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第一章 画家をめざして〜南画から四条派へ〜

一八七九(明治十二)年、長野県下高井郡中野町(現中野市)に生まれた契月(旧姓 細野 本名 完爾)は、幼いころから絵を好み、十三歳頃より本格的に絵を学びはじめた。最初の師は、隣町の南画家・児玉果亭。果亭のもとで精進を続けた契月は、この師より「契月」の雅号を受け、画家を志すに至る。より広い世界で学び、画家としての一歩を踏み出すため、十七歳の契月は、周囲の反対を押し切り上洛した。

京都では、南画家・内海吉堂に入門。しかし、南画はすでに郷里で学んでおり、新しい師の作風は、契月が満足できるものではなかった。一年後、吉堂の紹介で、四条派の流れを継ぐ菊池芳文の門へ移り、入門翌年には、青年画家の登龍門・第四回新古美術品展において、《文殊》が褒状一等を得るほどのカをつけていく。その後も受賞を重ね、一九〇二(明治三十五)年には、《寂光院》が第八回新古美術品展で二等賞銀牌という好成績を得るが、師である芳文からは、細く柔らかな描線について厳しい叱責を受けたという。しかし、契月ほどの画家が師の求める線を引けないとは考えがたい。《寂光院》にみられる特徴的な描線は、契月が強い意志をもって用いたものといえよう。また、芳文の厳しい指導も、契月の資質を見抜き、期待を寄せていたからに他ならない。契月は、一九〇六(明治三十九)年、芳文の長女アキと結婚、芳文の養嗣子となつた。

一九〇八(明治四十一)年、第二回文展に《名士弔葬》、翌年の第三回文展に《悪者の童》を出品。芳文の後継者として臨んだこれらの意欲作で、それぞれ二等賞、三等賞を得る。いずれも、四条派の特徴である抑揚ある強い描線と表情豊かな面貌表現で、中国の故事や歴史画の一場面を劇的に視覚化しており、一躍京都画壇の有力作家として注目を集めた。

一方、のちに指導者としても重要な役割を果たすことになる契月は、一九〇九(明治四十二)年、京都市立美術工芸学校教諭心得、翌年に京都市立絵画専門学校助教諭に就任、指導者としての一歩を踏み出している。


(道田美貴)

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