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飯田善國を囲んで

飯田善國   小倉忠夫  陰里鐵郎   加藤貞雄

陰里 今回、「つながれた形の間に──飯田善國展」という展覧会を三館で開くことになって、今日はお集まりいただいたわけです。飯田善國というと、彫刻家、あるいは詩人といったようなことでも知られているわけですけれども、その飯田さんの彫刻家としてのこれまでの仕事の全貌を展示するという形で、今回の展覧会は構成されます。最近の仕事は、「つながれた形の間に」という、この展覧会の副題に示されているような仕事になってきているわけで、それまでの展開というか、軌跡というか、そういうものを追いながら話を進めていきたいと思います。そこでまず、飯田さんが彫刻家になっていく過程、我々は飯田さんがはじめに画家であったということを、知っているわけですから、そのあたりからお聞きしましょうか。

 飯田さんが最初にローマにいらした、そのへんの事情を、ちょっとうかがいたいんですが……。
飯田 1956年というと、昭和31年でしょ、あのころはパリに行くのが普通だったので、ぽくがヨーロッパに行くと言うと、たいていの人に、パリですねって言われたんですね。で、実はローマかフィレンツェに行きたいって言うと、「えっ、なぜですか」って聞かれたものです。ぼくには、ぽくなりのはっきりした理由があったんですけれどね。

日本へ聞こえてくるパリの事情というのは、日本の画壇の縮図みたいに、アーティストが互にいがみあっているというような噂でした。そういうのは、ぽく、いやだから、あまり人のいないローマに行きたい。もう一つは、大学でルネッサンスを少し勉強しましたので、ローマやフィレンツェに憧れがあったんですね。
小倉 私費ですか、それともなにか別の形式ですか?
飯田 私費留学です。当時は為替管理がありましたから。
陰里 私費留学でも、あのころ試験があったんですか。
飯田 いや、ないです。試験はありませんけれど、ただ、全額招待っていう、証明書がいるんですね。ローマに行ったもう一つは、野上素一さんから紹介されてある神父を知ってましたので、カソリック系の招待状を書いてもらったわけです。実際には全額は出ないんですけれど。
陰里 彫刻に興味をもちはじめて、彫刻の方に向かっていくというのは、どういう動機から?お書きになったものの中に、ヴォルスの作品を見たこととか、いろいろ出てきますが……。
飯田 ヴォルスの作品を見たとかムアを見たとかは、あとのことで、最初にローマに行く直前の時代は、グットーゾ、それからベルナール・ビュッフェ、ミノーとかが好きでした。当時、ぽくは、粕三平・河原温・池田龍男・石井茂雄らと制作者懇談会という研究会をやっていました。そのときは、ニュー・リアリズムとか、新しい主体的なリアリズムを確立しよう、なんていうスローガンで毎月1回研究発表会がひらかれていて、頭の中はリアリズムの間題でいっぱいだったんです。グットーゾに会えるんじゃないか、ということもありましたね、ぼくがローマに行ったのは。要するに、リアリズムを作りたい……ローマに行ったときは、画家一筋の気持ちで行ったわけです。

だけど、あそこの、ボルゲーゼ美術館とかエトルスク美術館とか、いろいろな美術館に行きますと、ナポリの美術館に行ってもそうですが、古代の彫刻とか、ギリシャ・ローマの真作・模造を含めていっぱいありますでしょ。そういうのを見たときに、ミケランジェロ作の「モーゼ」や「奴隷」などの、ああいう、石膏の模造が芸大に陳列されていましたが、ああいう模作とは全然ちがうっていうことがわかったんですね。一目で彫刻というものに魅入られた。絵画よりもおもしろい、と思った。たとえばカノーヴァなんかの作品がボルゲーゼにたくさんありますね、「プシケ」とかナポレオンの妹の有名な横臥像とか、……バロック、ロココ……のすばらしいものが沢山あって、看守がいないときに、おっぱいとかお尻とかにそっと触ったりしました。絵画っていうのは触れないわけですよね。ところが彫刻は触れるでしょ。こんなにわかりやすいものはないし、こういうものなら自分で作ってみたいと思うようになったんです、単純にね。

で、たまたま、小野田ハルノ嬢が芸大の同期生で、ファッツィーニの内弟子でしたから、彼女の手引きでファッツィーニのアトリエに遊びに行っているうちに、ファッツィーニの私塾みたいなチルコロ・インターナツィオナーレの研究所へ行くようになって、塑像を始めた。それが最初のきっかけですね。
小倉 そのころですか、お書きになったものにありますが、土方定一さんに、こんなのをやったんじゃだめだと言われたというのは(笑)。
飯田 それがおもしろいんです。1カ月半ぐらいして、30糎ほどの大きさの女の坐像を作ったんですよ、他の生徒はみんなイタリア彫刻の、マスケリーニ風だったり、グレコ風だったりマンズー風だったり、ぼくだけが、ちょっとシュールがかった、ヘンリー・ムア的なフォルムで作ってたから、ファッツィーニがぼくのそばに来て、いつも不思議そうに見ているけど、はじめはなにも言わないんですね。出来上がりかけるころ、初めて「とても面白いね」と言ってくれました。仕上げて、記念にそれをブロンズにしたわけです。それからしばらくして、土方さんがギリシャからローマに来て、だれかの紹介でぼくが市内を案内することになったんです。そしたら、きみ、なにしてるのって言うから、彫刻つくってますって言ったら、見せろって言う。で、翌日、彼のホテルにもっていったんです、小さいから風呂敷につつんで。土方さんはベッドのそばのテーブルにのせてしばらく見ていたんですけど、なんて言ったと思う?「こんなもの作ってちゃだめだあ!」って、怒鳴るんです。ショックでしたね、自信がありましたから。それで、ぽくはまた2、3年、彫刻やめちゃったんですよ(笑)。
小倉  だめだという理由とか、それ以外のなにか説明とか……。
飯田 一切ないです(笑)。自分では、イタリアでかなりいいものを作ってると思ってたんですよね。それが土方流儀だと全然だめだっていう……なぜだろうなんて考えこんでるうちに、2、3年たっちゃった(笑)。

土方さんに怒鳴られたあと、すぐウィーンに行ったわけですけど、ウィーンに行って、その翌年、58年にヴェネツイアのビェンナーレ特別展でヴォルスを見て、今度は全く別の大きなショックを受けて、絵が描けなくなった。彫刻もできない、絵も描けない。仕方がない、版画の学校へ行って、エッチングの勉強をして……。
小倉 ヴォルスの衝撃っていうのをもう少し……。
飯田 ヴォルス体験は何かということを簡単に言いますと、リアリズムっていうのはヨーロッパの数千年の伝統でしょ、そのリアリズムを追求する意味っていうのを、ぽくは見失っちやった。新しいリアリズムを成立させうる理論と直観の両方の根底が破壊されたのが実感でわかった。リアリズムをやってももう意味がないと思った。ヨーロッパの絵画史がそこでゼロになっているというふうに直感しましたから。そして、戦後の意識といったらこれこそが正真正銘それだと思ったんです。で、彫刻も土方さんにガンとやられ、リアリズムもだめ、ということで、遊んでいるわけにもいかないから、版画学校に行って、版画の技術を勉強して、ひまつぶしに版画をやっていたんですね。

57年がファッツィーニ、58年にヴォルスを見て、60年にミュンヘンでヘンリー・ムアの大回顧展があって、「これなら、この道なら行けそうだ」って、また思い直したわけです。
陰里 「これが俺のやることだ」って、お感じになった?
飯田 ええ、そう思いました。それはなぜかというと、ファッツィーニのところで、ファッツィーニ風じゃなくてムア風の作品をつくっていたでしょ。なぜ見ないのにつくったかっていうと、出発する前に、当時よく売れていた『美術批評』誌でムアが論じられていたし、朝日新聞で宇佐見英治氏が、ムア論を書いていたし、そういう断片的な、写真とか批評のイメージで、ムアに惹かれていたんですね。だから、ローマに行ったときに、イタリア風の彫刻をつくらないでムア風のをつくった。漠然とした予感で、ムアをほんとにはわかってないんですけど好きだと思ってて、今度は本物を見たわけでしょ、60年に。それでムアをほんとにわかったんですよ。ああ、これこそ、自分が目ざしている彫刻だって。

そこで第2の開眼っていいますか、ムアからインスピレーションをうけて、これは私の著書『見えない彫刻』にもそのときの経緯を書いていますけれども、1カ月か2カ月してウィーンにもどったでしょ、そしたら、ある日、パッと啓示をうけて、数千年のヨーロッパの彫刻史の秘密がぜんぶわかったのです。ほんとうに、神がかり的ですけれどね。彫刻の構造が、内側から垂れ幕を開けるようにして、全部わかったんです。それで、みなさんにこの前お見せしたような彫刻のエスキース、「制作覚え書き」といったものを猛烈にかきはじめたんです。彫刻をつくる前に。
陰里 そのエスキースが、今回、相当数、展示されますね。
加藤 あのデッサンは、かなり小さいものだけれど、ふつうのドローイングという感覚ではなくて、しかも絵の下図という意味でもなくて、あくまで彫刻のためのエスキース……というか、そういう意識があなたの中にあったわけですか。
飯田 ええ、そうです。ぽくのデッサンは、つまり、もう三次元として描かれているんですよね。そのまますぐ彫刻になる絵でしょ。
陰里 ムアの影響が感じられるけれど、同時に、一つ一つがオブジェですよね。オブジェを描いているというような感じがしたんですけれども。
飯田 そうですね。アトリエがないから彫刻がつくれない。ほんとは、酸素ボンベとか、鉄とか、クレーンとか欲しかったりしても、そういうのがないわけです。だから、紙の上でオブジェをつくっていたんです。だから三次元として描いていたんです。不思議なことに、いつも、突然イメージが浮かんでくるんです、完成した三次元の形でね。
小倉  ヨーロッパ各地の彫刻シンポジウムに参加して、飯田さんはほとんど修業時代なしに、一挙に作家活動に入ってしまった。それで、ちゃんとコンクールで一番になったりしているわけだから、不思議ですけれど、すごいですね。
飯田 ふつう、最低5、6年の修業期間があるでしょ。それをすっとばしているんですね。ファッツィーニのところで4カ月くらいやっただけですから。それで1年に2つか3つ、シンポジウムやったわけですけれど、そういうときでも、大きなもの作ったことがなくて、いきなり彫って、ちゃんとした作品を作りましたからね。
小倉 それは現場で、たとえば鑿岩機を使うとか……。
飯田 鑿岩機ではなく、全部、手です、手彫りです。
小倉 そこでちょっと教わっただけでやるっていうことですか。
飯田 だれも教えてくれない。招待した側はぼくのことを、もう、一人前の彫刻家だと思ってますから。だけど、全部、見てればわかるんですね、どういうふうに彫れぼいいかというのが。もちろん、腱鞘炎になって手首に皮なんか巻いてましたけれど、気力っていうか、なんでもないと思いこんでたんでしょうね。盲蛇に怖じずっていうか、平気でつくってましたね。

ヨーロッパでシンポジウムに参加してなにがよかったかっていうと、中堅彫刻家の中にはいっていって、アーティストの共同体を体験したということ。つまり他流試合の経験ですね。彼らがどんな生き方をして何を考え、どんな風にして現物を作って行くか、そういったもろもろを共同生活をしながら覚えたことですね。だからコンプレックスがまったくないということですね。小さなものからいきなり大きなものへ行ったけど、そこには別に質的な差はなにもないということがわかったこと。それから直か彫りの魅力を知ったということ。塑像のときと違うということ、直か彫りの万がほんとうに面白いんだということを知ったでしょ。そのあとだと思うんですが、ヘンリー・ムアが直か彫りが大事だということを言ってるのを何かで読んで、なるほどと思った。そのあとウィーン市から美術奨励賞をもらい、アトリエをもらって……。信じられないほどラッキーな滑り出しをした訳です。

それで、直か彫りから始めようと、木彫に入っていったんです。そして直か彫りの魅力を充分に味わいましたよ、木彫から。そのときにぽくの中にあったイメージは、やっぱりムアと、不思議にも、もうひとつは円空だったんです。
陰里 ヨーロッパの彫刻家たちと一種の他流試合的な場の中にいて、コンプレックスというようなものもなしにこられた。そういう中で、やっぱりおれは日本人だったと思ったというようなことを、どこかに書いていらっしゃいましたね。
飯田 「ヨーロッパ彫刻家のシンポジオン」にカール・プラントルから招かれ、サンクト・マルガレーテンという、ウィーンから60キロぐらい南の石切場へ行ったときに、どういうモティーフでつくろうかと思って、浮かんだのが、漢字の「子」のイメージなんですね。すぐデッサンして、子どもの「子」を彫ったんですよ。で、自然に、「子ども」という字を彫刻にしようというアイデアが浮かんだということが、日本人の証明でしょうね。それで、自分は、ヨーロッパ人と互角に彫刻をやってるけど、本質的に日本人だな、東洋人だな、と自然に思ったんですね。今度の展覧会にも出しますけれど、漢字からとったそういうイメージの連作のデッサンを描いています。それだけでやろうと思ったくらいなんですよ。
加藤 はじめの作品、「鳥人」にしても、「子ども」にしても、人体、人間が飯田さんの制作の根底にあって、木をつかっても石をつかっても有機的なフォルムが、その時代の特徴のような気がします。それから次に、まったく幾何学的というか、無機的な世界に行かれますね。その間で、なにか大きな体験というか、転換の原因になったのは……。
飯田 その前に、なぜ〈HITO〉シリーズをつくったかということを説明しなくちゃいけないんですけれど、人というイメージは、やっぱりムアからきてるんですね。ムアの彫刻はリクライニング像にしても、立ってる像にしても、ほとんどが人間ですよね。ぼくはその人間のイメージに感動したんです、ムアを見たときに。つまり人間をつくってるんだけど、ロダンとまったくちがう、デスピオともちがう、プールデルともちがう。なぜだろうと思っていろいろ研究してみたら、リアリズムじゃないわけですね。彼の中のビジョンを通して、なにか現実の人間とはちがう、遠い、別な人間のイメージに変換されてるでしょ。それに感動したんですね。

ぼくは戦争に行くときに、餞別におふくろから20円、お金をもらったんです。たいていの連中は連絡船にのる前女郎屋へ行ったみたいですけど、そういうの、ぽくはその頃きらいだったから行かなかった。本屋街歩いてたらね、偶然『ブールデル彫刻集』つていうのが目に入った。昭和19年の12月ですよ。紙も配給になったその当時としては珍しい豪華版で、それが18円だったか20円だったか……。正確なことは忘れましたが、とに角ぼくはそれを買って、行李に入れて中国戦線へもっていったんですよ。結局、終戦のときに焼かれちゃってね、残っていませんけれど。そういうときから、なにか彫刻に惹かれるものはあったと思うんですけれども、だけど復員してから数年たって、ある日ブールデルとかロダンの作品写真を見ても、全然感動できないという事実を経験したとき、もう一度心から驚きました。そのとき、自分が変わったということがはっきりわかりました。

それから半年ぐらいたって、ムアの作品写真などを見て、これが自分の求めている彫刻だと思った記憶があるんですね。ロダン、ブールデルのイメージがこわれちゃって、そしてムアに行くわけです。テーマが人間ということではつながっているわけですね。プールデルがつくったのも人間、ロダンがつくったのも人間でしょ。ぼくも人間がすごく好きで、興味があるから。ただ、ロダン風では現代の意識はもう表現できないと思った。で、どうしていいかわからない。そのときに、ムアが人間の作り方を教えてくれた。
小倉 近代を卒業して現代に、そこで、ぽんと入ったということですね。
飯田 そうですね。つまり、20世紀の人間は、ロダンのイメージじゃ表わせないというふうに直観した訳ですね。そうすると、鳥人みたいな、ああいうイメージになって出てきたわけです。
小倉 さっき、「子」という字から作った彫刻があるとおっしゃいましたが、それはとても面白いですね。漢字というのは、いろいろあるけれども、象形文字が多いですね。もともと東洋の漢字というのは絵からきているわけですね。絵を一番ギリギリに抽象化したものが字になっている。だから、漢字というのは、東洋の独特の抽象芸術という性格を、そもそも持っているわけですね。そこが確かにアルファベット文明の西洋にはない。
飯田 ぼくは「子」っていう字を見ていて、完璧な形だと思ったんですね。これは彫刻になると思った。その下地は、浪人時代か中学5年ぐらいのときに、林語堂の『支那のユーモア』っていうのを読んだんですが、その中の「中国の建築は書を基礎にしている」という言葉が、あたまにあったんですよ。書というものがわかれば中国の建築はわかるというのを、あたまに叩きこまれた。その記憶がよみがえって来たのですね。

だから、いきなりシンポジウムでなにか作らなくちゃならなくなったとき、他の連中の作品を見てて、自分の方が面白いと思ったですね。「子」っていうのが、ちゃんと子どもの形にみえて、しかも形としてすごくおもしろいんですね。だから、自分が漢字文化の人間だな、東洋人だな、という事を発見した。それがぽくの自信になりました。
加藤 「鳥人」とか、いまの「ダス・キント」とか、フォルムの上で言うと有機的な時代というのが、64年、65年までつづいて……。
飯田ベルリンの67年までつづきますね。不思議なことに、こういう木彫をつくっていながら、「コスモス」を平行してつくっているんです。
加藤 ダブるわけですか。片っぽうでひじょうに有機的な、片っぽうで新しく、無機的というか理知的というか……。
飯田 ぼくは木彫が大好きで、ぼくの理想っていうのは、円空になりたいというのがどこかにあったんですね。ぼくは坊さんじゃないから遊行僧にはなれないけど、理想としては、ああいう清貧ていうのか、身に一物もつけず、木仏を彫りながら遊行するというのがひそかな理想だったんですね。だから、ウィーンでもベルリンでも、床に坐って、ひざの間に木をはさんで彫ってました。そうするとやっぱり、円空のイメージとかバルラッハのイメージとか、そういうのがあって、一生、木彫家で終わりたいという気持がどこかにありました。

ところがあるとき、ふっと、ノミのあとを見ていて、その個人的な痕跡がなにかイヤになったんですね。突然、個人性を消したいという意識がおこった。消したいと思ったきっかけは、1964年、西ベルリンの「アメリカ現代美術展」でリヒテンシュタインを見たことに原因があったと思います。
小倉 と同時に、木彫という素材にも……。
飯田 ええ、木彫にも、やっぱり限界を感じたんですね。これだけでは自分はやっぱりまだ……もっと広い世界に出たい、と。
陰里 そういうことと関連があるのかどうかわからないけれども、もうひとつ、ベルリンにいたということ、そこで、当時の冷戦状態のベルリンというものの、政治のもつ酷薄さみたいな、そういう情況についてはどうなんですかね。
飯田 そうですね、ぼくがウィーンにいたときにベルリンの壁ができて。それは1961年だったと思いますが、西ベルリンからウィーンヘ帰ってきたアーティストたちから、東西ベルリンの壁で、どんな悲惨な情況がおこっているかを聞かされた。ところが政治の酷薄さっていうのは、想像はしてたんですけれども、実際に63年に西ベルリンヘ行ったときには、まだ東西の緊張は猛烈なもので、そういう中に生きていると、やっぱりいやおうなしに政治の現実を正視せざるを得なくなりますし、正視した結果は、すこしづつ政治からのがれたいという気持がつよくなって行き、とどのつまり、非政治的人間になろうというような心情になってゆきます。そういうのと個人性を消したいという感覚は、どこかでつながるんじゃないでしょうか。リヒテンシュタインなんか見たとき、ああ、こういう表層だけでなんにもないものが、一番いいなっていう、奇妙な空無の気分を初めてそのころ知ったんですよ。ウォーホルが、かつて、「人間はすべてコカ・コーラの瓶のように同じならすばらしい」って言いましたよね。それもかなり、ぼくにとっては政治的諧謔にきこえました。
小倉 飯田さんがベルリンで、個人的な痕跡を消したいと思ったその時期と、パリで菅井汲さんが同様に新しい抽象絵画の様式に転じたのと、並行しているのはおもしろいですね。
加藤 「コスモス」の時期は、案外、重要な時期だったんじゃないかと思いますね、短いけれど。年代にしてみたら、64、5年から67年頃になるでしょ?
飯田 そうです、65年から67年頃までの2年間ですね。
加藤 プライマリー・ストラクチャーというか、レリーフというか、表面的な視覚にウェイトがある作品というか、中原佑介さんの分類によれば「彩色彫刻の時代」。レリーフ上の中央に窓があって、その窓の中に、いろいろな色彩の重なりがある。これと紐との関係について、ちょっと御説明いただきたい。
飯田 意識的な関係というものはこの2つのものの間にはないんですね。ぽくは子供のときから、宇宙とか神とかいうことが気になっていた。「コスモス」っていう、あれはちょうど正方形でしょ。それで、まん中に、こう……窓のようなものがあって、それは全体として宇宙のかたちだという意識がどこかにあります。
小倉 曼陀羅に通じる造形で……。
飯田 曼陀羅ということは、ほとんど意識はしませんでしたけれどね。
小倉 アルパースなんか、ちょっと連想させますね。
飯田 ああいう形やなんかには、アルバースとかステラの影響は、ちょっとあると思うんですね。彼らはカンバスでしょ。ぽくは彼らの真似したくなくて、純粋に空間の問題だけを考えていく。三次元の問題ですね、奥行とかひろがりとかの問題を純粋な空間の事実として扱ってみたらどうなるかということ。だけどこういう問題をつきつめて行くためには、表面性にこだわるのが一番問題の立て方として純粋ではないかという風に考えたのではないかと思うんです。個人的な痕跡を消したいという意識は、裏返すと、空間の問題を個人的な意識をこえて扱いたいということになるのではないでしょうか。
小倉 完全な違いは、ポップアートとかは、通俗的なものを借りて個人性を消しましたね。あなたの場合は、通俗的なものをなにも借りてないで、宇宙とか神に結びついちゃった。
飯田 それは、宇宙論に興味があって、時間論とか空間論とかいうことを、小学生のときから考えていたから、そういう思索的というか哲学的な志向というか、そういうものと形の問題がどこかで結びついたんだと思いますね。
小倉 ドイツ観念論なんかは、若い頃から親しんでいたんですか。
飯田 ぼくはドイツ観念論はそんなに勉強したわけじゃないですけれども、クライストだとか、ゲーテ、テオドル・シュトルムとか……、いわゆるドイツ的なものの影響はどこかにあったでしょうね。
陰里 ぽくは「コスモス」を見ていると、アルバースとかステラとか、そういうものの影響があるかもしらんと思うけれども、やっぱり曼陀羅を思い出しますね。

そろそろ、今回のライト・モチーフである「つながれた形」へと発展していく、紐が媒介する世界、ここらへんのところへ話を移しましょうか。
小倉 68年からミラー・モビールが始まり、73、4年からステンレスと紐が、まあ鉛もありますけれども、紐の登場ですね。金属というものと、ナイロン・ストリングですか、しかも色のついたものが組み合わされますね。その組み合わせっていうのは、他のどの作家にも見られない、初めて我々が体験した衝撃だったわけですね。
飯田 ええ、世界的にもないようですね。
小倉 どういうふうにしてそういうものが出てき、カラー・ストリングにどういう意味があるのか……
加藤 ぽくもうかがいたい。「コスモス」のプライマリー・ストラクチャーに使った色と、そのあとの紐とのかかわりについて。
飯田 「コスモス」のときの色と、紐の色と、直接は関係ないんですね。ただ、「コスモス」の場合、箱を色で塗ったのは、自分が画家で色彩に興味があったということと、個人性の痕跡を消すためには表面をペンキという媒体でおおってしまうのが一番よいと思ったのですね。それで色を塗った。画家的な要素はあったと思います。紐の場合の色は、そういう、画家ということと関係ないですね。

72年に、西脇順三郎さんの英詩に絵つけをしようということで、『クロマトポイエマ』をやりました。英詩ですから、アルファベットが26文字あるでしょ。で、半年ぐらい考えてて、九十九里浜で泳いでいるときに、空をみながら、ふっと、26文字を色に直してみたら面白いのではないかと思いついたんです。それがきっかけなんです。それで、まず母音の色を決めましてね。母音の色というのは、不思議に自然に色がうかんできました。子音の色というのは、ある意味ではいきあたりばったりというか、そのときの気分で決めたんです。だから、今でも、子音の色はときどき変わることがあります。そういうふうにして、母音と子音の頻度数を図形として表示する方法をとったり、それから音と音のつながりを地下鉄の路線図のようにつなげていくとか、そういうふうにして、ちょっと風変わりな、詩と絵の結合状態をつくったわけですね。

そのときに、これを、大岡信さんとかいろんな人が、ひじょうに面白いって言ってくれたし、世間的には成功したんですね、あれはよく売れましたし。それはひとりよがりじゃなくて、何か深い普遍性があるんじやないかなって思ったものですから、じゃあそれを三次元にするにはどうしたらいいかなあって、また半年ぐらい考えたんです。紙の場合だったら、色の点なり、色の帯を紙のうえで結んで行けばいいわけですけれど、それを立体にするにはどうしたらいいかって考えた。それで、あ、色紐にすればいいんだ、と思いついたんですね。それで紐がでてきたわけです。

『クロマトポイエマ』の経験を生かして最初につくったのが、「MAR−ILYN MONROE」っていう彫刻なんですね。たしか1972年の宇部市の現代日本彫刻展に招待されて、前々からマリリン・モンローがひじょうに好きだったので……。マリリン・モンローということばを、そのまま色の紐にして、ただ並べる。そうすると、知らない人は、これなんだろうと思うでしょ。それは、マリリン・モンローっていうのを、ただ色に変えてあらわしただけなんです。それから出発したんですね。

そのつぎに「WOMAN」「MAN」というのを作るんです。ウーマンとマンの違いっていうのは、MANの部分は同じでしょ、WOMANの場合はWOの2字だけ多いんですね。ぼくの結論はね、WOっていうのは子宮だと思ったんですね。女にあって男にないものは子宮でしょ。WOってのは子宮に見えるじゃないですか(笑)。そういうふうに考えると、とても面白いんです、ぽくの幻想は。果てしなく増殖して行くわけです。

そのつぎにやったのが、76年、南画廊で「CYLINDER」。円筒ですね。それから六面体(ヘクサヘドロン)、それから円盤(ディスク)という風にすすみます。あれでみんながひじょうに認めてくれて、そのとき考えたのは、六面体をまずステンレスでつくる。それから全く同じ形の六面体をこんどは鉛でつくる。そのときに意識の中にはマテリアルの対比という問題があります。そうすると、六面体っていうのは形相(けいそう)ですから、鉛でつくろうとステンレスでつくろうと、六面体っていう形相は同じですね。その同じものっていうのはヘクサヘドロン、六面体は英語でHEXAHEDRON、10文字ですね。HEXAHEDRONという言葉でかたく結ばれる。マテリアルはどうかっていうと、鉛っていうのはレッドLEADですね。LEADとSTAINLESS・STEELの2語の間の共通するスペリングをさがすと、LとEとAの3文字であることがわかりますね。そこで、2個の六面体のそれぞれを構成しているマテリアルである鉛とステンレススティールの間の共通音韻はL・E・Aの3つですから、L・E・Aを表わす色紐で結ぶわけです。単純な方法なんですが、ちゃんと筋が通っていますね。誰にも説明はしないけれども、なんとなく納得できるでしょ。
加藤 納得できるのは飯田さんだけであってね(笑)、いや、そこがおもしろいと思うんですよ。いまうかがってみたら、なるほど飯田さんの中では解決できる話だけれども、見せられた方が迷う。
陰里 飯田式文法なんだね、これは(笑)。
飯田 ぼくはまず自分を説得しなくちゃならないでしょ。デタラメじゃいけないわけ。で、ぽく自身はぽく自身に説得されちゃったわけです。しかし、他の人に説明する必要はないから、ただ出すと、なんかおかしいけどなんとなく作品になっているっていうわけでしょうね。
小倉 飯田式言語学的彫刻ということになりますね(笑)。
陰里 クロマトポイエマは、そのものが、従来の詩画集じゃないわけですよね。つまり、従来の詩画集というと、詩があって、だれかの絵があって、という形の詩画集なんですけれど。
飯田 さし絵として「絵」がついていて、一方に言葉として「詩」がついている、そういうものですね。ぽくの考えは、その逆をやりたかった。絵と詩をまったく同格にして結合するにはどうしたらいいか、ということを考えぬいて、ことばを色に置き換えるという方法に到達した訳ですね。
陰里 これは一種の知的な構成というか、知的な遊戯というか、そういう一面をもっているということですね。
飯田 一見、遊戯にみえるんですがね、裏返すと、やっぱり一つの認識論ですね。南画廊で1974年にはじめてやった色紐彫刻の個展のカタログ序文を堀内正和さんが書いてくれていますが、その序文の中で堀内さんは、彼一流のカイギャク的レトリックでこう言っています。「イイダはじつに厄介なものを発明してくれたもんだ。困った。困った」と。掘内さんはかなり正確に言語を媒介にした認識論になるだろうということを見透しておられた。そして、その反面、これがゲームというか、遊戯性をもっているということも見抜いています。ですけれども、ぼくの動機の中に、もう一つ、奥の動機があって、それはこういうことなんですね。

つまり、あるときぼくは、犬というのはどんなふうに世界を見るのか、と思って、1年ぐらい考えた。犬はことばを知らないわけですから、野原に木が立っていても、ここに木があるなっていうふうに思わないわけですね。木っていうことばを知らないわけだから、木があるなあ、あの木をよけていかなくちゃ、とか、そういうふうに思わないわけでしょ。どういうふうに思うかっていうと、犬には野原のイメージしかないんですね。ようするにことばじゃなくて、イメージですべてが見えるわけでしょう。ところが我々は、たとえば、ここは1本道だなあ、木が立ってる、大きな木だなあ、なんの木だろう、そういうふうにことばで自分に説明しながら歩いているんですね。犬っていうのはそれがない。この違いはなんだろうって、ずーっと考えていたんです。

人間というのはことばを発明したから、ものを見た瞬間にことばがうかぶ。ことばなしに認識行為というのは行なわれないわけでしょう。そうすると、ことばなしにものを見るということと、ことばを通してものを見るということと、全然ちがうという気がする。犬は、木そのものをイメージとして見ますから、木を木と思わないけれど、たぶん、ものというものを、奇怪な原形、つまり「もの」そのものと見ているんじゃないか。我々は木というと、ある既知の了解事項として見ちゃうんですね、概念で。それは、薄い、見えない膜を通して「もの」を見ていることになるのではないか。犬は何かの膜をとおして事物を見るということをしない。木という言葉を知らないから、逆に「事物」そのものを見ることになると思う。そうすると、犬の見る風景は名辞で分断されないですべてひとつの連続体として、境界がない世界として見えるはずですね。我々は「木」を見るとき、言葉を知っていて、かつ知識があるから、木の下部には根っこがあって、中間には幹があって、上方には枝があって、その先には葉がついている、という風に理性で構成しながら木を見ています。そういうことばという道具を、今、知らないとすれば、木と土とは、どこからが木でどこからが土かわからないから、土と木はぜんぶ連続して見えるのではないでしょうか。とすると、犬は生れながらの、本当のアニミストであり、かつ、シュールレアリストだということになりますね。
小倉 マグリットの絵なんかも、ものとか、存在とか、ことばとの関係を、徹底的に考えていますね。
飯田 「これはパイプである」と言葉でひっくり返しますね。犬っていうのはこれはパイプだって思わないですからね。マグリットの絵を犬に見せても、犬はすこしも感動しない。
陰里 今回の展覧会のタイトルになっている「つながれた形」という、つまり紐というのが「形をつなぐ」という、これは、別個に存在したものが、それは同じ形のものであれ、それぞれが存在している。これまでの飯田善國の作品というのは、ある意味では一つの作品として完結した単体だったわけですが……。
飯田 単体ですよね。存在それ自身が完結していますよね。
陰里 それが、もう一つのものがあって、それとの関連ということなんでしょう。関連の中で、一つの世界がまたできてくる。
飯田 いや、ことばというものに触れたことによって、単体がそこに独立して存在するっていうことがなくなっちやったんです。今度も、テーブルと壁、ウォールというのを、ことばに置き換えちゃうんですよ。TABLE とWALLに共通なのはLとAなんですね。ぽくにとってAは黒なんですね、Lはコバルト・ブルーに近い。そうすると、テーブルというのは、そこにあるけど、ぼくにとって、見えない糸で壁とつながっている。そういうふうにすべてのものが見えちゃうんですよ。
陰里 なるほどこれはやっぱり認識論だね。
飯田 実際に、そういうふうに、見えない糸でぜんぶつながって見えるんです、このごろは。そうすると、万物がつながっちゃうから、単体というのは存在しない。すべては見えない関係の網の目の中にある。
陰里 でも、もともと彫刻というのはそうでしょ。
飯田 本来はそうなんでしょうね。たとえばロダンが、人間の肉体を、面として捉えていますよね。彼は、彫刻の原理を学んだなんとかいう先生に、初期の作品を見せたとき、八方、ぜんぶ平べったく見えるって言われた。先生はこう言ったんでしたね。「ある面はこっちに突出し、ある面はそっちへひっこんでいる」。で、彼は直感的に彫刻がわかったんですね。ぽくもその意味がひじょうによくわかります。ロダンというと、すべて、突起とへこみの連続なんですね。で、万物というのは、つまり我々っていうのは、肉体をそういうふうにして一つの出っぱりとへこみの連続体として捉えることができるわけでしょ。リアリズムの彫刻はそういうふうにして、単体を完結した物体につくり上げますね。ぼくはそれも一つの真理だと思います。

ぼくの彫刻は、そういうのじゃなくて、たとえば六面体を考える。それは形相とマテ・潟Aルの2つに分離してみえる。形相とマテリアルに分裂するわけです。そうすると、また別の意味で、他のものとつながってしまう。どうしてかというと、2個の物体は、形相は同一ですから、形相を表示する言葉でつながり、他方、材質、つまり、マテリアルの側面で、それを表示する2語の間に共有されている発音表示語によってつながる。単純に言うと、26文字の表音文字の組合せが指示する存在というものがありますが、それは、世界の事物のすべてをふくみます。そうすると、あらゆる森羅万象がぜんぶ、26音の組み合わせで表現できてしまう、不思議なことですね。
加藤 それは、あなたの決めたルールでそれをやっているわけであって、見る方が一つ一つから受ける感情とか感動とかはまったく別問題だと思う。そういうことを前提にして言うなら、飯田さんはプライマリー・ストラクチャー的傾向の作品からステンレスのミラー・モビールを含めて、大きくわければ幾何学的抽象の傾向の作家の中に含まれるわけですね。その場合に、無機的で、冷たくて、クールで、計算ずくめであることが、強い要素みたいなところがあるわけだけれども、飯田さんの場合には、飯田善國というのはこういうタイプの作家だ、ときめつけにくい作家なんですね。
陰里 いま、ことばの問題が出たわけだけれども、これは、一方では詩人としての飯田善國というのがいて、ことばに集約される面があるわけですね。で、ことばと同時に、一方では、映像的なものを含んだ飯田善國のポエジーといったような世界というのを、我々に予感させるわけですね。そういう意味で、つまり、詩人としての飯田善國、それと彫刻家としての飯田善國、もう一つ俳優というのもあるかもしれないけれど、そしてすべてが飯田善國……。
飯田 言語世界のぽくというのがあって、形態の世界のぼくというのがもう一方にあります。
加藤 しかし彫刻家なんだから、我々が見るのは、詩を彫刻で読むわけじゃなくて、一つの、飯田善國という作家の造形精神というものが形になったのを、作品として見せてもらっているわけだから……。
陰里 それはおそらく飯田善國の詩的世界の、あるいは飯田善國のポエジーの世界とも、たぶん同義なんじゃないかという気がするけど、どうですか。
飯田 ええ、ある深さのところでは一つだと思います。ただ、ぽくは彫刻つくるときに、自分がやっぱり、形として、彫刻として興味をもったものをやっているわけで、形でポエジーをつくろうとか、そういう目的意識じゃないんですよ。たまたま72年のクロマトポイエマ〈CHROMATOPOIEMA〉以後、ことばの問題が入ってきて、それを色に変換するっていうことが入ってきたので、やや複雑に見えますけれどね。認識論の問題はたとえばHITOの連作の頃からありましたし、とも角、ぼくの彫刻にはいつもあるんですね。ただそれが、紐になってから、ことばとかかわった認識論になった。
加藤 あなたのたくさんの素描と、できあがった造形作品との関係についてうかがいたいのですけれど、詩をつくる、つまりことばを紡いでいくときには、いろいろ推敲を重ねると思うんですけれども、あなたの場合も、造形作品としてできあがる過程に、詩作と同じような推敲が繰り返されている、その痕跡が素描だというふうに思ってもいいでしょうかね。
飯田 いや、素描のときは、さっき言ったように、ほとんどが完成した三次元としてイメージで浮かぶんです。だけど、三次元の作品としてつくるとしたら、素描どおりにならないと思うんですね。ここはこうやっておきかえるとか、ここは省略しようというふうになるんです。ですから、そっくり同じにはならない。詩は最初の第一稿と第三稿とかなり違ってくるのと同じように、推敲とか省略とかカットとかいうことは素描→実作、あるいは、詩の第一稿→決定稿という関係でいえば、かなり似ていると思いますね。
加藤 そのへんが、このごろのインスタレーションと違うところなんですね。飯田善國はインスタレーションの元祖みたいなところがあるんだけれども。
小倉 抽象彫刻家っていう既成の概念の枠じゃはまらないっていうのは、よくわかる。20世紀の運動の中では、詩とか言語と、美術とが一緒になった一番大きな運動は、シュールレアリスムですね。飯田さんはシュールレアリスムそのものをどういうふうに……。
飯田 ひじょうに好きですね。
小倉 どういう作家が好きですか。
飯田 今、一番好きなのはマグリットとタンギーですね。それからコーネル。中学生のときにショックを受けたのは、ダリのたてがみの燃えるキリンとか、木の枝にダラリと垂れ下がった時計とかね。シュールの詩そのものはむずかしくて自分には書けないと思ったけれど。画家だった1950年代にもどこかで深くシュールの影響を受けた油絵を描いていましたし、最近でいえば、83年刊行の詩集『見知らぬ町で』の中の何篇かの詩には、シュール的、あるいは、メタ・シュールレアリスムのイメージがあると思う。その点を渋沢孝輔は「ここにはシュールレアリスム以後がある」とはっきり言っています。
小倉 存在論的な観点からみると、言語学的な認識論というのは、飯田さんの存在論的な関心をどのくらい満足させていますか。これでもう終わりなのか、一つのプロセスなのか。最初は漢字、それから今度はアルファベツト文化圏に移って、アルファベットの表音文字を、視覚的な原理に適用しているということがいえますね。それは飯田さんの芸術の大きな特徴で、他のだれもしていないと思いますけれども……そもそも存在論的な関心があっての話ですよね。
飯田 1980年にロンドンでやった個展にフイリップ・キングが序文を書いてくれて、その中で紐の新しさとゲーム性に言及しているんですが、いみじくもさっき、陰里さんも同じ様態に言及されましたよね。これは偶然ではなくて、色紐彫刻には一種のゲーム的なところはあるんですけれども、そのほかにもっとまじめな動機もあって、いちおうゲームを装っているけれども、もっと存在の根源に迫りたいという意識もあって、たぶん迫れないのかもしれないけれども、もしかしたら、さっき言ったような、ものに貼り付いている言語の膜を剥がして、ものそのものが見えるんじゃないかっていう、そういう願望はあるわけです。言ってみれば、そういう膜と事物の隙間に入りこんでいきたいというのが、ぽくのほんとの動機なんで、数年前の個展のとき、「キャニオン〈CANYON〉」と個展のタイトルをつけたのは、ことばと事物の谷間みたいなところにすべりこみたいという、まあ、比喩なんですね。だから、究極の目的は、その存在の隙間に入っていって、事物の真実の、はだかの姿を見たいというのがぼくの欲求ですけど、たぶん人間には、そういう事物のはだかは見えないんだと思う。ただ、想像の中でかいま見たいということがあるんですね。

だから、ぽくがロンドンで、80年に、自分の作品を初めて見せたときに、ロンドンの彫刻家たちにショックを与えました。フイリップ・キングが序文に書いていますけれども、「ほとんどこれは不遜な企てではないか」というようなことをキングが言っています。つまり、色紐を使うっていう発想は、ヨーロッパにはないんですってね。そこがやっぱり、東洋的か日本的なんじゃないか、我々だったらこういう発想は出てこないって、言っていました。そういう意味ではひじょうにユニークに見えたらしくて……。
小倉 日本には組紐とか飾り紐とかがある。
飯田 ヨーロッパだったらケルトまでもどらなかったら、紐って出てこないでしょう。日本ではアイヌがあるんですね。それから二見ヶ浦のあれとか、注連縄とか、日本の伝統の中に、縄文からきた紐のあれがありますね。
陰里 あれはまた、一面ではひじょうにサクレなものですよね、聖的な。
飯田 そのとおりです。ぼくはそういうのを意識しなかったんだけれども、結果的には、どこかで無意識に、古代の伝統に結びついているんじやないか、そういうことをヨーロッパ人に提示されて、ギョッとしたようなところがありますね。
小倉 神道との意識的な結びつきを質問されたことはありませんか。
飯田 ないですけれどね。ただ、縄文的だと言われたりね。
小倉 縄文は違う。
飯田 アイヌ的だと言った人もありすね。ヨーロッパ人だと、たとえばマックス・ビルなんかは、ケルト的なものに言及していましたね。それは、ぼくは意識してはいないんですけれども、結果だけ見ればそういうつながりがあるでしょうけれど、ロンドンで1980年にやったときはひじょうに反響が大きくて「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」に、写真入りの批評が出ました。その前の74年のニューヨークでやったときも、「ニューズウイーク」の74年の最終号に、世界の7人の中にとりあげられています。だから、かなり問題になったんですね。
加藤 今度の新作では又、木に帰っていられますね。今の木と、はじめに直か彫りでやっていらしたころの木と、素材に対して、飯田さんご自身の内部で、大きな変化があるんですか。改めて木に帰ったという、単純なことではないような気がする。
飯田 帰ったというのとは一寸違うんですね。あの頃の彫刻は、たとえば円空なんかをイメージしながら、ある意味で人間の原形のようなものを追い求めていたわけですけれども、一方で仏に対する幻想みたいなものがありました。まあ、一種の祈りだったと思いますが……。だから、さっき言ったように、遊行僧になりたいっていう気持ちが、どこかにあったんだろうと思います。実際、貧乏でしたし、ほんとに遊行僧に憧れていました。心の奥底で……。今度の作品の構想というのは、そうじゃなくて、鉛とかステンレスでやった六面体を、木におきかえてみようっていう、単純な動機をふくんでいますが、同時に木に置きかえると、形相は形相でも、形相の意味が違ってくるんじゃないか、そういう予感をふくんでいるということですね。木だと、鉛とか鉄のようなキチッとしたフォルムでなくて、ちょっと歪んでいたり、やっぱり同じ六面体でも違ってくると思います。
加藤 同じようにキチッとした形態の組み合わせであっても、やわらかさというか、あたたかさというか、もっというならヒューマンな感じが出てきていると思うんだけれども。
飯田 その通りですね。ですからやっぱり自分は日本人でしょ。木に対して本能的に親近感があるから、あるとき金属やって、また木にもどってみたいなっていう、漠然とした欲求はずっとあったんですね。基本はやはり、プライマリーな形で、木でやってみたい、ということで、人のイメージにもどるということじゃないわけですね。
陰里 さいごに、それぞれ、これまでの飯田観と、こんどの展覧会での飯田善國の世界、そういうものを含めて、なにかひとこと……。
小倉  そうですね、さきほどの話に、遊行僧になりたい、とおっしゃったけれど、一方で、吟遊詩人的なところもあるようですね。抽象的な鉄とカラー・ストリングの彫刻家になった飯田善國というのは、ようするに、ひじょうにユニークで、他にたとえようもないくらいのスケールと独自性をもった彫刻家である、と思います。ますます今後に興味をそそられます。
加藤 ぼくも同じようなことですね。つまり、分析してもしきれない、こういうタイプの作家ですよ、ということがきめつけられない作家。有機的な直か彫りでやってこられたと思ったら、突如、プライマリー・ストラクチャーに変わって、それからステンレスのモビールとか、ふつうの意味じゃない方の彫刻に変わられた。それから今度の新しい作品に流れてくるんだけれど、これ、ちょっと見た目にはまったく一貫性がないわけです。でも、作家の内部ではつじつまがあっている。おそらくこのあとも、また次のなにか変化があるのかもしれないけれども、しかしぼくは、飯田さんがもっと年とったあとを見たい。スタートが30いくつでしょ、彫刻家として。
飯田 35歳です。遅いですよ。
加藤 だから、同じ年代の作家からみれば10若いんだから。
飯田 10年遅れてるんです。10年ずれてる。だからぽくは今まだ50代、50ちょっとなんです(笑)。
陰里 澁澤龍彦さんかな、書いていたけれども、飯田善國っていうのはパリのジゴロみたいなやつじゃないかと思っていたら、意外とナイ・[ブで、素直で、戦中派だった、というようなことを書いていらしたけれども……(笑)。
加藤 しかし、どう展開するにしても、どうあがいてみても、ヨーロッパの体験も長いけれど、日本の“特産”という感じがしますね。ヨーロッパにこんな作家は出てきっこない。
小倉 それから、お書きになっているものの中に、「いわゆる一般彫刻作品は純粋な思考の産物である。他方、ミラー・モビールに代表されるモニュメント彫刻は、いわば特定の場所、空間に適応しなきゃいかん、そういう応用問題だ」とあります。今回の展覧会は、応用問題の方は特定の場所から運んでこられませんから、一般彫刻作品が並ぶわけですが、ここには飯田さんの純粋な思考の産物が見られる、といっていいわけですね。
陰里 ある日突然、世界がひらけるというか、見えてしまうというか、そこからいろんなものが出てきて、このあとあるかどうか、ということを、さっき伺ったんだけれども、ぼくは多分あるんじゃないか、という予感をもっています。今度の展覧会のあとの展開について、予感というのはありますか。
飯田 今のところ、ないです(笑)。紐をもっとつきつめていって向こう側へ出たいけれど、出られるかどうかわからない。つまり、膜と存在の隙間に入りたいけれども、入れないんじゃないか、という予感の方が強いですね。できたら入っていきたい。入ったらどうなるか、自分でわからないし、ちょっとこわいような、入りたくないような気がしますね。

(1987年11月16日 於:雅陶堂ギャラリー)

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