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彫刻家片山義郎

陰里鉄郎

「吾々彫刻家が彫刻芸術の既成概念を排して価値要素を学究的に考察する時そこに再検討を要する多くの問題を見出すのであります。これが彫刻芸術の画期的進歩に如何に重要であるかを感ずるのであります」
 このように趣意書の冒頭に記して『日本彫刻家協会』と称した団体が結成され,発足したのは昭和11年(1936)春のことであった。この団体は「彫刻芸術の純粋研究機関」だという。この団体の創設当初の会員のなかに,片山義郎の名を見出す。他の会員には,早川巍一郎,加藤顕清,大須賀力,畝村直久,武井直也,黒田嘉治,野々村一男などである。

昭和11年というと,日中戦争が始まる前年,軍部による雪のなかのクーデターである二・二六事件のあった年でもあるが,美術界では,この前年の昭和10年の帝展改組,いわゆる松田改組(文相松田源治による帝国美術院の改組)によって大混乱忙陥入っていたときである。官展である帝展の関係者はいうまでもなく,二科会をはじめとする在野の美術団体も動揺し,高名なものから無名の若い美術家までが右往左往したことは夙に知られているとおりである。離合集散,洋画界でみると新制作派協会,一水会が生まれたのもこのときであった。美校生時代から帝展に出品していた若き片山もまたこの渦中にあったのだろうか。ともあれ,日本彫刻家協会の誕生はこの渦と無関係ではなかったにちがいない。「新しい認識と表現によって彫刻芸術の再検討を行い無自覚な既成作家の反省を促す」ことがこの会の目的のひとつであった。

日本彫刻家協会の第1回展は昭和12年(1937)5月から6月にかけて東京府美術館において開かれている。出品点数は82点,「制作態度は概して思索的であるが本格的なデッサンに乏しい作品が多く,ために表情的であるが弱々しく又卒直でない」といった当時の批評がみられるが,第2回展は翌昭和13年の5月に開かれており,「この会は文化人としての彫刻家であり度いと思ふ人々の集り」であるようで,「近代的教養を意識する点がこの会の特色をなして」いるとも評されている。戦前の片山義郎の作品は,東京芸大に所蔵されている卒業制作『処女座像』(昭和9年)ただ1点が遺されているだけで,他はいっさい戦災で焼失したが,日本彫刻家協会の記録をたどると,その第2回展に『K夫人の顔』(昭和13年),第3回展『脂肪の塊』,第4回展『腰掛ケタ女』,第6回展『支那服の女』などの作品があったことが知られる。またその間の新文展にも出品しているが,これらのいくつかは葉書大の写真図版でおおよそ,その作風と性格を知ることができる。なかでも注目されるのが『K夫人の顔』であろう。すこし面長のこの頭像には,のちの「首の片山」といわれるようになる片山の素直な対象把握と抒情感がみられるようだ。それにつづく『脂肪の塊』は,騒名からはモーパッサンの小説を連想させるが,といって大正から昭和にかけての日本彫刻の大勢であった文学臭のつよい思わせぷりの主題をもった官展彫刻とはどこかちがったごく素直な量塊表現の裸婦立像のようにおもわれる。こうした片山彫刻の性格は,美術学校卒業制作『処女座像』にすでにあらわれている。昭和初期の東京美術学校の彫塑は建畠大夢,朝倉文夫,北村西望といった教授陣であり,官展彫刻も彼らの作風が支配的であった。それらは又写実を表面的なまとまりのある再現の範囲でとらえ,再現の技術の練磨に汲々として,大袈裟な文学的主題を内容としていたきらいがつよかった。高村光太郎が徹底的に批判したのもこの非彫刻的彫刻についてであった。そして批判的グループの多くはロダンに傾斜し,、その影響をつよくうけ,さらにブールデル,マイヨールといったフランス近代彫刻に批判の根拠を求めるかのような展開をとってくる。荻原守衛,高村光太郎によるロダン,清水多嘉示によるプールデルといったように。こうしたなかで片山の初期の作品は,ロダンでもない,プールデルでもない,ましてや朝倉・北村ふうでもないなにかをかすかに感じさせるのである。

片山の卒業制作や日本彫刻家協会展の作品について考えていると,さきにすこしだけ触れたような昭和初期のファシズムと日本美術界の混乱の前夜のころ,片山の青春がぽんやりと浮びあがってくるように感じられる。四日市のアトリエでかわした会話のなかで,片山は若き日の酒を遊びを言葉すくなく語った。いったいに片山はよけいな言葉を極度に嫌うようである。自分の仕事に関しても特に饒舌を嫌うが,こと酒については饒舌ではないまでも口を開く。片山とほぼ同時に東京美術学校彫刻科にあった柳原義達の回想のなかにつぎのような一節がある。

 私の学生時代は楽しかった。
 酒を飲み,馬鹿騒ぎの生活のうちに,学校で教わることよりも,教われない多くのことを学んだように思える。
 馬鹿友だちとはありがたいものである。───
 仕事か,酒か,香月にはこのどちらかしかなかったようである。
 学生時代から酒を飲んでいたが,そのことは仕事もしていたことになる。
 (『孤独なる彫刻』)

香月とは,シベリア・シリーズの画家,香月泰男のことであるが,仕事の内容はちがっても片山と置きかえていっこうに不自然ではないようにおもわれてくるのである。こうした彼らの青春は,その後に戦場にかりだされての苛酷な肉体的痛苦の連続する試練にも堪えきって,戦後の仕事が生まれてきている。

仕事か,酒か。片山にとっては若き日の芝居も仕事のうちであったのであろう。戦後の片山も詮じつめれば,仕事か,酒か,であったであろうと私は想像する。柳原義達ふうにいえば,要するに仕事をしてきた,ということである。片山は仕事師なのだ。単なる職人ではない仕事師なのである。片山の仕事とはもちろん彫刻である。

戦後の日本彫刻に大きな影響をおよぼしたものにイタリア彫刻があり,イギリス彫刻があるが,いずれも片山にはほとんど無縁のものであったのではないかと私は想像する。それは片山の,時代に対する感覚の欠如を意味してはいない。当初から片山は,ロダンでもブールデルでもなかったように,イタリア彫刻でも,イギリス彫刻でもないだけのことである。片山のアトリエに短かい時間だが座っていて,私はひとつの驚きを感じていた。片山は「旅が好きだ」と言う。そして「イスタンブールがいい」とぷっきらぼうに言うのである。たしかめはしなかったが,片山がひそかで,豊かな読書人であることを確信したのであった。フロイスの『日本史』,『大航海時代叢書』,『渡辺一夫著作集』などが私をとりまいておかれていた。それらは,片山の奥底にある思想と教養を静かに私に告げているようにおもわれたのである。片山の彫刻の背後にあるものを感じさせてくれたのである。

(三重県立美術館長)

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