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江戸時代の伊勢型紙の背景を探る

森本 孝

1年ほど前のことであっただろうか。津のあるコレタターを訪ね型紙を拝見したことがある。数多くの箪笥や戸棚のなか、あるいは床の上に所狭しと500枚、1000枚の単位で紐が掛けられた夥しい量の型紙には驚くしかなかった。1万枚と2万枚というような量ではない。津市内に遺されているだけでも相当なものであり、国内のにならず、欧米のいくつもの美術館・博物館に保存されているその量も小さくはない話を幾度も耳にする。現存する型紙だけでも驚く数量であるが、処分・焼失されたものも合わせれば、その数量は想像を絶する数値になるのであろう。そして、その大部分が江戸時代中期頃から第2次大戦までの間に、伊勢白子・寺家地方で制作されたものであるから、伊勢型紙の繁栄ぶりが窺える。

しかし、染匠のいない、染匠の居住地から遠く離れた地域であり、型紙をつくるために必要な手漉和紙や柿渋の産地からも離れた伊勢白子地方に、全国で消費される文様を彫った型紙の制作がなぜ始まり、そして販売をほぼ独占するような様相を呈するようになぜなったのか、明確にするだけの資料に出会うこうができない。

全国の紺屋に伊勢型紙を独占的に販売するようになった理由として、元和5年(1619)、徳川頼宣が和歌山藩主となり伊勢白子地方が紀州領となり、元和8年、頼宣から絵符、駄賃帖、ついで鑑札等が下付され、商人駄賃239文を武士荷駄賃100文で輸送できるという特権と権威を得たことがよく述べられるが、単に行商上の理由だけが独占を生んだ原因ではない。他の誰もが成し得ないだけの高度な技術が伝承されていたことがまず必要である。そして流行を敏感に感じとり、買い手が求める型紙を機敏に彫ることができる機能を持ち合わせていたからこそ販売を独占することができたはずである。

寺尾家に伝わる文書のなかに、白子・寺家両村の型売り株仲間の沿革を記した『形売共年数暦扣帳』がある。明和5年(1768)という一説もあるが、藩の財政を立て直す寛政の改革に関連する記事と考えられる記述があることで寛政4年(1792)とするのが妥当であろう。この『形売共年数暦扣帳』に「紺形諸国売始候者、延暦年中売始候由申伝候得共、売人名前不相知。尤売出シハ四人と申事ニ候へ共」と記されているので、この記述を信頼すれば延暦年間(728−805)には既に型売りが始まっていたことになるが、文様を彫った型紙を使用した型染技術の完成は、伝世する遺品から判断する限り桃山時代であり、真憑性に問題がある。また、足利時代に京の公卿萩原中納言が白子山観音寺住職と旧知であった由縁から白子山観音寺に流れ、ここで紙を彫り抜いた富貴絵を売り始めた伝説が「古老の口碑」として大正7年(1918)編の『三重県史』に記載されている。下津顕二氏は萩原中納言という公卿の存在を実証する資料がないことでこの伝説を否定しているが、中田四朗氏は、伊勢型紙の歴史を探る上で最も基本的な文献となっている『伊勢型紙の歴史』(1970年、伊勢型紙の歴史刊行会発行)のなかで、京の公卿萩原中納言という人物は実在しないが、京からの伝承を由緒あるかたちの伝説につくり上げたもので、民話のようなかたちで語り継がれてきたのであるとし、京都文化の地方伝播の一つであろうとして、応仁の乱の時点での型彫技術の伝承を推測している。

インド・中国・ペルシャなどの国々の型染との関連性もまた重要な課題であるが、型染の技法は中国から日本へ移入されたものであろうし、京都をその中心として日本独自の形態で発展したことには違いないだろう。他の地域からの伝承を推測することも困難であり、また他からの影響を受けず、伊勢白子地方で独自に型を彫る技法を完成させることを想像することはあまりにも難しい。単純に彫ればできるような手仕事ではなく、非常に精密で高度な熟練を要する技術であり、また型染にも精通していなけれはならない。その京都から地方へ技術が伝わるためにはやはり人が移り住むことであったろう。その移住の可能性は、文正2年(1467)に起こった応仁の乱の戦禍を避けるため、この時期に移住があったと推測するしかおそらくあり得ないことなのであろう。この前後以外に、京都から伊勢白子への型彫技術の伝承があったと想像することは非常に困難であり、徳川頼宣から絵符・駄賃帖などを下付されたのが元和8年(1622)のことだから、16世紀中に伊勢白子へ型彫技術の伝承がなければ、型売りせほぼ独占するような以後の展開は難しい。

『日本後記』に、綿花は延暦18年(799)7月、三河国に漂着した崑崙人が綿種をもたらし、四国・九州地方に植えたことが記されている。しかしこれはやがて絶滅し、大永年間(1521‐28)、朝鮮半島から栽培方法が伝わるまで輸入に頼っていた。木綿はそれまでの間、非常に貴重なものであった。室町末期に畿内・東海道に広がり、江戸時代に入ってから温暖な地方に自給用の木綿の栽培と製織が起こり、九州の他、三河、伊勢、大和河内などの産地が生まれ、量産に伴って麻にかわる素材として庶民の生活に欠くことのできない衣類になっている。自給から大消費地である江戸など、他の地域へ販売ができるようになる時期は、おそらく寛永年間(1624−44)の少し前の頃であったであろう。伊勢商人の台頭は、木綿の量産に従って始まるのである。

津の川喜田家の第16代として生まれた川喜田半泥子は、川喜田屋創立300年を記念して『大伝馬町史』を著している。これは川喜田家に伝わる文書類に基づき、17世紀中頃からの江戸大伝馬町の様子を伝えるものであった。川喜田屋は、当初川北屋といい、元禄14年(1701)に姓を川喜田に改めているが、大伝馬町に木綿仲買店を開いたのが寛永12年(1635)であり、貞享3年(1686)には木綿仲買商から木綿問屋となっている。川喜田家の他、三井家、長谷川家、小津家などの状況もそれほどの差異はなく、松阪・津などの伊勢商人は、寛永期(1624−44)頃から江戸に発展を始め、天和・貞享の頃(1681−1688)には不抜の地歩を獲得しているのである。

彼らは伊勢国だけでなく、尾張国、三河国で生産された木綿さえ独占を試み、在地仲買人、積荷問屋、回船問屋などを次第に手中に収め、次第に伊勢湾一帯の木綿を買い求め販売を独占してしまっている。伊勢国はもちろん、尾張国、三河国で生産された木綿を集積したのが白子港で、ここから江戸に向かって出発させたのであった。この頃白子港は、伊勢地方で最も繁栄した拠点となる港であり、回船も多く特に活気を呈していたことが想像できる。また、近江・奈良地方からの物資の移出、伊勢・近江・奈良地方への千鰯の輸送の中継的な機能も白子は合わせ持っていた。紀州御三家の威光を背景にしていたことも発展の大きな要因であったことだろう。

伊勢商人の活躍と白子港の繁栄が、これまた密接な関係にある。白子港の木錦積荷問屋は、江戸店持ちの大伝馬町組と白子組に分かれていたが、どちらも伊勢商人と深いかかわりを持っていた。大伝馬町組の積荷問屋は、自ら船を持つ回船業者でもある白子・河合・倉田の3家、回船問屋は、寛政の頃(1789−1801)には清水清兵衛、綟子屋七左衛門、同栄蔵、同清七、同太治郎、同武右衛門、一見勘右衛門らの名前がみうけられる。余談であるが、難船して漂流の後、ロシア各地を移動し、エカテリーナU世に謁見した大黒屋光太夫が乗った神昌丸は船主が一見勘右衛門であった。なお、天保の改革で株仲間が解体、尾張木綿が尾張藩の統制下におかれるようになって独占形態は崩れ、白子回船も衰退の一途をたどっている。

伊賀上野の城主・藤堂元甫が各地の実地調査を行い、その結果をまとめた『三国地誌』を編纂しているが、このうち伊勢と志摩2国の編纂は宝暦10年(1760)に完了している。その『巻之三十』伊勢の国奄芸郡関梁の部「白子駅」の条に「按、町あり、旅店なし、客舟の輻湊する所也」とあり、同巻の「土産、製造附」の条に「衣文模(こんやかた)」と記されている。この記載は宝暦年間の白子地方の様子を適確に記している。白子は典型的な郷町で、現在でも当時の様子を窺わせる街道が残っているが、海に近い箇所に存在する参宮街道に沿って街村集落が形成されていた。東側の港に直結する場所であり、西側の農村的地域と区分された町方を形成していた。白子は東海道からも近く、伊勢地方に向かう街道を考えれば交通の要であり、京にも江戸へも商業・文化的な距離は非常に短かったように思える。

もう一つ付記する必要があるのが伊勢神宮と民衆との関連である。寛永15年(1638)夏から約半年、伊勢まいりした民衆は夥しい数にのぼっている。また、関東中心に発生した慶安3(1650)の伊勢への参詣は「抜参り(ぬけまいり)」と称されるが、箱根関所を通過した伊勢へ向かう民衆の数は3月中旬から5月までの間に、1日2500人から2600人に及んだことが『寛明日記』に記されている。また、「おかげまいり」といわれる宝永2年(1705)の4月9日から5月29日までの参宮者は362万人であったことも伝えられている。この「おかげまいり」は、明和8年(1771)、文政13年(1830)にも流行しているが、この「おかげまいり」の背景には、伊勢神宮に関わる御師(おんし)の存在が深く関与している。

立山・白山の御師(おし)が農村を訪ねて「立山曼荼羅」の絵解きをおこなったり、熊野比丘尼が「熊野観心十界図」といった地獄・極楽の絵を携えて各地を訪ねたように、伊勢の御師もまた諸国を巡っている。参詣者と伊勢神宮の間にある御師は、権禰宜(ごんのねぎ)と呼ばれる中下級の神官出身で、参詣の止宿の便、私祈祷を代行していた。室町時代に入ると、伊勢講が各地で結成され、その代表として参詣した講員に御師は巻数、御祓、伊勢白粉、櫛などの土産を渡していたことは一般的によく知られているが、それだけではない。将軍、大名を始め貧民に至るまで、身分格式に応じて全国の人々が伊勢の決まった御師の世話になるという、いわば檀家のようなしくみが存在していたのである。しかも、御師あるいはその代行者は、たとえば農民に対しては神宮暦を携えて、より効果的な稲作を可能とするような農業に必要な情報を伝えるといった伝達者としての活動も、伊勢地方の広報宣伝者としての活動も日々行っていたのである。従って伊勢の御師は、各々の民衆から感謝される存在であり、「おかげまいり」とは神宮にではなく、御師にであるとする考え方もあるくらいである。

このように伊勢商人、御師の存在によって、伊勢白子地方は商業的にも文化的にも栄えていたとともに、全国への行商もまた他の地域とは異なって比較的容易に展開できる土壌があったのである。そして、寛永12年(1635)、新しく武家諸法度が定められたことも大きな要因であるが、さらに天和3年(1683)に奢侈禁止令が出され、贅沢が禁止される方向のなかで、一色で染められる清楚な型染による小紋の流行に拍車が掛ることになる。これを大きな契機として基盤を堅固としつつ発展し、宝暦年間(1751−64)には互いの利益を尊重するための組織的な団結が一応完了し、文化・文政(1804−1830)の頃には、町衆の間にも上方には存在しない江戸独特の文化の醸成に、伊勢型紙もその一翼を担うことにまで発展している。

紺屋には大量に、しかも貴重な資料も遺されていただろうが、江戸の度重なる大火で焼失し、第2次大戦の戦禍によって東京にたくさんあったといわれる優れた型紙や古文書も全て灰となって消えてしまっている。伊勢白子・寺家両村においてどのように型紙を彫ることが始まり、今日に至ったか、明確になるだけの資料はもう発見されることがないのかも知れない。江戸との関連を明らかにすることなど、伊勢型紙に関する謎は数多く、これらの解明も難しいようである。

今回の「伊勢型紙展」には元禄5年(1692)、同7年、同8年の年記が入った型紙が出品されている。技法としては発展途上という雰囲気を感じが、素朴で独特の伸びやかさを持ちあわせている。

また、群馬県前橋市の大黒屋という紺屋で発見された19世紀初期のものと判断されている漆黒の型紙が29点出品されている。これは摺漆が施されたとのことであるが、重要無形文化財江戸小紋保持者の小宮康孝氏によると「型に漆を施すと、型付時に扱いにくくて困る。しかるに漆を施しているからには何らかの理由があるはずで、それは型地紙の渋がまだよく枯れていないものを使用しており、それで型を安定させるために摺漆をしたのではなかろうか」(杉原信彦『日本の型染そして江戸の型紙』)と、注文が殺到して制作が追いつかないような状況を推測している。この大黒屋の型紙は、伊勢を出て江戸に移住した型彫師が、染匠と同じ地域に住むことによって、より一層洗練された技術を獲得した事実を窺わせる型紙である。小刀一本によって彫るという、突彫の技法によって彫刻されている。小宮康孝氏から「伊勢から小刀一本しか持ってこれなかったからだよ」と、冗談とも取れるような言葉を聞いた。高度な技術を駆使していることもあるが、定規を使わずに直線を彫ったことによって生じた微妙なズレが直線の多い構成を和らげ、気品さえも感じさせる雰囲気に満ちた型紙である。現存するするものでは最も優れた型紙と思われる。

これらは名もない一介の型彫職人の手によって彫られた型紙に過ぎないが、現代では失ってしまって後戻りできない手仕事の極致を感じさせ、さらに成熟された文化が背景にあるような重みが伝わってくる。封建的なイメージを完全に一掃することは困難であるとしても、江戸時代は近代以降にはない豊穣な文化があったことを、伊勢型紙展に閑した調査を実施していて実感した。

3月20日の新聞紙上に、国の文化財保護審議会が文部大臣に答申された記事が掲載されていたので、1991年(平成3)に発足した伊勢型紙技術保存会が、今年4月、国の重要無形文化財保持団体(工芸技術)に指定されることは確実であろう。この保存会の今後の課題は多くしかも険しいことだろう。江戸の粋な世界を蘇らせることができるのか、保存会の活躍に期待したい。

(三重県立美術館普及課長)

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