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橋本平八と円空について

陰里鉄郎

高村光太郎は展覧会批評の文章のなかで,二回だけ橋本平八に触れている。それは昭和にはいってからのことであるが,日本美術院展の彫刻をみて,「橋本平八氏といふ人のが今年無い事を一寸思ひ出した」(昭和4年)というのと,「去年見なかった橋本平八氏が,今年は『花園に遊ぶ天女』といふ新感覚の木彫を作ってゐる。この裸女の全面に刺青のやうに彫刻した花片と,ブルデルじみた曲りくねった木の枝のくりぬき(註,のちに取りはずされて現在はない)とは,えがらっぽいエロチシズムを出してゐる。」(昭和5年)というのとである。明治末期から大正初期にかけて,同時代の日本の彫刻に対して徹底的に闘う姿勢をもって当時の大家たちを罵倒してきた光太郎であるが,上記のことから光太郎は平八に対して関心をいだいていたのではないか,とわたくしには思われる。

光太郎がもし平八に対してつよい関心をもっていたとすれば,そしてもし光太郎が平八の『猫』(A,B)を観てなにかを語るとすれば,どうであったろうかとわたくしの想像はつづくのである。というのも,光太郎の彫刻についての見かた,芸術について考えかたを端的に語ってみせた例に,朝倉文夫の『猫』(明治42年作)についての批評があり,そのなかで光太郎はつぎのように記している。「やはり,猫が面白くて猫を作ったのだと思はれる。さて,一寸面白ひにも拘らず,此の作に大きな価値が無いのは,深みが無いからだ。猫の後ろに動物が無いからだ。猫の背後に本当の生(ラ・ヰイ)が無いからだ。此は,何処から来てゐる結果かと言へば,第一に作家の人格趣味が然らしめたものだと言ふより外に言ひ様が無い。其の次には技巧がまだ至らないのだ。作家の人格趣味の方は嘴を入れる限りで無い。技巧の方から言えば、この猫に堅実性(ソリヂテエ)が足らない。此が第一に作の深みを浅くしてゐる。面(プレエン)が混乱してゐる。此が又深みを失はせてゐる。線が連続して居ない。此が気分の集中を妨げて居る」(「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」)。

平八は自作の『猫』(A)について「自分の肖像であり身構へ心構へであり技巧の上には方式である」,『猫』(B)は「動きと艶美と男性的な魅力を表現するものであって最初の猫の欠点を補ひ自分の彫刻をより完璧ならしむるものである」(『純粋彫刻論』)と語っている。

平八の『猫』連作は,直接には師佐藤朝山の作品『牝猫』にならったものだとしても,光太郎のいう「堅実性」を充分にそなえている。そして朝山がエジプトの動物彫刻に啓示され,平八は当初はそれをとおしてのものであったとしてもエジプト彫刻のもつ求心的な緊張感を師のものより以上にそなえているといってもよいであろう。この「堅実性」、量塊としての充実感は、光太郎の言葉をかりていえば、「第一には作家の人格趣味」からきていると思われる。平八の『猫』のもつ野性感は光太郎のいう「生」につうじるであろう。自作『猫』を「自分の肖像」といいきるように平八は自己と作品と一致を彼自身が感じとっていたのである。

橋本平八の彫刻家としての出発はけっして早くはない。郷里の伊勢で三宅正直,亀田杢介といった人たちに彫刻技術を学んだとつたえられるが,これらの人たちがどのような作家であったのか詳らかではない。伊勢では明治初期に鈴木正直という彫刻家がおり,明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会に出品していることは知られている。鈴木正直の死去は『宇治山田明治年代記』(倉田正邦校訂)にも明治23年の条に記されている。伊勢という地の文化風土から推察すれば,仏師系ではなく、宮彫師,または伊勢土産としての小彫刻の彫師の系譜があったのではと想像される。加えて,年譜に明記されているミレー,ゴッホ,ロダンといったヨーロッパの近代美術によるささやかな洗礼は,大正初期に日本の各地方においても『白樺』的西洋知識の普及とその影響をうかがわせて興味深いものがある。雑誌『白樺』に代表される西洋文化の紹介とその摂取による脱皮の時期だったのである。

上京(1919年)後における平八の彫刻家としての出発は,日本美術院同人であった佐藤朝山への師事からはじまっている。朝山の出自は東北福島の宮彫師であり,家業の技術のうえに仏師系の山崎朝雲に学びインド的な豊麗さと同時に精緻で厳格な木彫の技術を兼備した彫刻であった。平八の木彫の師系をたどれば以上のようなことになるが,平八の出発の時代は1920年代,大正後半期である。さきに触れた『白樺』的西洋文化紹介の時代もはや終りを告げて,つぎの段階に入っていた。

すこしだけ近代木彫の歴史をふりかえると,明治初期の衰微から伝統復活の波によって明治中期に再生した木彫も,西洋的写実の導入に大きく傾いていた。高村光雲の回顧録には当時の木彫家の苦渋がよく語られている。洋風彫塑の移植も明治9年(1876)から本格的にはじまっており,その伸張もあったが,いずれも表面的な,皮相な写実に流れ,造型の本質を主張する彫刻の出現は明治末期,高村光太郎,荻原守衛のヨーロッパからの帰国後であった。木彫では岡倉天心の指導もあって同じ時期,明治末期に平櫛田中,佐藤朝山らによって新しい出発がなされたのである。大正期にはいって内藤伸,石井鶴三らがこれに加わることになる。

「自分の肖像」であり「心構え,身構え」だと平八がいう作品『猫』(1921)以後,昭和7年(1932)の『アナンガランガのムギリ像』にいたるまでの平八の作品については,平八の彫刻論『純粋彫刻論』(平八の歿後,昭和17年刊)に収められている自作の「代表的な自分の作品年表」の解説に興味深く語られている(後掲の森本孝の論文参照)。主要作品10点をとりあげ,自己の思考とその造型的展開を簡潔に語っている。その後の作品たとえば『笛を吹く少女』(1933)や『或る日の少女』(1934)といった作品について平八は,前者を「近来の会心作。田園の哀感。げに田園は詩的であるの詩情から来る彫刻の神秘をここに顕出するものである。」と記している。後者については,はじめ「祈り」と題を決めていたことが知られるだけである。これらを抑えれば平八の短かい生涯の主要な作品のおおよそを知ることができるといえよう。もちろん,以上のことだけでは平八のすべてを語ることにはならないであろう。多数の小品のもつさまざまな性格も見逃しえないが,それは他にゆずることにしよう。

平八が円空仏を識ったのは昭和6年(1931)秋のことであった。その感動,衝撃の大きかったことは日記(『純粋彫刻論』収録)などからよくうかがえるが,といって以後の作風や様式に円空仏の反映がつよくあらわれてきた訳ではない。しかし,平八の強烈な克己心による自己鍛練のいくつかの例をみるとき,資性として平八の深奥にあるものと,現在,とりわけ最近における円空研究の成果によってわれわれが識りえつつある円空像からうける印象との一致を思わないわけにはいかない。平八は,彼自身の語るところでは,21歳のときランニングに熱狂し,「自分の陸上に於ける力量を確信することが出来た」といい,22歳のとき7時間余りの遠泳で,「健康状態から俄かに溺れる場合は実に楽しく無意識の間に溺れやがて死に到るであらう意外な事実を体験」「死は楽しく軽いことを実際に体験することが出来た」という。そして27歳のときに断食を決行,平常の生活をしながら7日間の断食をおこない,「断食は自分に取って心智の屏を開く鍵であった」というのである。こうした行為とそれからえた感懐は,あるいは異常であるかも知れないが,平八はつよい自己規制によって自己の精神性を高く保持しようとしていたようで,その契機を前記のような体験によって獲得していたのであろう。こうした行為の自己鍛練は,修行僧の姿を思いおこさせる。

多くの謎に包まれていた円空上人の事蹟や出自が,最近,宗教史,民俗史といった視点からの調査研究によってようやく明らかにされつつあるが,それらによれば,円空が木地師の出身である可能性の高いことが示されている。また遊行僧となるに木食戒をうけたとの説も提出されている。もしそれらの可能性がきわめて高いとすれば,円空仏は仏師系とはもちろんまったく関係がなく、山谷を流浪する木地師の伝統につながりながら創り出されてきたことになる。木食戒の受戒は,ここでは平八の断食をわたくしには連想させる。いずれにしても自虐的なまでに自己規制した生活と創造とにおいて,円空と平八の一致をみる思いがするのである。円空は寛文11年(1671),延宝2年(1674)には伊勢・志摩に訪れており造仏をその地にのこしたといわれる。平八は自分の住居の近郊で円空仏を識った様子はほとんどうかがえないが,その邂逅には運命的なものさえ感じられる。円空仏を識った平八は,それを身近において眺めることを無上の喜びとしている。

平八にしても円空にしても,日本の木彫史の正統的系譜からははずれた存在といわねぼならないかもしれない。古代の鉈彫もまたそうであるかもしれない。そして円空と平八とはその鉈彫とは直接にはつながらないかもしれない。それでいて,これほど造型と素材,創作者の資性と素材とが見事に一致して表出されている例ははとんど他にはみられないであろう。彫刻という造型のもつ詩と美しさをこれほど見事に示した例は数すくない。

(かげさと てつろう 三重県立美術館館長)

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