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岩中徳次郎の抽象画の成立とその使命

田中善明

岩中徳次郎は著書「画面構成−セザンヌから北斎まで」のなかで、外山卯三郎が述べた、

「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。骨格がない。」

という一文を三度にわたって紹介している(註1)。戦後間もない時期、この言葉を外山本人から聞いたそうだが、その当時岩中はこの「骨格」が「構成」であることを理解できなかった。日本の美術教育では描く対象を画面の中に配置する「構図」こそ習得できたであろうが、三次元のモチーフを有機的に組み替え、二次元である平面へ効果的に組み立てる「構成」については全くといっていいほど教えなかったから理解できないのも無理からぬことである。

註1) 岩中徳次郎「画面構成−セザンヌから北斎まで−」 岩崎美術社1983年9月

たしかに西洋絵画は古代からの図法がルネサンス時代の透視図法と融合し、緻密な画面構成の理論が現代絵画に至るまでかたちを変えながらも綿々と受け継がれている。それに対して日本の洋画はイタリア人フォンタネージの工部美術学校での西洋画法の教育を最後に、本格的な絵画技法が根付かなかったことはよくいわれる。余談であるが、わたしは、この「骨格がない」という一文にはモチーフを組み立てる「構成」のほかに、絵具の積み重ね(組み立て)の法則、描く上での順序も日本には欠如している、そういった意味合いも含まれているように思える。

いずれにしても、画面構成の重要性について、岩中は身近な自然から発見することになる。志摩半島の鵜方山中で6年余りの自給自足の生活の末、津市大谷町に移住した。知人から工面してもらったこの家は、赤松と雑木が生い茂る場所であった。ある日、同じく庭にあったこめつつじの木の幹から杖の出方がよく揃っているのに気づき、三角定規を持ち出してみると、どの枝も60度であるのに驚き、自然の法則に興味をもちだしたとしている。これを契機に、身近にあるものを片っ瑞から測定することになる。岩中が残した膨大な研究資料類をみると、葉、昆虫、動物、屋根の勾配、楽器、工業製品、貝殻、人体などあらゆる分野にわたっている。まさにどん欲なまでに自然の形体を数値化し、その結果すべてのものが1:1の正方形、黄金比、√2√3√5矩形のいずれか、またはこれらの矩形を組み合わせたかたちに収まることを発見している。一見、統一性のない無作為的なこれらの調査だが、岩中にとって生物の進化、営みの規則性を知り、それが人類が創造する芸術の根底にある絶対的な美の要素を引き出すために避けて通ることのできない必然性があったように思える。

岩中が抽象絵画を制作するようになったのは1952年、55歳の時である。この年の11月、津市丸の内の三重県立図書館で律動美術協会第1回展が開催された。この会は岩中を筆頭に佐藤昌胤、岡本治男、出岡實、萩森久朗、松浦莫章の計6人で構成されている。松浦莫章は第1回展には出品していないが、岩中は当時東光会の会員で、佐藤、出岡は春陽会、岡本は独立美術協会、萩森は二紀会と所属団体も、また、世代も違っていた。しかしながら、彼らは20世紀美術の大きな流れである抽象美術を意識し、中央画壇から離れたこの地を母体に時代の新機軸をうち立てようとする共通の理念をもっていた。この展覧会のパンフレットには全員による随想文が書かれている。その中で岩中は、抽象絵画への転向についてその宣言ともいえる文章を残している。

「画というものがありのままに自然を再現することであるという風に一般に誤解されているようで、これは文展あたりの日本的アカデミズムの罪である。東洋画には真を写すという言葉があるが、自然の外形的なものを写すことを意味していない。抽象絵画は自然のありのままの形象は描かないが自然を否定するのではない。自然から受けたポエジーを最も端的に造形的に表現しようとするのである。だから自然に背を向けて空想や想像で勝手にこしらえるのではない。絶えず自然を見つめ自然から受けた感動から生まれるので・?る。絵というものは自然をそのままに写し取ることではなく、それに秩序を与えることである。自然の姿そのままが美しい絵となるのではなく、造形的な秩序から絵画の美が生れるのである。(中略)近代絵画の造形的精神をつかみたいということが私の抽象絵画を始めた一つの理由でもある。だからこのまま今の仕事を押通すことになるか、具象の世界が顔を出して来るかは今のところ行つて見なければ判らない。」

この時発表された「雑木林の秋(cat.no.4)」を見ると画面四隅にはすでに対角線による構成の跡が顔をのぞかせ、雑木林を円の重なりによって表現することで、奥行きを出している。抽象画の出発点ですでに、1983年に出版した「画面構成−セザンヌから北斎まで」で解説している画面構成理論の片鱗が窺える。

「構成があれば必然的にフォルム(形)が生まれて来る、フォルムがあれば必ず色が出る」

これは律動美術協会第1回展覧会座談会のときに述べた言葉である。(註2)。この作品が理論に根ざした複雑な構成であるだけに、この言葉は、あくまでも構成が主で色が従になると極端に解釈してもよいだろう。すくなくともフォーブ的絵画が横行し情に流される作品の多かった日本の洋画界において岩中の考えは革新的であった。

註2)「初秋の洋畫放談 上下」(座談、出席者:岩中徳次郎、松浦莫章、萩森久朗、出岡實、佐藤昌胤、岡本治男)『伊勢新聞』1952年9月21−22日

ここで付け加えておくと、岩中の作品が1952年を境にして具象画から抽象画へと180度転換されたわけではないように思える。たとえば1950年に制作された「裸婦(cat.no.3)」をみると、ほとんどモノトーンの画面に裸婦を描いた線は単純化され、すでに抽象化へと胎動しているとも見てとれる。その後、面的構成による抽象絵画はアンフォルメルの絵画へと一旦変容してゆくが、それらの作品についてもモノトーンが先行した色彩で、なにがしかの構成が計られた形跡は否めない。むしろ、大きな転換はニュー・ジォメトリック・アート・グループに発表する際あらわれる。それはわずかに残されていた情趣的な要素をこの時期完全に断ち切っていることにみてとれる。

ニュー・ジォメトリック・アート・グループはニューヨークに滞在していた須賀卯夫の呼びかけで1964年に結成、翌年、萩駿、聴涛譲治、高瀬善明、津田亜紀らによって第1回の展覧会が椿近代画廊と京都市美術館で開催された。この冷静でシステマティックな思考に基づくグループの結成は、それまで全盛を究めた情熱的なアクションペインティングやアンフォルメルの反動である。1969年のパンフレットには同グループの発足について解説されており、主張の要約は次の通りになっている。

(1)ジオメトリズムを基盤にした芸術運動を展開する。
(2)フォーブ的近代個性を排除して、現代個性の確立を行なう。
(3)現代造形言語による視覚心理的秩序を追求する。
(4)世界のジォメトリック・アーチストとの交流の展開を計り、世界性に立脚した日本のジォメトリズムを追求する。

ちなみに1965年11月美術手帖に掲載された同グループのPRでの第2項は「あらゆる旧来個性主義の思考、および手法を否定して、徹底した非個性の中より生まれるクールな個性表現に努力する。」となっており、「旧来個性主義の思考と手法」が「フォーブ的近代個性」に置き替わっているところが興味深い。岩中がこのグループに参加したのは1966年のことで、一旦、アンフオルメル風の絵画を試行していた岩中は、ふたたび構成による抽象形態の模索に回帰するのである。だが、その表現方法は従前の平面ではなく、アルミニウム金属、木材などを組み合わせた立体表現へと移行した。

このグループは1966年からニューヨークのミ・チュー・ギャラリーを皮切りに毎年キネティック・アートの本場アメリカで展覧会を開催した。1968年のアーレン・リンド・ギャラリーでの展覧会には岩中が渡米した。アメリカでの評判は上々で、1968年5月10日の北米毎日誌上で、岩中の作品を購入したモンテ・トウール婦人は、「アメリカ人が始めたオプ・キネティック・アートの形式を現在は日本から学ぶことができる」とも言っている。

18枚の厚紙を筒状にした「廻転による形の変化NO.3」(cat.no.14)は、黒い部分を黄金比や√矩形比で塗り分け、それを任意に回転させることで偶然にできる平面的な形態を模索している。同様の形式でそれに朱や青などの色彩をともなった「廻転による形と色の変化No.8」は比例も考慮されているように思えるが、セザンヌの理論で発見した円による遠近法の構成を、偶然による組合せで画面に配置する実験的な性格を帯びている。これらの作品は手動によってはじめて表情が変化するが、風力〈当時の展示では扇風機が使われた)を使ってより偶然性を高めたのが「廻転による形の変化」(cat.no.17,18)である。参考図版(cat.no.2−5)の「廻転による形の変化」では材料の軽量化を計るため、本体にアルミニウムを使い、モーターを取付けて河転を与えている。この作品の登場は、見るものに一定の回転による無限のバリエーションを提供した。

1974年、ニュー・ジォメトリック・アート・グループは、その使命を終えて解散することになる。岩中はすでに77歳の高齢に達していたが、このグループの前半期に発表された立体作品の試行がその後の制作の源泉となり、後半からは独自の平面による抽象表現へと向かった。岩中の制作意欲は留まるところを知らず、その後の作品が岩中芸術たる所以であり、頂点でもある。彼は、アクリル絵具を均一に塗り分けることで、画面に生ずる曖昧な肌合いを断ち切り、純粋に形(構成)と色だけで勝負する。しかも多くの作品は一辺が1メートルの正方形のキャンバスを使用した。この画面がもっとも基本的な形と大きさであるだけに、逆に制作するうえで、掴みどころのない、もっともむずかしいスタート位置からの挑戦であったと言える。

70年代前半から始まった岩中の抽象アクリル絵画は、さまざまな線やかたちで成立している。だが、これら無限のバリエーションを見せるかのようなかたちは、実は円弧や矩形などの基本的な形が画面を構成するときに計画された対角線によって規定した結果生みだされたものにすぎない。となると、岩中が描いた一連の抽象作品を見たときに感じる、画面を越えた広がりと迫力はどこからくるのだろうか。それは、強烈な色彩の効果も一因であるが、岩中が構成を考えたとき、その起点を画面の枠外にも求めたことでうまれる広がりでもある。つまり、画面の枠内で細かく分割された矩形による対角線以外に、ある矩形の一辺の線を画面を越えて延長し、その線と他の矩形の頂点を対角線で結ぶことで画面にとらわれない別の斜線と交点を設け、そこに円の中心やかたちの規定を求めることで広がりを生みだしているのである。絵画内部の空間だけでなく、枠外の空間を意識したその手法は、とりもなおさず彼が永年続けてきたセザンヌの研究での卓越した見解があってはじめて可能となったのだ。「実験の繰り返し」(註3)でつくりだされたこれらの作品は、決して格闘の跡を見せずに明快であり、われわれがその均整のとれた造形をただ味わえるよう、準備していてくれる。しかしながら、日本の絵画が「脊椎動物」になるためには、研究を重ねたその成果を作品から十分に読み取らなくてはならないだろう。


(三重県立美術館学芸員)

註3)「私はいつも何を描こうかではなく、こういう考え方をすればどんなものができるか、こういう組合せからはどんなものが生まれるかと、いうなれば実験の繰り返しであった。」(岩中徳次郎「私と私の絵」岩中徳次郎画集 岩中徳次郎画集刊行会1984年12月)

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