金色の天の使はかなしけれ
東 俊郎
ひとりの男が絵もかき詩もつくるとき、そのイデーがやどるはずの頭はおなじひとつだし、又それを眼にみえるものにする手もひとつきりである。だからといって、その絵画なら絵画と詩なら詩の風貌ががうりふたつであったらつまらない。そういうばあいは大概絵が詩を説明し、詩が絵を解説するだけにおわるからだ。お互いのしっぽをくわえあった二匹の蛇に似ていて、ひろがってゆかないし、深くもならない。だから似ているばあいでさえ、ほんとうはそのちがいのほうが大切になる。それにだいいち絵や詩のイデーの源泉としての人間ということをまづ前提にもちだし、そのイデーの設計図にもとづいて建築されるのが藝術だという思想などぼくはあまり本気に信じてはいないというより、はっきりいって嘘である。ここでは手のちからがあまりにかるくみられすぎているので、それではほんとうの藝術には欠くことのできない藝のちからがはたらこうにもはたらきようがないことになり、絵も詩もその藝をすてればただの思想にすぎなくなる。おそまつな哲学が藝をひくくみた三流の文学にすぎないように。はんたいに、プラトンだから『ソクラテス』がかけたのでなく『ソクラテス』がプラトンをプラトンにしたからプラトンはやはりすぐれた思想家だった、という風にいってもいいわけだが、なあに、やはり絵は絵、詩は詩ということだから、むやみに手をひろげず、いましばらくは村山槐多の詩をはじめとする文章のせかいだけをみてみたいというこころなのである。 それで詩のはなしになって、端的にいえば詩の槐多は切ない。槐多の詩は傷ましい。これがぼくのいつわりのない感触で、なによりもまづそのことを踏まえておかなければ一歩もすすめなくて、こんなことは絵画の槐多には絶対ない、とはいえなくても、こちらの予断なしにはほとんどみえてこない感覚なのであり、そしてこの感覚こそみじかかった生涯をつらぬくかれの詩のアルファでありオメガなのである。なんども読みかえしていると、たとえば
そうだ、そうだ、そうだ、 でもいいし、又、
ほんとの事はただ一つ でもいいが、そんな箇所が妙にこころに残るようになってくる。晩年のことだけではなく、身心ともにはりつめて調子がたかかったはずの大正二年にさえ、 わが心のすきまよりもれ出でたる朱紫のなげきはけむと消ゆ*3 がある。ここにあるのは、自他ともにみとめる当意即妙の天才を涸れることのない精力でふりまき、元気でない姿は毛ひとすじもみせたがらなかった腕白なひとりの男の口からふともれた吐息のごときなにかである。つぶやきである。たしかヴァレリーだったか、あらゆる思考の果てには嘆息があるとずいぶん洒落たことをいったものだが、金剛無双のダイヤモンドも虚無のひとしずくにすぎない或る絶対をめざしたこの詩人のことばにその当の吐息がこもるなら、くらべるまでもないけれど、ことばがまだことばになりきってない槐多のそれには、生煮えのことばをすかして、そのむこうの肉体の影から霧のようにたちのぼってくるものがあってもあたりまえといっていいのだろうか。 いったい詩は思想でつくるものでも感情でつくるのでもなく、詩はことばでつくられる。そのことばは詩人の胸中に発見されるべきなにかではなく、むしろ空気のようにどこにでもあり、だれもがとろうとすればとれるといったほうがいい。ただそこにある一つのことばが別のことばにむかってゆるやかに舞踏をはじめるときはじめて詩がうまれる。そのとき詩人がことばをえらぶのかことばがことばをえらぶのかはもう見分けがつかない、というのがほんとうなら、槐多の詩は残念ながらそこまでいっていないので、かれのこの「詩」からやってくる感動は、もっと直接的な、ひとにみられること、公開されることを勘定にいれずに告白している日記のそれに似たものといえばいえるかもしれない。ためしに日記以外の槐多の小説でも戯曲でも童話でもいいが、それらをよんでみればいいので、風土はがらりとかわり、こういう吐息がめだつことはない。そんなわけで、生をむさぼりその生の力のありあまる過剰が愛にながれたことがひきがねになった悲哀の情にはじまり湯水の如くただ同然と濫費した命のちからのゆくさきがみえてしまった諦観がにじんだ悲しみにいたるまで、槐多の詩は他者と交歓し読むひとそのもののことばと化す詩というより、一箇の稀なる魂の記録として読むことができる。詩は絵画より成熟するのにもっと手間ひまがかかるので、絵でさえ熟してないのだから当然の詩としてのこの未完を未完として読んでみること。それはけっしてつまらないことではない。 |
*1全p.80 (全は『村山槐多全集』の略。以下同様。) *2全p.124 *3『六月の遊歩』全p.29 |
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槐多のつくった詩のほとんどはいま『村山槐多全集』(彌生書房、1963年初版)で読むことができる。大正二年から歿年の大正八年におよんで、その数およそ三百。詩経のように思無邪といえるそれをくりかえしよんでいると、だれでも気がつかずにいられないことがある。ゆたかな空想癖とありあまる想像力。これさえあれば詩などいつだってつくれるさという自信のためでもないだろう、それとも食べることもはなすことも息せききったという忙しい性癖の一端か、高価な材が無雑做に不用心になげだされてあるというのが槐多の詩の印象である。比喩のおおくはないも同然に「の如き」ですませて、あとで推敲しようとする気配などちっとも感じられない。時間は一直線にながれてあともどりすることがない。それからもうひとつ、好きになればものにも人にも徹底的にこだわる愛の人だった槐多がそこにもあらわれて、いくつかの槐多好みの語彙は、なくてもいいときにまでくりかえされるとみえるほど、神出鬼没、どこにでも顔をだしているということがある。 それはたとえば次のようなことばである。色としては金と赤と紫の濫用と、それにふかく関連した血と太陽がある。ダイヤモンド、玻璃、宝玉が惜しげもなくばらまかれているのはいかにも槐多らしい風景だが、いっぽう、薄明、泣く、さびしさも又すくなくなかったのは、晩年になるにつれて神ということばがふえるのとともに意外といえば意外だったけれど、それらにもまして、ぜんぜん予想もできなかったのは他でもない、美しき/美しいという形容詞が、いたるところに姿をみせていることだった。その例およそ百五十。しかもすべての時期にわたって満遍なく。 これは、あれこれかんがえるよりはと、大雑把に、なんでも包める風呂敷として便利につかったけはいがないわけじゃない。興來り興去るその一瞬ちらりとみえた影のごときを素描しておくためというわけだが、それにしても、それだけじゃないと気づくまでにながい時間はいらない。偶然ではないのだ。いったいなにが美しいのかなとその例をつぶさにみてみると、空とか眺めにむすびつくものと、少年少女、女、そして「君」を形容しているのがほぼ拮抗し、あわせてぜんたいの半ばちかくをしめる、とするなら、そこから想像できることはそんなにむずかしいことではないはずである。 すこしまわりみちをしてみようか。槐多の初期詩篇をよむとかれが光、とりわけ太陽光線に異様に鋭敏だったらしいこと、そしてその光にしても季節なら五月、時刻なら薄明り/薄暮のそれをどうやら愛してやまなかったらしいことがわかる。その後者、つまり夕暮の空と空気に対する感受性がいまもんだいになるが、それは最後までついにきえずに槐多をとりまくことになった。たそがれどき、すなわち逢魔が時が。もとより夢遊病者の資質いちぢるしい槐多である。かれは白昼にも神をみたかもしれないけれど、それをうわまわって、この一日のうちで光線がななめにのびて、もののかたちがもっともあらわになる時刻にこそ、かれの夢をつむぐ絶好の美が現成したのだ。 この薄明への偏愛がただごとではないなら、ひとり詩にとどまらずかれが手をつけたあらゆるジャンルにわたっても不思議ではない。じじつ、美少年「穂日」が恋ごころをいだいた少女をさがしまわるのは山が「神秘なる眼をじつと穂日に注いで居る」*4薄暮のことであり、「自分」が美しい女の後を追って山をかけおりてゆくときにみたのもまた、晴れて「星がぱちぱちと輝いてゐた」*5薄暮の神秘の色濃い風光だったし、また五重塔の下にたった「吾」が不思議な狂女にであったのも他ではない「ある春の薄暮」*6なのである。短歌にもこんな一首があった。 金色の帯しめて飛ぶ小鳥あり苦しき夢のまなかを過ぎり*7 あれっとおもわず、ここにさっと夕暮を出現させたいなら、たいした手品でもないが、たとえば与謝野晶子がうたう、 金色のちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に をかるく添えてみるといい。たしかに槐多のたそがれの諧調はどぎつくて、せかいぜんたいを金の光でおおいつくせず、帯の部分だけがやけにあかるいのだけれど。 ともあれ、美しき空、美しきこの薄明、美しき幽明、美しい霞、美しい神秘な物とつづく、金色と紫色にかざられた、やわらかで、すこし湿り気をおびた夕暮の風景のすぎたる美からは、初期槐多の夢幻能の舞台がゆくりなくもうかびあがってくる。ほんとうは夕暮だけではなかったかもしれない。幻視者槐多には白昼でさえかれがそうみたいとのぞむその神秘が自由自在にあやつれるとするなら。
金泥を落したる それでもうひとつのだいじな「美」をうっかりわすれるところだった。 げに君は夜とならざるたそがれの美しきとどこほり*9 或はまた、 私はあなたを見たえ、はじめて紫のたそがれで*10 村上華岳がえがいた夜桜見物の絵をそめる桃色のようになまめかしい京洛のたそがれを、中学生槐多が気どりもあるのか酔歩蹣跚と、或はまた夢遊病者も同様にあるきまわるのはその耽美の媚薬をまぶした風景への愛だけではなかった。紫色だとかれがいいつのる夜のはじまる大気にすっぽり身をつつんで、ペンヤミン流のフラヌールとはことかわり、かれはみるものすべてを特異に屈曲させる眼でもって「美しき」ひとを狩りにでかけるのである。この舞台にあらわれる槐多は一箇の黒子である。「美しき」ひとからかれがみえちゃいけない。かれは闇に身をひそめる「美を吸う悪魔」*11なのだから、むしろみえないことこそ槐多のひそかな、まだ自分でも気づかないのぞみだったかもしれない。なぜなら、それがぼくにはかれの生涯にわたる「愛」のかたちの原型とみえてくるからである。
それでもたそがれで宜しゆおした |
*4『廃邑の少女』全p.180 *5『電気燈の感覚』全p.149 *6『金色と紫色との循環せる眼』全p.146 *7全p.168 *8全p.30 *9『君に』全p.28 *10『一人の美少女に』全p.44 *11『ある美少年に贈る書』全p.45 *12『一人の美少女に』全p.45 |
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ところで初期槐多の薄明をめぐってはこれだけでおわらない、もうひとつのだいじな要素がのこっている。ほかでもない、どこか怪奇的で幻想的で伝奇的な匂いであり、さらに猟奇も耽美もまじるそれがかれの空想裡で凝ったあげくどうしてもつかわずにはいられなかったもの、つまり血ということばのことである。つぎのはそのもっとも典型的な例のひとつのいえようか。
虐殺せられし貴人の美しい小姓よ どうだろうか。ぞくぞくする快感にすっかり身をゆだねている槐多が眼にみえてきそうだ。或はもうすこしおだやかに、
血に重き貴女の宝玉 とか、又、 星が血のりめいて酒びたりの春の空に紫に薄くれなゐに*15 などのように、このことばを槐多はつかう。こんな風にくりかえしその薄明の美をえがくかれの指のあいだからは鶏血石のような血がひとすじ、ふたすじと滲むとはいえるだろう。いや詩はまだ抑制がきいているので、小説や戯曲のほうではもっとあっさりと殺人があり大気が血の匂いをはらんで、槐多はといえば、江戸歌舞伎にでもありそうなその場面をなにかたのしげに舌なめずりしながらかいているみたいだ。後世畏るべし。かれのものがたりを紡いでゆく想像力のひろさと劇を劇にする骨格のたしかさに才気をかんじてしまうのは、詩でなくかえってこっちのほう、たしかに十代にして一箇の鬼才とよぶに十分すぎるほどなのだが、それはそれとして、いうまでもないがこれは悪にあこがれるロマネスクな精神が生むピカレスク劇なので、いくら悪漢ぶっても血は紙のうえでしかながれない。 いいかえると、槐多は蝶をおいかける少年に似てひたすら「美」をもとめているだけなのであって、しかもそれは貧血ぎみどころかゆたかな生命力があってはじめての過剰なまでの空想なのであり、そのことはやがて、エドガー・アラン・ポーの怪奇とかフランス頽唐派の詩的戦慄からニ-チェの力への信仰とプラトンの愛の哲学が交差するトポスとしての健康な血にみちたギリシアヘの憧れへとうつってゆくにつれて、血ということばのつかわれかたがかわってゆくことからもわかる。瞠目すべきかれの早熟ぶりはさらに活發發地にうごきつづけて、たぶん一九一四年信州滞在あたりに槐多のこころにひとつの改心劇があったんじゃないかとおもわれる。そのあたりから強き、強さということばがそれまでにない輪郭をみせはじめるのはその反映からか。槐多の美が強さにであったのだ。美に強さが注入されたのだ。
一、切にわが希ふは血。かの赤きいのちの液体。血をこそ満たせ万民を汝が生命の器に。 にはじまる『第四、太鼓にあはせてうたへる村山槐多の歌』*16は、それを証するのにまさに恰好の詩であり、これはさらに、
十九、勇ましく雄々しき大和民族。汝等の真にかへれ。日輪の真紅にかへれ。二十、野獣 とつづく、そのところで槐多が友人山本二郎にあてた手紙でかいた「血液主唱者」*17、又山本鼎への手紙でいうところの「血液幻視者」*18として全身をあらわすのである。 |
*13『血の小姓』全p.26 *14『ひゞき』全p.27 *15『にぎやかな夕ぐれ』全p.42 *16『吾詩篇』全p.138 *17全p.403 *18全p.300 |
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いっぽう、いつのまにか詩のなかから薄明がきえていることにも、そのうち自然に気がつくだろう。たそがれは太陽に感精して新生する古代人槐多の誕生とともにすてられるのだ。
君が前の空には 舞台はたしかに薄明なのだけれど金粉のように散乱しつつ光を反射する粒子がせかいにみちて薄明の印象をしりぞけ、ここにはもうつぎの朝に空をそめてのぼるはずの、美をこえてカにみちた太陽の予感があった。
都のいらか金箔に赤く輝く入り日どき たそがれによせる恋愛感情はしだいに後景にしりぞく、とは地平を灼いてたかみへゆくものに血はここではじめてであうということである。日輪の真紅にかへれ。そしてこの太陽は槐多に金色ということばをおおっぴらにつかうことを、あわせてうながすかのようでもある。なるほど、「黄金」という姿をとってそれはもっとふるい詩にすでに登場しているのはたしかだが、それが発する金色はここにきてにわかに自然の光線としての実体から透体脱落して、信仰なき信仰と超人思想をはらんだもっと内なる聖性をおびて輝きだすというか、光みてるものの象徴としてつかわれだした気配である。 その魔法が何時使はれるかは俺も知らぬが その時汝はかつと金色に輝くであらう*21 いうまでもないが槐多の発する光は神秘であっても暴力的で、どんなにみじめなものも抱きとろうとする母性の慈悲慈愛に似たちからなきちからの感覚を欠いている。それが宮沢賢治とのちがいといえばちがいで、創造もするが破壊もするシヴァ神も同様になにか残酷ではげしい性格が槐多の金色をいっそうその金色にしているわけだが、しかしそこにかすかではあれ救済の契機がないわけではないことも、やはり気づかないではいないだろう。
吾身体を金色の明光刺貫き ものみな地上につなぎとめておこうとする重力の扼をふりきり、それまで深い井戸の底からながめ仰いだその天空圏へむかって村山槐多はとびあがろうとする。そしてそのときかれは唯我独尊がユーモアの曲線をえがいてしまうニーチェの口調をかりつつツァラトゥストラのようにかく宣言してしまうのである。 われは朝の太陽なり、新しき血と光とに溢れたり*23 |
*19『泣く紫の眼』全p.46 |
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村山槐多は古代日本とヨーロッパが好きだった。とりわけ『古事記』の日本が。なにか意外なようにみえても、かなえられぬかれの夢をもっとも自由にやさしくうけいれたのはそこであって、だから「どうかしてあの時代の精神を大藝術にして日本人に直覚させたいのが私の希望です」*24とかたる槐多が、じぶんの使命は「未来の神話、現在の神話」である神話画をえがくことだというとき、かれはどんなときよりも本気なので、さらに大胆に「将来世界に、雄飛すべき、大日本の神話は、決して、クリストの影響を受けたる形式を、とってはならないんだ。」*25とまで断言してはばからないのである。これを軍国少年ばりの排外思想とみることはゆるされなくて、むしろ大人にもまれな異常な明察であり、この発明にいたった槐多の頭のしくみはどうなっているのか無性に知りたくなってしまうところでもある。 しかしどうだろうか。槐多が手ばなしでその夢を託す古代の日本にではなく、たとえレオナルドやティツィアーノのヨーロッパでなくとも、セザンヌとゴッホとルノアールとドガのヨーロッパに生まれさせてやりたかったとつくづくおもう。夢のなかでとはいえ、敬愛するレオナルドにたいしてさえ美童の争奪をめぐって互角にわたりあうのが槐多である。*26その不敵な魂をもってすれば或はセザンヌに、そしてボードレールやランボーに互しつつ堂々と一箇独自のせかいをつくりあげる槐多を想像するのはけっして絵空事とはいえない。 もちろん、じっさいにはそれはできなかった。かれが生まれたのは、富国強兵の実利主義と劇場国家で育った繊弱な遊芸と開国以来の「さびしい日本人のレアリズム」*27に占領された風土、つまり槐多のような精神にとっては窒息しそうな貧しい風土だった。その貧しさのなかでの短い生涯をかれは必死に夢みてかけぬけたのである。まちがった時と場所にうまれてしまったことの悲しみをしたたかに知ったこの異星の客がどうして夢をみないで生きられよう。たとえばかれが自らを偽悪をこめて「デカダンス」とうそぶきながら、予想どうりの無道にのめりこむとき、それはこんな空気のうすい「貧しさ」の深海のような圧力にむかってのそれこそ全身をあげての「否」であり抵抗以外のなにものでもなくて、だからどんなに奇妙にみえても、槐多一箇のこととしてはその「デカダンス」と「健康」或は「力」とは矛盾なく金貨の裏表のようにしっかりとむすびついて離れないのだ。したたかでもしなやかでもなかった槐多のえらんだ必至の戦略ということもできる。 もういちどくりかえす。しみったれた貧乏くささと、そこに根をはる清貧のおしえにたいする全身全霊をあげての拒否のみぶり。欠乏を逆手にとるのではなくゆたかな充実がおのづと生みだす藝術をというみはてぬダヌンツィオの夢。惜しげなく豪気に花火をうちあげよ。それこそが村山槐多の燃えつづけるエネルギーの源となった詩心のありどころだが、その具体的な姿は無理にさがすまでもなく、むこうのほうからぼくらにむかってやってくる。つまりダイヤモンドと宝玉ということばが。 |
*24手紙「山本鼎氏へ」全p.300 |
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詩は花鳥風月をうたうというのがわが島国のうるわしき伝統だということになっている。生老病死という人生の大事は四季の秩序ただしい交代と循環する縫目のみえない自然の曲線に回収され、死は死そのものとしてではなく生の一変奏曲とみなされる。そういう風土の詩の市場にあっては、一本の艸のほうが一箇の宝石より高額でとりひきされる。そのせいだろう、槐多ほど宝石-とりわけダイヤモンドと宝玉叩を多用した詩はときかれても、残念ながらぼくは知らない。いったいこのひかりものはどんな風にして槐多へ飛来してきたんだろうと不審にたえないが、それはともかく、あるものを描写するのではなく、かくあるべきなにかを物に寄せて暗示するという意味からみるなら「詩は志をいう」という、これは漢詩の姿勢に槐多はむしろちかかった。詠物でなくて述志。おもいきっていうと、時に利あらず早熟の才ゆえに意のままにならない現実のありったけをいっきに裏がえし、手品師の幻術が無から花束をとりだすようにその空虚をそっくりそのまま金剛世界とみるための呪文すなわち真言こそ、このふたつのことばなのであった。 楽しやな炎の色のうぐひすが泣く五カラットの空の領地に*28 吾身体を金色の明光刺貫き 吾霊はダイヤモンドの如く光る*29 貧しくも光れ輝け 強きダイヤモンドの如く*30 そしてこういったダイヤモンドということばにたいして、宝玉のほうはもっと頻繁につかわれている。 宝玉の如めざましき空の豪奢もたけなはに青く鳥なく*31
されば美しき少年に永くとどまり かれの詩はあるべきものの不在をうたうのだからどうしても象徴詩の骨法をふむことになり、たいていのことばはそのことばであると同時に比喩になっている。そのなかでダイヤモンドと宝玉のあいだにはっきりとした区別はあるかというと、なんどよんでも似ているようでちがい、ちがっているようで似ていて、よくわからないというのが正直な感想である。ただ「汝は磨かざるダイアモンドなり」*37とか「吾霊はダイヤモンドの如く光る」*38とか、「ああ光栄の其の時よ、その時金剛石と俺は化するであらう」*39などは、じぶんを金剛身として他と聖別しようとする意識がつよくはたらいている例だろうし、
私の眼はびつくりする程輝いて居るから おそらくそなたもまたその眼を のダイアモンドはまちがいなく槐多の眼のことで、さらに 時としてダイヤの様に燦々と光る*41 のは前後から判断してやはり槐多じしんの「心と肉」であってみれば、けっきょくダイヤモンドの比喩がかたるのは、たいていのばあい、この世に金剛世界を現成する神通力をもってまばゆく金色にひかりかがやくはずの、しかしまだ十全に輝くことのない自己というイメージからとおくないといっていい。それにくらべていっぽうの宝玉は、
われは心に数千の宝玉を貯はへ と唱うとき以外は、ダイヤモンドが紙から凸出するとすれば、紙のなかに凹んでいるとでもいうのか、孤高な山の魂と深い湖をわたる霊気ほどにも対照的とみえ、そこには興奮と自尊のないまじった口調はない。イメージもいっそう自由に宝玉は女であり、空であり、涙であり、顔であり、光を発するものであり、宝石であり、思念であり、星であり、眼球である。いわば槐多のうつし身がダイヤモンドと化すとき、その光のなかで水分を含みつつうつくしく輝きだすものといえばいえる。美しきもの一般であるのだが、なかでぼくにいちばんひっかかって残像となるのはなぜか涙のイメージだといっておこう。 ひそやかに暗き夜はわが涙の冷めたき宝玉を拾ふ*43 わが涙は宝玉なり五色の虹を交へたり*44 汝ある故に泣け人々よ 涙を出だせ美しき汝が宝玉を*45 うぐいすの涙が凍って、という発想はすでに平安の歌人にあったと記憶する。それと槐多とのつながりなどたぶんないだろうが、いま不意におもいだしたことをそのままおもしろがろうと、はなしがそれたついでに宝玉ということばに玉がふくまれていることにも、すこしふれてみようか。なにをあたりまえのことを、といわれるのは承知のこと、 強い紫のにじんだ宝玉がころころと光のなかをころがりゆく*46 という詩の一節の宝玉に「たま」とふられたルビが気になって、すこしほかに捜してみると、いくつかの興味ぶかい例がみつかった。そこからどんな見取図がえがけるかは読むひとにまかせて、ただならべておくだけにする。
善い女貴い女まるい女
二、汝は今日半径の相等しき球体の如し。三、汝の球体は発育す。球より球へ発育す。四、 自分は世界を円い玉に磨き上げよう、*49 しかしこの広い全舞台を通じて僕の理想とする様な「円人」は一人も居ない、*50 ・・・すべてに調和した玉となる事を、愛は私をまるく大きくさせる、*51 槐多が愛した女性の一人の名が「お玉さん」だったことも、そして槐多の母の名もまた「たま」だったことも、こうなるとあながち偶然といえないかもしれないなどと、らちもないかんがえが浮かんでくる。さて最後にぼくはもうひとつの引用をここでしてみたくなってきた。ダイアモンドと宝玉はいまあげたもので尽きるのではない。それらすべてを材料にあれこれかんがえるのは楽しいが、それよりもっと素朴に、槐多の宝石によせる心根を知りたい。そんなひとのためには、そうそう、『孔雀の涙』という童話があるのだ。 十五歳になった「澄子さん」は、ある日母から父の形見の宝石をもらう。うれしくてうれしくて肌身はなさず愛玩していた一夜、父の夢をみて、そこで庭に飼った孔雀が淋しがっているよとおしえられ、あけがたに「真自な孔雀」の様子をみにゆく …という筋の、とてもシンプルなはなしのうち、その「ダイヤモンド」を眺める場面をふたつ写しておく。
ふと不思議な感動が心につたはり始めました。何と云ふ美しい玉でせう。形は芥子粒程
「この玉の美しさは妾ひとりだけにわかるのだ。」と澄子さんはただ独り小さいダイア
ずつと眼にくつつけると、その光は花咲き乱れた広い、ひろい楽園の上に広がり輝く、 常住身をはなれずつきまとう痛苦とかなしみの感覚から羽化蝉脱した槐多のダイアモンドの時間と宝玉の時間は、どこかしら神秘主義者の恍惚の無時間に似かよったけはいがある。離人離脱の夢うつつのうちに時が撥無されて、かえって時々の時のすべてが一堂にあつまる。槐多の好みのことばでいうと鎖のようにつながる。そのかがやく空間が発する無音の音はまた天上の妙音ともこの夢遊のひとの耳にはきこえるだろう。たとえば、かつてこうかいたように。 ひゞききこゆる美しき物美しき物をつらねし*54 そして、もういちどおもいだそうか。 この玉の美しさは妾ひとりだけにわかるのだ。 なるほど、とつぶやくまもなく、ぼくなどはしばし絶句のおもいにかられてしまう。もちろんこういう至福のうちの至福はながくつづかず一瞬青空をみせたこころはたちまちもとの修羅にもどって、嵐の海の航海のようないつもの生活がやってくる。一葦以てよく航すべきか。 |
*28『美しき夕ぐれ』全p.40 |
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あとは神だけになった。 神よ、み心のまゝに私を、このみにくき者を、この世の苦しい涙からすくひ玉はんことを。*55 槐多は「神に捧ぐる一九一九年二月七日の、いのりの言葉」にはじまる『第二の遺書』のさいごを、そうしめくくった。第一の遺書のほうが、自己のイメージを自己がなぞってうつしたというのか、槐多を伝説中のひとにすべく手をかすだけの、いいかえると「かかされた」遺書であるにすぎないのとくらべ、こっちのほうがずっと素直で、槐多を雁字搦めにしていた天才意識がすっかりきえたあとに、愛のひとだったかれの素顔を照れずにはっきりみせてくれて、しみじみとした気分にさせられる。かつて、 私は愛で動く 愛が私をあやつる*56 とかいたのに寸分の嘘いつわりもなかったのだ。いまはもうそれを悪ぶってかくす必要がない、とは、一九一九年のこととして、槐多も読んだ『戦争と平和』のなかのアンドレイ・ボルコンスキィの末期のようにみずからの死を甘受したせいだろうか。日記にも「もうすべての点で小生は死に向って平気だ、この世には愛さへあれば善い」*57などとかいたのがみつかる。村山槐多が宿痾の結核性肺炎におそわれたのは一九一八年四月のこと、それから一九一九年二月末まで一進一退がつづいた。それとともにかれ自身も生と死のあいだをゆれている。生きられるだろか。やっぱりだめだ。では死とは、運命とは。神ということばがにわかに生彩をはなちだすのは、けだし自然なのである。
心の底よりわれ悔いて あしたに神を思ひ タベに罪を犯しぬ*59 神よ いましばらく私を生かしておいて下さい*60 こうして断片だけをとりだすと平凡で紋切型で、槐多でなくてもだれにもかけそうな詩というよりたんなる告白にすぎない、といえばいえる。けれど、よけいなものをすてて元気がなくなった無藝の藝の底からかすかにはねかえってくる手ごたえはある。そこがかえっておもしろい。命にかぎりがあることを事実として知ったものだけがはく薄紫の息がたちのぼっている。それがいっそう切実だ。そしてくりかえし許しを乞うその神にむかって急激に傾斜してゆくその通行を雪のうえの足跡を追うようにたどってゆきたくなってしまうのだ。
悪業はわが幸なり ときにこんな風に神にむかって悪たれてみるのはさすがに槐多らしいが、反抗もそこまで、これじゃどうみたって回心する放蕩息子の絵図以外ではない、といったついでにその神のこととしてそこにはたぶんにキリスト教の匂いがするから、槐多はついに西方の神への帰依にゆきついたというのははやすぎる。もともと槐多は不信無神のひとでなく、聖人になる資質さえ十分にそなえていたようにみえなくはないから、そこのところはとても微妙である。弱年のころからすでに旧約聖書に親しんで、その影響のもとに『吾詩篇』をかく一方そのおなじ槐多が記紀の物語や神話が大好きな少年でもあったのはすでにみたとおりで、だから、 ほの暗き旧約全書その紙をかきさぐる日の我のさびしさ*62 とうたう槐多はそのまま自然に、 この頃の高天原にます神の血潮は如何に豊なるらむ*63 につながっていて、なんの矛盾もかんじていない。ようするに槐多は美しいもの力あるものと感じるものならなんでも平等無差別にうけいれる種類の精神だったので、この異常に早熟な貪欲な頭脳が吸収すべく、猛烈な化合からうまれたあらゆる思想と同様晩年の詩に姿をあらわした神もまたGODとKAMIその他すべてのハイブリッドである一箇独自の神といっておくしかない。そういえば槐多はすでに『いのり』という詩をかくにあたって、エピグラム風に「わが神はわれひとりの神なり」*64とつけくわえるのを忘れなかった。 しかしそんなことはどうでもいいのだ。だいじなのはどんな神であれ、その神を呼ぶ無言の身ぶりで槐多がかたろうとしている、生きるという意志と生きたいという希望のほうである。死はそこに実存して、いまや自己の中心であることがわかったその死と槐多は対話する。いや対話というより圧倒的な不利を承知の取引であって、それが取引である以上すこしはみかえりがなくてはならない。いったい生を生の眼だけですべてみとおすことはできない。ゆきつくしてかえるこころ、往相の眼にたいする還相の眼をもってはじめて生は生と、死は死とみえはじめる、と古人はつねにかたっている。死にいたる病に強いられるようにして、槐多にそういう視線がうまれはじめたのを、その詩でない詩はさりげなくしめす。 自ら私は腕を見、足を見る この美しい貴き命のいとなみに見入る*65 無念のおもいの涙の底からみあげ、あらためて槐多はせかいの豊さに眼をみはったにちがいない。だからかれはかつてのように、
死はわが前にうらわかき女の如くその豊なる双手をひろげたり などとはもううたわないだろう。
血が出る 上る坂はいつのまにか下る坂道にかわって、いまはくだってゆくしかない。たった五年のあいだに槐多はこのふたつの詩/死のあいだの遥かなとおさを韋駄天走りにかけぬけたのだ。そんなに急がなくてよかったのに、急いでしなくちゃいけないことなど人間のせかいにはなにもないのに。
一切はかりの姿であることがすこしづつわかつて行く、すべては 流転すると云ふ事が 過去をふりかえって世界視線のようなそのかえりの眼に小さく輝くダイヤモンドの自分がみえてきたとき、少年のおれというのはなんと愚かなと槐多は苦く笑っただろうか。それとも微笑しながら、その愚かな自分にどうしてこんな真実がもう分かっていたのだろう、いったい誰があのときの身体に宿っていたのかと不思議がるだろうか。 (ひがし・しゅんろう 三重県立美術館学芸員) |
*55『第二の遺書』 |