知の聖母マリア》(No.87)は、フィレンツェのアカデミア美術館が所蔵する「シュトラウスの聖母の画家」による《受胎告知》の部分模写。十四世紀後半から十五世紀初期にかけて、フィレンツェで活動したとされる「シユトラウスの聖母の画家」は、簡潔な形態把握、明瞭な輪郭線などジョット派を思わせる擬古典的様式と装飾性や繊細さなど十四世紀後半の国際ゴシック様式の特徴をあわせもったジョット復興運動の流れに位置づけられる (註17)。色彩に関する指示等が記された聖母マリアと大天使ガブリエルのみを模写したこれらの作品から、契月の関心が装飾性や色彩、人物表現、そして量感の表出にあったことがうかがえる。


また、《模写1》(No.90)は、十四世紀中ごろに活躍したヤコポ・ディ・チョーネ《聖母の戴冠》の左下部分、アレクサンドリアの聖女カタリナ(左側)と守護者聖女レパラータ(右側)の部分模写。契月が模写のために通ったアカデミア芙術館の所蔵作品である。ヤコポは、繊細かつ華麗な色彩による装飾的で洗練された描写を特色とするフィレンツェの画家で、ジョット以前の様式に回帰したとされる。しかし、この模写からは、契月の関心が、ジョット風の面貌表現や華やかな色彩、装飾性に向いていることがわかる。作品の特定は難しいものの、《模写2》(No.91)も、華やかな色彩や衣装の表現などからフィレンツェの国際ゴシック様式の画家による受胎告知の大天使ガブリエルを、《模写3》(No.92)についても国際ゴシック期のフレスコ断片を模写した可能性が高い。


その他、《模写》(No.89)は、ロンドンナショナルギャラリー所蔵、フィリッピーノ・リッピ晩年の作で、レオナルド・ダ・ビンチの影響が色濃い《礼拝する天使》(断片 一四九五年頃)の模写。《模写 聖母マリア》(No.88)は、十三世紀末のローマ派、《模写4》(No.93)は、北方系の貴族肖像画ではないかと思われる。《模写5》(No.94)は、手にしている角から「豊饒」の擬人像を模写したものと思われるが、これらのオリジナル作品特定および契月の関心の所在についてはさらなる調査が必要である。


以上のように、契月は、ルネサンスへの先鞭をつけたとされるジョットやジョット復興運動の流れに位置づけうる画家たちによる作品、そして国際ゴシック様式の作品を多く模写している。ジョットの特徴ともいえる意志的な眼差しを持つ理性的な面貌表現や、優雅で装飾的とされる国際ゴシック様式の華やかな色彩と明瞭な輪郭線、日本画にはみられない量感の表現に契月の関心が向いている。典雅でありながら理知的、そして洗練された描線と装飾性は、まさに、契月が到達する至高の画風と相通ずるものであるといえよう (註18)



ところで、契月は、欧州出発前のインタビューで、欧州での活動予定について次のように述べている (註19)


「(略)ルーヴルなぞに近い便利なホテルに泊まりこむ考えで居ります ルーヴルやその他のミユゼエの見物が終るまでは此のホテルにゐまして、それからは何處か斯う気持ちのい、郊外の家にでも一室を借りて、静に制作をして見やうと思つてゐますっ(略)半製でもいゝから兎も角出来るだけ描いて見るつもりで絹と枕と唐紙とを持つてゆきます。日本畫家としては矢張従来の使ひ慣れた材料を使ふ方がい、と思ひますし、又周囲の強い色彩や強烈な刺戟のなかにあつて日本畫の材料がどれ丈け生かす事が出来、どんなに調和させる事が出来るかと云ふ事も根本的に解決する事ができるだろうと存じます。」


これらの言葉は、模索状態にあった契月の目的が、欧州美術に触れること同様に、新たな日本画の制作にあったことを教えてくれる。しかし、滞欧期に制作したと思われる本画は確認できず、晩年のインタビューにおいても、制作はおこなわず模写を数多くこなしたと述べている (註20)。異国の地で、契月が間近にみた数々の欧州絵画は、契月に、欧州美術研究を中心に掘えた活動に方針変更させるほどに強い衝撃を与えた。そして、数ある欧州美術の中でも、ジヨットや国際ゴシック様式というルネサンス以前の作風が契月の心を捉えたことを、遺された模写は教えてくれる。

註15:事実、晩年の契月は、雑誌のインタビューに答え、「その場で寫せる模寫は澤山やりました」と語っている。前掲・早i註9)。



註16:契月が模写をおこなったオリジナルの西洋絵画作品については、西南学院大学国際文化学部准教授松原知生氏にご教示を賜った。記して謝意を表します。



註17:『ヒューストン美術館展』(三重県立美術館他 一九九九年)



註18:西洋絵画の主題、様式等については、生田ゆき氏、石崎勝基氏より多く助言を得た。



註19:「日本に居ると同じやうな 静かな心で異国へ 菊池契月畫伯の欧州漫遊 其間も畫筆と文筆に親んで」(『日出新聞』 一九二二年四月十六日)



註20:前掲書(註9)

西洋と東洋の融合−《立女》をめぐつて−

契月が帰国した一九二三(大正十二)年は、関東大震災のため帝展が中止となり、替わって大阪毎日新聞主催で日本美術展が開催されている。帰国後初の展覧会となる同展に、契月は《水汲み女》を出品した(p.12)。写実的に描かれたこの作品は、欧州視察で触れたインド風俗、インドの少女の美しさに対する関心が色濃くあらわれた作品である (註21)。しかし、欧州体験の興奮冷めやらぬ感のあるこの作品にみられる異国情緒溢れる主題、写実的表現が、この後追及されることはなかった。模索期に試みられた写実的傾向は欧州遊学後、本作を最後に見られなくなる。かわって、契月は、仏画や大和絵、浮世絵などの研究を推し進め、自らの作品の中に生かす方向へと向かう。


翌年、契月は満を持して《立女》を第五回帝展に出品した。この作品は、契月が制作した数多い人物画の中でも、ひときわ異彩を放っ作品である。大画面に、二人の女性と動きのある植物、小禽が左右均衡を意識して配されている。天平美術を彷彿とさせる豊満、豊頬な女性たちの姿態や面貌表現、衣装などには、薬師寺《吉祥天女像》や正倉院《鳥毛立女屏風》を学んだあとがうかがえ、唐三彩の傭を思わせる量感も与えられている。とくに、左側の女性については薬師寺《吉祥天女像》の影響が顕著であり、宝珠と藤花の違いはあるものの、左方向へ向かう特徴的な手の動きも類似する。一方、右側の女性は、腹部のあたりに壷を携え、遠くの声に耳を傾けているかのように伏し目がちにたたずむ。左側女性の身体の向きと手の動き、リズミカルに配された装飾的な草花と小禽が、観る者の視線を右側の女性の腹部、壷の辺りに導いていく。


本図の個々のモチーフからは天平美術の影響が色濃くうかがえるが、二人の女性の動きやその配置などには、契月が欧州で数多く目にし、模写もおこなつた「受胎告知」−ゆりを手にした天使ガブリエルが、本等を手にするマリアに懐胎を告げる場面−を連想させる。他にも《立女》は、シンメトリー構図、フレスコ画を思わせる色彩など、欧州遊学の成果と、帰国後に取り組んだ古美術研究の成果が共存しており、まさに、西洋芙術と天平美術の融合がはかられた記念碑的作と位置づけられよう。


《立女》
1924年
長野県信濃美術館



註21:(註8)で触れた写生帖に描かれた女性の彫りの深い顔立ち、神秘的な瞳は、《水汲み女》と類似している。

絵画の永遠性を求めて

《立女》から十五年を経た一九三八(昭和十三)年、すでに独自の画風を確立した契月は、第二回文展審査後の感想として、理想とする絵画について次のように語っている。


「服飾の流行は其時丈けのものだが、繪畫は永遠性をもつて變らぬものがいゝ。藝術に対する、良し惡しといふものは見る人が本當に心から、握手するもので、そうしたものは何時の時代の人にも握手するといふ事が出来やう。


私個人の立場から考へるのに、手法なんかどういつてもいゝが、東洋畫の祖先が次から次へ、受繼いで来た。取扱方、物の見方、象徴化が現在で絶えたのが遺憾だと思ふ、折角の祖先の仕事の上に立つて、前からの物を受け継いで、これから又受渡して行くのが、現在作家の重大な役目ではなからうか。


との意味から考へると、手法等はどうでもいゝとも言へ・驍ェ、矢張りそこを、現代人になり切つて、今迄の傳を現代の篩で通すのが肝腎だと思ふ。」 (註22)


西欧で、ジョットや国際ゴシック様式による宗教絵画などが色褪せることなく、永遠の輝きを放っているのを目の当たりにした契月は、ルーブル、ウフィツィ、アカデミアなどの美術館や寺院で、数々の作品と握手したのだろう。そして、格調高く、時を経ても古びることのない古典的世界に自らの進む道をみつけ模索期からの一歩を踏み出した契月は、永遠性を持つ絵画をめざし、独自の画風を確立していった。今なお我々を魅了してやまない契月の作品は、これから先も時を越え、作品に向かう者の心を捉えるに違いない。

註22:菊池契月「繪畫の永遠性」(『美術と趣味』 一九三八年十二月号「第二回文展特輯」)

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