このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

第二章 模索の時代〜至高の画風を求めて〜

一九一〇(明治四十三)年、契月は、第四回文展に《供燈》を出品する。前年の《悪者の童》同様、『平家物語』に取材した作品でありながら、《供燈》では、抑揚を抑えた細い描線、明るめの色彩、抑制された感情表現など、大和絵的な手法が試みられた。のちに契月自身が、「おそらくそれが自分の画風の変わる初まりであつた。」と位置づけているように、《供燈》は、滞欧を期に自身の進むべき方向を見つけるまで続く、模索期のはじまりを告げる作品といえるだろう。

主題についても、それまで得意としていた歴史画題から一転、大正期には、現実世界に主題を求めた作品が多くみられるようになる。契月は、新たな可能性を求め、主題と表現の両面において、熱心に研究を繰り広げたといえるだろう。巨椋の池に舟をうかべるこどもに着想を得たとされる《鉄漿蜻蛉》では写生に基づく装飾的表現を、柳の木陰で母親がこどもに行水をつかわせる様子を描いた《ゆふべ》や、仕事を終え家路につく大原女を描いた《夕至》では、細やかな観察に基づく写実的な表現を追求していく。このように、現実の世界を主題につぎつぎと新たな表現を試みる一方で、《浦島》や《花野》のように、伝説、謡曲の絵画化を試みたのもこの時期なのである。

一九二〇(大正九)年には、第二回帝展出品作である《少女》において、それまで研究を重ねてきた装飾的、写生的表現に加え、特徴的な色彩による線描を抑えた表現が用いられた。この《少女》や翌年の帝展出品作である《鶴》には、契月より一世代若い新進気鋭の画家たちが、京都で新たな日本画を目指して推し進めていた国画創作協会の影響もうかがえる。

大正という時代の風潮、革新的な若手作家の動きにも敏感に反応しつつ、至高の画風を求める契月の厳しく長い模索の時は続いた。


(道田美貴)

ページのトップへ戻る