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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > 作品解説 中谷伸生編 ジェームズ・ティソ展図録

華麗なる世紀末・ロンドンとパリ ジェームズ・ティソ展 図録 作品解説 中谷伸生編

作品解説はクリスティーナ・マティヤスケーヴィッチの資料をもとに翻訳・執筆された。

中谷伸生・編

29
ジェームズ・ティソ展1
男やもめ
1876年
油彩・カンヴァス
118.1×76.8cm
左下に署名,年記:J.J.Tissot/1876
シドニー,ニュー・サウス・ウエールズ美術館蔵

The Widower
1876
oil on canvas
118.1×76.8cm
signed and dated lower left:J.J.Tissot/1876
Art Gallery of New South Wales,Sydney

 

ティソは「男やもめ」という題名自体にはたいした意味はないと主張したが,こうした絵画は題名がなければその内容を理解することが困難になり,見る者を惹きつける魅力を失うであろう。この印象深い簡潔な構図は,ティソがおそらく日本の浮世絵版画に精通していたであろうことを証明している,とマティヤスケーヴィッチは述べている。この作品は,構図をトリミングしかつ単純化することによって,力強い効果を生み出したエッチング《春の朝》(図版61)と密接な関係がある。つまり前景の植物のモティーフや人物の配置など,構図の類似が指摘できる。描かれている場所はグローヴ・エンド・ロード17番地にあったティソ家の庭である。ここでは左手に大きな花を咲かせている大黄草が,右手には菖蒲と葦が,背後には果樹が見られる。人物の黒い衣服によって悲しさが表現されており,憂鬱そうな男の目は虚ろである。そして植物には紫の色彩が多用されている。1877年にグローヴナー・ギャラリーの個展に出品きれたティソの他の9点の絵画と一緒に,この絵画が展示されたとき,劇作家のオスカー・ワイルドは,ティソの絵画の中で唯一この作品を好んだという。そしてワイルドはこの作品について,「充実した深味と暗示」が表現されていると記している。「死」と「やもめ暮し」は,ヴィクトリア朝の画家たちの間でとりわけ好まれた主題であったが,《男やもめ》はそれらの叙情的で物語的な作品群と比較すれば,はるかに繊細でしかも控えめである。ティソによって8年前に描かれた《未亡人》(図版13)と,この《男やもめ》を比較することは興味探い。すなわちこれら二つの作品の狙いは明らかに異なっているからである。前者は物語的であるという意味で説明的であり,後者は造形的性格が顕著であるという意味で絵画的である。ティソは《孤児》(1879年)において,再び「やもめ暮し」の主題を取り扱っているが,そのためのエッチングの試し刷りが本展にも出品されている(図版78,79)。またマティヤスケーヴイツチの言によれば,《男やもめ》に描かれた男性は,ラファエル前派の画家ウィリアム・ホルマン・ハントによってモデルにされた人物である,と主張する者がいるそうだが,確かに類似しているけれども,この説を証明する根拠はまったくない。髭をはやした男は他の数点の作品にも現われている。《男やもめ》にはごくわずか異なった小さめのティソによるレプリカ(ブリティッシュ・レールペンション・ファンド)がある。そしてまたティソは,1877年にこの構図に基づいて,同じ作風のエッチッングを1点制作している。加えて,1888年のグラスゴー国際展に出品された素描群の中に,《男やもめ》の題名を持つ素描が1点ある。ウェントワースは,《男やもめ》がラファエル前派の創始者の一人であるジョン・エヴァレット・ミレー作の《秋の枯葉》(1856年)と共通の性格を持つと指摘しているが,確かに,人物の表情や風景描写の手法,さらに画面全体の雰囲気が類似しているといえなくもない。

 

来歴・展覧会歴・参考文献

 

PROVENANCE:Art Gallery of New South Wales Gift of Sir Colin and Lady Anderson,1939.

EXHIBITlONS:Grosvenor GallerY, London,1877(20),lent by J.P.Davis, Esq.

LITERATURE:Providence/Toronto 1968,note to cat,68;Misfeldt 1971,pp.170-1& fig.89;Wentworth 1978,p.130 & fig.28b;Wentworth 1984,pp.6,66,113,135,138-9,146,202 & pl.122;Barbican 1984-5,pp.57,60-1,& notes to cat.90&93;Wood 1986,p.100 & pl.97(replica).

35
ジェームズ・ティソ展2
クロッケー遊び
1878年頃
油彩・カンヴァス
89.8×50.9cm
カナダ,ハミルトン美術館蔵

Croquet
c.1878
oil on Canvas
89.8×50.9cm
Art Gallery of Hamilton,Canada
Gjft of Dr and Mrs Basil Bowman in memory of their daughter,Suzanne.1965

 

グローヴ・エンド・ロードにあったティソ家の庭には,人工的な小さな池,その周りには神殿風の列柱が立ち並び,また辺り一帯には果樹が植えられていた。《クロッケー遊び》は,このティソの庭を背景に描かれており,モティーフの配置や戸外の光の描写など,《男やもめ》(図版29),あるいは《病みあがり》(図版27)と関連する作品である。画面中央で,ショートスカートをはいて,クロッケーで使う打球づちを背中に回し持つ女性は特定できない。また背後に見える二人の少女たちは,おそらくニュートン夫人の子供あるいは姪であると思われるが,はっきりと言明することはできない。手前には犬,クロッケーの球,植木鉢.如露が描かれている。ティソはこの絵画において,イギリスの春あるいは初夏の新鮮な雰囲気を,陽光のあたる明るく鮮やかな芝生によって絵画化した。モティーフの扱い方において同種の作品といってよい。小さな板絵の《草上の昼食》(1881-82年頃,ディジョン美術館)や《陽光を浴びて》(1881年頃,個人蔵)がある。ティソはパリの装飾美術館に所蔵されている七宝焼の角型花瓶に,この図柄を使っているが,それはティソが制作した唯一の絵入りの七宝焼花瓶である。また,《クロッケー遊び》のグワッシュによる小さなレプリカが,ロード・アイランド・デザイン・スクール付属美術館に所蔵されている。さらに,エッチングとドライポイントを併用した版画が,やはりこの時期に制作されている。

 

来歴・展覧会歴・参考文献

 

PROVENANCE:Laing Galleries,Toronto;donated by Dr and Mrs Basil Bowman in memory of their daughter,Suzanne,1965.

EXHIBITlONS:Grosvenor Gallery,London,1878(32);Providence/Toronto 1968(29);Barbican 1984-5(121〉;Petit Palais 1985(104).

LITERATURE:Misfeldt 1971,pp.187-8 & fig.99;Wentworth 1978,pp.168,170 & fig.37a;Warner 1982,ill.p.16;Wentworth 1984,pp,147,151,165,202 & p1.142;Wood 1986,p.105 & pl.105.

46
ジェームズ・ティソ展3
ガボンにおける宣教師,神父ビシェの肖像
1885年頃
油彩・カンヴァス
87×117cm
右下に署名,J.J.Tissot,記述:a(') Claire
フランス,ナント美術館蔵

Portrait du re(')ve(')rend pe(')re Bichet,missionnaire au Gabon
c.1885
oil on Canvas
87×117cm
signed lower right:J.J.Tissot,and inscribed:à Claire
Musée des Beaux-Arts,Nantes,France

 

この肖像画は,ティソの義姉タレール・マリー・ビシェの兄弟であるビシェ神父を描いたものである。義姉クレール・マリー・ビシェは,ティソより1歳年長の兄マルセル・アフリカーンと1868年に結婚した。二人の兄弟は非常に伸がよかったが,1877年に,兄マルセルが不幸にも若くして亡くなったとき,ティソは深い悲しみに陥った。兄を失った痛手が,後年,ティソをカトリック教会へ向かわせる遠因となったのかも知れない,とマティヤスケーヴィッチは述べている。ティソは義姉のクレールが好きであった。そして彼らは堅い友情の絆で結ばれていた。この彼女の兄弟がアフリカの西海岸,赤道直下に位置するガボン(当時フランス領,現在のガボン共和国)で活動していた宣教師レヴェラン・ビシェである。1885年の展覧会において,この肖像画に付けられた題名は,「中央アフリカのガボンで布教活動を行う宣教師の神父ピシェ」と記されている。マティヤスケーヴィッチの言によると,神父ビシェは,ティソが宗教美術へと転向するにあたって,大きな影響を与えた人物だと推測することができるという。ティソはフランス東部フランシュ・コンテ地方の中心地ブザンソン近くに,ビュイヨン城を所有していたが,この場所で撮られた1890年代後半の日付をもつ写真(p.15挿図参照)に,神父ビシェとおぼしき人物が写っている,とマティヤスケーヴィッチは注意をうながしている。写真に写った人物は,この肖像画に描かれたビシェよりも一層がっちりとした身体を持つ男に見えるが,彼が神父ビシェである可能性が高いというわけである。この静謐で抑制された性格を示す肖像画は,ティソが初期に制作した比較的騒々しい内容の肖像画とは非常に異なっている。しかも,1880年代後半および1890年代に制作された上流社会の貴婦人を扱った華麗なパステル画とは,いうまでもなく対照をなす絵画だといえよう。

 

来歴・展覧会歴・参考文献

PROVENANCE:Bichet family.

EXHIBITlONS:Galerie Sedelmeyer,Paris,1885(31);Exposition Universelle,Paris,1889(1309)as Portrait du R.P.B..

LITERATURE:Wentworth 1984,pp.172 & 207.

47
ジェームズ・ティソ展4
橄欖山(かんらんざん)から見たエルサレム
1886-87年頃あるいは1889年
油彩・ボード
36.8×52.1cm
ニューヨーク,ブルックリン美術館蔵

Jerusalem from the Mount of Olives
c.1886-87 or 1889
oil on cmposition board
36.8×52.1cm
The Brooklyn Museum,New York


48
ジェームズ・ティソ展5
ムカッタムより眺めたカイロの城砦
1886-87年頃あるいは1889年
油彩・ボード
36.8×52.1cm
ニューヨーク,ブルックリン美術館蔵

The Citadel,Cairo,Seen from the Mokattam
c.1886-87 or 1889
oil on composition board
36.8×52.1cm
The Brooklyn Museum, New York

 

《パリの女》シリーズの最後の絵画,すなわち教会堂の中で賛美歌を歌う若い女性を描いた《聖なる音楽》(所在不明)を制作していた時期,ティソは,その絵画の構想を固めるために,パリのサン・シェルピス聖堂に出かけた。彼はそこでイエス・キリストの幻覚を見た,と自ら語っている。その体験によって,彼は世俗的絵画の制作を放棄して,キリストの生涯を扱った絵画の制作に取り組む決心をしたという。もっとも,ティソはこうした宗教画の制作に没頭しながらも,肖像画の仕事をも継続して行なっている。1886年10月,彼はパリを離れて中東へ旅し,翌1887年3月まで滞在した。さらに1889年には,パレスティナへ2度目の小旅行を行なっている。中東を訪れている間に,ティソはそこで働く人々や,『福音書』に記された種々様々な場所をモティーフにした,膨大な数の習作を描いている。これらの習作は,鉛筆,ペン,クワッシュ,油彩にわたっており,その上,ティソはおぴただしい数の写真を撮ることをも忘れなかった。こうした中東に関する資料をもとに,彼はキリストの生涯に関係する365点の素描を制作する。これらの絵画は,『福音書』を要約したテキストと合体され,《キリストの生涯》という題名の2巻本として,1896-97年にフランスで出版された。ちなみに英語版は1897-98年に出版されている。この書物は,グワッシュで描かれた絵画を,カラー図版で複製したもので,豪華版と廉価版との2種類がつくられている。原画に関しては,パリ,ロンドン,アメリカで展観され,多くの観覧者の興味を惹くことになる。とりわけ,アメリカでの展覧会では,実に10万ドルもの入場収入を得たという。1900年に,これらすべての絵画はニューヨークのブルックリン美術館に,様々な報酬をも含めて,6万ドルを越える高額で買い取られた。そのため,ティソはきわめて裕福な人間となったのである。《キリストの生涯》のシリーズの成功から,彼は続いて《旧約聖書》の主題に取り組む構想を抱き,1896年に,資料集めのために3度目のパレスティナ旅行を行なっている。そして1901年までに,95点の挿絵を完成させ,それらをサロン・ドゥ・シャン・ド・マルスにおいて展観した。しかし,この《旧約聖書》のシリーズは,翌1902年の彼の死によって,未完成のまま残され,最終的には,6カ所の工房において,助手たちが完成させることになったのである。結局,このシリーズは,1904年に,テキストを付けられ,フランス版,イギリス版,アメリカ版が出版された。そこで用いられた挿絵の原画は,現在,ニューヨークのユダヤ博物館に所蔵されている。こうした宗教美術の仕事によって,ティソの評価は著しく高まった。ついでに言及しておくと,芸術家が世俗的作品の制作から宗教的作品の制作へと転向するという事態は,19世紀末から20世紀初頭にかけては,しばしば見られるもので,たんにティソのみの孤立した活動というわけではない。というのも,カトリック教の復興運動 あるいは宗教芸術の再評価の気運が,この時代のフランスにおいては,ひとつの大きな潮流でもあったからである。例えば,『さかしま』で知られる小説家ユイスマンスのカトリック教への改宗(1982年),ルドンの連作リトグラフ「ヨハネ黙示録」の制作(1899年),「神聖芸術工房」の創設者であったモーリス・ドニの木版画を挿絵に入れた『キリストに倣いて』の出版(1903年),さらに20世紀初頭に,キリスト教絵画にカを入れるようになった象徴主義の画家デヴァリエールの作品など,宗教に関わる事例は枚挙にいとまがない。加えて,宗教的主題はウィリアム・ホルマン・ハントのようなイギリスの美術家たちによっても,情熱的に扱われたのである。また,こうした宗教的主題が隆盛となった理由のひとつに,当時の芸術家たちのオリエントへの関心が挙げられるであろう。彼らは中東へ旅行して,地誌的な絵画あるいは風俗画を制作したが,聖地の旅行体験から,不可避的に『聖書』の主題へと引き込まれたようである。《橄欖山から見たエルサレム》および《ムカッタムより眺めたカイロの城砦》は,これら一連の宗教絵画の中に位置づけられると考えてよいが,『聖書』の物語を特異な想像力によって表現した作品ではなく,実景を描いた絵画である。ムカッタムはエジプトの中心地であるカイロ市の東部にある丘陵地帯で,その西側の眼下に古い城砦が見える。1894年のシャン・ド・マルスの展覧会カタログには,この2点の作品と他の3点の作品が「自然に基づいて描かれた」と記述されている。そのために,これらの絵画は,その様式や意味内容において,中東を扱った19世紀中葉以降の,宗教的モティーフを欠いた地誌的性格を示すエキゾティックな風景画や風俗画と,実際のところ区別がつきにくいのである。

 

47 来歴・展覧会歴

PROVENANCE:Purchased from the artist,1900.

EXHIBITlONS:Palais du Champ de Mars,Paris,1894(2)as Jerusalem Prise du mont des Oliviers.


48 来歴・展覧会歴

PROVENANCE:Purchased from the artist, 1900.

EXHIBITlONS:Palais du Champ de Mars,Paris,1894(5)as La citadelle du Caire,Prise du Mokatam.

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