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石井鶴三の一側面

毛利伊知郎

石井鶴三の創作活動が,彫刻・油彩画・水彩画・版画・挿絵など多岐にわたっていること,しかも,そのいずれもが彼にとっては,軽重の差のない重要な表現手段であったことは,既に作者自身や多くの評論家諸氏によって述べられているところである。また,そうした幅広い彼の創作領域の中で,根幹をなしていたのが,彫刻であったということも,異論のないところであろう。ここでは,石井鶴三の本業ともいえる彫刻に的を絞り,代表作にも触れつつ,彼の造形思想の一端について記すこととしたい。

そもそも,石井鶴三が彫刻を志した動機について,彼自身は次のように記している。 「小生が彫刻の道にはいったのは,少年のころということになるが,自分では,なんだかよくわからないあいだに,自然にこの道に入ってきたということになる。

少年のころ,私は親戚のいなかの家に養子に行ったが,…(中略)…その養家に馬が飼ってあって,その馬と仲良しになって,馬といっしょに暮らしたわけであるが,馬のからだを目で見るばかりでなく,手でさわってみたり,背中へ乗って走らせたりして‥馬のからだの凸凹の感触のなんともいえないおもしろさに感動した。…(中略)… このなんともいえないふしぎな感じをなんとかあらわしてみたいと考え,ものごころのつくころから絵はかいてみたが,一面性の絵ではあの手でつかめるような感触はなかなかあらわせない。なんとしたものかとひとり思いわずらっているあいだに,家の増築工事があって,大工や左官がきて,木材のきれはし,壁土,漆喰などがそこらにちらかっていた。それらの資材を見て,これらを使ってやってみたら,馬体からうけるふしぎなおもしろさをあらわすことができはせぬかと考え,木で骨組をこしらえ,それに土をつけたり漆喰をつけたりしてやってみたところ,そこになんともいえぬうれしさをおぼえ,何やら満足に似た気持ちになった。」(「たくましい日本の造型力」『月刊文化財』12号 昭和39年)。

このように,石井鶴三が彫刻の道に入ったそもそもの契機は,こうした,決して幸せとはいえなかった,少年時代の原体験に基づくところが大きいのである。誰か他の人から彫刻を勧められたのではなく,彼自身の内部に生まれ育まれた,自然界の物が持つ立体的な形のおもしろさに対する好奇心のおもむくままに,ごく自然と彫刻を志すようになったのである。信念に従い,彫刻修業を統けたのである0 それでは,石井鶴三が考えていた彫刻の本質とは,どのようなものであったのか。

彼自身の言葉に・]えば,彫刻の本質は,「凸凹のおばけ(妖怪)」である。「凸凹のおばけ」とは,換言すれば「立体の美」,すなわち「凸凹,高低,容量がつくる美の不思議,面と線,光と陰の作る美しい姿」であり,「この大自然の中至る勉,あらゆるものの形のある処には,必ずそこにこの妖怪のすんでいないという処はありません」(「彫刻の話」『アトリエ』大正13年4月号)という。彼によれば,粘土や木,石などの材料で,ただ物の形を写実的に作っただけでは,彫刻とはいえず,その中にこの妖怪が住んでいないと真の彫刻にはならないというのである。

ここには,単なる写実表現に満足せず,対象の形を写すこと以外の,彫刻にとって欠くべからざる触覚的な美しさを重視する,石井鶴三の彫刻に対する明快な考えかたを見ることができる。

こうした石井鶴三の造形理念を端的に示している,もう一つの例として,日本の古代の彫刻についての彼の評価を見てみよう。

石井鶴三は,かなり早く美術学校在学時代から,我国古代彫刻のうち,とりわけ7世紀前半の飛鳥時代の彫刻を高く評価していた。当時の美術界の常識では,天平彫刻に対しては高い評価が与えられていたが,飛鳥彫刻の美しさを語る人は殆どいなかったと彼は回想している。そうした中で,彼が最も心ひかれたのは,天平彫刻ではなく,上野の博物館に出陳されていた京都広隆寺の弥勒菩薩像や,大和古寺巡歴で出会った奈良法隆寺の救世観音像などの飛鳥彫刻であり,また法隆寺五重塔や法起寺三重塔などの古代建築の数々であったという。力強さに満ちた古代建築の造形は,具象,非具象の区別は有るものの,立体造形という点では,彫刻と共通するものであると彼はいう。

確かに,古典的な写実的表現の完成度では,8世紀の天平彫刻にまさるものは無い。しかし,少し視点を変えて見ると,我国仏教彫刻の黎明期に当たる7世紀前半から半ば頃にかけての飛鳥彫刻は,天平彫刻には見られない,奥の深い造形的なおもしろさをたたえている。そこには,実際の姿形を忠実に表現しようとする意識はむしろ希薄で,観念的な性格が濃く,作者のイマジネーションが充分に働いた,どちらかと言えば,抽象性の強い表現が各所に見られるのである。

また,彼が本質的には彫刻と一つのものという建築も,例えば,法隆寺五重塔の雲斗・雲肘木などの部材やまろやかなカーヴを描く円柱は,確かに,彫刻に勝るとも劣らない存在感と造形的な力強さとを備えているのである。

石井鶴三流に言えば,天平彫刻に比して,飛鳥彫刻の方により多くの「凸凹の妖怪」が住んでいるということであろう。現代の私達の感覚からすると,天平彫刻よりも飛鳥彫刻に,より奥行きと広がりのある造形表現を見て取ることは,さして目新しい認識ではないが,まだ飛鳥彫刻に対する評価があまり高まっていない大正初期に,従来の通念に束縛されることなく,自分の感性のおもむくままに,飛鳥彫刻にひかれていった石井鶴三のこだわりのなさと,鋭い観照能力には,注目しておきたい。

以上のことから知られるように,石井鶴三の造形理念の大きな特徴の一つとして,写実表現のみに拘泥せず,何よりも作者の美的感動,イマジネーションが色濃く投影された造形表現,作品全体に内在する立体的な美しさを重視することがあげられよう。

では,そうした石井鶴三の造形理念が明確に表された作品には,どのようなものがあるだろうか。

石井鶴三の彫刻の中で,最も完成度の高い作品として,戦前では,昭和初期の「信濃男」(昭和4年),「俊寛頭部試作」(昭和5年),「信濃男座像」(昭和6年)などを,また戦後では,彼が少年時代に親しんだ動物でもある馬を主題とした「木曾馬(一)・(二)」(昭和26年),木彫の「島崎藤村像(一)」(昭和25年),「島崎藤村像(二)」(昭和26年),あるいは「刻木少女像」(昭和33年)などをあげることに異論はないであろう。

なかでも,平安時代末,平家討滅の謀議の罪で,鬼界ヶ島に流された俊寛の頭部を表した「俊寛頭部試作」は,石井鶴三の彫刻の中では最も有名な作品の一つであるが,都に帰る望みを断たれた俊寛の絶望と怒りの交錯する表情を,想像力を駆使して表現しており,小像ながらも,強い力が凝集した作品である。

また,「信濃男座像」は,純朴な心と強靭な肉体を持った信州地方の男性をモデルとした作であるが,古代エジプト彫刻の書記像を連想させるような安定感とモニュメンタリティーとを像全体に備えており,顔面や体駆の肉づけにも力強さがみなぎっていて,作者の立体造形に対する考えが明確に現れた作品ということができよう。

ところで,上記のことと無関係ではないが,石井鶴三の造形の第二の特徴として,自然との強い結びつきを忘れることができない。

石井鶴三が青年時代から山登りに親しみ,いくども日本アルプスを初めとする,各地の山岳に登り,また野兎や蛇,雷鳥など様々な自然の動物を友として,そうした動物をテーマとしたり,あるいは山で得たイメージに基づく数々の作品を制作したことはよく知られている。

とりわけ,山登りは,相撲と共に,彼が最も好んだスポーツで,明治40年(1907)頃,山本鼎と信州を流行した際,初めて浅間山に登ったことに始まるという。以後,日本アルプスへ度々行き,「すっかり山が好きになって,もう山から離れられぬ」ようになり,「山を知ってはじめて極楽世界を発見した思い」がしたというのである。 そして,石井鶴三は,山へ行くと,様々な幻影を見るようになり,そうした幻影を主題とする作品も制作するようになったという。

「近頃山へゆくと妙なものが見えるようになりまして,よく裸の男や女を見るのです。岳の上に大きな男が立っていたり,森の中で美しい少女や老爺が歩いていたりします」。

「それから今一つ,恐ろしい樫印象のはっきりした光景をお話しましょう。それは先年甲斐白峰の奥の田代川の上流の渓谷へ入った時です。…(中略)…私は起き出て渓流に沿って歩いて行ったのです。すると,ゆくてに流れの中で美しい真白な少女がしきりに水浴をしているので,ヤーと思って私はしばらく一心に見つめていたのですが,そのうちふと目を右手の森林の中へ移すと,私のすぐ数歩の所に黄色い皮膚の老爺が腕ぐみをしていてジッとその少女を見つめているではありませんか,その時私はゾッと身に寒さを覚えたものです」(以上,「山の幻影」『みづゑ』大正6年7月号)。

これ以外にも,石井鶴三が山中で経験した様々な幻覚は,彼が記した文章の各所で語られている。その原因について,「山中における感動が私の心内にいろいろの幻像をつくりだすものか。平常養われている造型感覚が山中の自然によって醸成され幻像となって眼に見えるに至るものか」(「山のこと」『中等教育資料』昭和37年4月)と彼は述べているが,石井鶴三の制作動機として,この山中での幻覚体験は重要な位置を占めていたようである。

では,彼が山中で体験した様々な幻影を主題とする作品にはどのようなものがあるだろうか。

その最初にあげられるのは,25歳,明治44年(1911)に制作されて,第5回文展に出品され褒状をあたえられたが,その後,損傷して,現在では頭部のみが残っている「荒川嶽」である。

荒川嶽(岳)は,標高3141mを誇る南アルプスの最高峰で,荒々しい岩肌やみごとなカール地形で,ひろく知られている。この作品は,南アルプス白根・赤石連峰を歩いた際の感動を表現しようとして制作された像で,当初.は,両手を岩について,前屈みの姿勢を取った老婆の姿の,いわば山を擬人化した作品であった。

「荒川嶽」は,山そのものから得た印象を造形化した作品であったが,その後の石井鶴三の仕事の中には,雲を吹き運ぶ風のイメージを男性の姿に託した彫刻の「風」(昭和31年)や,「雷試作」(昭和32年),森の奥深く住む長髪異形の「森の男」(昭和36年),油彩画の「裸女渓流」,版画の「山精」(昭和45年)など,山で体験した幻影をテーマとした作品をいくつか見いだすことができる。

こうした山岳での幻覚に基づく作品の数は,登山,相撲,能狂言,古典文学など幅広い分野に興味を持って,それらに取材した作品も数多く作っているこの作者の全作品の中では,数の上では必ずしも多くはない。しかし,それらは,石井鶴三の芸術創作の根源にある,何か不可思議な部分を伝えていて興味深い。

石井鶴三は,頑固・変人とも評された,その人物評価はともかくとして,制作活動の面では,彫刻にとどまらず,幅広い分野に手を染めた作家で,相撲を主題にした作品や『大菩薩峠』に代表される挿絵など,親しみやすい作品が多く,また自ら綴った多くの文章に自己の芸術理念を明確に書き記していることもあって,一見理解されやすい作家であるような印象がつきまとってきたと筆者には思われる。

しかし,上述したような,山中での幻影体験の逸話や,大正前期に二科展に出品された「縊死者」(大正4年)・「行路病者」(大正5年)などの,ある種の無気味さをたたえた水彩画の存在,また養子に出された少年時代の不遇な経験などを思うと,石井鶴三の心の奥底には他人が窺い知ることのできない,少しく屈折した内省的な一面があって,それが,この作者の造形活動により深い奥行きを与えているように思われるのである。

(もうり いちろう 三重県立美術館学芸員)

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