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片山義郎の彫刻について

森本 孝

片山義郎は寡黙な作家である。何かを尋ねても,「別に何も言うことはありません」という答が返ってくるだけで,「作品を見れば判るじゃないか」と言いたそうである。アルチザンというべき気骨溢れる作家であり,自己の創造する芸術に自信を持ち,黙々と制作に励む具象彫刻家である。

明治41年1月4日,片山義郎は7人兄弟の末子として大阪で生まれている。父・吉兵衛は広島県福山の造り酒屋の出であり,母・よねは和歌山出身であった。父親がクリスチャンであったことから,東京池袋で過ごした幼少年期の頃に片山も洗礼を受けている。私立目白中学校(現在の中央大学付属高等学校)を卒業して,二十歳になったばかりの頃に,東京美術学校(現在の東京芸術大学)に通う中学校の先輩を訪ねたことがあり,片山の回想によると「勉強しないですむと思ったから」(「三重の作家たち(5)」朝日新聞 昭和57年9月16日)という理由から彫刻をやってみようと考えたという。昭和5年,受験勉強をほとんどしないまま東京美術学校の入学試験に合格し,両親の反対を振り切り同校に入学したという。

入学当時の東京美術学校長は正木直彦,教授は北村西望(1884−1987),建畠大夢(1880−1942),朝倉文夫(1883−1964)の3人。明治41年の第2回文展(文部省美術展覧会)では上位の賞を3人が独占するといったように,共に東京美術学校に在籍中に,といっても朝倉は研究科に席を置いていたわけだが,既に注目を浴びてめざましい活躍を始めていた。そして以後文展,帝展(帝国美術院展)という官設の展覧会,没した建畠を除き戦後はその系統の日展を主な活躍の場としていた彫刻家たちであり,彼らの作風が官展系の主流を形成していくことになっていった。

片山義郎は,東京美術学校当時の様子について多くは語らないが,「私が東京美術学校の彫刻科へ入ったのは昭和九年だったが,当時は,朝倉文夫,北村西望,建畠大夢の三先生であった。その頃は五年制の美術専門学校で,なになに教室という制度もなくて,三人の先生が週に一度ぐらい教室に顔を出されるといった風であった。三先生それぞれの作風ではあったにしても,当時ロダン系彫刻の新しい風が流れ出していた眺めからすれば,ラグーサが持ち込んだイタリア風アカデミズムの系列に入る方がたであった。(略)北村先生は盛んに感覚という言葉を使われ,建畠先生は幾分ロダン風的な解釈批評をされていたが,朝倉先生は私の記憶では,直接作品の指導というよりも,彫刻や人生談話の方が多かったように思う。」(「私の中の朝倉文夫像」『朝倉彫塑館の記録』財団法人朝倉彫塑館昭和61年)という,4年後輩にあたる佐藤忠良(1912−)の言葉から概略が窺える。片山も,佐藤忠良も東京美術学校で学んだ彫刻は,精緻な技巧によって堅実な写しをみせるラグーサの流れと根底でつながっていた。片山義郎は,朝倉文夫,北村西望に対して余り良い印象を持っていないという。建畠大夢を尊敬していたという片山は,他の2人以上に真撃な制作態度を示し,塊として彫刻を表現することに腐心する建畠に共感するものがあったのであろうか。

東京美術学校時代,友人と銀座において芸者をあげて飲酒に明け暮れることも度々あり,芝居好きであった片山は築地小劇場に入浸りであったというほど通い詰め,その間舞台装置を手伝うこともあってか女優と恋愛関係にまで発展したこともあったという。しかし,彫刻の制作態度は非常に熱心で秀才の誉れも高く,いわゆる優等生であったという。気魂に満ちた制作態度は東京美術学校時代に学んだものであり,美校時代に片山義郎の資質は完成したといえよう。

昭和9年3月に同校を卒業して,研究科に進んでいるが,片山義郎は卒業制作として「処女座像」を造り,主席卒業の者に授与されるという銀時計を獲得している。さりげなく座った女性のヌードを堅実な写実で丹念に表現したこの作品から,表面的な美しさや単なる写しに終らない素朴な彫刻の美が感じられる。銀時計を授与され,美術学校在籍中に帝展に入選し,片山の制作の方向は既にこの時期に定まっていた。なお,片山の話では東京美術学校在籍中,銀座で個展を開いたというが,詳細はわからない。

片山義郎の後輩にあたる柳原義達(1910−),佐藤忠良(1912−),舟越保武(1912−)らは,国画会に出品し,昭和14年,新制作派協会の設立とともにその会員となり,同じ具象とはいうものの,国画会彫刻部解散に伴い新制作派協会に結集した作家は,写実のみに終始しないで現代の感性を作品のなかにもりこんだ「具象」を追求し,官展系とは異なるもう1つの主流をなしても,片山はこういった動きとは無関係であり,また,朝倉が「東台彫塑会」を,建畠と北村が「曠原社」といった研究団体を結成しているが,こういった団体に加わることもなく,片山は誠実に独り制作に励んでいった。片山には彫刻の制作について確固たる自信があった。確かな写形と粘土のこなしといった技巧も,そして造形感覚も,揺ぐことのない確かな手ごたえがあった。

一方,東京美術学校へ入学した翌年の昭和6年,第12回帝展に出品した「男の首」が初入選するなど,既に在学中から頭角を現し,翌年の第13回帝展に「ミカの胸像」(昭和7年),第14回帝展に「或る女」,第15回帝展に「腰かけた乙女」が連続して入選し,昭和11年文展に入選した「髪」について,「一見栄えないやうだが,じっくりと可塑して美を探ぐり,相当の力量を示してゐる。」(大蔵雄夫『美之国』昭和11年11月号),「動向の自然さとデリカシーをとる。内面的な深さに努力する事が作者の道だ。」(雨田光平『美術』昭和11年11月号)という展評が記されている。左手で髪を少し摘み,肘で曲げた右手も軽く持ち上げ,腰をひねったごく自然な姿をした若い女性の裸像がみずみずしく表現されている。

昭和12年東京美術学校研究科を終了した片山は,同年の第1回新文展に「或る女」,翌年の第2回文展に「若き女像」,昭和15年の紀元二千六百年奉祝展に「支那服を着た女」が入選,この年から昭和21年6月まで東京小石川の私立京北中学校の講師となっている。この間,昭和18年には召集を受け,1年8ヵ月を南方で過ごしている。引き揚げの直前,戦友の死を弔う慰霊塔を部隊で造ることになり,陸軍二等兵であった片山は,観音像などの木彫を制作している。

東京美術学校に買い上げられた「処女座像」を除き,戦災によって全ての作品を暁失し,一度は東京に戻ったが仕事もなく,片山にとって三重は何の由縁もない土地であったが,知人の勧めによって三重県四日市市立商工学校へ教諭として勤務することになった。

昭和23年8月まで同校で教鞭を取り,以後県立四日市実業高等学校(同24年3月まで),県立四日市高等学校(同25年3月まで),県立四日市工業高等学校(昭和45年3月まで)の教壇に立ち,その間名城大学で10年間,名古屋工業大学で5年間講師を勤め,昭和49年からの8年間は暁短期大学の教授でもあった。

片山の彫刻家としての戦後の出発は,昭和23年の第6回日展に出品した「青年立像」であり,この頃の代表作をあげるとすれば,昭和30年の日展に出品し特選となった「腰かけた女」であろう。日常のさりげないポーズをした女性を,細部にこだわることなく,大きな一つの塊を意識して対象に迫っている。マンズーの作品を見た片山は印象を,「彫刻で一番大切なのは,『かたまり』として形を整えることなのです。彼の作品を見ていると,細かいものにとらわれないようにして幾度でも作り直し,そして自分の作品を作っている」(「愛─その造形,マンズー展」中部読売新聞 昭和59年3月26日)と述べているが,この「腰かけた女」に対する片山自身による回想の言葉のように思えてくる。

三重県立美術館では「片山義郎展」と時を同じくして,生誕百年を記念した「石井鶴三展」を開催することになったが,この二人の作家は目に見えない何かで連なっているような気がする。鶴三と片山とが面識があったかどうかはわからないが,ともかく片山は「石井鶴三はうまい。形ができている」と述べ,「鶴三を尊敬している」と語っている。共に自己の生活や興味と関わる主題を選んで,忠実な自然観照に基づく卓抜な塑像力を持ち,各々自己の想念を込めた制作をしている具象作家であるこの二人には,他の作家以上に共通する塑像造形の確固たる理念があるように思える。

石井鶴三は,昭和7年8月,信州上田市で開催された「彫塑講習会」において,彫刻の真精神を明らかにするとして,「彫刻の真の意味は物の形を作るのではない。彫刻は物の形をかりて立体の美を創造すること」であり,「自然の中に立体の美を見ること,それを味わい,それを感じること,そしてこれを形をかりて作り出すことが彫刻である」とし,立体の美とは,「塊・動勢・面・容量と云いたい,その他,光と影も入れてもよいですが。私はまた立体の美とは塊のもつ美しさと云ってもよいと思います。」と述べている。彫刻には塊の表現が最も重要であるとし,塊の研究に彫刻家は没頭するべきであるとする鶴三の理念は片山と相通じるものが存在しているのであろう。

片山は「首の片山」とよく言われることがある。彫刻において「首」とは,首から上の「顔・頭部・首」からなる彫刻を意味する言葉であるが,「首から始まり首に戻る」とよくいわれるように,彫刻の基本が「首」であり,平常見なれている人間の顔であっても身体の一部分でしかない制約のなかで全身像に匹敵する表現を追求する「首」は,彫刻家の感性が最も表出されるところでもある。「首」をたくさん作ってきたのは何故かを問えば,おそらく片山義郎は「かたまり」の研究のためだ,と答えるであろう。今回「片山義郎展」に出品された彫刻のなかで,「少年の頭部(肇)」(NO.2)や「少女の頭部試作(十糸子)」(NO.8),「両手を頬にやる十糸子」(NO.22)などは細部の表現全体の大きな量塊のなかで肉付けをしており,量塊を把握する研究のために制作したものであろう。「少女頭部(十糸子)」(NO.13)「M子の顔」(NO.20),「帽子を被るT子」(NO.40),「首(T子の顔)」(NO.42),「少女の頭部」(NO.57)といった「首」には,みずみずしい生命感が溢れているが,特に「首(T子の顔)」(NO.42)は長女・十糸子をモデルにしたもので,的確な造形力のみならず,日常の内的な対象観察の集積がなければできないほど,長女の人間そのものを動感溢れる一つの量塊に凝縮して,見事に表現した片山義郎の代表作といえよう。

片山義郎は,いわゆる「モデルさん」を必要としない。「女の頭部」(NO.15)はモデルさんを雇って制作した異例の作品であるが,その他の作品での対象は性とんど妻である光子であり,次に長女・十糸子が多い。「M子の顔」(NO.20)のM子とは光子夫人であり,この作品からも窺えるように,夫人は穏やかな性格の女性で,和服が非常に似合うというイメージを抱くのは,片山義郎だけではない。「和服を着た女性を造らせれば片山義郎の右に出るものはいない」という評価を片山義郎は得ているが,和服に興味を持ったから,妻に和服を着せて作ったのでは,おそらくない。妻をモデルに作ることに意味があり,最も似合う姿態が和服姿と考えたからであろう。出品作品では昭和40年を過ぎた頃の「右脚を前に出す和服の女」(NO.24),「和服婦人立像」(NO.25)から始まり,マントを纒った姿で心情を豊かに表現した「和服の女(妻の像)」(NO.26)などを制作し,腰をひねった動作を巧みにとらえた「裾を持つ和服の婦人」(NO.35)や「女」(NO.47),そして「憩ふ」(NO.50),「和服の女半身像」(NO.52),「訪問」(NO.55)に至り,細やかな神経が隅々にまで届いて,格調の高い,静為かな女性の魅力が表出した,片山義郎でなければ到達できない立体の美しい世界の完成を見ることができる。また,頭部を前面に突き出し身体を「く」の字の形態にまとめた「前かがみの和服の女」(NO,48)では,若々しい清純でしかも快活な女性の姿が生き生きと表現されている。

これらの和服姿の女性像や,「右脚を前に出す洋服の女」(NO.16)「T子像」(NO.19),「コートの女」(NO.23),「腰かける女」(NO.29),「腰かける洋服の女」(NO.31)といった洋服を着た姿にも共通していることは,すべて閉じた形態をしていることである。これは片山義郎の量塊,すなわち「かたまり」に対する理念のあらわれであり,美しさの根源がここにあるように思う。ただ,「洋服を着た婦人立像」(NO.17)では,手が開いた形態で他の作品にはない繊細な表現を見せ,片山の作品のうちでは例外的な存在となっている。

昭和23年から56年まで,三重県美術展覧会運常委員と審査員を兼ね,昭和45年から53年まで三重県芸術文化協会常任理事,昭和47年から三重彫塑会長,昭和50年から三重県文化審議会委員を引き受け,三重の彫刻界の重鎮としての役割を担いつつ,三重県内の若い彫刻家の指導にあたっている。そういった活動を顕彰する意味で,県下の文化振興に寄与したことなどから昭和34年,三重県教育功労者として表彰され,昭和53年には文化庁10周年記念功労者表彰を受けているが,片山義郎は表彰式には出席していない。この「事件」が象徴するように気骨な精神を終始一貫して失うことのない片山義郎は,戦後の彫刻界の動向とも無縁の立場にあって,自己の堅実な造形力をもとに,誠実に生活を見つめる姿勢を忘れることのない彫刻家として制作を続けている。

(もりもとたかし・三重県立美術館学芸員)

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