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18世紀フランスの複製版画とその位置づけ

中谷伸生

18世紀のヨーロッパでは、版画、とりわけ銅版画のジャンルが隆盛となって、ヴァトー(Antoine Watteau 1684生−1721没)のような巨匠による自刻の版画から、油彩画を版画で複製する複製版画家たちまで、おびただしい版画作品が生み出されている。要するに、経済力をつけてきた新興のブルジョワ階級においては、巨匠の油彩画を自宅の壁に掛ける経済的余裕がない場合に、その代わりとして、有名な油彩画を複製した、いわゆる複製版画を室内装飾に用いることが常であった。ヨーロッパでは、かつてルーベンスらに一例を見るように、油彩画を、画家自身が、あるいは工房の弟子たちが、再度油彩によって模写したり、あるいはヴァージョンを制作するという習慣があり、18世紀においても、例えば、シャルダン(Jean−Baptiste Siméon Chardin 1699生−1779没)などの画家が、レプリカ(作者自身による複製絵画)の油彩画を制作している。要するに、一点ものの油彩画では、パトロンの注文を捌ききれないため、数点の複製画を制作する必要に迫られたのである。しかし、油彩による油彩画の複製は、やはり相対的に高価なものになり、かつまた、他の画家による複製の場合には、オリジナルの作品の質の高さには及ぶべくもない、という弱点があった。18世紀の複製版画は、まさにそうした複製の役割を、低廉な価格で提供することになったのである。これら複製版画は銅版画によって制作されたが、その大きな理由のひとつとしては、中世以来の木版画と比較して、銅版画の方が、油彩画を複製するのに適しているためである。つまり、色彩に関しては無理だとしても、油彩画の複雑な線描、陰影、ぼかしなど、銅版画は、形態の面において、油彩画に肉薄する、さまざまな技法を駆使することができたからである。

このような銅版画の役割を振り返って見ると、版画史の碩学ジャン・アデマールは、1430年頃に生まれたとされる銅版画の起源に言及して、「版画の芸術は、金銀細工師がしばしば遠隔地にいる顧客に宝石とか〈シャペル〉(すなわち教会用の金銀細工品)を見せなければならない必要から生まれた。いいかえれば、盗難の危険は実物を見せる場合よりは少なかったわけである。この種の品物は、細工が細やかなために、木版画ではこれらを再現するには適しなかった」と述べている(J.アデマール、坂本満『世界版画 2 銅版画の誕生』、筑摩書房、1978年参照)。つまり、もともと銅版画は、現在の商品カタログ写真のような実用的役割を担っていたということになる。以後、銅版画は、16世紀から19世紀、つまり19世紀に石版画が考案されるまでは、主として、絵画の複製の役割を果たすことになったのである。

16世紀の画家ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel1525/30生−69没)は、初期の時代に、ヒエロニムス・コック(Hieronymus Cock 1507生−70没)が率いる「四方の風」という美術商兼銅版画出版元の依頼で、銅版画の下絵素描を制作する仕事に携わった。遺存するブリューゲルの版画は、95点で、銅版画(エッチング)の「野うさぎ狩り」(1506年)1点だけがブリューゲル自身によって彫版された作品である。他の94点の銅版画作品は、ブリューゲルの素描や油彩画に基づいて、複数の彫版師たちが制作した。ブリューゲルはやがて油彩画やテンペラ画に情熱を注ぐようになるが、彼の油彩画に基づく複製版画の例としては、「怠け者の天国」が挙げられる。ブリューゲルの銅版画(エングレーヴィング)「怠け者の天国」は、ミュンヘンのアルテ・ビナコテークに所蔵されている同主題の油彩画「怠け者の天国」に基づいているといわれる。この銅版画の彫版は、ブリューゲル自身ではなく、彫版師ピーテル・ファン・デル・ヘイデン(Pieter van der Heyden1530頃生)によるものである。要するに、ブリューゲルの原画に基づく銅版画である。左右逆にされた銅版画では、細部描写がわずかばかり変えられているにしても、全体として、油彩画と同様の形態モティーフが再現された複製版画となっている。

17世紀バロックの画家ピーテル・パウル・ルーベンス(Pieter Paul Rubens 1577生−1640没)は、彫版師パウル・ポンティウス(Paul Pontius 1603生−58没)をはじめ、ヨーロッパ各地から卓れた彫版師を雇って、自作の油彩画に基づく版画工房を構えていたといわれる。ルーベンスの版画工房で制作された版画は、700点以上にもなるが、描写の細かな部分にまで、ルーベンス自身が指示を与えていたという。例えば、1620年制作の銅版画(エングレーヴィング)「スザンナと長老たち」は、ルーベンスの監督下で、ルーベンスの油彩画に基づいて、ルカス・フォルステルマン(Lucas Vorsterman 1595頃生−1675没)が彫版した。この複製版画は、他の版元による複製を禁じる版権を、スペイン領ネーデルラント、オランダ、フランスの統治者から保証された銅版画の1点であり、彫版師を使った複製版画とはいえ、ルーベンス自身が、自作の範囲内に含めていたといわれる作品である。

さて、18世紀のフランスには、上述したように、数多くの版画家たちが登場して、油彩画に基づくおびただしい量の複製銅版画を制作している。アントワーヌ・ヴァトーの油彩画に基づく複製版画を制作した高名な画家フランソワ・ブーシェ(François Boucher 1703生−70没)、このブーシェの原画を版画化したルイ=マラン・ボンネ(Louis−Marin Bonnet 1736生−93没)、オノレ・フラゴナールの油彩画に基づいて複製版画をつくったモーリス・ブロ(Maurice Blot 1753生−1818没)、カルル・ヴェルネの油彩画を色刷りの複製版画にしたフィリベール=ルイ・ドゥビュクール(Philibert - Louis Debucourt 1755生−1832没)、やはりフラゴナールに基づく複製版画で知られるニコラ=フランソワ・ルニョー(Nicolas - François Regnault 1746頃生−1810没)及びニコラ・ド・ローネー(Nicolas de Launay 1739生−92没)など、複製版画に関わった版画家たちは、枚挙にいとまがないほどである。これら複製版画の中でも特筆に値するのが、『ジュリエンヌ画集』(1726年−36年)と呼ばれる四巻のヴァトー作品集で、ヴァトーの親友でゴブラン織工場の監督ジャン・ド・ジュリエンヌが、ヴァトー没後に全作品を版画で複製する構想を練り、数十人の版画家たちを動員して刊行した版画集である(J.アデマール、坂本満『世界版画 7 フランス・ロココ版画』、筑摩書房、1978年参照)。この版画集は、フランス・ロココ様式の代表者ヴァトーが、当時如何に絶大な影響力をもっていたかを示す一大事業であったといえよう。さて、19世紀になると、プラハ出身のアロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder 1771生−1834没)が、凹版や凸版とは異なる平版の石版画の技法を考案して、版画作品に革命的といってよい新風を吹き込んだ。この石版画の領域では、オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier1808生−79没)が、辛辣な風刺による独自のイメージを版画化して、石版画による偉大な画家となった。それらの作品は、複製版画の対局にある独創的な創作版画であって、油彩画と同様に、版画によってオリジナルな表現活動を行うものであった。ドーミエに代表されるように、19世紀には、複製版画よりも、こうした独創的な版画制作が、時代を主導することになったのである。例えば、黒と白による独自の石版画の世界を築き上げたオディロン・ルドン(Odilon Redon 1840生−1916没)の名前が、まず第一に浮かぶであろう。細密銅版画家ロドルフ・ブレスダン(Rodolphe Bresdin 1825生−85没)に銅版画の手ほどきを受けたルドンは、その後に、石版画の一変種である転写紙の技法を駆使し、最初の石版画集『夢の中で』(1879年)から、最後の石版画集『ヨハネ黙示録』(1899年)に至るまで、20年間にわたって、秀抜な漆黒の石版画を次々に制作して、19世紀美術史に輝かしい足跡を残した。転写紙の技法とは、石の上に油性クレヨンによって、直接に画像を描く通常の石版画とは異なり、まず特殊な石版画用の紙に油性クレヨンで描いた画像を、石に写し換えるため、より一層、素描と同様の自由な表現を獲得することができるのである。ルドンが転写紙の技法を用いることになったのは、ファンタン=ラトゥール(Henri Jean-Théodore Fantin-Latour 1836生−1904没)から、転写紙を一束もらったことがきっかけになった。当初、ルドンは、複製版画のやり方で、単純に素描の数を増やす目的で石版画を試みたといわれるが、すぐさま石版画の卓れた表現効果を見てとり、素描の複製化を放棄して、自己の夢想を版画で表明する道を歩むことになったようである。誤解を恐れずにいうと、ルドンの場合には、過酷な人生の深淵から生まれ出た黒白の石版画の方が、晩年の鮮やかな色彩によるパステル画や油彩画よりも、一段と価値が高く、このことは、もはや版画が、油彩画とまったく同次元の価値をもつ表現手段になったことを意味している。つまり、19世紀は、それ以前の複製版画中心の時代から大きく転回して、18世紀とは本質的に異なる意味で、版画隆盛の時代となったのである。

さて、以上のことから、フランスの複製版画の歴史的展開とその位置づけが明らかになったと思われるが、18世紀のヨーロッパ各地においては、この時代の版画といえば、まず何よりも、ヨーロッパ文化の中心地パリの版画を指していた。そして、フランスの複製版画は、18世紀のロシアの宮廷文化を華やかに彩った美術の一分野であったことも見逃してはならない。ヴァトーやブーシェやフラゴナール、加えてランクレ他、さまざまな画家の絵画が複製され、ロシアの宮廷などで、室内装飾に使われた。また、この時期、フランスの画家たちがロシアを訪れる機会も多く、フランス絵画の評価は著しく高まっていた。例えば、ブーシェの絵画の複製版画を手掛けたルイ・マラン・ボンネは、一時期、ペテルブルグに滞在して、油彩画や銅版画によって、貴族たちの肖像画を数多く手掛けるとともに、エカテリーナ2世の肖像を銅版画にし、ロシア宮廷で歓迎されている。また、1758年に17歳でロシアを訪れ、ペテルブルグにあった美術アカデミーで素描を教えた挿絵銅版画家ジャン・ミシェル・モロー(Jean-Michel Moreau 1741生−1814没、通称モロー・ル・ジュンヌ Moreau le Jeune)の名前も忘れることができないであろう。

つまるところ、フランスの複製版画が、ロシアの宮廷をはじめ、ヨーロッパ各国の宮殿や貴族の館、あるいはブルジョワジーの邸宅などで、重宝な作品として飾られるという文化的背景には、ヨーロッパ文化の中心地となったパリの文化とその雰囲気を再現したいという、パリの文化への憧憬の念が、各地に広がっていたことを明らかにする。しかし、それよりも、もっと重要なことは、これらの複製版画が表現する視覚の世界が、パリから遠く離れた地域において、圧倒的な影響を及ぼしながら伝播した、という文化史的事実であろう。例えば、ヴァトーらの絵画の複製版画は、書籍として刊行されない一枚ものの版画の場合でも、ヨーロッパ各地の収集家たちの手に渡っていくことで、オリジナルの油彩画を見ることができない地域において、たとえ、それが不十分で歪んだものではあったにせよ、今日の美術全集のような役割を果たし、その地域の文化に、大なり少なり、ひとつの衝撃を与えたという事実である。

(三重県立美術館学芸課長)

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