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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1987 > 片山義郎のアルバム-美校時代のこと 荒屋鋪透 片山義郎展図録

片山義郎のアルバム──美校時代のこと

荒屋鋪 透

 (一)

ここに一冊の古いアルバムがある。PHOTOと印刷された表紙をめくると,「昭和5年-昭和29年迄 作品写真の一部」と万年筆で書かれた白い紙が貼られている。片山義郎と同時代に青春を生きた,全ての芸術家が背負った宿命であろうが,彼の東京時代───すなわち明治41年1月4日に7人兄弟の末っ子として大阪に生まれた片山義郎が,広島県福山市で造り酒屋を営んでいた父親と,和歌山県出身の母親と共に,まだ幼い頃東京池袋に移り住んでから,南方の孤島で終戦を迎えた後の昭和21年4月,和歌山県田辺に復員するまで───を語ってくれる筈のものはほとんど全部,徹底的な空襲をうけた東京の猛火の中で灰塵と化してしまった。私立目白中学校で使ったノートも,東京美術学校で制作した数々の習作類も,手紙も写真も蔵書も何もかも。ただ1冊のアルバムが残されたのである。黄色くなった写真の中には,昭和7年に制作した石膏像と共に,美校3年生の片山義郎が写っている。


 (二)

片山義郎が在籍していた頃の東京美術学校(以下は美校と略す)彫刻科塑造部の教授は建畠大夢,朝倉文夫,北村西望である。この3教授はいずれも,大正5年(1916)に始まる美校改革運動による,彫刻科の内部改革と人事面での移動の結果,招かれた新教授であった。建畠大夢は大正9年2月,朝倉文夫と北村西望は翌10年5月に塑造部の教授に就任している。


美校の彫刻科塑造部は,もともと木彫から出発した彫刻科の基礎実技として,明治31年塑造を採り入れたことに始まっているが,翌32年には彫刻科は木彫部と塑造部に分かれており,42年は牙彫部(大正9年度には教室を閉じている。)を加えて,彫刻科は新たな出発をしている。当初,塑造部の主任は高村光雲であったが,白井雨山が主任として生徒の指導にあたっていた。明治40年秋の文部省美術展覧会(以下は文展と略す)の開設とともに,雨山と彼の美校の生徒たちは,文展を舞台に活躍した。日本近代彫刻の黎明期の話である。片山義郎の師事した建畠大夢らは,こうした,文展を中心に創作活動を展開した彫刻家であった。


建畠大夢(たてはた・たいむ,本名・弥一郎,明治13-昭和17)は,京都市立美術工芸学校から東京美術学校に学び,美校在学中から文展に入選し受賞を重ねた秀才であり,京都市立美術工芸学校では北村西望の先輩であった。美校2年生の時,第2回文展に出品した「蛇つかいの女」は3等首席となり,建畠大夢の名を一躍世に知らしめた。彼は成績優秀であったため,他の生徒より1年早く美校を卒業しているが,官設展覧会の審査員になったのは大正8年,帝国美術院が主催した第1回帝展からで,同年には北村西望も審査員に推挙されている。建畠大夢は大正6年に北村西望らと共に「八つ手会」を,後に「曠原(こうげん)社」を興し,美校の生徒らと「直土会」を設立した。建畠の作風は,一貫して写実を追求したものであるが,片山義郎は温厚で穏和なこの師を慕っていた。


朝倉文夫(明治16-昭和39)は明治40年,東京美術学校彫刻科を卒業しているが,同窓には小倉右一郎,藤井浩祐らがいる。朝倉は,卒業翌年の第2回文展より,第8回まで 連続して受賞しており,特に第2回文展出品 の「闇」と,第4回の「墓守」,第7回の「含羞」,第8回の「いづみ」は最高賞である2等質を受賞している。大正5年に文展審査員となった朝倉は,精緻な写実の技巧に関して,他の追随を許さないと目されていたようであり,当時の文展の彫刻作品にほぼ決定的な影響を及ぼしていた。大正13年には帝国美術院会員となり,昭和2年からは朝倉彫塑塾を開設して,多くの後進を育成している。


北村西望(明治17-昭和62)も建畠大夢と同じく,京都市立美術工芸学校から美校に進んだ学生であったが,東京美術学校の教授に就任してから後も,北村は先輩である建畠と行動を共にしている。北村が官展の審査員になったのも,建畠と同じ大正8年の第1回帝展からのことである。


 (三)

前述した様に,大正9年から10年に掛けて行われた,美校彫刻科改組の結果,新たに就任した教授は共に,帝展で活躍中の気鋭の彫刻家であったわけだが,この改組後に起こった彫刻科の著しい変化の筆頭に挙げられるのは,教室制を採用したことであろう。教室制つまり,生徒に希望する教室を選ぼせ,専らその教室の教官について実技の指導を受けさせる制度は,卒業制作に関する問題と共に,美校改革の懸案事項であった。教育方針の重点を教官の個人的薫陶に置くという趣旨を尊重して,この教室制を逸早く採用していた西洋画科の改革に倣い,彫刻科でも大正10年5月の同科教官会議の結果,塑造部に限って教室制の採用に踏み切ったのである。


美校彫刻科における改革の教授法の上での変化は,勿論新たに就任した3教授に託されることになったのだが,中でも朝倉文夫の指導法は,特異なものであった。朝倉教室では西洋画科の中心的なメトッドであるデッサンを廃し,朝倉が「記憶のデッサン」と称していた独特の教授法を採用していた。これは,従来の美校の教育上,中心的役割を担っていた絵画(平面)から彫刻を開放し,対象を飽くまで立体として把握し,立体として表現させようとするものであった。朝倉教室では,先ず生徒に,例えばホメロスなどの石膏マスクの摸刻を徹底して習得させた。朝倉の考えでは,芸術家の感覚というものを尊重した上で生徒がそれに過信すること無く,個性を発揮することが出来る様に,彼らを指導することが先決であり,充分な基礎が確立される前の若い彫刻家たちに,いきなり感覚の発露を要求することは無謀に等しかった。朝倉はしばしば「四方面制作」と言う言葉を用いて,対象の輪郭のみを追うことなく,その対象の構造が内包する四方面(立体)を,生徒が目で把握出来る様に指導した。彼は常々「私には彫刻の基礎だけを習ってもらいたい。」と生徒に語っていたという。朝倉教室の生徒たちは,教室に革靴で入ることを許されず,素足または草履で制作をする様に指導されていた。それは,革靴で鈍っていた足先の感覚を取り戻し,微妙な体重の移動の変化による感覚を,生徒が体得出来る様に配慮されたものであった。生徒が素足で教室に入って来るため,床掃除は彼らによって厳重に行われた。掃除は,生徒の精神修養でもあった。ところでこうした厳格な朝倉文夫の指導法は,自由な空気を欲した学生たちの反発を招いたこともまた事実である。片山義郎も,朝倉の頑固なまでの指導法とその政治的な手腕に,どこか馴じめぬものを感じていた。池袋に住んでいた片山は,よく美校の仲間と一緒に上野広小路や大塚近辺で遊んだという。もっとも,片山の美校時代の作品,習作類の殆ど全ては不幸にも先の戦災で失われてしまったが,美校時代の片山がいかに勤勉な生徒であり,優秀な成績で卒業したのかを証明するには,現在,東京芸術大学芸術資料館が所蔵保管している,一点の作品だけでも充分であろう。それは今回の「片山義郎展」に出品されている,「処女坐像」である。昭和8年に制作され,同9年の卒業制作として美校に提出されたこの石膏作品は,昭和9年3月22日,その年度の彫刻科塑造部の卒業制作を代表して美校に買い上げられた。先に述べた,大正5年に始まる美校改革運動における,教室制と並ぶ懸案事項に卒業制作の扱いの問砥があったが,彫刻科の場合,卒業制作には制作補助費を支給して,作品は学校が所蔵することになっていた。しかし,恐らく所蔵施設の事情からであろうか,上記した大正10年5月の教官会議において,卒業制作は,以後優秀な作品に限り学校が所蔵するという決定がなされている。もっとも,翌月の会議において,以下のような付帯事項も設けられ,生徒は卒業制作に関しては,その主題,点数共にある枠組みの中で比較的自由に制作することが許された。


「各教室担当教官ノ見込ニヨリテ卒業制作トシテ価値アルモノハ人体全身ニ限ラズ或ハ胸像ノ部分ニテモ差支ナク何ニテモ自由製作ヲナサシムルコトトス,又タ点数モ一点ニ限ラザルコトトス」


 (四)

片山義郎が美校に在籍していたのは,入学した年の昭和5年4月から,昭和9年に卒業した後,さらに昭和12年3月に彫刻科研究科を修了するまでの7年間である。この時期に美校に在籍していた彫刻家には,柳原義達(昭和6年入学),舟越保武(昭和9年入学),佐藤忠良(昭和9年入学)らがいたが,同時代の彫刻家で,彼が親しくしていたのは長野県出身の清水多嘉示(しみず・たかし)であった。片山が在籍していた当時,昭和初期の美校に吹き荒れた嵐は,「プロレタリア美術運動」であるが,直接参加はしなかったが片山義郎も純粋な,芸術運動としてのプロレタリア運動に興味を覚えたようである。彼はしばしば,関東大震災後のプロレタリア演劇に残された牙城であった,築地小劇場に通っている。この頃の美校生について,当時の生徒主事であった鈴川信一が,昭和7年3月に『美術新論』の記者の取材に答えた,興味深い証言が残されている。


「美校生の気風ですか。一口に云へばズポラです。これは極端な個性発揮の養成の結果とも云へる事です。時代時代によって多少の相違はありますが大体忙於いて集団,統一或は協力と云った様な傾向がありません。どこまでも個人としての自由行動が尊ばれます。その代り他の学生に見られない美しいものがあります。それは純真です。表裏がなく,陰険でなく,淡泊で明っ放しです,これが特色として最も誇り得られると思ひます。(中略)危険思想的な傾向は全然ないとは云へませんが極く少数です。何分にも仕事そのものが法律,経済などと・痰チて対象を自然に求める結果から直接社会的に進み得ない状態にあるのだと思ふのです。尤も芸術運動を通してその方面に興味を感じて行く事は有り得る事で頭脳の明晰な者なら当然考へられる事でせう。」


 (五)

美校内において,プロレタリア美術運動への参加の機運が最も高まっていたのは,片山義郎が入学する少し前の世代,例えば,大正7年に美校日本画科を卒業し,同11年に「アクション」に加わった矢部友衛,昭和2年の卒業制作に「新しき生活へ」を出品した大月源二,昭和2年「プロレタリア文芸連盟美術部」に加盟した鈴木賢二(当時彫刻科3年生)らにおいてであった。昭和3年には,東京府美術館で開催された第1回プロレタリア美術大展覧会へ多くの美校生が出品している。美校において,これらプロレタリア美術運動への参加や機関誌の発行が比較的自由におこなわれていたのは,学校当局と教授陣のリベラリズムに依るところ大であったはずである。しかし昭和6年,満州事変が勃発した後の厳しい左翼弾圧によって,次第に美校内における運動も終息してゆくのである。


片山義郎が築地小劇場に通ったのは,もともと芝居好きの彼が,歌舞伎や新派といった形式に縛られたものではなく,真の演劇を見たかったからだという。美校生であった片山は,次第に舞台美術などを手伝うようになり,団員とも親しくなっていった。わが国の演劇史における「築地小劇場」の果たした役割について,ここで述べる事もないが,演劇に対する真撃な取り組み方,俳優の養成や一般戯曲,演出などの研究機関を劇場内に備えたユニークな活動に加えて,彫刻家としての片山義郎に恐らく大きな影響を与えたであろうと思われるものは,その劇場建築と舞台装置であったろう。築地小劇場の創立同人である小山内薫と土方与志(ひじかた・よし)は,わが国初のクッペル・ホリゾントを中心にした舞台設計を試み,客席と舞台を様々な舞台装置によって融合させようとした。ちょうど片山が通っていた時期は,ドイツに遊学していた千田是也(せんだ・これや)が昭和6年に帰国し,東京演劇集団の旗揚げと一致している。実体としての築地小劇場は,すでに昭和3年12月の小山内薫の死去後,解散と新設,分裂を繰り返していたのである。がしかし,ともあれ劇場では,レマルク原作による「西部戦線異常なし」や,「ハムレット」,「父帰る」といった戯曲が絶えず上演されていた。片山義郎は戦争がもうすぐ目のまえに迫っていた昭和10年前後,この築地小劇場で短い青春を謳歌していた。昭和15年8月,新興劇団協議会と新築地劇団の首脳部は,左翼運動を摘発していた治安当局の一斉検挙を受け,両劇団は強制的に解散させられた。昭和20年3月,劇場は戦災により焼失し,ここに築地小劇場の歴史は閉じられたのである。


参考文献
桑原 實監修・磯崎康彦,吉田千鶴子共著
『東京美術学校の歴史』日本文教出版株式会社 昭和52年3月


(あらやしき・とおる 三重県立美術館学芸員)





東京美術学校時代
(昭和7年 3年生)

昭和8年

テラッコタ
(昭和8年)

昭和8年

昭和8年

昭和9年

卒業制作「処女坐像」
昭和9年

昭和10年
 
㊧「或る女」昭和11年
第1回新文展出品
㊨「若き女性」昭和12年
第2回新文展出品

昭和12年
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