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石井鶴三・その造型の世界

陰里鉄郎

石井鶴三は,彫刻家であり,版画家であり,油彩・水彩の画家でもあった。また,若い一時期には漫画家でもあった。これらのものは,石井鶴三のなかでは順位はつけられていなかったが,しいて言えば石井鶴三は,まず第一に彫刻家であったと言わねばならないであろう。といって,版画や油彩画,水彩画,そして挿絵が,石井にとって余技のような軽いものであったわけでは決してなかった。彼はこれらのいずれに対しても真剣に取り組んでいたし,才能にもめぐまれ,それ故にそのどれもが石井鶴三の芸術世界をつくりだしている。この石井の世界は,時代の頂点をなしたり,世紀をリードしたりするような巨大なもの,巨人の世界ではなかったかも知れないが,日本の近代美術のなかで多くの作家が試みながらも果せなかった日本の伝統と西欧近代との融和を,独特の個性的な性格をもつ形でつくりだした作家であったといえよう。しかも当然のことながら,石井の彫刻,版画,油彩,水彩,そして挿絵のどれをとっても石井鶴三という特殊な個性を示す、統一的な,造型の組織というべきか,骨格のようなもので貫かれている。この石井の造型の骨格がもっともよく効果をはたし,大きな影響力を発揮し,もっとも広く認められたのは,彼の表(おもて)芸ともいうべき彫刻の分野においてよりもあるいは挿絵の世界においてであったかも知れない。江戸期以来の浮世絵の系譜に支配されていた挿絵界は,彫刻家である挿絵画家石井鶴三の出現によって大きく変化し,いわば石井鶴三以前と以後とに区分することさえできるからである。かくして,石井鶴三の全貌をみるためには,その彫刻,絵画のすべて,それも木彫,塑造の作品,絵画では油彩,水彩,挿絵とそのすべてを検討しなければならない。

石井鶴三は明治20年(1887)6月5日,東京・下谷区仲御徒町3丁目9番地に生まれている。父は石井重賢,母ふじ,鶴三はその名が示すように三男であった。父重賢(1848−97)は,号を鼎湖といった画家で,長兄満吉も柏亭の名でよく知られている画家,父方の祖父鈴木鵞湖(1816−70)は鶴三が生まれるはるか以前の明治3年(1870)に没し,父の鼎潮も鶴三が10歳のときに死去しており,鶴三にとってさしあたり美術への手引者となったのは中兄柏亭であったに違いないが,柏亭との関係はあとですこし触れるとして,まず父鼎湖のことをみておきたい。それは,美術の実技の範囲内での多彩さにおいてこの父子はどこか共通しているように思えるからである。

石井鼎湖は,谷文晃の弟子であった鈴木顔湖の次男であったが石井家を継いだ。鼎湖は父鵞顔湖に伝統的な画法を学んでいるが,維新後の明治3年(1870)ころ大蔵省度量衡改正掛の職をえ,その後,記録寮勤務をへて明治7年(1874)大蔵省紙幣寮に転じ,同省の沿革録には,明治10年7月頃に,「技手雇石井重賢始めて石版数回刷の着色画を製し得たり」と記録されているという(近蔵金広「紙弊寮夜話」)。鼎湖は,明治初期の通貨改革の一翼をになった技術者であったわけで,洋風版画,とりわけ石版の技術を,紙幣寮の御雇い外国人のひとりであったアメリカの石版画家チャールズ・ポラルド(明治9年2月から11年1月まで御雇い)に学んだのであった。また鼎湖はこの時期に,イギリス留学から帰国(明治7年)して麹町平河町に洋画塾彰技堂を開設していた国沢新九郎のもとに通って洋画をも学んでいた。明治27年(1894)に鼎湖は紙幣寮を辞職しているが,その間,勤務のかたわら明治美術会(明治22年創設の洋画家の団体)にも当初から関係し,一方,明治20年には伝統美術を擁護した滝池会の会員となり,23年の第3回内国勧業博覧会に出品した「豊公醍醐囲」で3等妙技賞をうけている。つまり,鼎湖は伝統的な日本画の画家であり,洋画へも関心を寄せ,とりわけ洋風石版画草創期の版画家でもあったのである。

明治30年,鼎湖は49歳で死去した。石井家の生活は柏亭の双肩にかかってくることになったが,ときに柏亭は16歳,父の跡をついだようにして紙幣寮(印刷局)に勤めていたにすぎず,鶴三は翌31年には叔母の家であった千葉県船橋の薪炭商矢橋家へ養子としてひきとられ,明治37年まで矢橋家で過すことになった。のちに鶴三は,この千葉での体験をもとに童話「常吉と鶏の卵」(大正10年11月,『芸術自由教育』)一編を書いているが,それによると,「叔母さんはやさしくない人で,常吉に対してどうも邪慳でした。常吉は元来内気でおとなしい子でしたが,それで猶更さびしい子になってしまいました。近所の子供達と一緒に遊ぶでもなく,毎日つまらない日を送っていました。この中でたった一つ大変仲のいいお友達がありました。それは家で飼ってある青毛の馬でした」という。また,「私は自分が小さい時田舎へ養子に行っていて,馬鹿だ馬鹿だといわれていた」(「中原君と私」)とも書いている。親しい肉親から離れて暮す少年鶴三の孤独がしかし,彼を彫刻の道へ導くことになったのであった。孤独な少年の鋭い感受性は,青毛の馬の肉体の不思議な感触につよく刺激され,それが彫刻を志す契機となったのである。帰京した鶴三は,柏亭のすすめで小山正太郎の画塾不同舎へ入り,素描を始めている。ついで彫刻を,高村光雲の弟子で,柿の婚家の縁つづきになる加藤景雲について学び,木彫の手ほどきをうけている。さらに帰家した翌年(明治38年)には東京美術学校彫刻科に入学し,本格的に彫刻を勉強,明治43年(1910)には美術学校を卒業,大正4年(1915)には佐藤朝山のすすめで日本美術院の研究所に入り,朝山,平櫛田中,中原悌二郎らとともに彫塑研究にはげむことになった。すこし後輩に橋本平八,喜多武四郎などがいた。

ここで兄柏亭とのことに少し触れておこう。柏亭は,印刷局勤務のかたわら浅井忠の門に入り,浅井のヨーロッパ留学後は中村不折について洋画を学んでいるが,明治34年には日本画の新しい団体,写実主義を標榜した无声会(むせいかい)にも所属するなどしているが,結城素明の紹介で与謝野鉄幹,晶子夫妻を知り,雑誌『明星』に挿絵,文章を寄稿,明治37年には中央新聞に挿絵画家として入社している。同じ年には太平洋画会展に油彩画「草上の小憩」を発表して,洋画家としてすでにその名を知られる存在となった。さらに美術雑誌『方寸』(明治40年5月創刊)や,文学者たちとの交流で知られた「パンの会」(明治41年末以後)に主要メンバーとして参画,ヨーロッパ旅行(明治43〜45年)といったように,華々しい活躍ぶりをみせた。その間,限疾をえて明治38年から翌年にかけて大阪で療養生活をおくっている。こうした兄柏亭は確かに鶴三にとって,当初は尊敬すべき芸術家,頼りになる兄であった。だが,鶴三はつぎのように書いている。

兄は今後は専心画道にはげみたいといゝ,母は兄を早くひとかどの画家として,家名をあげたいとあせり,そこで私は犠牲になることを要求された。……それではと私は犠牲をひきうけたのであるが,それからの柏亭の生活がおかしくなるのである。一言でいえば修行がなまぬるくなるのである。──「折り折りの人」『朝日新聞』昭和42年12月25日

柏亭は,兄であるだけにすべてにおいて,油彩でも版画,水彩,挿絵でも,その出発においては鶴三より先んじており,それなりの見るべき仕事を提示はしたが,その後の進展には鶴三のいうように「生命力が希薄になって」いったことは争えない事実であろう。「子供の時養子に行って,人々の理解を得ず,二十代は窮乏の間に送り,三十になって漸く己の志す道に近づいたところ」(「中原君と私」)と書いているように,石井鶴三の自立は,30歳前後,明治最末期大正初期から始まっている。

美術学校彫刻科に入学した鶴三の失望は大きかったようで,後年,「はいってみて最初に驚いたのは,彫刻科の先生が彫刻を知らないことで,皆目彫刻が教えられていないことであった」(「たくましい日本の造形力」,昭和39年)と回想している。こうした鶴三の前に,真実の彫刻としての感動をもたらしたのは,明治41年(1908)の文展に出品された荻原守衛の『文覚』であった。このことからも,ロダンの芸術に啓発され,彫刻における「近代」を日本に最初に示した荻原と,のちに鶴三も尊敬をおしまなかった高村光太郎の帰国の意味の大きさが推しはかられよう。同時に若き鶴三は,鶴三独自の経路をもって彫刻開眼の道を歩いている。『文覚』につづいて信州の山岳登山(明治42年)が鶴三にもたらしたものも,その後の鶴三の世界に決定的なものであった。山中で彼が脳中に描いた幻影,山岳からうけた圧倒的な感動,そこから鶴三の彫刻として最初の作品『荒川嶽』が生まれることになるのである。

彫刻とはなにか。鶴三は,若いとき,とっさに「それは,凸凹の妖怪(おばけ)だ」と応えたという。晩年になっても,「今思いかえしてみても,まちがっていなくて彫刻の本質をいい得ていると思う。全く彫刻の本質は立体のおばけのようなものである。」(昭和39年)とその確信はゆるがなかった。この彫刻,立体造型について確信は,幼年時の不幸な境遇のなかで,仲よくなった馬の肉体を撫でてえた感動にその源泉があることは疑いない。『荒川嶽』以後,『泣く子』(大正5),『噴水盤試作』(大正13),『俊寛頭部試作』(昭和5),『信濃男座像』(昭和6),『藤村像』(一,二 昭和25,26)といった展開をとることになる。これらの彫刻作品は,物理的には大作とはいえないが,造型として骨格の確かさと凸凹の妖怪としての魅力はきわめて個性的で,質の高い造型作品となっている。

冒頭のところで触れたように,石井鴇三という特殊な個性の統一的な造型のもうひとつの面は挿絵を含む彼の絵画類である。『荒川嶽』についで彫刻『力士』を日本美術院展に発表した大正4年(1915),鶴三は水彩画『縊死者』を二科展に出品した。ここでは挿絵を中心に鶴三の絵画について述べておきたい。

石井鶴三が初めて新聞小説の挿絵に手をつけたのは,大正7年(1918)4月,田村松魚が『やまと新聞』に発表した「歩んで来た道」に,兄柏亭と交互に連載したものにはじまるが,鶴三の挿絵が,一般の注目を集めたのは,大正10年2月(1921),上司小剣の「東京・愛慾篇」(東京朝日新聞)においてであった。この小説には東京の各地が登場するが,鶴三はそれをコンテを用いて,明暗の整った語調で描きだしたのであった。浮世絵風の細密な線描の挿絵を見なれていた読者には新鮮に映じたに相違ない。事実,これは,コマ絵や一枚ものの挿絵を除けば,新聞連載小説に登場した洋画的挿絵のはしりであった。鶴三の回想によれば,「上司さんは最初は挿画というものにあまり関心をもっていなかったが,私の挿画を見てから,連載小説に挿画の占める位置の重要であることを知ったという。たとえば義太夫における太夫と三味線のような関係であろうといわれた。上司さんのこの言葉をきいて私は責任を感じ,さらに努力するようになった。」(「折り折りの人」)という。このときから「義太夫と三味線のような関係」が鶴三の挿絵における確固たる信念となったようである。

しかし挿絵画家としての石井鶴三の名声を決定的にしたのは,中里介山「大菩薩峠」の挿絵であった。大正2年(1913)から起稿されたこの小説は昭和16年(1941)まで書き続けられてなお未完に終った超長編であるが,鶴三は大正14年(1925)1月からの大阪毎日新聞における連載を皮きりに挿絵を担当した。先述の「東京」と異なるところは,テキストが時代小説であること,描画にコンテではなく墨と筆を用いていることである。木村荘八も指摘するように挿絵の要諦は,(1)に絵画表現の技術,(2)にテキストの解釈,読み方である。「大菩薩峠」の鶴三は,(1)についていえば,明暗の調子によるコンテ画と違って,主として線描によって描きだしている。それも浮世絵系の細密描写による通俗的な表現ではなく一見粗野であるが,簡潔で切れ味の鋭い,といって細く鋭利というのではなく,表現対象の形態感と心理とを深く鋭くとらえた線,それだけの線によって描きだしているのである。

適宜に墨の面を配した,この線描による画面は,たしかに石井鶴三の素描力の確かさを見るひとにつよく感じさせる。そしてこの線描の画面から,私は二つのことを想起させられるのである。その一つは,鶴三が最初にデッサンを勉強した不同舎において,小山正太郎が指導のときにつねに口癖のように言っていたという言葉で,「タンダ(たった)一本の線で描け」といっていたということである。小山は明治初期の工部美術学校出身の画家で,明治前半期の日本洋画で支配的でさえあったといってよい,暗く,硬い写実の不同舎流をつくりだした元凶のような洋画家であるが,この口癖となっていた言葉は彼の門下の画学生たちの素描力養成のうえではきわめて有効であったといえよう。一本の線に要約されうるまで観察し,認識し,表現せよ,ということである。鶴三は彫刻家であったが,一般には絵画のファクターとうけとられている「線」についてつぎのように考えているのである。「彫刻は線の芸術です。ものの形に線の美を見る事,ものの形をかりてその中に線の美を主体的に構成する事,そこに彫刻の全部があります」「線は常に形の中に住んでいるものです」と。鶴三もまた,素描で「たった一本の線」を強調し,自身,そうした素描を描いた。

もう一つのは,版画のことである。石井鶴三の場合は木版画である。鶴三は彫刻を志して最初に木彫を学んでおり,当然,のみの使用になれていた。この木彫家としての鶴三の版木の彫り方の特徴について,版画家恩地孝四郎は,「その斜刀で為される刀使いは,斜度が高く,随ってその摺画は充分な厚み,奥行をよく平面に盛って居る」(「日本の現代版画」)と指摘している。鶴三自身は版画について,「単純,直截,瀟洒,淡白,繊細,可憐などという言葉でいゝ表わされる,しんみりとおちついた感じです」(「版画の趣味」)と書いているが,ここにあげられている語はそのまま彼の挿絵の画面にあてはめることができよう。

印刷された挿絵は,広義の意味では版画である。石井鶴三は新聞挿絵を担当するにあたって,悪い紙質のうえにすぐれた効果をだすにはどうしたらよいかを研究しており,おそらく木版画制作の経験から多くを学んだに相違ない。銅版画,木口木版画の場合は別として,平日木版の場合の効果は,児島喜久雄が「挿画芸術にとって寸法が小さいということは可なり重要な意味を有って居る。画の寸法が小さいのだから表現は出来るだけ簡潔でなければならない。煩わしい精細な描写は寧ろ表現の力を殺いで了う」(「現代挿画家偶評」,『美術批評と美術問題』所収)と,挿絵について書いていることと共通するところが多い。すなわち石井鶴三の挿絵は,彼の木版画の延長線上に位置していたと考えて大過ないであろう。

表現が簡潔ということは,同時にテキスト解釈と深くかかわることになるであろう。テキストの叙述や表現がいかに複雑,細密であれ,あるいは複雑,細密であればあるほどに,その挿絵は適確な解釈に基づいて本質を抽出した表現でなければならない。石井鶴三の時代小説挿絵が成功した一つの要点はそのことにすぐれていた点にあった。木村荘八のこの点に関する鶴三への評価は相当に辛いが(「石井鶴三の挿絵」,『近代挿絵考』所収),児島喜久雄は鶴三のこの面を高く評価し,「主要象面は歴史画などで所謂〈効果的瞬間〉に等しいものである。或事件の展開中事件の内容から考えて最も緊張をはらんだ象面を意味する。石井君はいつも巧みにそういう象面を把えて居るのである。…他の挿画家がよくやるように静物を描いたり,アレゴリーを用いたりして誤魔化さない」(「現代挿絵偶評」)と書いている。「大菩薩峠」「南国太平記」「宮本武蔵」といった鶴三の挿絵を見る限りでは児島の評価に多くの賛成がえられるであろう。石井鶴三が相当の読書家であったことは疑いないが,テキスト解釈力だけでは魅力的な映像が創造できるわけではない。知的な能力と同時に,あるいはそれ以上に,幻視にも似た視覚による非現実化の能力を必要とするであろう。石井鶴三はそうした視覚の持ち主であったようである。彼はつぎのように述懐している。

私は子供の時から物語の本など読んでいると,書中の光景が彷彿として眼前に浮んで来たものです。この習慣は私の絵の進歩に伴い影像が漸次に色濃くなって来ました。で現在では私には小説を読んでその作中から画因を得て絵を描く事は無理がなくて自然的に興味をもってやれるのです。──「さしえ画家として」,『石井鶴三文集』所収

こうした空想的な映像による表現は,鶴三にとっては挿絵の場合だけではなかった。 別のところでこう書いている。「私の絵は大概想象で描くのだが,想像で描くといっても,別にこしらえ物ではないつもりだ。……こうしで部屋に座っていてもどうかすると或る光景が自分の前に現われてくる」(「私の生活」,『中央美術』大正10年1月号)。

この幻視にも似た空想の映像が,空想でありながら生彩ある現実感(リアリティ)を備えうるか杏かが最大の問題であろう。鶴三の画家,また彫刻家としての存在の背後の人間的な現実感と認識能力,さらに鶴三の場合は「気合い」ともいうべき精神的な集中力,「気塊」といっていい積極的な精神の作動が彼の画面から感じとられるであろう。こうした石井鶴三の日本的古典的な精神主義的態度が,「大菩薩峠」の机龍之助,「宮本武蔵」の武蔵といった一種求道的人物象とよく適合したといえようか。一方,鶴三自身もよく自覚していたことであるが,彼の画面には甘美な情趣や官能的な情調はほとんどそのかけらもみられない。「私の最も苦手とするところは女を描くことである。お杉婆さんのようなのはどうやら描けそうにも思うが,若い女となると更に一苦労である。お通さんのような女が私には比較的描き易いのであろうかと思うが,美しく描くのが難しく,かぼそくと心掛けていてもいつか肩が張って太くなりたがる。朱実のような女になると因ってしまう。色っぽさなどというものが描けない。こういう種類の女に興味はもつのであるが,どうも手に合わないのである」(「私の見た宮本武蔵」)と記している。彼の彫刻作品のなかにも女性像がないわけではないが,そこでも骨格と肉体はあるが官能は希薄なようである。石井鶴三の描きだした世界は,それ自体が有性の,男性の世界であったように思われる。

(三重県立美術館館長 かげさと てつろう)

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