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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > 年譜 荒屋鋪透編 ジェームズ・ティソ展図録

年譜

作品解説はクリスティーナ・マティヤスケーヴィッチの資料をもとに翻訳・執筆された。

荒屋鋪透・編

ジェームズ・ティソ

1836
10月15日,ジャック・ジョセフ・ティソは,フランス西部,ロワール河河口の港町ナントに,生地卸し商人マルセル・テオドール・ティソとマリー・デュランの4人の息子の次男として生まれる。

1848
この頃,フランドル地方ブリュゲレット,ブルターニュ地方ヴァンヌ,そしてジュラ地方ドールにあるイエズス合修道院学校に通う。

1856
この頃,パリ国立美術学校に学ぶために故郷ナントを離れパリに向かう。画家ホイッスラーに出会う。

1857
1月26日,ルーヴル美術館の模写許可を得る(1858年・63年・65年にも同許可を得ている)。

1858
パリ国立美術学校ではイポリット・フランドランに師事する。同じ教室に通っていたドガと友達になる。

1859
アントワープの画家アンリ・レイスを訪ねる。初めてパリのサロンに5点の作品が展示される。

1861
パリのサロンに6点を出品したが,そのうち3点はゲーテのファウストに主題を得ている。1861年から64年頃までのサロン評は,ティソの作品は擬古主義的で,レイスに従属していると批判的であった。

1862
9月,フィレンツェとヴェネツィアを旅行する。ドガへの手紙のなかでカルパッチオ,マンテーニャ,ベルリーニの作品を見た印象を詳細に書いている。ロンドンの万国博覧会に油彩1点《雪のなかの散策》を出品する。

1863
この頃,パリのボナパルト街39番地に住む。ティソのアパートの上階には作家のアルフォンス・ドーデが住んでいた。パリのサロンに3点出品。サロンには1870年まで毎年出品する。

1864
ロンドン,ロイヤル・アカデミーの展覧会に初めて油彩1点《夜明け》を出品する。恐らくこの機会に初めてロンドンを訪れたものと思われる(ロイヤル・アカデミーのカタログにはパリの画家の住所と同時にロンドンのジョン・ワトキンズ・チャップマンの住所が掲載されている)。

1864-65
パリのサロンに初めて「近代生活」を主題にした作品を出品し好評を得る。1864年11月12日付のダンテ・ガブリエル・ロゼッティが彼の兄弟に宛てた書簡の中で,ロゼッティはティソを3点のジャポネズリー(日本趣味)の作品を描いている画家で,日本美術の収集家であると記している。1863年頃には,かなりの負債があったが,1865年のサロンに出品した「近代生活」を主題にした絵画はティソに経済的な成功をもたらした。

1866
パリのサロンで賞牌を受ける。トレ・ビュルジェこと評論家のテオフィーユ・トレは「1866年のサロン評」の中で,この年出品されたティソの油彩《教会の中の若い女》について次の様に言及している。「教会の中にいくつかの背の高い木の椅子があり,そこではひとりの若い女が瞑想に耽っている」。

1867
この年までにティソはパリの住所をアヴニュ・ド・ランペラトリス64番地(現在のアヴニュ・デュ・ボワ・ド・ブーローニュ)に移転している。新たに購入された家屋は主に彼の休息の場となり,ティソは1871年までその屋敷に住んだ。パリのサロンに2点を出品し,またパリ万団博覧会にも2点の作品を展示した。

1868
2月-10月,パリ万国博覧会に将軍徳川慶喜の名代として徳川幕府を代表して参加した慶事の弟,徳川昭武の「畫學教師」に任命される。ティソは水彩で《徳川昭武の肖像》を描いている。当時ティソはジャポネズリーの画家として,また日本美術収集家としても著名であった。ティソが1860年代に制作した最も重要な注文による集団肖像画《ロワイヤル街のクラブ》(パリ,個人蔵)を描く。その絵には,コンコルド広場に面したミラモン侯爵家のバルコニーに集う,12人の社交界の常連が描かれ,マルセル・プルーストと彼の小説『失われた時を求めて』のスワンのモデルといわれるシャルル・アースもいる。

1869
ドガへの手紙にはロンドンの様子が詳細に記されており,恐らくこの年に英国を訪れたものと思われる。諷刺雑誌『ヴァニテイ・フェア』に初めてカリカチュアを描く。同誌には1877年まで寄稿。

1870
『ヴァニティ・フェア』誌の編集長トーマス・ギブソン・ボウルズに依頼されて,《フレデリック・グスターヴス・バーナピー大佐の肖像》(ロンドン,国立肖像画館)を制作する。10月-12月,パリ包囲戦では数人の画家と共に国民遊撃兵の中隊「セーヌ偵察隊」に入隊する。画家マネは11月19日付エヴァ・ゴンザレス宛の書簡の中で,マルメゾン・ル・ジョンシュールの戦いにおける勇敢な兵士ティソについて言及している。パリ包囲戦の際のティソと『ヴァニティ・フェア』編集長で『モーニング・ポスト』紙の特派員として当時パリにいたボウルズとの劇的な再会の様子は,翌年出版されたボウルズの著書『実録・パリ攻防戦』に詳しい。この本にはティソの何点かの素描が載っている。この年サロンに出品した2点の作品は普仏戦争前の最後の制作となる。

1871
パリ陥落の後,パリ・コミューンの一員としてパリに留まり参戦する。しかし画家クールベが率いた「芸術家連合」では目だった活躍をした訳ではない。7月,パリ・コミューン鎮庄後パリから逃れる。ロンドンのクリーヴ・ロッジにあるボウルズの家に同居する。7月から12月まで『ヴァニティ・フェア』誌のために22枚のカリカチュアを制作。ウィーン万国博覧会に1点の作品《共和国万歳!≫を出品する。

1871-74
ドガからティソに宛てた書簡類には,ティソのロンドンにおける成功が記されている。

1872
春,ロンドンのセントジョンズ・ウッド,スプリングフィールド・ロード73番地に転居する。2点の作品をロイヤル・アカデミーの展覧会に,ロンドン万国博覧会に4点を出品する。1872年から74年頃まで,ホイッスラーに影響を受けた河畔を背景にした家族の団欒画を何点か描く。

1873
セント・ジョンズ・ウッドのグローヴ・エンド・ロード17番地の家を購入する。ティソはこの家に1882年11月か翌83年初めまで住む。ロイヤル・アカデミーの展覧会に《早すぎた到着》(ロンドン,ギルドホール・アート・ギャラリー)と題する,初めて英国の社交場を描いた集団肖像画を含む3点の作品を出品する。

1874
パリに滞在する。ドガはティソに第1回印象派展覧会に出品するよう長文の手紙を送ったが,ティソはその誘いに応じなかった。ベルト・モリゾは同年,ロンドンのティソ宅を訪問し彼の成功を伝えている。エドモン・ド・ゴンクールもまたティソを訪問する。ロイヤル・アカデミーの展覧会に3点出品。1876年まで毎年出品する。英国の評論家はティソにもともと好意的であったが,彼の才能を高く評価している。12月,英国に亡命していた《カムデンパレスの庭に立つウジェニー皇后と皇太子》(コンピエーニュ美術館)を描く。

1875
夏,マネと一緒にヴェネツィアを旅行する。マネの《ヴェネツィアのグラン・カナル》に啓発され,後にその作品を入手した。

1876
この頃,キャスリーン・ニュートンと同棲する。ロイヤル・アカデミーの展覧会に2点出品するが,1881年まで同展への出品をやめる。普仏戦争後初めてパリのサロンに出品する。初めてエッチングを制作。1877年から85年まで80点以上の版画を制作するが,版画はティソの油彩画と密接に関係しており,また経済的な成功をもたらした。

1877
新しく開かれたロンドンのグローヴナー・ギャラリーに10点の油彩を出品する。彼は1879年まで同画廊に毎年出品している。ジョン・ラスキンはシリーズ作品《意志の勝利》の最初の1点,バーン・ジョーンズの影響を受けた《挑戦》(所在不明)は賞賛したが,グローヴナー・ギャラリーに展示されたティソの作品を「残念ながら,庶民が喜ぶ着色写真に過ぎない」と酷評した。ホイッスラーは彼のラスキンに対する訴訟事件の証人になることをティソに申し出たが,ティソはそれを辞退する。

1882
5月,ロンドンのダドリー・ギャラリーに《近代生活の放蕩息子》(ナント美術館)と題した油彩とエッチング,そして他の油彩・エッチング・七宝エナメル細工,そして1859年以来制作してきた油彩の写真と共に展示する。5月28日,パリにエドモン・ド・ゴンクールを訪ね,ゴンクールの小説『ルネ・モープラン』の挿絵の制作に着手する。11月9日,グローヴ・エンド・ロードの自宅でキャスリーン・ニュートンが死去する。その後間もなくティソはパリに戻る。

1883
パリの産業館でロンドン時代に制作した油彩・素描・版画・七宝エナメル細工を中心にした大規模な個展を開催する。1885年までフランス水彩画家協会,フランス・パステル画家協会の展覧会にも継続的に出品している。1883年から85年の間のいずれかの年に画家レオン・リーズネルの娘ルイーズと婚約するが,ティソはその娘とは結婚しなかった。

1885
2月,キャスリーン・ニュートンの霊との接触を望んで,降霊術師ウィリアム・ユリントンに会い,降霊術に凝る。5月20日,ロンドンの降霊術の会において,満足した接触をもつことができたという。4月-6月,パリのゼードルマイヤー画廊に《パリの女・15点シリーズ》を出品。このシリーズ最後の作品《聖なる音楽》(所在不明)を制作中に,ティソはサン・シュルピス寺院で,キリストの幻影を見ている。その経験によって彼は《内なる声(廃墟)》(レニングラード,エルミタージュ美術館)を描いている。この作品はティソの最初の宗教画であり,彼がキリスト教的な主題に戻ったことを意味している。ティソの初期のキリスト教的な主題の作品は,宗教画というよりも歴史画に近いものである。以後,ティソは世俗の主題から離れ,《キリストの生涯》の挿絵を描くことを決心した(ただし依頼された肖像画は例外であったが)。

1886
10月15日,『キリストの生涯』の挿絵を制作するために,中近東への取材旅行に出発する。

1887
3月,中近東の旅からパリに戻る。

1889
パリ万国博覧会において金賞を受賞。博覧会には《近代生活の放蕩息子》が展示される。パレスティナへの2度めの旅行をする。

1894
パリ,シャン・ド・マルスのサロンに『キリストの生涯』挿絵の素描から270点を出品する。完成したシリーズ365点は1895年にパリで,また96年にロンドンで発表された。この作品《キリストの生涯》は1896-97年にフランスで出版され,1897-98年には英語版も出版された。

1895
この頃,宗教的に悔い改めて,パリのフォーブール・サン・トノレにあるドミニコ会修道会教会の半円形祭壇のために巨大な《キリスト・パントクラトール》を制作している。この祭壇画は1897年12月に献納された。この頃,ドガとの友情に終止符が打たれる。

1896
『旧約聖書』挿絵の制作に着手するためパレスティナヘの3度めの旅行をする。

1898
2月と10月-11月,『キリストの生涯』挿絵の巡回展に同行して北アメリカに2度旅行する。

1900
ニューヨークのブルックリン美術館は6万ドルという価格で『キリストの生涯』挿絵を購入する。ティソはパリ万国博覧会に「巨大なパノラマ」を構想したが,その計画は実現しなかった。

1901
『日約聖書』挿絵95点をパリ,シャン・ド・マルスの国民美術協会のサロンに出品。

1902
8月8日,ブザンソンに近いシャトー・ド・ビュイヨンにて死去と未完の『旧約聖書』挿絵は刊行するために残る作品を他の画家が制作して仕上げられた(現在,ニューヨーク,ユダヤ博物館)。

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