華麗なる世紀末・ロンドンとパリ ジェームズ・ティソ展 図録 作品解説 荒屋鋪透
作品解説はクリスティーナ・マティヤスケーヴィッチの資料をもとに翻訳・執筆された。
荒屋鋪透・編
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病みあがりの若い女と付き添いの老婦人が,コロネード(柱廊)のある池のほとりの栗の木の下で藤椅子に腰掛けている。その池はセント・ジョンズ・ウッドのグローヴ・エンド・ロード17番地にあったティソの家の庭にしつらえられていたものである。この池とコロネードはティソの多くの作品に登場する。例えば,≪クロッケー遊び》(図版35)やエッチングの《痴話喧嘩》(図版64)などである。また,庭の栗の木も彼の得意な背景で,《安らぎ》(図版40)やエッチングの《孤児》(図版78,79)をはじめとする多くの作品に見られる。絵の小道具ともいえる当時流行した籐椅子は,ティソのグローヴ・エンド・ロード時代の作品を通して頻繁に用いられており,それは,庭のみならず温室やアトリエにも登場してくる。人物の衣裳もまたティソ所有のもので,若い女が身にまとう白いドレス《つかの間の嵐》(図版28)にも見られる。 《病みあがり》は,1876年のロイヤル・アカデミーの展覧会に出品され,翌年のグローヴナー・ギャラリー(ロンドン)にも展示された。《休日(ピクニック)》(1876年頃,テート・ギャラリー)という作品も,ティソの家のコロネードのある池を背景にしたものだが,若い男女がお茶の時間を賑やかに楽しむ《休日(ピクニック)》と,この《病みあがり》は対照的な作品になっている。ピクニックの男女が広げる布に置かれた御馳走と,《病みあがり》に描かれた小さなテーブルの上の簡単なお茶道具,そして健康的な若人と,病みあがりの女と老婦人という設定がその対比を際立たせている。またティソの絵画に見られる物語的な趣向が,画面左の籐椅子に残された帽子とステッキに託されている。それは,病みあがりの女の連れである男性が席を外したことを暗示している。 この作品と関連付けられる同名のエッチングがあるが,そこでは,若い病みあがりの女が,池のほとりを背景にして一部分,反対向きに描かれている。その作品は,ティソが油彩を版画に転用した最初のものとして知られている。こうした方法はロンドン時代を通してしばしば行われた。 来歴・展覧会歴・参考文献 PROVENANCE:Christie’s London,21 Jan.1949,bt.Fine Art society. EXHIBITlONS:RoYal Academy,London,1876(530);Sheffield 1955(27);Arts Council 1955(20);Barbican 1984-5(95);Petit Palais 1985(65). LITERATURE:Providence/Toronto 1968,note to cat.26;Misfeldt 1971,pp.160-1;Wentworth 1978,pp、52,54&fig.6a;Wentworth 1984,pp.94,112,120,128,130,139,162,167,201&pl.113;Wood 1986,pp.76-7&pl.73. |
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これはティソの最も物語性の豊かな作品のひとつである。嵐の重苦しい灰色の雲が背景に見られる。それは画面に登場する若い二人の男女の感情の隠喩であり,二人の間の動揺した雰囲気を象徽している。構図の上で,二人の視線は各々そ知らぬ方へ向けられ,人物が画面中央の窓枠によって仕切られることによって,男女の孤独感を強調している。しかし,若い女の姿勢や,彼女のドレスが男の立っている下方まで広がっていることが,二人の人物の微妙なつながりを意味しており,また背景の帆船の二本のマストを結ぶ帆綱は男女を結ぶ綱ともなり,題名が《つかの間の嵐》とつけられたごとく後に二人が仲直りすることを暗示している。この絵は物語性の豊かさや巧みな構成のみならず,印象に残る繊細な色彩と確かな技巧によって,ティソの代表作になっている。 若い女のいくぶん椅子にもたれた姿勢は,《病みあがり》(図版27)の女性のそれを想起させる。二人の女の衣裳は同じである。ティソは気に入ったポーズやモティーフ,舞台設定を変形の作品で繰り返すことを躊躇しなかったが,《つかの間の嵐》は,その舞台設定を幾つかの異なる作品に用いた点で,明らかに例外的ともいえる作品である。例えば,1876年のエッチング《ラムズゲート》(図版68)では別の人物が反対側におり(この版画の油彩のヴァージョンは知られていない),後に描かれた油彩《港を望む部屋》(図版34)には,キャスリーン・ニュートンが初老の男性と食卓に腰掛けている。これら3点の作品は,ペンとインクによる素描(挿図)に基づいている。版画の《ラムズゲート》は,人物が挿入されているのみで,最もこの素描に近い。《つかの間の嵐》では,人物の挿入とともに画面左の椅子が変更され,支柱のあるテーブルにはお茶の盆があり,右端の長方形のテーブルには新聞が置かれている。この・荘艪ヘゴールズミッド・ロード(現在は,英国イングランド南東部,ケント州の海岸に近いラムズゲート市のハーバー・パレード)にある家の部屋と特定されている。 背景の港や帆船のマスト そして船の帆綱などは1870年代のティソのテムズ河畔を描いた一連の作品にも見られる。 来歴・展覧会歴・参考文献 PROVENANCE:Herman Briggs;with M.Newman Ltd,London,May 1959;glft of the Slr James Dunn Foundation. EXHIBITIONS:Providence/Toronto 1968(27). LITERATURE:Wentworth 1978,p.106 & fig.22c;Warner 1982,p.14 & ill.p.15;Wentworth 1984,pp.4,7,20,99,102,120,130,139 & pl.116;Barbican 1984-5,notes to cat.77 and 92;Wood 1986,pp.88 & pl.81. |
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ティソは主として事物を描く画家であったが,生涯を通じて肖像画も描いた。初めて英国の地を踏んだ時,彼は『ヴァニティー・フェア』誌のためにカリカテュアを描くことで生計を支えた。その仕事を通じて肖像画の注文も受け,経済面と同時に彼の流行画家としての名声の確立に一役買った。この種のティソの肖像画は現在ほんのわずかの作品が知られているのみだが,今後徐々に発見されることが期待される。 シドニー・イサベラ・ミルナー・ギブソンは,『ヴァニティー・フェア』誌の創刊者で編集者のトーマス・ギブソン・ボウルズの異母兄妹である。ティソとボウルズはたぶん1869年に知り合ったのだろう。その年,ボウルズはティソに『ヴァニティー・フェア』誌にカリカテュアを描くことを依頼し,彼の友人で同誌創刊を援助した人物,勇敢な騎兵隊将校であり冒険家としても知られている,フレデリック・グスターヴス・バーナビー大佐の肖像画(ロンドン,国立肖像絵画館)を注文した。ティソは恐らく,このバーナビーの肖像画に取り組んだ年,1869年から70年の間にロンドンを訪れ,ハイド・パークに近いクリーヴ・ロッジのボウルズ邸に滞在した。1870年のパリ包囲戦の間,ティソは当時『モーニング・ポスト』紙の特派員であったボウルズに,偶然に二度合っているが,後にボウルズは1871年に発行した著書『実録・パリ攻防戦』の中でその再会を記述している。その著作には,ティソがパリ包囲戦の際描いた素描に基づいた7点の版画が入っている(その内の何点かは,後にエッチングのヴァージョン(図版65,71)ともなった。パリ・コミューン時代の後の1871年,ティソはロンドンに逃れ,セント・ジョンズ・ウッドのスプリングフィールド・ロード73番地に家を借りることが出来るまでの期間,1872年の春までクリーヴ・ロッジのボウルズ邸に滞在している。ティソの生涯の中で,この時のボウルズの支援は,一時の家を提供したというばかりでなく,『ヴァニティー・フェア』誌のカリカテュアの仕事で名声を与えたという意味で大変重要である。 その後もティソがボウルズ家の人々と懇意にしていたことは,《B夫人の肖像》(図版67)と題された別の1点のエッチングからも窺える。そこには,トーマス・ギブソン・ボウルズの妻ジェシカが描かれているが,日付の1876年は彼らが結婚した年である。『ヴアニティー・フェア』誌との最初の仕事は1873年に終わるが,数年の中断の後,1876年から77年にかけて,ティソは再び同誌と契約し11点のカリカテュアを制作している。この《シドニー・イザベラ・ミルナー・ギブソン夫人》の肖像は,恐らくこの時期に描かれたものであろう。袖のない,もしくは袖の短い服の上に,繊細に織られた上着を優雅に羽織ることが,襞のあるスカートとともに,1876年から77年にかけてご婦人方に流行した。ティソはモデルの婦人を画面中心から少しずらして,組み合わされる家具,絵画,婦人の姿や室内が写し出されている鏡などを慎重に選び配置している。彼の肖像画は実物以上に見せてはいるが良く似ていて,興味深いことに婦人の二重顎をあえてそのまま描いている。しかし、ポーズや柔かい色彩によって、彼女の肉付きのよい姿は巧みに目立たないものにされている。シドニーは結核で1880年に31歳で亡くなっている。 来歴 |
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ティソのいわゆる「私室向き」の小品の油彩類は,大変美しく,好評を博した作品である。注意深く調和を保ち,控えめな構図,微妙な色調,そして慎重な色のタッチが《港を望む部屋》を油彩の傑作にしている。舞台設定は1876年のペンとインクによる素描(ロンドン,テート・ギャラリー)に基づいており,その設定は同年代に制作された物語性の強い絵画《つかの間の嵐》(図版28)や,やはり1876年制作のドライポイント《ラムズゲート》(図版68)にも使用されている。ティソがキャスリーン・ニュートンとともに,この年再びラムズゲートの家を訪れたかどうかは定かでないが,彼が以前描いた舞台設定を他の作品に再び用いた事実(例えば《連絡船を待つ》(図版31)などに見られる)が知られているので,この《港を望む部屋》を描くために,ティソは特にその地を再訪する必要はなかった。キャスリーンの姿は,以前に制作されたグリザイユのオイルスケッチ(油彩下絵)(挿図)に基づき,恐らくアトリエで制作されたものであろう。 ティソが《つかの間の嵐》などに見られる英国絵画の伝統すなわち物語性,から離れて,フランス印象主義の作品に近づき日常的な現代生活を,より簡素に表現していることは大変興味深い。1870年代の終わりから1880年代の初めにかけて描かれた,この種の小品の板絵は,それ以前の大画面の油彩とは質を異にしており,《昼食》(図版14)に描かれた折りたたみテーブルに残された食物,《新聞を読む》(図版25)や《つかの間の嵐》(図版28)のお茶道具と,この《港を望む部屋》の小道具類を比較すると,恐らくそこには著しい違いが見られるはずである。
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パリに戻ると,ティソは10年間のフランスでのブランクを埋め,再び以前の評判を取り戻すために,一連の大画面の意欲作に着手した。1885年には15点の《パリの女》シリーズを,他の多くの油彩画・パステル・水彩・エッチング・エナメル七宝細工などと共に,パリのゼードルマイヤー・ギャラリーに展示した。この《旅行する女》という作品はそこに展示された油彩の1点であり,当時の『ニューヨーク・タイムズ』紙,1885年5月10日付けの新開記事には,ティソの《パリの女》シリーズに続く企画として構成さ・黷ス油彩画の1点であると記載されている。シリーズの主題は《外国人の女》であり,他にも1点《美しく装った女》(プエルトリコ,ポンセ美術館)が同シリーズのために完成されている。《テムズ河の岸辺》(図版45),メゾティントの版画作品《朝》(図版97)の原画である油彩(所在不明)なども,ひとつのまとまりになるよう意図されたのかもしれない(《テムズ河の岸辺》解説参照)。 《パリの女》,《外国人の女》シリーズは共に,女性の姿を絵の中心に据えた,ほぼ同じサイズの油彩である。この作品を含め何点かは,絵の中心にくる女性が絵を見る者をじかに見つめて,その観者の視線をとらえ,絵の場面の中に引き込む効果を狙ったものがある。───例えば,《神秘の女》(1883-85年,参考図版95)や《パリで一番美しい女》(1883-85年,参考図版96)といった作品───。《パリの女》シリーズ各々の作品では登場人物である女性が,それぞれ様々な役割を様々な舞台で負っている婆が描かれている。例えば,タべのレセプション・舞踏会・公園・店・レストラン・アトリエ・街頭・サーカスといった具合である。こういった絵画の主題・舞台設定・画面のサイズ・色彩やその奔放な様式というものは,特にエドガー・ドガやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのような芸術家の作品に見られる,同時代もしくはそれ以降のフランス美術の展開とよく合致したものなのである。しかしながら批評家たちは皆,彼の作品を批判し好まなかった。この《旅行する女》が発表された1886年に,ロンドンのトゥース・ギャラリーで開催された展覧会,その名も「パリの人々の生活」と題された展覧会に出品された《パリの女》,《外国人の女》シリーズは共に不評であった。 この絵のような15点ほどの作品群が,それを見る者にいかなる影響力を与えるのかを想像するのは困難である。画面の中に大きく描かれた「人物」,観者を直接見詰める「人物」の視線という特徴は,この絵に落ち着きを失った印象を与えているに違いない。残念なことに現在,世界中の様々なコレクションに散逸しているので── 一部分は未だに所在不明だが──シリーズの全体像から受ける強烈な印象が再現されることはないであろう。 ティソは《パリの女》シリーズの油彩に基づいたエッチングを,同時代の例えばジュール・クラルティ,リュドヴィク・アレヴィ,アルフォンス・ドーデそしてギイ・ド・モーパッサンといった作家のテキストを添えて発行したいと考えていた。結局この意欲的な計画は実現しなかったが,以下の5点の油彩が,エッチングのヴァージョンとして制作されたことが知られている。即ち《野心をいだく女》(図版93),《馬車に乗る女たち》(図版94),《持参金のない女》,《神秘の女》(図版95)そして《パリで一番美しい女》(図版96)である。 これらの油彩は全てフランスで制作されているものの,ティソは構図の構想や舞台設定を,自分のロンドン時代の作品から借用している。《旅行する女》の中心人物はキャスリーン・ニュートンを思いださせるし,手前の人々や背景の群衆は,ロンドン時代の何点かの油彩にも見られる。構図は《下船する婦人》,《タラップを降りる婦人》(所在不明)と題された小品の油彩に基づいており,この作品が1955年の展覧会に出品された際には,「ニュートン夫人の肖像」と記載された。このようなロンドン時代の作品からの借用は,ティソ後期のパリ時代の多くの油彩に見られる。例えば《野心をいだく女》では,1878年の《タべ》(パリ,オルセー美術館)に登場する人物の姿勢や構図が再び用いられているが,更に《タべ》は,1869年の《辛い知らせ》に拠っており,《辛い知らせ》は,オイルスケッチ(個人蔵)と鉛筆による下絵素描(所在不明〉が知られている。《パリの女》シリーズには他に,《田舎出の女たち》(所在不明)があるが,その構図の中心にくる人物たちは舞台設定や人物の衣裳は新しくされてはいるものの,1873年の《早すぎた到着》(ロンドン市自治体,ギルドホール・アート・ギャラリー)に負っている。《スフィンクス》(1883-85年,所在不明)と題された作品───その油彩下絵はトロントのジョーゼフ・タネンボーム夫妻が所蔵───にはティソが1885年に会ったライズナー嬢という女性が登場するが,彼女は高いフランス窓のある,ティソがロンドン時代に住んだグローヴ・エンド・ロードの温室のアトリエの舞台に座っている。そこに置かれた家具類は既に,いくつかのロンドン時代の油彩でお馴染みのものである。《無為の楽しみ》(図版42)の裏面に描かれた女性の習作は,このモデルのためのポーズのスケッチと考えられる。《偽りの女》(英題:《ゴシップ》,所在不明)もまたロンドン時代のティソのアトリエを舞台にしたものである。もちろんティソは1882年,ロンドンからパリに引っ越す際に,家具も一緒に運んだに違いないようだ。 来歴・展覧会歴・参考文献 |
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この時代のティソの制作の中心は宗教画挿絵(《橄欖山から見たエルサレム》(図版47の解説参照)であるが,彼は多くの肖像画も残している。その肖像画のほとんどはパステルで描かれており,パステルという素材は1882年,ティソがロンドンからパリに戻った後の肖像画制作に多く採用されたものである。彼の写真アルバムには,数多くのパステルによる肖像画の写真が見られるが,他にも記録されていない作品が制作されていることと思われる。にもかかわらず今回出品されている2点《モンモラン子爵夫人》と《ブログリー公爵夫人》のみしか明らかになっていない。他には小品の3点《新聞》,《ベルト》(いずれもパリ,プチ・パレの美術館所蔵でエッチングのヴァージョンがある)そして《猟銃をもつ女》(1895年,個人蔵)が知られている。パステルによる素描は19世紀末のフランスの芸術家には大変好まれ,見直されたジャンルである。パステルという素材は,18世紀に特に肖像画で流行したものであるが,19世紀に幾分18世紀趣味の意味を含めて復活した。それはまた画家の筆跡の勢いのみならず,直接的に移ろいゆく瞬間を捉え,表現し得る素材であるが故の流行であろう。ティソのパステルによる肖像画はエドゥアール・マネのそれを似ている。ティソはマネ同様その時代の流行肖像画家であった。ティソのパステルはまたエドガー・ドカにも多くを負っている。 この《モンモラン子爵夫人》の肖像には,18世紀の芸術家が施したと同じ技法,即ちパステル的な色彩のぼかしが見られる。一方モデルの姿勢に眼を移すと,同時代の写真に関連付けられる横向きのポーズである。当時のご婦人方は流行のバッスル・スカートのシルエットを最も美しく見せるために、しばしば横向きの姿勢でポーズをとった。ともあれ,写真ではこれ程効果的に色気を感じさせることは出来ないであろう。モデルの性格を誇張したこうした表現は,ティソが自らをいかに巧みな肖像画家であるかを誇示するための実例であろう。 モンモラン子爵夫人は,ティソの修業時代から彼に肖像画を依頼してきた,ミラモン家の出身である。この時代に描いた何点かのモンモラン家の人々の肖像画も知られている。 来歴・参考文献 |
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ティソの《モンモラン子爵夫人》(図版50)の肖像が,青白く甘美な色調であるに対して,この《ブロクリー公爵夫人》の肖像画は,大胆でいきいきとしている。その姿勢や色彩はいくらかエドガー・ドガに負っている。彼の初期の油彩に好んで見られるように,ティソはここでも光の反射の効果を楽しんでいる。公爵夫人の右腕と繻子の衣裳が,横座りしているアンピール様式のテーブルの磨かれた表面に映っている。緑色のヤシの葉,そして緑に染められたマラブー羽毛の豪華なケープをまとった夫人の服装が,一層華麗な雰囲気を掻き立てている。ティソが貴婦人や「俳優そして高級娼婦の肖像画家としても人気があった」(フィリップ・ジュリアン)というのも、驚くには当たらないだろう。彼の写真アルバムには,所在の判明しない多くのパステル画の写真が貼ってあり,それは当世風に着飾った華麗な淑女たちの行列である。彼女たちは色っぽく微笑みかけ,この肖像画と同様,優雅な装身具を身に付けながら,羽のボアや扇をもて遊び繻子や毛皮で着飾っている。これらの肖像画には上品な男性のものも含まれているが,1880年から90年代のパリの社交界が雄弁に語られている。 プログリー公爵夫妻は、19世紀末のフランスにおける,カトリック教会により信仰復興運動の指導的人物である。この肖像画がティソに依頼されたのは,1894年にパリのシヤン・ド・マルス宮で開催された,彼の《キリストの生涯》の押し絵の展覧会が成功を納めたことと関連しているのであろう。 参考文献 |
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チャールズ・ネーピア・ヘミーは,当時英国を代表する海景画家のひとりである。ロイヤル・アカデミー会員。彼はまた風俗画の他のジャンル,静物画もよくし水彩画家でもあった。英国イングランド北東部の街ニューカッスル・オン・タインで生まれ,イングランド南西部ファルマスにて没。子どもの頃旅行した経験が,彼を海の画家にしたのかもしれない。ニューカッスルの美術学校では,W.ベル・スコットに師事。ヘミーは父の勧めで,ドミニコ全修道院に入り,フランスのリヨンにも留学した。1867年,アントワープの画家,アンリ・レイスを訪れ絵画を学ぶ。同地に70年まで滞在。英国で風俗画家として活躍したヘミーは,1897年にロイヤル・アカデミー会員となり,同年,英国水彩画家協会の会員にもなる。1900年のパリ万国博覧会では,銀賞を受賞している。 ティソのロンドン時代の友人のひとりに,この画家,チャールズ・ネーピア・ヘミーがいる。その名前は,ティソが制作した暖炉の記念装飾のための,数点のエナメル七宝細工の飾り板の1点にも見出すことが出来る。ヘミーはティソの作品と技巧を賞賛していた。ティソ同様,へミーはベルギーの画家アンリ・レイス(1815-1869)の作品を模写している(《教会の中のマルガレーテ》(図版1),《放蕩息子の帰還》(図版2)解説参照)。アントワープで実際レイスのもとで学んだヘミーの,レイスへの傾倒ぶりはティソ以上であるといえよう。ヘミーのアカデミックな美術の基礎教育と作品の傾向は,ティソに大変よく似ている。その結果,ティソのロンドン時代の油彩が,いくらかヘミーに影響を及ぽしていても不思議ではないだろう。ヘミーはまたティソを通してホイッスラーから影響を受けた。今回の展覧会に出品さ・黷ス《ロンドンの河-ライムハウスの船大工たち》は明らかに,ホイッスラーのテムズ河畔の埠頭や河辺の生活を描いた版画──所謂「テムズセット」として知られているエッチングのシリーズ──そして1864年の油彩《ワッピング》(ワシントン,ナショナル,ギャラリー)にその多くを負っている。これらはまた,ティソへも多大な影響を与えた作品である。看板や木製の鎧戸のある,独特の羽目板で覆われた木造の家屋,そうした家々が河畔の乗船を容易なものにしている。そして煙の跡といった描写は,このヘミーの作品の特徴を,ティソの絵画の持つ雰囲気に近づけている。実際それは《連絡船を待つ》(図版31)に似ている。この油彩は,1860年代から70年代にかけての,テムズ河畔の船着き場の雰囲気や様相を雄弁に語っている。ホイッスラーやティソがその地区を,ロンドンのピタチャレスクで活気があり忘れることの出来ない場所とした理由も,そこから理解出来よう。 19世紀後半に制作された,ヘミーの最も有名な作品は《船乗りたちの議論》(1874-77年頃,リヴァプール,ウォーカー・アートギャラリー)である。そこには,三人の船長が海図を調べている姿が描かれている。彼らは河畔の居酒屋に腰掛け,仕切り板のある窓から,外の賑やかな河辺を見ている。居酒屋の娘はクロック酒を運んでくる。この船長たちは,ティソの1870年代の船上をモティーフにした作品,例えば《最後の夕ベ》(ロンドン市自治体,ギルドホール・アート・ギャラリー)の主人公を想起させる。居酒屋という舞台設定,なかでも窓の仕切りや背景の空に模様を作る艤装の索具装置とマストは,《悪い報せ》(1872年,カーデイフ,国立ウェールズ美術館)など,18世紀末の衣裳を扱った,ティソの初期の河畔の絵画を思い出させる。上記2点の1872年制作のティソによる18世紀趣味の油彩は,海図を調べる船乗りに特徴があるが,それはまたヘミーの主題を導いている。 展覧会歴・参考文献 |