このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > 林義明-その周辺について 陰里鐵郎  林義明展図録

林義明───その周辺について

陰里鉄郎

私は生前の林義明氏をしらない。また生前にその作品に接する機会も一度もなかった。ただ,外山卯三郎氏の著書『日本洋画史』(第3巻,昭和54年刊)においてその名を知っていたにすぎない。外山氏はこの本の第9章を「中村彝と林義明の芸術───自然に徴する二つの芸術」という表題で記述していた。この本とて林氏歿後の刊行でその記述が林氏の生前か歿後かは詳らかではないが,いずれにしても私は林氏を生前にはまったく知らなかったということになる。林氏の作品に初めて接したのは,歿後3年たった昭和56年のことであった。三重県立美術館の開館を間近かにひかえて,その収集活動が活(ぱつ)になっていた時期であった。林氏のお宅を訪問して千代未亡人に面会し,多数の遺作を拝見したのであった。県立美術館はその直後に正規の手続きをへて遺作3点(〈赤松〉〈大洞山〉〈倶留尊山〉)を購入,また千代未亡人ほかご遺族のご厚意によって10点の寄贈をうけ,計13点が館収蔵となったのであった。そしていま,林氏の歿後10年を記念し,遺作による回顧展を開くはこびとなった。

画家,教育家林義明について多くを識らない私は,ここで,その年譜にしたがいながらその周辺,とくにその初期の周辺を素描することによって林義明像の一端でもあきらかにできればと考えている。年譜の主として前半期に林の周辺に登場する画家たちや事項について思いつくままに記してみよう。

和歌山県海南市郊外の農家に生まれ育ち,絵と算術が好きであった少年林義明が青年期になってあらためて絵画,それも洋画に目ざめたのは和歌山師範学校の学生時代であったようである。年譜によれば明治41年(1908)に美術クラブに入り,初めて水彩画を知ったと記されている。林義明年書普は,これまでに米寿記念展図録(昭和52年),遺作展図録(昭和56年)にそれぞれ作成されているが,それらはいずれも,これらの展覧会図録に先立って刊行された『林義明画集』(昭和42年7月刊)に収録されている画家自身の手記と思われる「略歴」に塞いているようである。この「略歴」は,単純な事実だけを記した年譜と異り,いわば“読む年譜”回想記になっていて興味ふかいのでこの「略歴」をも手がかりの対象にしたい。

明治41年の条に,「水彩画を知る。みずゑ誌第1号より愛読青木繁,坂本繁二郎等の人と作品に感心,切りぬいて額に入れたりした」とあり,つづく明治42年8月,奈良市,大津市での洋画夏期講習会に出席し,大下藤次郎に水彩画の指導を受けたことが記されている。ここで,事実関係だけについていえば,雑誌『みずゑ』の第1号から50号まで(明治38-42)に掲載されている図版は,少数のイギリス水彩画家の作品を除けば,大下,丸山晩霞,真野紀太郎,三宅克己といった当時の水彩画家たちの作品だけで,例外的に歿後間もない浅井忠の作が2回ほど掲載されているだけである。青木,坂本というのはおそらく林自身の記憶違いであったと思われるが,もし雑誌から切りぬいたとすれば『美術新報』(明治35年創刊)あたりではなかったかと推察される。いまひとつの記憶違い(したがって記述違い)は,明治42年「奈良市及び大津市における洋画夏期講習会」である。大下藤次郎は稀有な記録家で,日記ほか丹念な記録をその短かい生涯のうちに多数のこしており,その一部は大下年譜(『みずゑ』900号など)など引用されているが,それらを参照すれば,大下が奈良で水彩画講習会を開いたのは明治41年8月(3日~16日)で,場所は奈良県師範学校においてであった。この夏期水彩画講習会は明治39年青梅,40年大阪女子師範学校につづく第3回講習会であった。林のいう明治42年夏は鎌倉市で開かれており,滋賀県において開かれたのは明治43年夏,膳所の中学校においてである。林は,あるいは41年の奈良,43年の膳所での講習会に参加したのではないかと想像されるが,奈良のときには3府25県から85名の出席者であったと記録されている。ただし,どういう訳か出席者名簿のなかには林義明の名は見出せない。

いささか瑣事にこだわりすぎた感があるが事実を確認しておきたかっただけで他意はない。ここで事実として大きな意味をもつのは,林もまたこの時期の他の多くの地方の美術青年と同じように水彩画によって絵画,なかんずく洋画に開眼したことである。明治30年代後半から40年代初めにかけての水彩画の普及が秀れた青年画家たちを生み出した例は枚挙にいとまがないほどであるが,わが林青年もまたそのひとりであった。そして林の対自然観,自然感情の根底の部分がこの時期に形成されたのではないかと私は想像する。その後の林の表現などに直接にはあらわれてはいないし様式は大いに異るが,思想というより心情として熱烈な自然讃仰,旅による自然への親和,詩的情感といった面で大下のそれに近い感じをもたされるのである。

「略歴」または年譜にもどると,明治43年奈良市の夏期洋画講習会に出席,44年和歌山市で洋画講習会を主催,開催,と記されている。そしてその講師に森田亀之助,柳敬助,斎藤与里,本間国雄といった名前がみえている。斎藤を除けば,ほかは最近ではあまり耳にしない画家たちであるが,森田は東京美術学校で岩村透に学び,その後,同校で西洋美術史を講じ,晩年は金沢美術工芸大学長であった。柳敬助は美術学校を中退して渡米,渡欧,明治42年帰国,この時期の新帰朝画家,関東大震災の年に歿し,遺作展の最中に震災にみまわれ,ごく僅かの遺作しかのこされていない。本間国雄は,文学者で早大教授本間久雄の実弟で,大正初年のフュウザン会に参加してその名を洋画史にのこしているが東京日日新聞の美術記者でもあった(網淵謙錠『血と血糊のあいだ』所収の「幽霊画家を追跡せよ」に委しい)。

奈良市の洋画講習会については未だ確めていないのでわからないが,上記のような講師名をみれば,明治最末期の文芸界の変革,世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ芸術の紹介移入による変革の波が,彼らによって紀伊半島にまでもたらされ,林青年もその洗礼をあびていたことがうかがえる。こうして林義明は師範学校卒業生の義務をはたしたあと上京,東京美術学校図画師範科に入学,そして卒業している。

美術学校時代のこと,その交友関係者にも興味ふかいいくつかのことがある。図画師範科は,主として学校制度のなかの中等教育における美術教師育成のために明治40年に設置され,修学期間は3年であった。株の美校時代は第一次世界大戦の期間とかさなるが戦火は遠いかなたのことで,国内の美術界は変化にとむ時期を迎えていた。二科会,再興日本美術院(洋画部)が発足し,草土社も始まる。林もこれらをことごとく見たであろう。美術学校の同科の同級生にはのちに林が津中学校へ赴任してきたときに三重県立神戸中学校の図画教師でいた松田義之(のち東京美術学校教授)がいた。親しくなった曽宮一念,寺内万次郎,耳野卯三郎らは西洋画科,同郷の保田竜門も西洋画科に在籍していた。林はまた村山槐多,林倭衛との交友を記しているが,村山とは保田や川口軌外を通しての日本美術院研究所での知己であったのであろうか。それらよりも私の興味をひくのは,安井曽太郎のアトリエを訪問したという記録である。安井は帰国した翌年の大正4年,第2回二科展に滞欧作品を特別出品して若い画家たちに衝撃を与えたのであったが,その作品のなかにはセザンヌの影響をつよく示したものが含まれていたはずである。林がセザンヌを識ったのは誌上や画集によったかもしれないが安井を通してのセザンヌはどうだったのであろうか。セザンヌといえば林倭衛は大正末期にヨーロッパへ赴き,晩年のセザンヌの制作地エクスに滞在して風景を多く描いている。それらの作品はセザンヌの「境域」に入れるべきと評されたりしているが,林義明は後年とはいえそれらの作品をみたとすればどのような感想をいだいたであろうか。ふとそうしたことを想像したくなる。紙白がつきたが,林の晩年の写生帳の片隅につぎのような句が記されていた。

きりきしに咲きて甘草   時化に堪え

大時化のなかでも断崖で海に向って健気に咲いている甘草のありように林は自己の姿を見出していたのであろうか。

(三重県立美術館長)

ページID:000056513