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宇田荻邨の写生と本画────大正から昭和初期

山口泰弘

三重県立美術館が所蔵している宇田荻邨の下絵・写生類は300点、写生帖の一葉一葉を数えてゆくと4000点に及ぼうとする膨大な量を誇る。

それは、範囲としては専門の絵画教育を受ける以前の習画帖の模写から、風景や動植物の写生にいたる範囲の、また時代としては荻邨が日本画家としての歩みをはじめてから大成ののちまでの画業の、それぞれ多くを包括しており、また、公表された完成作品=本画からは想像のつかない隠された努力や試行の歩みをとどめているものもあり、荻邨の絵画制作の実際を知るうえできわめて貴重な証拠品といえる。

今回展観に供することになったのは、そのうち、荻邨の画家としての評価の基準となる本画の制作過程でつくられた写生・下絵類に限られている。結果として出品数は、全体数をはるかに下回ることになったが、なかには作品制作の最終段階でつくられるもので、本画と同サイズでしかも本画のイメージを予測しながら彩色を施した大下絵や、作者が構図やモティーフの扱いに試行錯誤を重ねる様子がみてとれる下絵類が含まれており、画家としての荻邨の評価を決める基準となる本画群の制作の、水面下の状況をつぶさに知ることのできるきわめて有用な資料ということができる。単に資料としてとどめておくには惜しい鑑賞画として楽しむに価する作品もすくなくない。また、すでに亡失したり行方知れずになったりしているために観賞の機会を失っている本画を類推することのできるような大下絵も展観品のなかに数点含まれていることは特筆しておいてよいことかもしれない。

ところで、荻邨の全画歴にわたる展覧会は、晩年に近い昭和51年(1976)に京都市美術館で開かれた「日本の名匠宇田荻邨回顧展」や翌昭和52年(1977)に画業60年を記念して開かれた展覧会(「画業60年記念宇田荻邨展−京の四季」大阪・東京三越、サンケイ新聞主催)や当三重県立美術館の没後3年記念展(「没後3年記念・清爽に京洛を描いた三重の画家−宇田荻邨展」昭和58年・1983年)などがあり、画集も出版されていて、その画業や作品についてはあらかた明らかになっており、改めて知見を加えることはさほど多くないが、ここでは下絵調査によって得られた若干の新知見で補いつつ、大正から昭和初期にかけての荻邨の画歴をみてみることにしたい。

宇田荻邨、本名は、宇田善次郎。明治29年(1896)に現在の三重県松阪市に生まれた。善次郎に絵画への関心が芽生えたのがいつごろのことかはあきらかではないが、三重県立美術館所蔵下絵の中には小学校高等科在籍中の明治44年(1911)の年紀のある、72葉におよぶ『図画帖』(本人の書き入れタイトル)が入っており、その丹念な筆致は基礎的な習画にいそしむ姿を彷彿させる。15歳の善次郎がはやくも絵画にひとかたならぬ関心を示しはじめ、しかも、年少にしてはかなりの達成度を得ていることがわかるが、高等科を卒業すると三重県度会郡二見町在住の中村左洲(“鯛”の一芸画家として三重県ではよく知られた画家。京都画壇で活躍した女流画家伊藤小坡の師。)に入門して手習いに励んでいる。このころの作品としては、師が得意とした魚類モティーフを請けた習作「かれい」や魚類の写生帖などがあるが、なかでも興味深いのが、鎌倉中期の有名な「平治物語絵巻」の「六波羅行幸巻」を模写したものである。これにはすでに触れたエッセイがあり(森本孝「宇田荻邨−生涯と芸術」『没後3年記念・宇田荻邨展』カタログ、昭和58年)、それによると、これは江戸浜町狩野の閑川昆信のつくった模本を天明元年(1781)に今村随学なる画人が写し、それを明治20年(1887)に磯部百麟(伊勢の御師の出で、京都で四条派の画家長谷川玉峰に師事。帰郷して伊勢地方で活躍。中村左洲の師。)が写したものをさらに善次郎が書写したというものである。伝統的な粉本写しの慣習が生きているわけであるが、なにより、正統な絵画手法の修練に取り組んでいたことが明らかであり、その出来を見るとすでに習画の初期段階を経てかなり達者な描筆を身に付けていたことが理解できる。

善次郎の絵画修業は、この模写図の翌年すなわち大正2年(1993)、同郷の友人で、当時すでに京都で菊池芳文(1862−1918)の門にいた西井水華(1893−?)に伴われて芳文を問い、入門することで本格的な歩みがはじまる。四条派の正系を継ぐ芳文への入門は、善次郎の進む方向をほぼ規定することになった。善次郎が「荻村」(のち荻邨に改号)の号を使いはじめたものこのころのことである。

しかし翌年、師の勧めもあって、開設6年目になる京都市立絵画専門学校別科に入る(大正6年・1917年3月卒業)。入学の年から毎年文展に出品しているが、落選が続き、まったくの不遇をかこっていた。ただこの時期の荻村を知るうえで着目したいのは、“大正三年”、“大正四年”、“大正五年”の年紀と「荻村」の落款の認められる写生帖が少なからず残っていることである。

ちなみにそれらの中から特徴のある写生帖を択び、その表紙に荻村自ら記した表題と内容を列記してみよう。

  • 「写生集(裏表紙見返しに)大正三年十一月 宇田荻村生 印」
                 大正3年・1914年……清水、祇園、山科などの風景写生
  • 「写生 大正四年一月 荻村生 印」
                 大正4年・1915年……門前風景、古画模写
  • 「動物園 猿の手 大正四年二月二十三日 荻村生」
                 大正4年・1915年……古画模写と動物園での動物写生
  • 「写生及模写 人物集 大正四年四月 荻村印」
                 大正4年・1915年……女性頭部、大原女、浮世絵模写
  • 「月ヶ瀬にて 月ヶ瀬亭 大正四年三月二日 宇田荻村」
                 大正4年・1915年……月ヶ瀬、柳生、木津川写生
  • 「写生集 大正四年五月十五日 いせの浜萩」
                 大正4年・1915年……浮世絵美人画、西洋画、山水画模写
  • 「比良山写生 下 大正五年二月十一日夜」
                 大正5年・1916年……比良山写生
  • 「写生集 大正五年二月 荻村生 印」
                 大正5年・1916年……農村風景、古画模写
  • 「丙辰正夏 宇田荻村」
                 大正5年・1916年……嵐山風景、木屋町風景

このほか数冊あり、年紀はないが内容その他から、このグループに加えることのできる写生帖もほかに数冊ある。ともあれ、ざっとその量と表題と写生対象をながめただけでも、18歳から20歳ころの学生荻村の熱意がうかがわれると同時に、関心がどのへんに向けられていたかがわかる。

そのひとつは古画に対する関心。なかでも江戸時代の南画には努めて接触するようにしていた様子で、与謝蕪村などの走り書きの模写がいくつも収められている。大正3年(1914年)の「春雨」と題された二曲一隻の押絵貼屏風は、作品としてはもちろん習画の段階を越えるものではないが、紙本に墨画淡彩で描かれ、南画的気分の横溢する作品である。古画学習の成果を示す作品であると同時に、様式形成以前の試行の痕跡とでも言うべき作品である。

南画とともに押さえておきたいのは、浮世絵、ことに美人画に対する関心である。その関心を直接反映した作品は見当たらないが、しばらく後の「太夫」(大正9年・1920)や「港」(大正10年・1921)の点景人物などをみると、女性の姿態表現、あるいは時世粧を観察する眼を浮世絵美人画から得たのではないかと思わせるところがある。

荻村のもうひとつの関心が振り向けられているのは、清水・祇園・木屋町といた洛中や嵐山・山科など洛外の風景である。こうした京都名所はもちろん荻村に限らず、近代以降の多くの画家に画題とモティーフを与え続けており、その意味では写生対象としてありきたりではあったし、主題としても陳腐なものであったが、「一力」(大正8年・1919)、「南座」(大正11年・1922)、「高尾の女」(昭和3年・1928)、「林泉」(大正16年・1941)、「祇園の雨」(昭和28)、「清水寺」(昭和32年・1957)など、生涯にわたって画材を求めつづけ、その折々に様式上の変遷を重ね、独自の京都風景を作り上げた彼にとっては、その初発的な関心という意味で重要といわなければならない。

このころの荻村の風景写生は、京中にとどまらず、月ヶ瀬・柳生・木津川・比良山さらには伊勢にまで及んでいる。この行動力と写生重視の姿勢は、生涯変わることなく、荻邨の作品の根幹をなしているものであろう。次に触れるように、一見すると装飾化が著しく進んだように見える「簗」(昭和8年・1993)のような作品においても、この姿勢はいかんなく発揮されている。

「簗」は昭和8年(1993)秋の第14回帝展に出品された作品で荻邨の昭和初期を代表する作品のひとつである。荻邨がこの簗……川の瀬を両岸から杭や竹石を使ってせき止めて、一ケ所をあけて簀の子を張って川を上る魚を捕獲する仕掛け……をモティーフとしていつごろから構想していたかはわからないが、構想を絵画化する最初の行動=写生のための取材に出たのは、展覧会までさほど時日の残されていない昭和8年の8月中旬のことであった。

荻邨がまず出かけたのは滋賀県で、甲賀郡柏木村の野洲川筋で簗の写生をはじめている。写生帖の記入によれば、それは8月10日のことで、3日後には、岐阜県の多治見に場所を移して同じモティーフの写生にふたたび取り組んでいる。写生帖の第1ページ目には旅程のメモ書きがみられ、それによると当初から滋賀県と岐阜県にわたって取材旅行が組まれていたとみられる。写生帖には簗と川瀬、簗の部材の部分の細かな写生が鉛筆と淡彩を使って描かれているが、そのいくつかには「中央線多治見より約二十丁下流、土岐川筋 簗」「簗土岐川にて八月十三日」「土岐川にて」などという書き込みがあり、写生の場所や時をあきらかにすることができる。

制作のための主な取材は、この旅行であらかた終えたようだが、取材で得た下絵をもとに構想を練るうちになんらかの不足を感じ出したのか同じ月の21日には、京都嵐山に出かけていって大堰川であらためて簗や川瀬の写生を行っている。さらに9月に入ると、ふたたび滋賀県に行き、野洲川の下流で簗を再度写生するとともに、鮎や川鱒の写生も行っている。この後、岡崎野動物園に出かけて行き、簗を写生している。簗の傍らに点景として描かれている鳥である。

この「簗」のための下絵類は、写生、部分写生、小下絵、大下絵などを含み、荻邨の残した下絵類のなかでは、写生、下絵、本画と日本画家が踏む制作の階梯を一段一段示すのに好適の豊富さをもっている。

この「簗」という作品は、前述のように、一見すると装飾的で、その意味では昭和前期の荻邨の作風を象徴するものである。別のいいかたをすると、いわゆる写実からは荻邨の全画歴をみてもいちばん遠いところにある作品である。そうした、ある意味では一見構成美が支配していそうなこの作品のなかにもその根幹として写生があったことは、歴史的にみて重要なことであろう。荻邨が、手本を組み合わせて画を構成するいわゆる粉本構成が普通であった時代に「すべては写生からはじまる」と主張し、鳥を望遠鏡で観察し、琵琶湖に写生に通った写生の虫円山応挙以来の伝統の正しい継承者であったことが理解できるからである。

最後になるが、荻邨の下絵をみていて気づくことに、文学をイメージの発生源にしていたのではないか、と思わせる点がある。戦後の「祇園の雨」(昭和28年・1953)は、以前から吉井勇の歌との関連が指摘されることがあるが、実際、祇園白川を取材した写生帖には吉井の歌が書き留められているし、写生帖にはほかにも歌や俳句が書き留められていることがある。さらに綿密な下絵の調査は、荻邨の発想や作品の主題をなお一層明らかなものにしてくれる可能性がある。

(三重県立美術館学芸員)

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