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ヒューマニズムの系譜−具象彫刻の10人

酒井哲朗

1.はじめに

ここにとりあげた10人の彫刻家は、第二次大戦で兵役に服した、いわゆる戦中派といわれる世代の彫刻家たちであり、戦後の日本の具象彫刻の中心になった人々である。彼らはいずれも官展と対立的な在野の立場をとった点でも共通している。ミケランジェロやロダンに貫流する西洋の芸術精神に共感して彫刻家を志したこれらの作家は、非人間的な価値観が支配した苛烈な時代をそれぞれのしかたで耐えて生きのびた。

戦時中制作の中断を強いられた彼らは、戦後、各人の世界体験や人間体験に基づいて制作を再開した。その中から、たとえば菊池一雄の《青年》(1948)や柳原義達の《犬の唄》(1950)、佐藤忠良の《群馬の人》(1952)などのような独自の日本の具象彫刻が生まれた。彼らのみならず、この10人の作家たちの制作の基調をなすのは、ある種の普遍的なヒューマニズムというべきものだといえよう。それらは、本郷新の《わだつみのこえ》(1950)のように反戦と平和をモニュメンタルな表現で強烈に主張した作例もあるが、おおむね静かに内向した人間像として造形される場合が多い。この展覧会は、これら10人の彫刻家の戦中、戦後のほぼ20年余の時期の作品に限定して構成されているが、それぞれの作風が確立されたこれらの時期の作品は、激動する時代の中で、普遍的なヒューマニズムを志向する濃厚な人間感情が現れているように思えるのである。


2.近代彫刻の成立

いささか迂遠であるかも知れないが、まず、この10人の彫刻家たちの歴史的位置を明らかにしておきたい。

日本に洋風彫刻が移入されたのは、1876年(明治9)に工部美術学校の開校にあたり彫刻科が設置されることになり、イタリアからラグーザが招かれたことによる。工部美術学校は明治政府の殖産興業政策の一環として設けられたもので、工部省が所管したという事実が示すように、美術を実用的技術と考える功利的思想の産物であった。

幕末から明治初期にかけての日本の彫刻界の状況は、仏像をつくる仏師、神社仏閣の建築装飾に従事する宮彫師(彫物大工)、人形をつくる雛師、愛玩用の小彫刻をつくる根付師、牙彫師、彫金師などがいて、彫刻は近代的な意味における芸術とはほど遠い、工芸的な末技の位置に甘んじていた。ラグーザが日本に来た頃は、1873年(明治6)のウィーン万国博覧会で日本の美術工芸が注目されて以来、輸出用の工芸的彫刻が活況を示し、象牙彫りの全盛期に向かおうとしていた。

工部美術学校では彫刻科だけは授業料を免除とし、次のように注意している。

「抑モ本邦ノ彫髏師卜称スルモノ 概ネ傭職ノ賎業ニ属シ 上流ノ人士ノ之ヲ
  学ビ 以テ身ヲ立テ名ヲ顕スノ技芸トナスモノナク 欧州ニ在テ貴重セラル
  ル彫刻学ノ如キモ 亦其世ニ裨益スルコトヲ了知スル者ナシ 是此法規ヲ特
  設シテ之ヲ奨励スル所以ナリ」とし、「彫刻学ハ石膏ヲ以テ各種ノ物形ヲ模造ス
  ル等ノ諸術ヲ教ユ」と学校規則に記している。

ラグーザが工部美術学校で教えたのは、西洋の本格的な写実彫刻であった。ラグーザとともに来日したカペレッティが、予科で幾何学、透視画法、装飾画法などの絵画や彫刻の基礎学を教え、彫刻科では東京大学医学部から講師を招いて芸術解剖学を学ばせ、ラグーザは粉本の写生、石膏の写生、さらに実物の写生を教え、次に油土による実物制作、塑像から石膏の型取り、大理石に移す方法などを教えた。ラグーザの写実は、徹底した再現的描写、つまり当時の人々のいう「物形模造」の彫刻であった。1882年(明治15)にラグーザ門下から大熊氏廣、藤田文蔵ら20人の卒業生を送り出したが、これをもって彫刻科は閉鎖され、ラグーザは帰国した。

1887年(明治20)に勅令によって東京美術学校設置が決まり、1889年(明治22)に開校した時は、絵画は日本画、彫刻は木彫だけという伝統美術に偏った編成であった。これは日本の近代美術は伝統に基づかなければならないというフェノロサや岡倉天心の考えを反映したものであった。東京美術学校に西洋画科が設置されたのは、黒田漕輝や久米桂一郎が初代教授に就任した1896年(明治29)であり、塑造科はさらに3年遅れて1899年(明治32)に長沼守敬を迎えて開講した。

長沼はイタリア公使館で通弁見習いとして働いていた頃、ラグーザの制作にふれていたが、1881年(明治14)に渡伊してヴェネチア王立美術学校で彫刻を学び、1887年(明治20)に帰国、当時の伝統美術偏重の風潮に対抗して、洋画家たちが大同団結して結成した明治美術会に彫刻家としてただひとり加わった。長治はイタリアでカノーヴァの流れを汲むアカデミックな彫刻を学んだ。長沼は1900年(明治33)に退官し、後任に工部美術学校でラグーザに学んだ藤田文蔵が就任した。こうしてはじまった東京美術学校の塑造科では、ラグーザ以来の「物形模造」の再現的リアリズムが主流となり、ここから朝倉文夫、建畠大夢、北村西望らが現れ、1907年(明治40)にできた文部省美術展覧会の中心となった。東京美術学校に彫刻科が置かれたことは、彫刻が芸術として認知されるために重要な意味をもった。天心は伝統的な木彫に精神性を求め、洋風彫刻は日本ではまだ銅像をつくる実用技術の域を出ないものと考えたようである。東京美術学校に塑造科が設けられ、文展に彫刻部門が設置されるなどして、洋風彫刻は芸術として認知され、制度化されてきたのであるが、彫刻を「銅像をつくる技術」とみなす俗見は、その後も大衆レベルでは容易になくならなかった。


3.ロダンと日本近代彫刻

日本の近代彫刻に大きな変革をもたらしたのは、ロダンである。荻原守衛はパリのサロンでロダンの《考える人》を見て魂を震撼させ、ロダンに直接師事した。1910年(明治43)に31歳で亡くなった荻原の実際の制作期間は6年ほどであったが、滞欧作や帰国後文展で発表した作品は、日本の彫刻界に大きな影響を与えた。荻原の作品は、従来の対象の再現的描写とはまったく異なった、流動的な量塊による生命感あふれる彫刻であった。

高村光太郎も1904年(明治37)に雑誌『スチュディオ』2月号に掲載されたロダンの《考える人》に感動して以来、ロダンに心酔した。1908年(明治41)にパリに赴いた高村は、ロダンに対する傾倒をますます深めるとともに、ロダンとヨーロッパ文化の伝統との深い結びつきを実感した。高村は荻原と同調して、内的リアリズムに基づく生命主義芸術を主張し、後続の日本の彫刻家たちのバイブルになった『ロダンの言葉』を翻訳し、荻原没後啓蒙的役割を果たした。

また、1910年(明治43)2月に『美術新報』はロダンを特集連載し、武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎、生馬、柳宗悦らが同人となって創刊した雑誌『白樺』は、同年11月号を「ロダン第七十回誕生記念特集号」とし、ロダンの代表作の図版を掲載し、年表、参考文献、書簡などを付し、ロダンに関する多くの論述を載せた。この特集号は、ロダン本人に送られ、翌年ロダンから《ゴロツキの首》《ロダン夫人像》《ある小さき影》の3点の小品が送られてきて、白樺美術展第4回展でこれらの作品が公開された。日本の公衆にはじめて紹介されたロダンの実作は大きな反響を呼んだ。

1910年代の日本におけるロダンは、『白樺』同人たちによって、単に偉大な彫刻家というだけではなく、ミケランジェロやルネッサンスの巨匠に匹敵する芸術家として、さらに普遍的な人類の文化の理想像として神格化された。

荻原は1879年(明治12)生まれ、高村は1883年(明治16)生まれ、これに対して朝倉文夫は1883年(明治16)、建畠大夢は1880年(明治13)生まれで、彼らは同じ世代に属する。長治、大熊、藤田らを洋風彫刻の第一世代だとすれば、朝倉や荻原は第二世代といえよう。彼らの世代において、日本の近代彫刻は、ふたつの大きな流れに分岐した。朝倉らの東京美術学校、官展に依拠したアカデミックな再現的写実主義に対して、荻原や高村らによってはじまったロダニズムである。画家から転身した中原悌二郎や戸張孤雁らがこれを継承し、藤川勇造は晩年のロダンに直接師事した。彼らは彫刻をヴォリュームやマッスとしてとらえ、内在する生命の運動を重視し、在野の立場をとった。

ロダンの受容以来、日本の彫刻はフランス彫刻の影響を強く受けることになる。1910年代には雑誌『白樺』がルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら後期印象派の芸術を紹介して日本の若い画家たちを熱狂させた。1910年代以降、日本の美術は、フランス美術の強力な磁力圏内に置かれることになり、以来、昭和前期の日本美術は、フランス美術の模倣を脱して、日本の自然や文化の伝統にたった独自の近代美術をどのように創造するかという課題を担うことになる。

1920年代に多くの日本の美術家がパリに留学した。ロダン没後のパリで、日本の彫刻家たちの多くは、アカデミー・グラン・ショーミエールでブールデルに学んだ。マイヨールに学んだ彫刻家たちもいる。また、ザッキンやアーキペンコは、日本の最大の在野団体である二科展に招待出品している。一方、ヨーロッパのダダイズムやイタリアの未来派、ドイツの表現主義、ロシアの構成主義などが移入され、日本ではそれらが一括して新興美術と呼ばれて、一時的ではあるが活況をみせた。1920年代の日本美術は、世界的な共時性のなかで多様化しはじめ、美術のみならず文化や社会のあらゆる面で激しいモダニズムの運動がおこった。

1930年代の日本の彫刻は、帝国美術院から再び文部省に所管を移した官設展、1914年(大正3)に結成された二科展、同じ年にできた日本美術院彫刻部、さらに1928年(昭和3)に彫刻部門を設けた国画会が中心になって展開し、その傘下にさまざまな研究団体が交錯していた。官展は朝倉、建畠、北村らの再現的リアリズムと内藤伸、関野聖雲、澤田政廣ら高村光雲以来の伝統的木彫の浪漫的作風が主流であった。二科会は、晩年のロダンに学んだ藤川が中心で、菊池一雄が頭角を現していたが、のち新制作派協会に移った。日本美術院は、内面的な自然観照をみせた石井鶴三、叙情的な日本裸婦を追求した藤井浩佑らに、ブールデルに学んだ保田龍門、清水多嘉示、武井直也、マイヨールに学んだ山本豊市らが加わり、平櫛田中、橋本平八らの木彫作家が活躍していた。


4.10人の彫刻家たち

図画会彫刻部は、ブールデルに学んだ金子九平次が中心であったが、高村光太郎が加わっていた。高村自身は展覧会に出品せず、審査会にも出席しなかったが、高村を敬愛する新進彫刻家がその名を慕って国画会に集まった。今回の展覧会の出品作家10人のうち、高田博厚、本郷新、山内壮夫、柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、吉田芳夫、西常雄らが国画会会員あるいは出品者であり、1939年(昭和14)に彼らは国画会を離脱して、新制作派協会彫刻部を創立し、菊池一雄は二科会からこれに合流した。したがってこの展覧会の出品作家は、日本美術院に属した桜井祐一を除いて、他はすべて新制作派協会に属した彫刻家たちである。20世紀後半の日本の具象彫刻において、この新制作派協会の作家たちが重要な役割を果たした。

1930年代は彼らが相前後して彫刻界にデビューした時期であるが、しかし彼らは十分に活躍するいとまもなく戦争に巻き込まれていく。1931年(昭和6)に日中戦争がはじまり、1941年(昭和16)に日米が開戦し、第二次大戦が世界規模に拡大するなかで、ファシズムの重圧のもとに日本は戦争一色になり、ある者は戦地に赴き、ある者は国内で生産労働に従事し、彫刻制作を中断しなければならなかった。

(1)高田博厚・菊池一雄

これら10人の彫刻家のうち、1900年(明治33)生まれの高田が最年長である。早熟で語学にすぐれた高田は、雑誌『白樺』の感化を受けて独学で西洋の芸術思潮を学び、18歳の時哲学を学ぶべく上京して、高村光太郎と知り合った。高田は東京外語学校イタリア語科に進み、コンディヴィ著『ミケランジェロ伝』や『レオナルド・ダ・ヴィンチ画集』(アトリエ社)などの翻訳をしながら21歳頃から彫刻をはじめた。1920年代の高田は、彫刻制作のかたわら、ホイットマンの『草の葉』やロマン・ロランの『ベートーベン』や『ヘンデル』を翻訳するなど、堪能な語学力を背景に当代一級の文学者や詩人、思想家と交友し、その多彩な活動は彫刻家としては異色である。

高田は、1928年(昭和3)に高村とともに国画会彫刻部の創立に加わり、第1回展に10点の作品を出品し、第2回展にも5点の作品を出品した。しかし、高田は1931年(昭和6)に渡仏し、1957年(昭和32)に帰国するまで26年間をパリで過ごし、フランス市民権を獲得した。高田は、ロマン・ロラン、シャルル・ヴィルドラック、アラン、エリ・フォール、レオン・ウェルト、ジャン・カスーらの知遇を得て、パリの知識人社会のなかで、多くの著名人やその家族の首を制作した。彼はこれらの頭像を通じて、モデルの知性や感性、つまりすぐれた人間の性格を表現しようとした。また、高田のもうひとつのモチーフは、《カテドラル》と名づけられた女性のトルソである。高田は、1910年代の日本の熱烈なロダニズムの中心に身を置き、豊富な教養を背景に独学で彫刻を学んだが、日本のロダン受容の特色である文学性をもっともよく体現した彫刻家であったといえよう。

菊池一雄の祖父芳文、父契月はともに高名な京都の日本画家であるが、彼は美術学校ではなく、第一高等学校、東京帝国大学美学美術史学科というアカデミックな学問のエリートコースに進んだ。しかし、一高在学中に二科会の藤川勇造に彫刻を学び、1930年(昭和5)22歳の時、二科に初入選している。大学時代から本格的に彫刻をはじめ、1936年(昭和11)から3年間パリに留学し、デスピオに学んだ。菊池の師藤川の作風は、ロダンの激情的な身振りとは異質の誠実な自然観察に基づくリアリズムであったが、菊池が師と同門の穏和な内面的写実を得意とするデスピオに師事したことはきわめて自然であった。

菊池がデスピオから学んだのは、彫刻における「構造」であったと思われる。感覚的な絵画的彫刻の多い日本の彫刻のなかで、菊池の作品は、静かな凛としたたたずまいで、彫刻本来のあり方である「立体としての彫刻」の範型を示した。本展出品の《ギリシャの男》(1937)はパリ時代の作品で、サロン・ドートンヌに出品されたものである。帰国後、菊池は新制作派協会に加わった。

第二次大戦中、菊池は二度兵役に従事している。戦後の菊池は、日本固有の人間像の探求に向かったようである。それは戦中戦後の人間体験に基づくものであろう。これは菊池だけではなく、戦争中に制作を中断していた彫刻家たちが再び制作を開始した時にひとしく当面した問題であった。1948年(昭和23)第12回新制作展に、菊池は《青年》を出品し、この作品は翌年毎日新聞社が創設した第1回毎日美術賞を受賞した。戦火に散った若者たちへの鎮魂の思いや未来への希望を形象したこの清新な《青年》は、戦後の混乱のなかで再生を希っていた日本人の心情をよく代弁する時代の表象でもあった。

(2)本郷新・山内壮夫

本郷と山内はよく似た経歴をもっている。本郷は1905年(明治38)、山内は1907年(明治40)どちらも北海道生まれで、同じ中学(札幌二中)に学んで東京高等工芸学校図案科工芸彫刻部に進み、国画会、新制作派協会という風にまったく同じ道を歩んでいる。彼らが美術学校の彫刻科ではなく工芸学校に学んだのは、家族の反対によるもので、当時彫刻では生活できないというのが社会通念であった。本郷もまた、ロダンと高村光太郎を目標に彫刻を志し、1928年(昭和3)頃に高村に会っている。山内も工芸学校卒業直後、本郷の紹介で高村に会い、彫刻家になる決心を固めたという。彼らは当然のように国画会に出品した。

本郷はミケランジェロを敬愛し、ブールデルの構築的なモニュメンタリティを志向した。彼はヒューマニズムの立場で、彫刻の社会性や公共性という問題を、日本の彫刻家のなかで早くから鋭く自覚した作家であった。戦前は《老人》(1943)のような造形的骨格の確かな写実的作品を制作しており、戦後は《わだつみのこえ》(1950)、《横たわる青年》(1952)、《嵐の中の母子像》(1953)など、次々とモニュメンタルな作品を制作した。たとえば戦没学生を追悼した《わだつみのこえ》は、ミケランジェロやブールデルに学びつつ、本郷自身の世界体験を固有の風土に根ざした普遍的な彫刻として定立させようとしたものである。しかし、本郷の公共彫刻の夢が実現するのは1970年代であった。また、本郷は、新制作派協会の創立と戦後の再開、そしてその後の展開において、持前の積極的な気質によって常にリーダーの役割を果たした。

山内は、ブールデルとデスピオを制作の指針としたようである。北海道出身の山内は、日本の国土の最後のフロンティアとなった北の大地に格別の愛着をもった。この点は本郷とも共通するが、山内は北海道の叙事詩をロマンティックに表現しようとした。しかし、この種の初期のモニュマンには、しばしば装飾的な工芸性が感じられ、むしろ、この展覧会に出品されているようなデスピオの感化を思わせる女性像が好ましい。戦後、山内の彫刻は、ヘンリー・ムアの影響を受けて抽象化していった。

(3)柳原義達・佐藤忠良・舟越保武

柳原義達は1910年(明治43)生まれ。はじめ日本画家をめざしたが、ブールデルの《アルヴェアール将軍騎馬像》の図版をみて彫刻家になる決心をしたという。東京美術学校彫刻科に進学したが、学校のアカデミックな彫刻にあきたらず、高村光太郎の『ロダンの言葉』を愛読し、在学中、国画会展に出品して国画奨学賞を受賞した。絵画の幻想性に対して、彫刻の触覚的認識こそがもっとも本質的なもののみかたである、という高村の触覚芸術論に共鳴した。柳原はロダンのいう「性格の美」を追求し、仲間から「柳原のグロテスク」といわれるほど、常識的な比例を無視して彫刻的リアリティを求めた。しかし、柳原の初期の作品は焼失し、現在のこるのは《山本恪二さんの首》だけである。

戦後の柳原の作品では《犬の唄》(1950)が知られている。普仏戦争に破れたフランス人の抵抗の心情を歌ったシャンソンの題にちなんだこの作品は、犬のように屈辱的な姿態をみせつつも決して屈服はしないというシャンソンの歌詞に、敗戦後の日本人の心情を重ね合わせている。だが、《犬の唄》が評価されたのはその主題のためではなく、柳原の批評精神が生き生きしたプラン(面)とムーブマン(動き)をもったすぐれた彫刻として提示されたためである。

1951年(昭和26)に「サロン・ド・メ東京」展が開かれ、戦後のフランスの作家たちの清新な表現に衝撃を受けた柳原は、翌々年再出発を期してパリに留学した。パリでオリコストやジャコメッティらに学び、柳原の作風は一変した。《赤毛の女》《黒人の女》(1956)や《バルザックのモデルたりし男》(1957)は、大胆なデフォルメと肉づけによって、対象の個別的な特徴や性格よりも、もっと本質的な人間が存在することの不思議さや美しさを表現している。

佐藤忠良は柳原よりも2歳年下で、東京美術学校彫刻科、国画会、新制作派協会と同じコースをたどった。新制作派協会設立の時点では、柳原は国画会会員であったが、佐藤や舟越はまだ一般出品者だった。佐藤の初期作品も柳原と同じ保管先で焼失し、《母の顔》(1942)だけがのこっている。戦時中、家族をモデルに制作するしかなかった頃のもので、幼い頃父を失い母の手ひとつで育てられたこの彫刻家の思いがこもった誠実な写実的作品である。1981年(昭和56)にパリのロダン美術館で佐藤忠良展が開かれた時、当時のモニク・ローラン館長が佐藤のアトリエでこの作品に目をとめて出品し、パリの観客にも好評だったという。

佐藤も兵役に就き、終戦後はシベリアで抑留生活を送り、1948年(昭和23)に帰国した。自分のこどもをモデルにして制作した《オリエ》(1949)や《たつろう》(1950)は、単純化されたフォルムの美しい作品である。すこやかに成長したこどもたちに再会した感動が、純真無垢なこどもの普遍像として昇華されている。《群馬の人》(1952)は、群馬県出身のモデルに基づいて、作家がそれまでに出会った朴訥で誠実な何人かの群馬の人のイメージを合成した、佐藤の人間体験が生んだ形象である。《群馬の人》は、日本の彫刻が真に日本人を表現し得た、と賞賛された記念すべき作品である。この頃、佐藤は《木曽》(1955)や《常磐の大工》(1956)など、名もない庶民の魅力的な頭像を制作している。

舟越保武は佐藤と同年、美術学校も同期で終始行動を共にしてきた。柳原は日本画、佐藤は洋画から転じたが、舟越ははじめから彫刻志望だったという。少年時代に兄に見せられた高村の『ロダンの言葉』がそうさせた、と作家自身が語っている。高村を敬愛した舟越は、長女の名前を高村につけてもらった。ロダンやミケランジェロを神のごとく敬い、生命的芸術を志すが、やがて強い生命感情を内包させた端正な美を好む自らの資質に気づくことになる。高村についても、彫刻よりもその詩に惹かれたことをのちに回想しているが、ポエジーは舟越芸術の特色である。彼の初期の代表作に《萩原朔太郎》(1955)がある。舟越は、この高名な詩人の肖像を写真によって制作したが、鋭敏で繊細な頭脳と感情をもったこの詩人のイメージが、彫刻家の詩的精神と共鳴して、見事に形象化されている。

舟越芸術のもうひとつの特色は石彫である。ごく初期から独学で大理石彫刻を手がけている。彼は塑像と石彫を両立させているが、彼にとってカーヴィングが基本的な技法のようであり、モデリングによる塑像の最後の仕上げにもカーヴィングを用いている。《夢の女》(1949)は、初期の大理石彫刻であり、《R嬢》(1956)のような砂岩による作品も制作している。1950年(昭和25)に家族全員でカトリックの洗礼を受け、以後舟越は敬虔な宗教的感情を造形化し、聖像作家といわれることもある。

(4)吉田芳夫・西常雄・桜井祐一

吉田芳夫は伝統的な木彫作家の家系に生まれた。父芳明は「日本木彫の最後の人」といわれ、母方の祖父は明治初期の有名な木彫家島村俊明であり、伯父白嶺は日本美術院の有力作家であった。この点で高村光雲を父にもった光太郎と共通している。実際、高村家と吉田家は家も近くて親交があり、吉田は光太郎を尊敬していた。吉田は、東京美術学校塑造科に進み、柳原と同期である。新しい彫刻をめざした吉出は、高村と同じように伝統の重荷を担わなければならなかった。吉田は高村を通じて、ロダンの系譜の生命主義芸術の流れにその方向を定めたが、自らの資質として、モニュメンタルな彫刻よりも実存的な存在感のある彫刻をめざした。《青年(伊藤傀)》(1953頃)、《女優A(草間靖子)》(1954)、《青夫人》(1955)は、それぞれのモデルの性格に応じた量感、質感、構成などの彫刻的追求が試みられている。

西常椎は吉田と対照的な背景をもっている。西家の当主徳二郎は明治年間に外務大臣を勤めたロシア語とフランス語に堪能な熟達の外交官で、日清、日露の戦争の後、対露外交で活躍した。西は、戦前オリンピックの馬術で知られる西男爵と兄弟のように育ったという。西はこのように西洋化された上流家庭から、彫刻家への道を進んだ。徳二郎は自ら油絵を描き、明治洋画壇の理解者であり、常雄に画家になることを奨めたという。西は1938年(昭和13)に佐藤や舟越より1年早く美術学校を卒業したが、翌年の国画会に《アレキサンダ・モギレフスキイ》(1939)を出品した後、騎兵第十五連隊に入隊し、彫刻制作を中断した。さらに中国や蒙古に一兵卒として出征してシベリアに抑留され、帰国したのは1946年(昭和21)だった。

西は1949年(昭和24)に新制作派協会の会員になっている。西はもっぱら頭像や人体小品を制作した。それらは疑いなくロダンの系譜につながるものであるが、それらはきわめて寡黙で内省的である。西は、目によってとらえた対象を脳味噌をとおさずそのまま手によって粘土でかたちにするという。舟越は、西の観察における感覚の高密度のエネルギーに「非凡」を感じ、手によるかたちの出現に「天才」をみている。

桜井祐一は、この展覧会の出品者中の異色である。1914年(大正3)生まれで、最年少。少年時代に体をこわして働けないまま手すさびに木彫をはじめ、近所の美術学校の学生に習いはじめたのが17歳の時だった。2年後の1933年(昭和8)に日本美術協会展で《聖徒》が受賞して注目され、平櫛田中に師事することになった。21歳の時に日本美術院展に出品した《乞ふ人》(1934)は、腰をかがめて謡曲を唄う老人を彫った粗削りの彫像であるが、老人の哀切な心情に貧窮と病のなかから彫刻を志した作者の心情が投影され、すぐれた木彫として作品化されている。 その後桜井は僻調に作風を展開させていった。《正樹座像》(1946)のあどけない表情、かしこまった姿態のシンプルな塊量的構成、相撲姿の《少年》(1947)は闘志満々の表情で、頭部と胴体を軸芯に腕と膝がシンメトリーに張り出し、これらの作品はそれぞれに緊密な構成による情感豊かな初期木彫の代表作である。だが、桜井はこの後、内側からのヴォリュームの充実を求めて、塑像制作の時代に入っていく。


5.おわりに

日本の近代彫刻は、概括的にいえば、伝統的な木彫の近代化と西洋彫刻の日本化というふたつの流れのなかで展開してきたといえるが、後者はさらに、対象を忠実に再現する描写的リアリズムと彫刻を量、面、動きなどに還元して生命感情の表現を重視する内的リアリズムのふたつの系列に大別される。新制作派協会に結集した彫刻家たちは、ロダンからデスピオにつながるフランス近代彫刻の流れを継承した内的リアリズムの作家たちである。彼らは戦中、戦後の人間体験に基づいて、各自の表現世界を築いた。彼らは日本人の生活感情や時代の意識を柔軟な感受性と手堅い写実技法で素直に表現した。

戦後、日本の芸術家たちは、戦時中の文化的鎖国の状態やもろもろのタブーから解放され、同時代の海外の新しい芸術の動向を知ることができるようになった。日本の彫刻家たちは、マリーニ、グレコ、マンズー、ファッツィーニ、クロチェッティら、フランス彫刻と異なったイタリアの現代彫刻にも関心をもった。一方、抽象彫刻が盛んになり、木、石、鉄、セメント、ステンレスなど彫刻の素材は拡張し、表現は多様化した。こうした抽象彫刻に対して、それまで写実と呼ばれていた彫刻は、具象彫刻と呼ばれるようになった。具象、非具象、抽象などの類別が行われるなかで、これら10人の彫刻家たちは、あくまでも具象表現にとどまり、日本の近代彫刻史において、日本の近代彫刻を成熟させるという役割を演じることになったのである。

(三重県立美術館館長)

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