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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > 林義明の芸術と生涯 森本孝 林義明展図録

林義明の芸術と生涯

森本 孝

ギュスターヴ・クールベ(1819-77)の言葉のなかで「私は,羽根のはえた天使なんかは描かない。なぜなら,そんなものは見たこともないからだ。」という,レアリスムを高らかに宣言する言葉がよく知られている。1855年に開かれたパリ万国博覧会の会場の中で開催された官設展では,当時名声を博していた新古典主義のアングル(1780-1867)と,ロマン主義のドラクロア(1798-1863)にはそれぞれ一室が設けられていた。この展覧会に出品した自らの作品のほとんどが落選したことに憤慨したクールベは,入選した作品も撤去して,官設展に対抗するかたちで「ル・レアリスム展」と題した個展を開催している。まったく不評に終わった個展であったが,画家の目,すなわち画家の主観がいかに重要であるのかを主張した言葉として,美術史上に近代の幕開けを告げる意味があった。林義明は,「セザニアンとしての生涯を貫き通し」(鳥山敬夫「津にゆかりのある人々(24)林義明」『津市民文化』第10号)たというより,写実の意味を鮮明にしたクールベの心境に近いように思われる。

三重の美術教育史,あるいは洋画の歴史を振り返ったとき,忘れることができない林義明が,再び帰ることのない旅に出てから10年の歳月が経過した。明治23年,和歌山県海南市の奥,上谷という山村で,父安千代,母房枝の次男として,主として果樹園を経営する農家に生まれた林義明が,何の由縁もない三重県の中学校に赴任して,以後この地に根を生やし,88歳の長寿を全うして逝去した。義明の次男・建樹を別として,佐藤昌胤以外,林義明の門を出たという画家を私は知らない。おそらくこのあたりについて精通していないだけのことで,多分実際には多くの画家を育てているのであろうが,誰を輩出したとか,またその人数がといった問題以上に,はるかに多くの美術を愛する人たちを育てたことは間違いない。旧制の三重県津中学校から戦後の三重県立高等学校と名称が代わっても,同一の学校で37年間教鞭をとり,「山羊さん」の愛称で呼ばれた林義明を,今でも慕う教え子は少なくない。美術教育者として果たした役割は小さくない。絵を描く技術を教えられたという人は少数と言ってよい。「絵を制作する心を学んだ」とか「偉大なる人格者に接した」というような言葉を誰もが述べている。

大正8年,山本鼎(1882-1946)が提唱した自由画運動がまたたく間に流行していったという時代を背景としていたとしても,一般的にはお手本を写しとるのが美術の時間であった大正時代から昭和初期に,天候が良ければ屋外に生徒を連れ出して写生をするという義明の指導方法は,画期的であったことは事実である。しかし,そういった方法論さえ問題にしない心の通った美術教育が37年間行われていたようである。そう考えないと理解できない程,教え子たちの義明に対する尊敬の念は強い。

現在では三重県の津といっても知らない人も多く,歴史的財産もほとんど消え去ってしまった「一地方都市」に過ぎないが,津(洞津後に安濃津)は関東への重要な商港として古くから栄え,博多津,難波津とあわせて天下三津と呼ばれていた。江戸時代には大藩であった藤堂藩の城下町として発展し,文化学問の町としても著名であった。藤堂藩の藩校としての歴史を受け継ぐ津中学校もまた,明治大正の頃には名高い中学校であった。だからこそ明治26年に藤島武二が教壇に立ち,東京美術学校創意にあたり助教授に迎えられた藤島の後任者として鹿子木孟郎,そして赤松鱗作といった関西洋画界の重鎮としてその後に活躍した二人の画家が美術教育を担当したのである。

大正3年,東京美術学校(現在の東京芸術大学)師範科に主席で入学し,2年間特待生として毎月8円の支給を受けていた林義明は,主席卒業とまではいかなくとも,おそらく優秀な成績で大正6年,同校を卒業したのであろう。東京池袋の成蹊中学校,宇都宮中学校を経て,大正9年,「期待される指導者」として三重県立津中学校へ赴任したと想像することは難しくない。

高等小学校時代,絵と算術が好きだった少年が,明治41年,和歌山県師範学校本科に入学,美術クラブに入って水彩画を始め,奈良市などに出かけて大下藤次郎(1870-1911)が講師を勤める夏期水彩画講習会に出席して水彩画を学び,その後,斎藤与里(1885-1959)らが講師であった夏期水彩画講習会に参加した頃,油絵の異など一式を買い求め,これを境に水彩画から油彩画を描くことになったのだろう。

大下藤次郎は明治31年,ヨーロッパ旅行の後,水彩画において外光派の画風を確立し,同34年『水彩画之栞』を刊行し,38年には『みづゑ』を創刊,各地で水彩画の講習会を催して,情熱を傾けて後進を指導し,水彩画の普及に尽力した画家であった。斎藤与里は京都において浅井忠,鹿子木孟郎に洋画を学んだ後,明治39年からヨーロッパに滞在,向42年,『日本及び日本人』紙上にセザンヌなど後期印象派を紹介した画家であった。林義明は「自然ほど美しいものはありません。」という大下藤次郎の言葉に感銘を受け,彼らから表現の技法を学び,制作への熱い心を知り,彼らを通じて印象派や後期印象派の画家たちを知り,画家になる夢は膨らみ,心は東京へと飛び,東京美術学校へ入学することを熱望した。和歌山県生まれで,講習会で共に学んだ川口軌外(1892-1966)が明治44年に上京したことも義明を急がせた。和歌山師範学校を卒業しても,最低2年間は小学校へ勤務することを義務付けられていたため,高野山小学校で教壇に立ってから,大正3年,念願の東京美術学校を受験,合格してやっと上京できることになった。

今回の『没後10年記念・自然の精を描く──林義明展』は,林義明の初期から晩年に至る全画業を展観するものであるが,このなかでも特筆すべきことは,大正期の油彩19点,水彩素描10数点が紹介されることである。これらの作品のほとんどは初出,少なくとも三重県では初めて紹介される作品群であろう。最も若い時期の作品は,美校2年のとき伊豆大島に写生に出かけて制作した大正4年頃の『伊豆大島小景』で,全体の雰囲気は暗いが,脂派と称された旧派の作風とは異なり,大づかみに対象を捕らえた画面構成と,渋い色彩の調和は,特待生としても実力を物語っている。『男性ヌード』は田辺至に就いて学んでいた頃の習作であろう。俯瞰した構図の『藁葺の家』も美校時代の,朱系の色彩が美しい作品であり,宇都宮の中学校へ赴任してから周辺の何気ない情景を描いた『宇都宮風景』の連作もまた朱系の色彩と他の色彩との調和をねらった作品群である。耳野卯三郎が「バーミリオンの如く,燃え盛る情熱を君はもっていました。」(「林義明画集」)というように,光を浴びたところには朱系の色彩を配し,影となった暗部には紫で描いたこれらの作品から,当時主流であった外光派の画風の影響を見ることができる。しかし,単に外光派だけでなく,明治末から大正期に登場した美術思潮の影響を受けているのであろう。 明治40年に文展(文部省美術展覧会)が創設されてから,美術界は一気に活気を呈するようになる。一方,明治41年には斎藤与里,42年,高村光太郎,柳敬助,津田青楓,43年,山下新太郎,有島生馬,藤島武二,南薫造,45年,斎藤豊作といったヨーロッパで学んだ画家たちが帰国してくる。明治42年頃から『白樺』の紙上ではヨーロッパの美術が次々と紹介されるという状況のもとで,大正元年,岸田劉生,高村光太郎,斎藤与里,萬鉄五郎らがフュウザン会を起こし,大正3年には反文展を旗印に,有島生馬,石井柏亭,坂本繁二郎,斎藤豊作,津田青楓,山下新太郎といったヨーロッパからの新帰朝者らによって二科会が創立され,翌年には岸田劉生らによって現代美術社主催の第1回美術展(草土社第1回展)が開かれるといったように,美術界は目まぐるしく動いていた。

林義明が東京美術学校に在学していた大正初期には,個人の主観の重要性が説かれ,個性を尊重する自由な零囲気が充満していた。若い画家たちはヨーロッパにおいて展開する印象派,後期印象派などの作風や主張を摂取し,自己の作風を確立しようと躍起になっていた。燃え上がる情熱に満ちた心が踊るような,そんな時代であった。「僕は芸術界の絶対の自由を求めている。従って,芸術家の人格に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて芸術家の唯一箇の人間として考へたいのである。(中略)人が『緑の太陽』を画いても僕は非なりと言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかもしれないからである。(略)」という明治43年,雑誌『スバル』に発表した高村光太郎の「緑色の太陽」が,この時代を象徴している。

村山槐多のような木々の表現,萬鉄五郎のような色彩,河野通勢が描いた同じ筆触の『自画像』のペン画といったように,林義明の作品から様々な影響を読み取ることができるが,誰もがそうであったように時代の嵐を浴びて、義明もまた自己の表現を求めて模索していたことが想像できる。こういった作品の中で,小出楢重のような裸婦デッサン,児島善三郎を思わせる単純化された風景スケッチは,彼ら以上の出来ばえである。

また,大正3年に帰国し,翌年の第2回二科展で特別陳列された安井曾太郎(1888-1955)の滞欧作を見て感銘を受けたのだろう。戦前は独立美術協会,戦後は国画会で活躍した川口軌外と,目白駅近くの安井の画室を数回訪ねたこと。大正5年から二科展に出品し,大正6年に樗牛賞,同7年には二科賞を受賞し以後二科会で活躍した林倭衛(1895-1945)と親しくなって飲み歩いたことが『林義明画集』の略歴に出てくる。こういったことからも当時の義明の様子を推察できる。

林義明が三重県にやってきた理由は,ゴーガン(1848-1903)の影響であったのかも知れない。大正初期あたりから,文展の日本画家・洋画家も,二科会といった在野洋画家たち,そして国画創作協会の日本画家たちと,どの団体を問わず,志摩の波切を取材している画家は多い。こうして制作された作品を概観すると,土田麦僊(1887-1936)の海女を描いた作品をはじめ,後期印象派,特にゴーガンの影響を発見することは難しくない。菊池契月が沖縄へ出かけたことを合わせて,南紀,志摩,あるいは沖縄の情景を主題にする作家の心境の根底にはゴーガンがタヒチに向かったことと無関係ではなかろう。生まれ育った和歌山ではなく,林義明もまた南紀や志摩の風景を求め,文化的土壌豊かな津の町へ来たものと想像できる。

津中学校に赴任するやいなや,休日にはスケッチ旅行に出かけたのであろう。今回の展覧会にこの時期の『紀伊長島風景』(大正10年頃)が出品されているが,崖を朱や黄色の色彩で表現し,空の青と木々の緑の調和が美しいこの作品は,宇都宮の連作とほぼ同じ傾向を示している。ゴッホの筆触を思わせる『安濃川』(昭和6年頃),モネが積藁をモティーフとして光の変化を追い求めたと同じような『積藁』(昭和6年頃)など,ヨーロッパや日本の近代の画家が行った表現様式を試みたりしているが,セザンヌの「モティーフ狩り」のように数多くの風景画を手掛けるなかで,セザンヌが自然を対象に画面を構成していったことと離別し,また後期印象派のような激しさを伴った色彩とも異なる杯義明独自の道を歩み始めたように考えられる。 画面にしばしば登場していた人物が姿を消した頃,墨のかわりに油彩画の筆を持ち,油彩画によって南画を描くような画境に至り,風景画家として,日本人としての風雅な詩情を表現することに腐心するようになったのだろう。『唐黍の丘』(昭和12年),『赤松』(昭和13年)を経て,昭和15年に制作の『淵』,『志摩の丘(波切)』に至り,主題とする自然と自己との関係が明確になったようだ。「窓のない家に座り,天井を打抜いて独り青空を眺めよう」とか「ただ独り,沈黙するとき,自然は話しかけてくれる。かえって賑やかだ。実の神は孤独の魂にだけその秘密を見せてくれるようだ。」という言葉からすると,林義明の自然観には「自然讃仰」が最も適った言葉であるかもしれない。しかし,美しいと感じた自然を,そのまま再現することでは表現の意味がない。風景を写しとった絵を見るより,実際に美しい大自然を観照する性うがはるかに良いに決まっている。自然に魅了された心境は理解できるとしても,休日になれば写生に出かけなければならない境地は,もう常人の域を脱している。

教え子が「風景画家としての先生の執念というか,自然観照の極まるところに漂う鬼気というか,そのような厳粛なものさえ感じられた。」(岩津資雄『油彩のさび──林先生の芸術境』(林義明画集」)と記している事実から想像するしかない。義明に師事した佐藤昌胤が「自然を愛すると言うより,自然を礼讃する信仰にも近い精神は,人間社会の虚偽に満ちた機構に背を向け,ひたすら自分一人の道をゆく孤独な世界に没入することは,容易に考えることが出来るのです。」と述べているが,私には容易に考えることができない。

林義明の作品を見て,決して上手であるとは思わない。明確な造形理念が存在するとも思えない。そして,時代がどのように移り変わろうとも,義明の表現は昭和10年代以降それほど大きな変化が見られない。しかし,自然のなかに自己を埋没することによって獲得した自然の精を画面に表現した林義明の作品には,いつまでも色褪せることのない渋い美しさが満ちている。

(もりもと・たかし 三重県立美術館学芸員)

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