このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

岩中徳次郎−「近代絵画」の追求−

土田真紀

 1

岩中徳次郎は、第二次世界大戦後の一時期を、三重県津市に過ごしている。現在県立美術館が建つ丘からみると、道を隔てて向かいの丘に、かなり広い革芒々の空き地が広がっているが、その空き地の一隅で、岩中は仮住まいのような質素な暮らしを送っていたらしい。赤松や雑木が密生し、軒下まで埋め尽くすような環境であったが、ある日ふと次のような発見をした。

  かつて、私の住んでいた家の周囲に「こめつ
  つじ」といわれる木が生茂っていた。ある日、
  部屋の中から窓外のつつじの木を何気なく眺
  めていた時、その小枝の、枝の出方が、よく
  揃っていることに気がついた。私は三角定規
  を持出して、1本の木の杖の出方を計ってみ
  たのである。その結果はどの枝も三角定規の
  60°の角度にぴったり一致することがわかっ
  た。私は何か不思議なものを発見したような
  驚きで心がときめき、次から次へと60°の定
  規を当てはめて歩いた。(註1)

註1.『形と比例−自然が示す造形の尺度』美術出版 1978年 8頁
註2.「私と私の絵」『岩中徳次郎画集』岩中徳次郎画集刊行会 1984年

後にみるように、この発見は岩中にとっては、単なる知的な発見としての意味を超えて、一種の「悟り」に近いもの、あるいは神秘体験とさえいえるものであった。と同時に、当時すでに50を過ぎた具象画家であった彼が、後に幾何学的抽象の画家として世に知られる、そもそもの始まりはここに見出されるのである。

和歌山県西牟婁郡に生まれた岩中であるが、90年以上に及んだその生涯を振り返ってみると、生地からみて紀伊半島の反対側にあたる三重県こそ、人生半ばにおける再生の地であったような感がある。1897年生まれの岩中の画業は戦前にすでに始まっており、天王寺師範学校を卒業し、教職に就く一方で、斉藤与里に師事、塊樹社展、東光会展、文展などに出品していた。唯一残された戦前の作品(cat.no.1)には、後の抽象画家としての岩中の片鱗は全く感じられない。むしろ1930年の作としては古風な、堅実に写実を守った婦人像である。ともあれ、経済的に相当苦しい生活を送りながらも、制作活動と展覧会への出品は続けていた。ところが「生活に疲れ、絵も行きづまって悩んだ末、零から出直そうと考え、木を切り根株を起して耕す生活から始めることにした」(註2)という最晩年の回想どおり、岩中は1944年、志摩半島鵜方の開拓地に開拓団の一員として入植し、ほとんど原始的ともいえる自給自足の生活に入る。これに伴い、制作活動は一旦完全に中断されることになった。

この間の事情はよくわからないが、先の回想からすれば、太平洋戦争末期に余儀なくされた都会から地方への疎開というだけでなく、何らかの個人的な動機づけがあったことは確かである。自給自足の暮らしは、戦中から戦後にかけて6年余りに及んだが、戦後間もなく、急速に高揚してきた文化運動に自ら加わり、また経済的な事情もあって、1951年に冒頭に触れた津市の住まいへ移り住んだ。津では、新しい美術運動の中心として、1956年に県外に移るまで盛んな活動を行っている。この三重県在住期間は十年余りにすぎないが、戦後の岩中の活動を方向づけるにあたり、案外、重要な意味を持っていたように思われるのである。

 2

今回の展覧会を準備する中で、改めて認識させられたのはこ 我々がよく知っている彼の明晰な幾何学的抽象の作品群は、80歳に近い頃から描かれ、なかでも優れた数点は、80代半ばに制作されたという事実であった。これはほとんど類例のない事実であろう。確かに80代、場合によっては90代まで制作を続ける画家、彫刻家なら数え上げるのにそう苦労はいらない。しかし、その生涯のなかでも最も優れた作品を80代に遺した作家がいるだろうか。戦前については資料が少ないということもあるが、少なくとも、これからみる抽象画家としての岩中の像は、すべて彼が50歳を過ぎて以降の活動によるものであることをここで改めて確認しておきたい。

さて、戦後もしばらく、岩中の絵画は戦前からの持続を窺わせる具象である。ただし同じ1950年の作品であっても、〈英虞湾〉(cat.no.2)が外光派風の風景画であるのに対し、〈裸婦〉(cat.no.3)は、具象とはいえ、形態、色彩両面で抽象化が見て取れる。そして1952年には、自身キャンヴァスの裏面に「抽象画に転向しての第1作」と記している〈雑木林の秋〉(cat.no.4)という作品が早くも描かれている。この後しばらく、画面を縦横に交錯する線と、その間を埋める多彩な色がリズミカルに響き合うような作品が続く。後の完全に対象を離れた抽象絵画とは異なり、タイトルである〈港〉〈峡湾〉など、具体的なモティーフ、風景から出発し、形態の抽象化というプロセスを経たものであろう。二人展を開くなど後々まで親交を結んだ岡本治男や足代義郎など、当時三重県在住の他の画家と同じく、この時期、岩中にもサロン・ド・メェの影響がはっきりと見て取れる。

冒頭に述べたつつじの杖に関する発見は、ちょうどこの具象から抽象への転換がなされた時期に重なっている。発見をきっかけに、岩中は木の葉の形を初め、自然の形態に見られる比例関係などを調べ始め、さらにセザンヌにおける画面構成の研究に入っていく。1955年にはその成果を最初の著作『形と構成の新しい研究』(『アトリエ』1955年8月号として出版)にまとめている。この最初の著作は未見であるが、1960年に出版された『フォルムの基本−デザインの為に』では、「造形の尺度」という観点からそれまでの研究をまとめている。すなわち、時間、長さ、大きさ、広さ、重さ、さらには音に関して、何らかの「認識し思考する手がかり」としての尺度があるのに対して、造形、すなわち形の世界についても尺度となる「基本形」が想定できないかというのである。この疑問に対し、多岐にわたる研究から導き出された答が正方形、「ルート矩形」(短辺と長辺の比がそれぞれ1:√2、1:√3、1:√5の長方形)や「黄金矩形」である。

著書の中で岩中は、膨大な数の例を挙げて、植物の葉や人体、造形作品が、いかにルート矩形や黄金比に基づいた比例や構成をもっているかを示している。こうした形態研究の手続きは一見「帰納的」にみえる。しかし、著書を読めば恐らく誰しもが気づくように、初めから答の出ているむしろ「演繹的」なものであった。つつじの発見と前後して、知人から「生物の形のすべては、ルート矩形などの単純な矩形で測定できる」ということを聞き、研究を開始したと岩中自身が回想している(註3)。しかし手続きが「帰納的」か「演繹的」かということより重要なのは、つつじの枝に関する直観的発見のもつ意味であろう。この発見はやがて、アキレシス・カレルというフランスの生物学者の次の言葉を借りて岩中が伝えようとする、彼にとって最も重要な真理へとつながっていったからである。

  自然の理法は、無生物にも、生命にも内在す
  るものである。もし、大宇宙の基本が、創造
  する知性であるとするなら、理法は、この知
  性の一面を私たちに啓示している。世界は神
  の如くである。(註3)

註3.『形と比例』8頁
註4. 同上 7頁

具象から抽象への転換、さらにはその後の30年以上にわたる抽象絵画との取り組みという、想像以上に困難な業を内から支える精神的柱というべきものは、この土台の上に築かれたのではないだろうか。

この頃の作品では、ほとんど真っ黒に近い画面から鮮やかな色面が浮かび上がり、詩的な雰囲気をもつ〈港〉(cat.no.6)が代表作であろう。岩中の優れた色彩感覚を窺わせる作品でもある。形態に関しても、この頃の作品については、後のように明確にルート矩形の比例や黄金比などが応用されていたとは思われない。セザンヌの構成法などを手がかりに、具体的なモティーフからの形態の抽象化を手探りで進めていたのであろう。またこの頃、岡本治男とはかなり緊密な関係で制作していたらしく、二人の作品は一時期非常に似通っている。

 3

1960年代に入ると、アンフォンメルの影響に呼応して、岩中の作品も、ここまで進めてきた形や構成の研究とは一見無関係に思われるオール・オーヴァーの画面に一旦なるが、60年代の半ばには、絵画というよりレリーフ状の作品を主とした、岩中のなかでも最も実験的な時期に入る。これまでの理論的研究が、明確な方法となって作品に生かされ始めるのもこの頃からで、1966年、2年前に結成されたニュー・ジォメトリック・アートグループに加わったのを機に、活動の範囲も一挙に広がりをみせ始めることになる。

ニュー・ジォメトリック・アート・グループは、1960年代の日本の美術界の多様な傾向のなかで、オップ・アートの系列に属する幾何学的抽象を志向する作家が集まって結成されたが、国内よりもむしろ海外で高い評価を受け、70年代にかけて、アメリカを初め、パリやドイツでも展覧会を数回開催している。岩中は、第2回展以降参加、海外でのグループ展にも出品し、特にアメリカで高い評価を受けた。岩中自身、地元紙を除き、それまで国内の展覧会評にほとんど取り上げられることがなかったのとは対照的に、アメリカでは現地の新聞の美術欄にグループ展が大きく紹介され、岩中の作品の写真が掲載されることもしばしばであった。それどころか、1967年1月のミ・チュー・ギャラリーでの展示作品には買い手まで現れ、それをきっかけにサンフランシスコでのグループの展覧会が実現している。

廻転による形の変化〉〈廻転による形と色の変化〉(cat.no.14,15,17,18)などがこの頃の作品であるが、ルート矩形などを基本単位とする形にモーターなどで動きを加え、さらには偶然性の要素も盛り込んだ、オップ・アートというよりキネティック・アートで、グループのなかでもやや特異な実験的作品であった。これらの作品は、その果敢な実験精神において注目に値し、アメリカでの高い評価も肯ける。しかし、たとえば関西の具体美術運動のメンバーが、過激に実験的な一時期を経て、やがてそれぞれにタブローへ回帰していったのに似て、岩中の場合も長くは続かず、まもなく絵画に戻っている。

絵画に戻った岩中は、まず正方形の画面において様々な構成の試みを開始した。正方形の選択には、「基本形」のなかでも最も単純な比例を持つという、理論上の必然性も感じられはするが、ジョゼフ・アルパースやフランク・ステラに代表される、当時の流れとも無縁ではないにちがいない。これ以降の作品については、広告紙の裏などにペンや鉛筆で描いたメモ描きのようなエスキースがたくさん遺されており、制作過程を知る上で非常に興味深い。
 たとえば、エスキースの幾つかには√2、√3/2、φなど、「基本形」に基づく比例が記されている。
正方形の各辺はこうした比例によって分割され、その間を結ぶ直線や、分割点を中心とする円周が縦横に引かれている。他方、数字の書き込みのない全くフリーハンドのエスキースも多く、エスキースにかかる前にすでにある程度の構想は頭の中でできているようである。いずれにしても、作品の構想は、画面の四辺を基本となる比例に基づいて分割することから始まり、その分割点同士を結ぶ多数の線や、ときには円周(画面外に中心をもつこともある)が加わった線の中から、最終的な線と線で囲まれた形とが同時に決定されていることがわかる。

  空間が存在を規定する。存在があって空間が
  あるのではなく、空間があって物が存在する
  のである

これはエスキース類に混じっていた岩中のメモ書きである。形は自律的に存在するのではなく、交錯する線の間から浮かび上がるかのように現れる。現実に絵画を構成する色と形は、比例に基づく画面分割のいわば結果と考えられるのである。

きわめてシステマティックに決定されるかにみえる形の場合も、最終的な判断を下しているのは岩中の感覚であるが、色彩の決定についてはさらに感覚的な要素が大きいように思われる。著作では色彩についてはほとんど言及されていない。エスキースでは、色が色名で指示されたり、色鉛筆で簡単に彩色が施されたりしている。70年代以降はアクリル絵具を用いているが、原色の場合も、中間色の場合も、アクリル絵具の無機的な持ち味と色のコントラストの効果を生かして、常に透明感のある明晰な画面を作り出している。

岩中の場合、スケッチはいわば完璧な設計図であり、大画面のキャンヴァスはそれをそのまま拡大したものにすぎない。

  私の絵は、描く前に既に頭の中にでき上がっ
  ていて、それをカンバスに写し換えるだけで
  ある。だから描くことは単なる手作業にすぎ
  ない。

1987年に池田20世紀美術館で開催された、初めての回顧展の図録の見返しに記された文章で、岩中はこう言い切っている。その裏には、アクション・ペインティングに代表される「行為としての芸術」、偶然性を含んだ芸術に対する否定とともに、元来芸術に含まれていた手仕事的な側面に対する否定的立場が明確に感じ取れる。

正方形の画面から始まった岩中の幾何学的抽象絵画は、次第に他の矩形の画面へと展開していった。最も大きい作品では黄金矩形の画面(161.8×100.0cmがこれにあたる)を好んでいるほか、既成のサイズのキャンヴァスもよく用いている。ただし、これら既成のキャンヴァスも、岩中の研究によれば、すべて何らかの基本矩形が組み合わせられているという(たとえば100.0×80.0cmは、既成の40号Fであるが、黄金菜巨形を二つ組み合わせた形になる)。大ざっぱな傾向をいえば、70年代の作品の方がミニマルな傾向が強く、最晩年の作品はやや説明的な要素が強い。80年代以降、タイトルも具象性が次第に強まっている。そのなかで見ていくと、最も岩中らしい色と形を示し、また質的にも高いのは、1982年を頂点とする作品群ということになろう。

 4

1952年に初めて抽象に転じて以降も、岩中の作品は幾度かの転換を経た。一方、1960年の『フォルムの研究』以後も、彼の理論的研究は一貫して継続され、『形と比例』、『画面構成』の2冊にまとめられた。現在遺されている、理論的研究に関わる資料は、様々な分析図や原稿類など膨大であり、ほとんど作品制作に劣らぬエネルギーが費やされたことがわかる。制作と並行して続けられたこうした理論研究は、彼にとっていったい何であったのか。

出発点には、すでに何度も述べたような重要な発見があり、生命体や造形物と形の法則性との関係を見窮めたいという真摯な欲求に駆り立てられたからでもある。しかし、彼の研究を支えた情熱の源はもう一つ、別のところにもあった。すなわち、西洋近代絵画が長い伝統に支えられ、画面構成という骨格を軸に論理的な展開を遂げてきたのに対し、日本の近代絵画が骨格をもたず、外からの新しい動きの摂取とその消化に追われていることに対する強い疑念である。抽象に入る頃には、この疑問がはっきりと口にされているが、恐らく、戦前から、フォーヴに傾きがちな日本の洋画に対する異和感が岩中にはあったにちがいなく、であればこそ、つつじの枝の発見が契機となり、当時の津市における美術運動の高まりや外山卯三郎らの励ましもあって、西洋近代絵画の骨格をなす、絵画本来の問題としての画面構成の研究に乗り出したのであろう。そうしたなかで、自然の形態と並んで岩中が最も注目したのがセザンヌであったことはある意味で当然であった。

岩中のセザンヌ論についてはいずれ正当な評価が必要であろうが、ここでは岩中の絵画に関連する部分のみを要約して紹介するにとどめたい。特に重要に思われるのは、セザンヌがエミール・ベルナールに語ったという、かの有名な「我々は、まず第一に、円錐、立方体、円筒、球などの幾何学的形態を研究しなければならない。我々がこれらの形体をもって構図ないし面を形成する方法を知った時に、初めて絵の描き方がわかったというべきであろう。」という言葉に対する、岩中独自の解釈である。『画面構成』の中で、彼は例を挙げ、セザンヌの絵画が、対角線や画面分割の線に一致する筆触や、大小の円の組合せによって構成されていることを明らかにする一方で(資料2参照)、先の言葉を、セザンヌ独自の空間表現法と関連づけて解釈している。すなわち矩形を重ね合わせることによって立方体を、円の重なりによって円錐、円筒、球を表現できるように、面を重ね合わせることで奥行きを表現することができるが、セザンヌは、対角線や画面分割の線に一致する矩形としての筆触や、大小の円の重ね合わせによって、古典的空間表現法とは異なるやり方で空間を表現し得ているというのである。

  彼は、対象を画面という一平面上に描出する
  に当って、想定される画面分割線や対角線に
  内包している性質に必要に応じた働きを持た
  せながら、それによって生ずる無数の矩形を
  組み合わせる事によって三次元的空間を表現
  し、さらにそれぞれの矩形の辺が備えている
  方向性や動きなどから、その絵に必要なもの
  を的確に選び出し、その役目を充分に与えな
  がら画面全体の構成を進めているのである。(註5)

註5.『画面構成−セザンヌから北斎まで』岩崎美術社 1983年 50頁

注目すべきは、このセザンヌに関する記述が、すでに触れた岩中自身の制作方法をも想起させるという点である。また、岩中は、矩形や円の重なりによる空間表現を試みたスケッチも一時期描いている(参考図版参照)。

しかし、岩中が抽象絵画の骨格となるべきかなりの部分をセザンヌから学んでいるのは事実としても、セザンヌから得た理論を全く新しい抽象絵画の方法論に転換しているのは、作品からも明らかである。第1に、セザンヌについては重要性を認識してしいた「筆触」を彼自身は放棄し、色面を全く手の跡を感じさせない均一な平面へと還元している。第2に、セザンヌしにおいては、画面の2次元性と対象である自然の3次元性との葛藤こそ問題であったのに対し、自然という対象を捨て去った岩中は、全くの2次元平面として画面を扱っている。いやむしろ、色面の重なりや色相互の関係がある種の前後関係を生み出すことすら、注意深く避けるような色の配置を行っているように思われる。この点で特に注意を引くのは各作品に必ずといっていいほど含まれた黒の色面で、色面の前後関係を無化する役割を担っているのではなかろうか。

著書『画面構成』では、セザンヌの詳しい分析に続いてブラック、カンディンスキー、モンドリアンら、キュピスム以降の近代絵画が扱われている。

  セザンヌ以後、セザンヌの影響を受けたとさ
  れる絵の特質は、古典的空間表現を否定し、
  面による表現方法に傾斜していることである。
  その結果、画面が無限に奥深いものに感じら
  れる空間や、物体が目に見えるような立体で
  はなく、画面は平面性のものとなり、奥行や
  立体は見えているとおりの視覚的なものから、
  感覚的に感じられるものに変わってきている。
  この画面の平面性ということは、近代絵画の
  一つの特徴である。(註6)

註6. 同上114頁
註7. 同上114頁

セザンヌから脈々と続く、西洋近代絵画の骨格である画面構成の追求という系譜のさらに先に、岩中は自らを位置づけようとしたのであろう。「結局、絵画というものの本体は、構成という面や線で構築する枠組にあるということもできるのではなかろうか」(註7)という岩中は、感覚で感受する色と形以外の、意味、内容、感情、主観といったものをいっさい排除し、自律的な造形ジャンルとしての近代絵画のいわば「正統的系譜」を、晩年に至るまで追求し続けた、まさにモダニズムの画家であった。

今日、モダニズムの一方の極であるフォーマリズムの絵画は、むしろ岩中の放棄した筆触の問題を重要とみなし、絵画の物理的条件である2次元平面とそこにイリュージョンとして生み出される3次元性との緊張関係のうちに、絵画のぎりぎりの成立基盤を問うているかに思われる。一方、岩中は、むしろ明快に、2次元平面以外のなにものでもない、自明の存在として絵画を位置づけている。彼にとっての問題は、その自明の画面に、宇宙を貫く理法に通じる秩序をもたらすということであった。その自足性をむしろ否定的にみるむきもあるだろう。また、彼自身気づいていたように、そこには画面が単なる模様に化す、すなわち装飾性に陥るという危険性が常に潜んでもいたのである。実際、彼の作品が完全にこの危険性を免れ得たとは言い切れないと思う。

幾何学的抽象の作品で、装飾性を免れたものにしばしば共通するのは、広い意味でのミニマリズム、すなわち色と形をぎりぎり無駄のないところまで追いつめていくという姿勢である。しかし、岩中の場合、同じく色と形をかなり限定していても、基本的にこのミニマリズムとは一線を画しているように思われる。〈集−82〉(cat.no.43)の枠内に窮屈に閉じこめられたような黒の形の集合(両脇の線はそれぞれ少しづつ傾いたり折れたりしている〉。〈変移〉(cat.no.61)の形を微妙に変えつつ水平に移動する三角形(厳密には三角形ではない)。〈Work 81−26−A〉(cat.no.38)の幾何学的であると同時に人体を想起させる曲線。岩中の形は、幾何学的論理に裏付けられながら、決して規則的ではなく、むしろ対称性を嫌っており、水平・垂直軸や中心からは見事といっていいほどずれている。その結果というべきか、普遍の絶対的なものと生きて変化していくものとが、岩中の作品のうちではうまくバランスをとって同居している。生命体が生きていくためにこそ、自らのうちに普遍的な法則性を秘めているという事実、その事実の直観的な把握が、徹底して曖昧さを嫌う色彩感覚とともに、最終的に彼の作品の最良の部分として生きているように思えてならない。

常に真摯な情熱に支えられてきた彼の探究から生み出された作品群は、実は、張りつめた緊張感というより、身近な紙の上で様々な色と形を無限に組み合わせて楽しむ子どもの姿にも通じる、遊戯精神に満ちている。岩中にとっては、広告紙の真に線を引いている時間こそ至福の時間であったにちがいない。〈生物ルテス〉(cat.no.80)もまたそうした精神の産物である。

 5

1980年代半ば以降も岩中の絵画はさらに展開を続け、作品は分割された色面で構成されたものから、画面に円や三角が浮遊するものに変化している。これは、『画面構成』でも取り上げている日本の古典絵画の画面構成、すなわち面の組合せによる構成という意識の希薄な・本画のそれの研究を通じて、新たに画面上での動きやバランスの表現へと関心を移していったことと関連づけられるであろう。

さらには、彼の関心はここにさえとどまらず、ルート矩形や黄金比ではなく、大阪四天王寺の仁王門にみられる9:7の比例こそ、中国、ギリシャ、エジプトなど世界中の古代造形に共通する「図法」であるとして、もはや絵画を離れた議論を展開するに至る。〈造形界萬荼羅〉(cat.no.69)には恐らくこの図法が反映されているものと思われる。こうして80代半ばを過ぎてなお、岩中の作品と理論は、新たな展開を遂げようとした。しかし、試論として9:7の理論を展開した「図法の話」の原稿を遺し、1989年、92歳の生涯を閉じた。

(三重県立美術館学芸員)

ページのトップへ戻る