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長谷川利行年譜

東俊郎/編

1891年(明治24)  7月9日、京都山科に五人兄弟の三男として生まれる(出生届けの本籍は京都府久世郡淀下津町104番戸)。なお長男は不明だが、次男利一は1887(明治20)年8月2日に、四男利邦は1894(明治27)年8月20日に、そして五男清は1902(明治38)年に生まれている。

 安政四年生まれの父長谷川利其(としその)は伏見警察署に勤務、母照子(戸籍ではテル)。祖父軍二は淀藩稲葉家に召しかかえられた俳諧師で南陽の俳号をもつ。紀州田辺に住んでいたこともあり、父もまた其南の俳号をもっていた。また母照子は淀藩御典医小林家の出という。

父 長谷川利其
3−神田駿河台にニコライ堂が開堂。神領錦町の電気パノラマ館開業。
6−岸田劉生、須田國太郎生まれる。
9−日本鉄道の上野青森間全通。片道26時間半。
この年川上音二郎一座が上京、オッペケペー節が大流行。
1906年(明治39)
15歳
和歌山県有田郡広村西浜(現・湯浅町)にある私立耐久中学(現・県立耐久高校)に入学。 2−日本平民党と日本社会党が合同。
3−上野に帝国図書館開館。
12−救世軍が東京府下貧民約千人に慰問篭を贈り、以後恒例化する。
1907年(明治40)
16歳
 6月、母照子逝去。(一説には1910年)

 耐久中学の雑誌『三一会会報』4号(8月発行)に「快楽と悲哀」を掲載。中学時代の利行は絵も好きだったが、それ以上に文学青年だった。

「同級生間の噂では、全くの高踏派、水彩画は群を抜いて上手、短歌も作るとのことで、一見旧知の如しで、それからは全く心置きなく話し合うやうになりました。…長谷川君は、近くの広村の下宿から通学してゐました。小生は寄宿舎生活で、当時の舎費としての生活費は一ケ月四円五十銭から五円までと云ふ時代でした。その寄宿舎は、松林と芦荻の入りまじつたジャングルの中でした。…二年が終り三年になりましたが、甲乙二組に別れたままで、同じ教室ではなかつたので、学習の英漢数等の成績は私にはわかりませんでした。ただ一年に二回ほどある学業成績発表の折りの利行君の水彩画は、全く群をぬきん出て秀抜で、一級上の守野綱一君の書と好一対でした。長谷川君は全くの高踏派で、俗人はハナも引つかけないと云ふ風で、当時若山牧水ばりの短歌をつくつてる(い)た小生ぐらいが、辛うじて話してもらえる位でした」(薗悌次郎「思ひの記」)。
1−東京株式相場暴落。日刊『平民新聞』創刊。 3−上野公薗で東京勧業博覧会。
10−第1回文展。
1908年(明治41)
17歳
 3年のとき、同学年生薗悌次郎、紀南新聞記者井上豊太郎、浜田峯太郎とで同人雑誌を発行。小説、詩、短歌など多作する。「当時、長谷川君は繁児と云ふ奇妙な雅号で、その因縁を問ひただしても答えず、ただ恋人に因めるものを云つたやうに思ふ」(薗悌次郎「思ひの記」)。

 雑誌を機縁に上級生金沢種美と交友。「絵を習つてゐるといふことであつたが、私達が知り合つたのは共に文学少年としてであつた。彼が紀州の耐久中学生でゐながら小さな雑誌を出してゐたのに、友人の紹介で歌や評論を寄せたのが、私と彼との繁りである。彼は時に歌も詠んだが、最もその才能をみせたのは創作であつた。これが田舎の中学生の作品かと思はれるほどコクのある作品を書いたが、文章には可成り飛躍性があつて晦渋に陥つてゐるとおもへるものもなくはなかつたが、彼が順調に素養を積めば恐るべき作家にならうと思つたのだが、何時の間にやら雑誌も廃刊して爾後消息を不通にしてしまつた」(金沢種美。出典不詳で、高崎正男『長谷川利行画集』明治美術研究所刊から引用)。

 夏休みには帰郷せず、同人雑誌仲間と浜田峯太郎の実家、日高郡和田村和田に遊ぶ。
11−東京市立日比谷図書館が開館。
12−木下杢太郎、北原白秋ら「パンの会」結成。
1909年(明治42)
18歳
 利行、冬休みの後に耐久中学を中退か。「かくして明治四十二年になったが、其冬休みを境にして、利行君は全く学校に姿を見せなくなつた。友人たちとも、いろいろ話し合つたが、失恋のためとかの噂が流れて、そのままに利行君の記憶は、同級生の誰からも消えて行つてしまひました」(薗悌次郎「思ひの記」)。 6−両国に国技館完成。
11−伊藤博文国葬さる。
12−日本橋丸善が日本初の鉄筋ビル建築。
この年東京の映画館は約70。浅草六区、本所、深川に集中。
この年東京市中の自動車は38台。
1911年(明治44)
20歳
 8月21日から一過間、『みづゑ』主催水彩夏期講習会に参加。「幼い時敦賀で兩親と一年程生活したといふ、しかし私にはそんな記憶はさらさらない。畫を描く人の幸福は、敦賀の町と敦賀の海と懐かしい海のトレモロを聞くことを、北國のローカルカラーを景色の曲線美と色彩に富めることを賞美措く能はずであらう…」、「水彩畫の講習の成蹟はどうであらうと、私には敦賀の風景畫を讃美せずには居られない、私にデッサンを充分ならしめよ、おまへには必と握手してやると再會を約束したのである、自然に忠實であるはづの私に少くとも檜筆を持つことのいま少しく親しみたく思ひ到つた、未熟な畫生はいたづらに奔走するよりも檜畫の根本的研究をやり、色彩を離れて自然の肖像を畫き。とる丈の素養を養成して置きたく切に思つた。アマチュアで結構、凡人畫工で結構、或はペンキ屋の畫工でもよい、私には尊重すべき品性問題より口考した水彩畫そのものに愛着やみがたい、憧がれ人の文明の恩浴をもの新らしく知覺したのである」(利行「敦賀の所感」)。この「敦賀の所感」中に短歌五首が載り、そこでは「繁児」という雅号をつかっている。 1−生田長江訳ニ−チェ『ツァラトウストラ』
3−京橋日吉町に「カフェ・プランタン」開店。また「カフェ・パウリスタ」が京橋南鍋町に、「カフェ・ライオン」が銀座尾張町に開店。帝国劇場が完成。
 9−イプセン『人形の家』初演。
11−浅草金龍館で『ジゴマ』初演。
1919年(大正8)
28歳
 9月、私家版歌集『長谷川木葦集』を刊行。巻頭序歌として生田蝶介の「やぶさやぐ音をきゝつゝひねもすを思ひくらす児にふくな秋風」を戴くこの短歌集の出版所は博文館印刷所となっており、すでにこれ以前から利行は博文館の『講談雑誌』短歌欄の投書でしばしば入賞したことが機となって編集責任者だった生田蝶介を知っていて、生田となんらかの交渉があったと推測される。
20歳代半ば頃
10−第1回帝展。この頃浅・遂燉エ館オペラにのりだす。浅草で洋画上映は電気館、帝国館、キネマ倶楽部の3館。安来節ブームはじまる。前年来流行のスペイン風邪による死者約15万人。
1921年(大正10)
30歳
 この頃時折上京。生田蝶介との縁で『講談雑誌』に大衆小説「浄瑠璃坂の仇討」を発表する。
生田の門人で大日本印刷の植字工をしていた千葉文二(青花)から早稲田の予科生だった矢野文夫を紹介される。

「初対面の利行はすでに三十近い年齢で、陰気で口数も少なく、東海道五十三次を、テント旅行でスケッチして歩いた、などと話した。一緒に、駿河台下の『カフェ・パウリスタ』でコーヒーを飲んだのであるが、利行は一隅に十五号位のカンバスを画架に立てかけ、一瀉千里の勢いでカフェの内部を描いた。それは、嵐のような烈しい筆勢であった。その時は、三原色だけでなく、ガランスやエメラルドやブラックをふんだんに使用していたように思う。…その時、あした京都に帰るといっていたので、東京に定住していたわけではないらしい」(矢野文夫『長谷川利行』)。

 やはり『講談雑誌』の挿絵画家だった岩田専太郎、蜂谷吉之助を知る。
4−神田駿河台に西村伊作ら文化学院を創立。
11−東京駅で原敬暗殺。
12−銀座の柳が銀杏に植え替え。
1923(大正12)
32歳
 この頃、父親には麻布獣医学校にいっているといつわり仕送りをうける。

 2月、第4回新光洋画会第1回作品公募に《田端変電所》(cat.no.2)が入選し、横井礼市に認められる。「東京に来てから竹の台で絵を並べてくれたのは、新光洋画会第一回作品公募に勝手に持ち込んだ二枚だけだ。…横井礼市画伯が、『新光感想』で一寸認めて下さつたのは、東京時事で知つた。僕はいろいろの情実や関係が皆無なものだから、二科や春陽会その他であいてにされない傾がみえる」(利行「踊り手の実行性」)。

 かつて師弟の礼をとったことさえあった生田蝶介とは疎遠になり往来がとだえる。「氏が僕には実際でないやうな気がするから云ふんだが、僕の実行生活上、君たちの迫害や広い寛ろぎ心といつたものは第二義的なもので如何にも従前通りの藝術家らしいすべてである。だから宣言をする、甚い弱小藝術を誇る、それが何だ。要するに本当の事だけの仕事をして、いのちの無駄遣ひをやめる」(利行「踊り手の実行性」)。

 またこんなことも語っている。「絵を描くことは、生きることに値すると云ふ人は多いが、生きることは絵を描くことに価するか。絵の生活は、たゆまぬ努力が働きかくる。精神は、自我以上の、超越さや、その奥深さで償はれるものと覚悟して置きたい」。「自我がよいのではない、自我以上の自然の瞬息があつて、その底力から燃え立つて、たたなはる」(利行「ある感想」)。

 後年天城俊彦がかいた文中に「上京してから、二三年間の作品では、ゴッホの線描を模して、アンリ・ルツソー風なモチーフで描いた少女像がある。十号大の厚いゴツゴツした布に描いたもので、持ちあるくにも重いほど絵具が使つてある」(「長谷川利行の藝術」)とあるが、これは今回出品された《裸婦・饗宴》(cat.no.1)か。

 この年二科展、春陽会展に応募したが落選。

 9月1日、関東大震災。この時利行は東京にいて被災。焼け跡をさまよって、凄惨な風景を目撃した。
 11月、個人雑誌『火岸』第一輯『大火の岸に距りて歌へる』を市外日暮里625の仮寓より自費出版。その後京都へ戻る。
 2−丸ビル完成。
 9−ライト設計の帝国ホテル開館。
 9−関東大震災。死者行方不明者9万余人、全壊焼失46万戸。2日東京市ほか5郡に戒厳令が出され、3日東京府ほかにも適用。9日本所被服廠跡で焼死した32000人の合同法要。
1924年(大正13)
33歳
 家族と別居して京都市伏見稲荷神社前の二階建て木造アパート「稲荷倶楽部」の一室に住む。院展の画家後藤芳仙を知り交友、東山区林下町の後藤宅に頻繁に通う。この年から翌年にかけ、一乗寺付近、銀閣寺裏、北白川などの貸家に住む。「『稲荷倶楽部』から、利行は一乗寺辺の小さな貸間に引越した。ろくな荷物もなかった。貧しい、暗い生活であった。後藤氏の知る限りでは、妻もなく子もなく、愛人のいたらしい形跡もない。全くの孤独の生活であった」。「利行は銀閣寺近くの白川辺に、一軒の貸家を借りた。…そして、奥へ通じる通路の荒壁に、小学生の描いたクレヨンのスケッチが、無数にピンで貼りつけてあった。『これは、最高のお手本です』と、利行は後藤氏に言ったという」(矢野文夫『長谷川利行』)。 1−上野公園・動物園が市営となる。
4−東京の15新聞社が米国の排日移民法に反対して共同宣言。
6−築地小劇場開場。
10−荒川放水路の通水式。MAVO設計のパー・オララ銀座に開店。カフェー・タイガー銀座に開店。
1925年(大正14)
34歳
 二科展、帝展に応募したが落選がつづく。この頃、関西日日新聞主催の「無名画展」に出品、また大l坂府主催の「第3回大阪藝術展lで受賞。 4−普通選挙法成立。
5−治安維持法施行。
6−警視庁が流行するダンスの取締強化。
7−ラジオ本放送始まる。この年東京の聴取契約者約13万人。
9−東京六大学野球リーグ戦はじまる。
11−山手線環状運転開始。
12−農民労働党結成、即日禁止。
1926年(大正15)
35歳
 ふたたび上京、日暮里の日蓮宗中山派の修練所離れに落ちつく。「京成電車の道灌山駅から近く、トンボハーモニカ工場の門前に、日蓮宗中山派の修練所と云う建物があって、長谷川はその建物に付属した二間ばかりの汚い離れに住んでいた。玄関を上ると上り框からとっつきの四畳半一杯に、白い紙が散乱していて、足の踏み場もない」(矢野文夫『放水路落日』)。熊谷登久平もおなじ光景を眼にしている。「長谷川は道観山から日暮里にでる、日暮里と田端の中間の三角州のどぶ川にとりまかれた、日蓮宗中山派の寺の物置小屋に棲んでいた。五燭の電灯が一つ十二畳ほどの室内は古新聞と古雑誌、それに石油箱がテーブルがわりにおかれ、七輪とばけつ、盲縞の夜具が、古雑誌のかげに三つ折りにしてあった。長谷川はここに一時から朝の五時まで休息していたのだ。雨が降ろうが雪が降ろうが、彼は足のむくまま親しい人のところを一日中歩いていた。寺からは太鼓の音と、中山派の鋭い読経の声が、一日中聞こえていた」(熊谷登久平「長谷川利行」)。

 9月、第13回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《田端電信所》初入選。「一番最初、二科の審査で長谷川利行の絵を支持されたのは正宗先生だけだった。ほとんどの先生方が嫌っているのに、正宗先生だけが激賞して一歩も後に引こうとされないので、末輩の私など、ただおろおろするばかりだった。/とうとうがん張り通して入選はしたものの、他の先生方は恐らく後味の悪い思いをされたことだろう」(東郷青児「長谷川利行の足」)。

 10月、第7回帝国美術院展覧会(10.16−20 東京府美術館)に《廃道》を出品。この作品はのち部屋代の滞納により家主の和尚に差し押さえられる。

 この頃まだ郷里の父より月30円の仕送りをうけている。
    長谷川利行《廃道》
1−共同印刷争議はじまる。 5−上野に東京府美術館落成。
8−日本放送協会設立。
12−昭和と改元。
この年、円タク登場。改造社『現代日本文学全集』円本ブームの始まり。モガの断髪流行。
1927年(昭和2)
36歳
 6月、1930年協会第2回展(6,17−30 上野日本美術協会)。一般公募もはじまり、《公園地帯》《陸橋みち》(cat.no.5)《郊外》の3点入選する。「長谷川利行君の三点と喜多善之君の『石橋』は佐伯が大いに好んだ作品だ」(前田寛治「一九三○年協会展評」)。

 9月、第14回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《酒売場》(cat.no.6)《鉄管のある工場》《麦酒室》を出品、樗牛賞を受賞。「長谷川利行氏、面白い処はあるが絵具がカンバスに喰つつかずに混乱してる」(宮坂勝「二科展評」)。「長谷川利行氏のものは可成り強烈でゼレニウスキー氏を凌いで居る」(前円寛治「優位に主観主義の作家−二科批評」)。

 二科展入賞のこの3点はヤマサ醤油社長の浜口儀兵衛に買い上げられる。

 初秋、久しく会っていなかった矢野文夫に再会。以後連日のように矢野が根津藍染町に借りていた下宿「清秀館」を訪ねる。画家としても認められはじめた利行のもっとも景気のよかった時期で、「白絣に絽の羽織、扇子を片手に持ち、どこか若旦那のような恰好で、浅草ひさご通りの牛屋『米久』をおごったりした」(矢野文夫『長谷川利行』)。

 しかしその日暮里の仮寓のありさまはというと、京都の下宿時代とおなじで、ほとんど住居としての態をなしていない。「昭和の二年頃、ある日そこに行ってみると、部屋の中一面に白いものが散らばっている。近よって、よく見ると、それは白いデッサンの紙が一めんに雪のように散らばっていたわけである。足の踏み場もない。利行はどこにいるかというと、部屋の一隅にテントを張って、その中で、新聞紙にくるまって寝ていた。布団らしいものは一枚もない。(新聞紙にくるまってると結構暖かいんだ)と利行は云った。どうして家の中にテントなんか張るんだといったら、(雨が漏ってしようがないんだ)と答えて微かに笑った。そこいら辺に雑然と七輪がありバケツがあり、そこで魚を焼いたり、米を炊いたり、自炊していたのです」(矢野文夫「利行の放浪生活」)。

 矢野との再会の直後、矢野をつうじて画家熊谷登久平を知る。熊谷は矢野の下宿にほどちかい根津片町の洋食屋「北洲亭」の裏の家に下宿していた(それを9月、と矢野はいっているが一方熊谷のほうは大正15年の5月と、食い違いがある。そして熊谷が初音町の豊島という下宿屋に引っ越した後を追って、利行もすぐ近所の福井という下宿屋に間借りすることになる)。「彼は私を吾妻橋のビヤホールに誘ひ、浅草のカフェ・オリエントに誘ふやうになつた。二人は画布と絵具籍を肩にして、月の半分を、この二つの店や、当時、隆盛であつた安来節の小屋で、絵をかいたものである。酒気をおびた彼は、安来節のはやしがとても愉快であつたらしく、三昧や太鼓に、合はせて、唄ひながら絵をかいてゐた」。「三河島の曲馬に、町屋の火葬場に、玉ノ井の裏のめい酒屋に浅草の神谷バーに、千住の瓦斯タンクの横丁に、彼はガランスを塗り、エメラルドを塗り白を塗つてゐた。しかも子供のように無心に喜びをもつて。日ぐれ、エメラルドやガテンスに輝く絵をテーブルにのせて酒を注文する彼は、実に他のみる目もうらやましい程、うれしさうであつた」(熊谷登久平「長谷川利行と私」)。

 利行はこの矢野、熊谷と「浅草から墨田川の土手を歩いて、三囲、水神の森、堀切、尾久、南千住、町屋、関屋と写生をした」。そして夜は「三岩酒場とか泡盛屋などで下地をつけて、酔った勢いで上野山下の『カフェ三橋亭』に通った」りする生活がつづいた(矢野文夫『長谷川利行』)。

 やはり矢野の紹介で高橋新吉を知るのもこの頃か。「初めて長谷川君に逢ったのは、十六、七年も前で谷中の逢初町の角にあった、下宿であった。…長谷川君は当時は血色も好く、第一印象では平凡な事務的な人間のやうに見えた。晩年の長谷川君は、去勢された人間みたいに無気力で、失語症とでも言ふか、言葉と脳髄の働きが一致してゐないやうな談話振りであつたが、…」(高橋新吉「長谷川利行追悼」)。「宮崎というモデルやが、三崎町辺にあったが、そこで、モデルをやとって、中村(注:中村金作のこと)の部屋で、長谷川や私など五,六人で、よくデッサンをしたのであった。モデル代は割勘で払っていたように思う。長谷川の、欲のない笑い顔を思い泛べることができる。裸の若い女を、ミカン箱の上にかけさせて、色々のポーズをさせて、描くのである。長谷川が、白い画用紙に、鉛筆を走らせながら、奇声を発していたのも、昨日のように、鮮やかな思い出である」(高橋新吉「長谷川利行と下町」)。「奇声」とは、口を手で隠し、しなをつくってホホホと笑って薄気味悪がらせた笑い声のことだろう。そういえば利行はどんなときも膝をくずさず正座したし、「ボロ襖を閉めるのに、小笠原流に女のような所作をしたり、山妻の出すお茶をうやうやしく受け取ったり、野人無頼の私には些か気味の悪いふしがあった」(小森盛り「長谷川利行の奇怪さ」)。

 11月、大調和展に落選。朝日新聞に「反大調和展」を投稿。

 11月、「長谷川利行、熊谷徳兵衛油絵個人展」(彩美堂・木秋社、11.20−30)が開かれる。これは大調和展に落ちた作品を陳列したもので、これを1930年協会を設立した前田寛治と、やはり1930年協会会員でこの年の二科賞を受賞した里見勝蔵が見に訪れ、それが縁で里見の知遇を得て家にも遊びに行ったようである。

 また根津藍染町から下谷根岸に通じるだらだら坂に額縁屋「彩美堂」があって、そこに利行はいつの頃からか親しく出入りするようになった。この年の『美之國』11月号の個人消息欄に彩美堂を通して6号50円、10号100円の予約販売をする旨の告知がある。
2−新宿御苑で大正天皇の葬儀。
3−渡辺銀行休業など、金融恐慌はじまる。
5−萬鉄五郎歿。
7−岩波文庫刊行はじまる。芥川龍之介自殺。
8−銀座のカフェ、酒場などでモダンボーイ150人検挙。
11−初の明治節で、明治神宮の参拝者が昼は50万人、夜は30万人。
12−上野浅草間に日本初の地下鉄開通。
1928年(昭和3)
37歳
 2月、1930年協会第3回展(2.11−26 上野日本美術協会)に《瓦斯会社》(cat.no.8)《地下鉄道》(cat.no.11)《詩人Y氏像》を出品し、協会奨励賞を受賞する。「長谷川利行。いい意味の感興の仕事。実に必然な表現、広い意味からは偏つて居るが何もかもそなはつて居る」(林武「一九三○年協会一般出品画連評」)。

 またこのとき同時に協会奨励賞を受賞した藤川栄子、その夫藤川勇造と知り合う。「ある晩主人に来客があって、みんなでジョニー・ウォーカーを飲んでいました。当時は高価なお酒でしたが、そこへ突然長谷川さんがやって来ました。みんなが飲んでいるそばでしばらくすわっていましたが、急に『私、これ静物に描くから。』と言って、みんなが飲んでいるのに、それを抱えて表へ逃け出したんでもみんなあきれていましたね」(藤川栄子「長谷川さんの思い出」)。ちなみにこの年の二科展に出品した《頭蓋骨のある静物》(cat.no.17)には洋酒瓶が描かれている。

 9月、第15回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《カフェ・オリエント》《頭蓋骨のある静物》《夏の遊園地》出品。「敢て欠点丈けを云ふならば長谷川利行氏のものは全部を白熱化させようとする彩色が白熱化される物質の存在を無視してゐる為に実在性を失つて外交派形体に傾いてゐる。あの画面中一尺四方でよいから物質そのものゝ触感をはめ込まなければならないと思ふ」。「長谷川利行氏の大作については初頭欠点丈けを挙げたが〈カフェー・オリエント〉其他何れもパツシオンに満ちた作品である」(前田寛治「二科展総評」)。「私は時々外の人の興味をもてない作品に美点を感ずることがある。今年の二科会出品画中余り人の好感を寄せない長谷川利行君の作品にも或佳い点を見つける。あの絵は一見すると乱暴に見えるが、あれで他の出品画よりは中心があるのだから其意味で出鱈目ではない。…長谷川君の三点中〈カツフエ・オリエンタル〉はあれで画面の絵具の着き具合もいゝ。地色を塗ったカンバスの色に色彩が調和してゐる。そして、あそこに用ひた朱だとか青とか黄とかの絵具は生だが絵具臭くなく、見えるのがよい。…長谷川は色彩家であり、筆触に感動がある。何を描いたか分らない、が長谷川の心のリズムと、色彩の感激は認める。髑髏のある静物も悪くない、色のコントラストに天才を認める。君が今少し静かに更に正実に勉強すればよくなると思ふ」(正宗得三郎「私感」)。「長谷川利行氏 夏の遊園地。数種の原色を飛散らしてネオ・アンプレショニズムの如くあるが、更らに感覚的であり、自己陶酔がある。キヤフエ・オリエント。 こゝにも長谷川君の詩を見るが、画の張り方がゆるんでゐる如く画面がたるんで見える。欧洲の画は全画面が緊張してゐる」(里見勝蔵「二科会鑑賞記」)。「長谷川利行氏。此人には三点を通じて生きたいい感覚を見る。作画態度もいい。〈カフェオリエント〉最もよく熱と美しさを買う」(中山巍「二科連評」)。

 カフェ・オリエントは当時廣養軒とならんで浅草有数のカフェ。利行は矢野文夫とともにしばしばこの店を訪ねる。

 一方井上長三郎との交友もはじまっている。
「いまの芸大の裏道で長谷川利行に会ったのは1928年の晩秋だったろうか。その時彼は袷の着物に靴をはいていた。この身なりはその頃の私の眼にもはなはだ古風に思えた。日焼けした顔には明治調のヒゲをたくわえ威厳があった。彼は絵を巻いた風呂敷包みをかついで商売の帰りらしく見えた。…彼は上方の人らしく優しく叮嚀であった。ある日、上野の帰り靉光と私は長谷川に広小路の五十番で御馳走になったが、その支払いが五円だったので私たちは恐縮したのを覚えている。五円はその頃の私達のひと月の食費に当たる金額だったからである。その夜私たちは靉光の所に泊り、翌朝長谷川は靉光の古キャンに彼のパレットを使って約三十分くらいで〈靉光像〉を描いた」(井上長三郎「リベラリスト長谷川利行」)

 この頃、『美之國』婦人記者花岡千枝に恋慕するという。
   長谷川利行《瓦斯会社》
2−最初の普通選挙。
6−張作霖爆殺事件。
8−佐伯祐三パリで客死。
11−第1回プロレタリア美術大展覧会(東京府美術館)。警視庁が18歳末滴の男女ダンスホール入場禁止。年末、新宿に客席1161大型映画館「武蔵野館」新築。この頃から湘南内房総で避暑。
1929年(昭和4)
38歳
 1月、1930年協会第4回展(1,15−30 東京府美術館)に《停留所》《靉光像》(cat.no.15)《汽罐車庫》(cat.no,9)《人物》(cat.no.19)を出品。「長谷川利行氏の〈汽罐車庫〉は黒と赤とのコントラストである、真赤に染め出された地面や車庫に対して黒々の汽罐車がとぐろを巻いて居るのがいらだたしい押さへつけられるような気持ちの詩である。〈停留所〉も一寸よい」(東京朝日新聞)。「長谷川利行氏の〈汽罐車庫〉〈人物〉共にいゝ力感を持つてゐる。然し全体に冷寒で豊富さに乏しい。画材が画面の中央に集まつて寒そうにしてゐる。この欠点が作者の本質的なものでない事を祈る」(中河与一「季節はづれの批評」)。「一般出品では長谷川利行氏の作品が面白い。〈汽罐車庫〉の赤は灼熱的で胸が空く。だが此絵ばかりでなく全体に素描的な厚みが足りないのは此人の最大の欠点」(田口省吾「一九三○年協会展を観る」)。「長谷川利行氏の五点、大作〈汽罐車庫〉は線が弱いのと朱の色が平面なために力が弱い。〈停留所〉〈人物〉が優れてゐると思ふ。これは仲々面白い」〈古賀春江「第四回一九三○年展感」)。

 9月、第16回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《子供》(cat.no.18)《老母》を出品。「長谷川利行氏 今度の画はよくない。感情だけで、智的配置(アランジュマン、アンテレクチュエル)の無い事は許されるにしても、プラスチック(造型的)な探索が殆ど無いために、三つ児の仕事に他ならない」(『美術新論』10月号)。

 諸家がひとしくかたるようにこの昭和2、3、4年ころは彼の藝術が充実した最初の時期だった。もうこの時期になると利行の将来を楽観したのか父からの仕送りも途絶えて、利行は自活の方法をかんがえざるをえなくなっている。日暮里から移って浅草の下層街山谷の簡易宿泊所に住む。

 熊谷登久平の紹介で徳山巍を知ったのもこの頃か。「彼と歩くと必ずと云っていい程雷門にある『カミヤ』の電気ブランを飲みに連れて行かれた。(略)酔うと奥山の木馬館の二階にカジノフォリー(浅草水族館演芸場)にまだ有名にならない〈エノケン〉がギャグの利いたレビューをドタバタやっていてよく見に行ったl(徳山巍「長谷川利行と私」)。
3−大卒の就職難深刻化。
4−映画『大学は出たけれど』が話題に。
5−午砲(ドン)が廃止されサイレンに。
7−新宿武蔵野館でトーキー導入による楽師解雇騒動。浅草六区の「水族館」に歌劇団カジノ・フォリー発足。
12−川端康成『浅草紅団』東京朝日新聞に連載開始。(翌年5月まで)
この年『東京行進曲』流行する。
1930年(昭和5)
39歳
 3月、第2回聖徳太子奉讃会記念展覧会(3.17−4.14東京府美術館)に《キャッフェの女》を出品。「私が初めて彼を知ったのは、昭和三年の初夏の頃である」と前田夕暮はいうが、おそらく記憶ちがいで、歌人楠田敏郎を介して利行が前田夕暮と面識をえたのはこの年あたり。たちまち利行は前田邸に日参して、無理やり絵をおしつけ金を無心し、それだけでなく肖像画をかかせてほしいと頼みこんだ。

 9月、第17回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《ポートレエ(前田夕暮氏像)》(cat.no.28)《タンク街道》(cat.no.22)を出品。「長谷川利行君は強烈な色線をもつて独自なポートレー、或は風景を描いている」(不破祐正「洋画・彫刻界の新人」)。「長谷川利行〈ポートレー〉自分でやりたい事を直截に勝手にやる人で君程の人は少ない、だから画面はいつも生気に満ちてゐる」(児島善三郎「二科新進作家群評」)。「長谷川利行氏−二点のうち、どちらかと云へば、白つぽい〈ポートレエ〉がいゝ。〈タンク街道〉は題材は面白いのだが、色感は同感し兼ねる。同じ色調の行き方でも、かつて樗牛賞を得た〈酒場〉時代のものとは較べものにならぬ程悪い」(矢野文夫「二科印象」)。

 「瓶にさした紅い薔薇を、その頃私はカンバスに描きかけのまま投げ出しておいた。私の留守に上がりこんだ利行は、この絵を発見して、さっそく筆を入れはじめた。要領よくムダを削って、要所をまとめ、素晴らしい生物画が出来上がった。帰って来て、私はこの絵を見て感嘆した。ふと机の上を見ると、紙片に『絵とはこういう風に描くものです。利行』と走り書きで書き残してあった」(矢野文夫『長谷川利行』)。
3−帝都復興祭。
4−上野駅の地下道に商店街ができる。
6−銀座に美人座など大阪のカフェが進出、濃厚サービスで和服に白エプロンの東京式を圧倒する。
11−浜口雄幸東京駅頭で狙撃される。二科会を脱退した里見勝蔵ら独立美術協会を創立。
12−警視庁がエロ演芸取締規則を通牒。
この年、世界恐慌日本に波及。東京の物価は前年比18%下落。
1931年(昭和6)
40歳
 9月、第18回二科展(9,4−10,4 東京府美術館)に《劇作家(岸田國土氏肖像)》(cat.no.27)《ナチュール・モルト》を出品。「長谷川氏の二作は威圧的にいゝ、若し之が十年前に現はれたら問題の作となり得たらう。簡単な物品を簡単に配置して妙味を出す技巧はなほ将来の完成を暗示する」(福沢一郎「二科評」)。「匂ひのたゞよふ位鋭い描写喜んで賛意を呈する」(三岸好太郎「二科感想」)。

 この頃、谷中墓地近く初音町の福井宅に引越す。(『美術新論』5月号「消息」に「東京下谷区谷中初音町2ノ5へ移転」)。

 夏頃、「渡仏研学の資の一助とする為」彩美堂で個展と画会をひらく。

 パトロンの一人となった衣笠静夫を知るのもこの頃か。また下谷真島町の太平洋美術学校ちかく、本郷団子坂の茶房「りゝおむ」を発見。31年から34年のあいだに、「りゝおむ」で小品展をひらく。寺田政明を知るようになる。「四十歳前後の長谷川は、ちょうどドヤ街の芸術家という感じであった。リリオムのおやじ中林政吉さんの紹介で私たちはすぐ親しくなった。私の下宿は谷中のモデル坂の墓地に向き合った辻ハウスという化け物屋敷みたいなところであったが、長谷川は私の下宿をたずね、私の作品を観ていろいろと話した末に団子坂近くの飲み屋で『焼ちゅう』を飲み、一層とけ合ったのをおぼえている」。「彼独特の美しい色彩を織り込んだフォーヴィックな作風に私たちはすっかり参って、彼の周辺には、我孫子真人、中村金作、吉井忠、麻生三郎、私など若い画家グループが出来るようになった。三崎町の寺のそばに中村の下宿があった。その二階の六畳間で長谷川を混えて裸婦のデッサン会を何回もやったことを思い出す」(寺田政明「長谷川利行の思い出」)。「利行は当時、龍泉寺の簡易宿泊所に泊まっていまして、泊まっているとはいうけれど、安酒飲んで、行きあたりばったり、野宿も平気でするような生活でしたが、利行も『リリオム』で個展などをして、何となく、谷中の画家仲間のそういうつき合いで知るようになったんですね」(寺田政明『寺田政明画集』)。「長谷川利行に会ったのは昭和六、七年頃で、私が太平洋画会研究所の時代であった。谷中のある額縁屋の店先で彼の作品をよく見かけた。縁を見せるためであったが、そのなかの絵に驚いた。それが長谷川利行の作品であった。二科会ではよい作品を見た。烈しいかたまりである」(麻生三郎「長谷川利行」)。
1−田川水泡『のらくろ二等卒』連載開始。
4−銀座で柳並木が復活。
6−木賃宿を簡易旅館に名称変更する。
8−羽田東京国際飛行場開場。銀座尾張町と京橋交差点に自動信号機。
9−満洲事変勃発。
12−上野に「地下鉄ストアー」開業。新宿に「ムーランルージュ新宿座」開場。浅草オペラ館開場。
1932(昭和7)
41歳
 早春より日暮里2丁目の画家児玉勝次の下宿に水彩画家谷井喜三郎とともに9年か10年頃まで同宿する。
 9月、第19回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《水泳場》《女》(cat.no.35)《ガスタンクの昼》を出品。「長谷川利行氏はしっかりした色感の持物主だ。〈ガスタンクの昼〉はよい。〈水泳場〉は余り雑然としてまとまりがない」(大山広光「二科会を観る」)。「長谷川利行氏 本年は久し振り力作を見せて呉れて嬉しい。ガスタンクの画。水泳場。二点とも場内に光つておる。女の像には前二点程好感が持てぬ」(清水登之「二科会を見る」)。「長谷川利行氏の作品、水泳場か、人が流動してゐる感、印象派の色彩でもこんなのは古くは見えない」(鍋井克之「二科展雑感」)。

 天城俊彦を知る。「彼はKの依頼でKの描きあぐんだ画布に向つて立ち隅田川の風景をパレットを左手に握りチューブを右の手でしぼりながら画布に走るやうに線と色を加へてゐた。私はこの男に強く心惹かれた」(天城俊彦「故人追想」)。ちなみにKとは当時滝野川中里の大和屋アパートに住んでいた木原芳樹。

 また矢野文夫の紹介で木村学司を知る。木村に出会った頃利行は一時的に浅草の隅田河畔今戸町にあった画家の田中陽のアトリエに仮寓していた。「彼は誰にも好かれた。いわば、人生の苦しみを超えた、気楽につき合える神様のような存在だった。もし悩みのある者は、黙って彼に対座しているだけで、結構救われた気になるのであった。これは長谷川の押しも押されもせぬ徳だった。…主義だとか流派とかいう表看板にわざわいされぬ芸術の本質が、そのまま長谷川の身体からにじみ出てくるような、そんな印象を彼は会う人々に与えるのだった」(田中陽)。
                長谷川利行《水泳場》
1−上海事変。
3−満洲国建国宣言。
4−浅草松竹系映画館でトーキー化にともない活弁・楽師などストライキ。
5−チャップリン来日。五・一五事件勃発。
7−「米よこせ運動」ひろがる。
10−東京市、合併にともない35区となり世界第2位の大都市となる。人口497万人。
1933年(昭和8)
42歳
1月、浅草の酒場に日毎あつまって顔見知りとなった矢野文夫、木村学司、小沢不二夫、田中陽、山中美一らが親睦会を計画、利行が趣意書をつくり、矢野文夫によって「超超会(シュルシュルかい)」と命名された。その他のメンバーは熊谷登久平、徳山巍、野村守夫、易者中沢天眼、藤沢主計、弁士繁岡巌、富岡一刀、菊田一夫、海原春声、諏訪黒潮、川島潮など。しかしこの会は一年たらずで自然消滅。

 9月、第20回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《風景》《赤ん坊》を出品。「長谷川利行氏の〈風景〉は良い。この鋭い感覚はやはり稀なものだ」(外山卯三郎「二科会・第二十回展」)。

 10月、「第2回アリコ・ルージュ洋画展」(10.20−24 横須賀さいか屋)に熊谷登久平とともに出品。

 この頃、高橋新吉に再会。しかし「昔の颯爽たるおもかげはなく、ハセガワは、キタナイシャツの上へ破れた洋服を着て顔色はルンペン色だった」。また「ハセガワは浅草の木賃宿にとまつてゐて、昼間は宿に居れないので出歩くのだ。極度に窮迫してゐて、絵具もなくて、鉛筆や墨汁で描いてゐた」(高橋新吉「としゆき」)。

 この頃、寺田政明は通称モデル坂のまえの下谷区谷中真島町1−2の辻ハウスに転居し、太平洋画会の洋画研究所にかようが、利行はときどき寺田政明を訪ねた。「ルフランの方が文房堂より安かったぐらいだったから、ほとんどルフランを使っていた。そのカドミューム・レッドを利行は使っていたんだネ。ライトじゃない。カドミューム・レッドが利行の基調になっていたくらいだったから。…この当時は利行は僕の絵具を使っていたんでね」(寺田政明『寺田政明画集』)。ちなみに、翌年二科会出品の《割烹着》のモデルはこの寺田政明の妻である。
2−築地署に小林多喜二検挙虐殺される。
12−有楽町に日劇開場。
1934(昭和9)
43歳
 このころ茶房「りゝおむ」は二科の北川実がオーナーとなり、作家仲間の小品展をひらく。利行は寺田政明、前田政雄、棟方志功、梅原龍三郎、中川一政、鶴岡政男などの展覧会の寸評をかく。

 9月、第21回二科展(9.4−10。4 東京府美術館)に《ラ・ベット・ユウメイヌ》《割烹着》を出品。「長谷川利行 〈ラベット・ユウメイヌ〉〈割烹着〉色の美しさをとらう」(中村研一「二科展の好きな絵」)。「長谷川君は〈ラ、ベット、ユメース〉に於て女人の裸体を獣肉の如く描き出した。徹底したヴァガボンド長谷川君の夢は、諦観的悲調を帯びてゐる。フォーヴ的筆法も、こゝでは甚だ効果的だ」(福沢一郎「二科評」)。「長谷川君の夫れはロオトレツク若しくはコ、シカの亜流であり、…かういふ悪戯けたものを列べるといふことは、会にとつて決して名誉なことではないであらう」(『美術』10月号)。「長谷川利行氏の裸婦はデホルマションに無理がある。此人の特殊な感覚を買ひ度い」(中山巍「二科展を観る」)。

 このころ、新井薬師あたりに住む文部省技官の平沢義明のもとに天城俊彦とともに半年ほど寄宿。「食・住は平沢家で保証され、お小遣いから湯銭まで一切私持ち、それでも私は利行さんの絵をを尊敬していましたので、夜になると、近所の喫茶店やバーに案内して酒をおごりました。…利行はろくに洗ったことのない絵具のコビリツイタ筆で、カンバスの上に油をつけて、チョンチョンとぬらす。カンバスの上でヂカに絵具を交ぜる。パレットの上でまぜないから、キレイな色が出る。十号位の油絵が一時聞か一時間半で完成した」(萩原英雄「長谷川利行と天城俊彦」)。
1−日比谷に東京宝塚劇場開場。
4−渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像除幕式。
9−市電従業員1万人を解雇。ストライキ起こる。
10−警視庁が未成年者のバー・カフェ出入りを禁止。
11−米大リーグ選抜野球チーム来日。
この年浅草に女剣劇(大江美智子・不二洋子ら)が進出する。
1935年(昭和10)
44歳
 この頃から市電三ノ輪停留所ちかく、浅草区龍泉寺町の東京市営龍泉寺宿泊所に住む。

 この頃、銀座6丁目松坂屋の隣本木ビル内の空室を利用して矢野文夫と野村守夫が「アモレ画廊」をひらく。そこへ利行をはじめ寺田政明、吉井忠、麻生三郎、草野心平、高橋新吉、逸見猶吉などがよく顔をだす。

 御木本隆三が有楽町に開いた喫茶店「ラスキン文庫」に出没する。

 6月、「長谷川利行洋画小品展」(6.1−6.5 アモレ画廊)

 8月、「長谷川利行個展」(8.20−25 大阪心斎橋・大阪画廊)

 第22回二科展(9.4−10.4 東京府美術館)に《鋼鉄場》を出品。「長谷川君の〈鋼鉄場〉は、『独立展』などにも見うける一つの傾向であるが、一種のバンダリズムを意味する悪傾向として注意したい」(柳亮「二科評」)。「長谷川利行氏の〈鋼鉄場〉は同じ強い赤を方々に置いて何等の効果を与へないと思ふ。何か間違へてゐるやうな絵だ」(硲伊之助「二科の新人を抜く」)。「長谷川利行氏が多分にこのヴァイタルな感覚を出してゐるが、同年の〈鋼鉄場〉は、あの大きな画面に空虚を感じさせないだけの力は持ってゐるが粗笨に過ぎて上作とは云ひ難い」(林達郎「二科展画評」)。

「福沢−今年の作は失敗だ。尨大なものだが、その必要があつたかどうか疑問だ。去年の長谷川利行君は大に推賞したものだが…。どこが悪いかと云へば、構図が散漫で統率や緊縮を欠いてゐる。もつと簡潔で大きな容量を持つたものは出来ぬか」(『美術』第10号)。

 『文藝春秋』「美術欄」に「最後の部屋に〈鋼鐵場〉と云ふ、赤白青の繪の具を滅多矢鱈になすりつけた大きな布があつた。審査をした二科會員に訊くが、あれあは繪なりや。」(『文藝春秋』1935年10月号所収)という利行批判が掲載され反論する。「本年度二科展〈鋼鐵場〉の油繪は繪を描く経験で物を判断するのです。/『文藝××』美術欄へ抗議の件である。/君たちの大衆的文筆は『アメシャボ』なり」(利行「ひとつの抗議)。
         
6−上野動物園にタイから象が贈られ、花子と命名。この年米国漫画映画「ポパイ」上映され人気をさらう。東京市内の紙芝居業者約2000人、一日10回の上演で児童約80万人が『黄金バット』などに熱中する。
1936年(昭和11)
45歳
 天城俊彦は新宿の映画館武蔵野館裏のアパートの一階に天城画廊をひらき、この年から精力的に長谷川利行に絵を描かせ展示する。「トルキイ、ノア・ノア、武蔵野茶廊、モナミ、エルテル、等々の喫茶少女を画にした。彼女たちは彼になついてよきモデルとなつた。殊にノア・ノアのS子といふ少女は…ある日、朝から店に出て来て彼のモデルとなつた。私は四十号のキャンバスとルフランの絵の具を持ち込んだ。彼は憑かれた人のやうに鋭く深くモデルを凝視しつつ絵筆を握つた」(天城俊彦「故人追想」)。

 6月、「長谷川利行展」〈6.16−20 天城画廊)「油絵小品三十余点程を陳列した、長谷川利行氏の個展を新宿天城画廊で見た。長谷川氏の作品は自分の最も看ることをたのしみにしてゐる絵だ。いづれの作品も色感に特殊なものが、あるサンチマンを持つ色彩が観る者に第一に働きかける。主観的に燃焼しやうとする情熱を視覚的なものが押付けやうとする、そこに割切れないプラスチシチイが見られるが、〈石川嶋〉〈バー青春工場の女〉の流動する感覚、〈白色ロシアの女〉の性格を追求した快い単純化、〈椿〉〈フロリダの女〉の色感のよさなどは最近の氏の最もよい収穫である。他によき作品としては〈ラテンの女〉〈街娼〉〈浅草の女〉〈裸女〉が美しく見えた」(寺田政明「長谷川利行個展を見る」)。

 9月、第23回二科展(9.4−10.4)に『紺戸簾平博士』『裸女』を出品。「長谷川利行氏の〈裸女〉も粗雑であるが、二科自身がまなぶべき精神(エスプリ)の豊かさが光つてゐる」(佐波甫「二科評」)。

 9月、「長谷川利行展」(9.26−30 天城画廊)
 10月、「長谷川利行東京風景画展」(10.11−15 天城画廊)
 10月、「長谷川利行洋画個展」(10・25−30 銀座交詢社)
 11月、「長谷川利行花と風景画展」(11.1−11.15 新宿エルテル茶房)
 11月、「長谷川利行展」(11.16−25 天城画廊)
 11月、「長谷川利行洋画小品展」(11.25−30 銀座交詢社)
 12月、「長谷川利行色紙とガラス絵展」(12.3−5 京都四条烏丸・梅軒画廊)
 12月、「長谷川利行ガラス絵展」(12、25−27 天城画廊)

 晩秋頃というが利行は泥酔してタクシーにはねられ、龍泉寺病院に入院する。安静にという医者の制止をふりきって、全身を包帯で包んだまま一か月あまりひたすら傷の癒えるまで宿泊所で我慢し、奇跡的に回復。しかし肉体的な衰弱はひそかに進行してゆく。

 この頃、生田長江訳、ニーチェ『夜の歌』(『ツァラトゥストラ』の抄訳)を手に入れて愛読する。

 この年から翌年にかけてガラス絵に熱中。
1−下谷龍泉寺に市営の婦人宿泊所(初の母子ホーム)
2−東京地方は54年来の大雪。二・二六事件勃発、市内に戒厳令。
4−神宮外苑の聖徳記念絵画館の壁画完成。
 6−東京音楽学校に邦楽科設置される。
1937年(昭和12)
46歳
 この年になると利行の胃痛は次第に激しくなり、むくんだような顔から生気がうしなわれ、垢じみた服装とあいまってますます不気味な風体にちかづく。

 1月、「長谷川利行ガラス絵展」(1.11−31 新宿リンデン)
 1月、「長谷川利行油絵・ガラス絵百点入札展」(1.15−16 天城画廊)
 2月、「長谷川利行ガラス絵展」(2.1−6 早稲田ゼンゼンパーラー)
 2月、「長谷川利行油絵即売展」(2.1−7 天城画廊)
 2月、「長谷川利行デッサン展」(2.4−10 新宿エルテル)
 2月、「長谷川利行洋画小品展」(2,9−11.30 池袋コテイ)
 2月、「長谷川利行油絵・ガラス・素描入札展」(2.25−28 天城画廊)
 3月、「長谷川利行洋画作品即売会」(3.16−20 天城画廊)

 4月、「長谷川利行研究作品展」(4.6−12 天城画廊)「長谷川氏の作は、色感も明るく、軽妙な味を見せてくれる。この個展に於て、佳い作はいづれも、その色感と軽妙な描法に成功してゐると云へる。而も悪達者にも流れず、おちついた詩情さえ添へてゐる。希薄感を与へず、その色と筆触に味を見せてゐるところは氏の持つてゐるものが相当に出来てゐることを物語つてゐる。〈サイネリア〉、〈アネモネ〉などその洒脱さがよい…」(『美之國』5月号)。

 5月26日夜芝浦埠頭出帆の橘丸で矢野文夫と伊豆大島に遊んで三原山に登る。
 6月、「長谷川利行個展」(6.16−26 天城画廊)
 7月、「長谷川利行研究作品展」(7.1−7 天城画廊)
 8月、「長谷川利行洋画小品展」(8.10−25 銀座交詢社)
 9月、「長谷川利行研究作発表三回展」(9.1−5 天城画廊)
 9月、第24回二科展(9.2−10.4 東京府美術館)に《夏の女》《ハルレキン》を出品。この年をかぎりに二科を去る。
 9月、「長谷川利行洋画小品展」(9.15−30 新宿南海画廊)
 9月、「長谷川利行小品展」(9.15−30 新宿ノアノア)
 9月、「長谷川利行油絵小品即売会」(9.26−30 天城画廊)

 11月、第一回一水会展(11.26−12.10)《花》《ノア・ノア》(cat、no.75)《花》を出品。「長谷川は格別の変化がないにしても、調子が毎もより明朗健康である」(荒城季夫「一水会を観る」)。「画は〈ノア・ノア〉一時間にして成った。圓タクに乗せ半時間後には一水会に出品した。出品締め切り一時間三十分前の制作であった。S子とは二年ほど過ぎて日劇の地下で逢った。おぢさんは元気?と優しい彼女は私にたづねた。貧しいこころの少女に長谷川利行君は消しがたい印象であったにちがひない」(天城俊彦「故人追想」)。しかしこれには異説あり。二科会に出品しようとして締切のことで悶着があって、結局一水会に出したというのは桜井均(「長谷川利行の通夜」)。ともあれこれが利行の団体展出品の最後となる。

 12月、「長谷川利行花と女の顔展」(12.3−10 新宿ノバ)
 12月、「長谷川利行個展」(12.14−20 天城画廊)

 この年の春頃から浅草山谷のドヤ街市電泪橋停留所近くの簡易旅館「紅葉館」に移り、着のみ着のままの日雇い労働者や浮浪者などと雑居同宿する。同宿人が泥棒とは知らず酒などおごられているうちに、共犯者とまちがえられて日本堤警察に留置されたこともある。

 6月頃、天城の指図もあって浅草より新宿旭町の木賃宿に移り住む、というよりは天城が利行を他人とできるだけ会わせないで絵をかかせようと監禁したようなものだった。
天城画廊(左 天城俊彦、右 長谷川利行)
4−永井荷風『墨東奇譚』(挿絵木村荘八)朝日新聞に連載はじまる。ヘレン・ケラー来日。
 7−蘆溝橋で日中軍衝突。支那事変のはじまり。浅草に国際劇場開場。
9−警視庁市内の円タクの深夜営業禁止。
12−南京陥落。各地で祝賀行事。千人針、慰問袋が盛んになる。
この年「軍国の母」「露営の歌」「進軍の歌」など軍歌が続々発表される。
1938年(昭和13)
47歳
 1月、「長谷川利行相撲絵展」(1.25−2.10 銀座交詢社)

 天城俊彦、画廊を閉鎖して新宿を去り、新宿旭町の木賃宿に監禁状態で制作を強制されていた利行はドヤから解放される。1月から4月末、画家手塚一夫と浦安あたりの船堀にすんだこともあった(2月28日付け矢野文夫宛葉書の住所は手塚と同じ「江戸川区東船堀1668 越後屋方」)。

 5月21日、京都市上京区小松原南町3番地で父利其死亡。父と旧知だった右翼国粋会梅津勘兵衛を通知がてら尋ねて葬式用の洋服を買ってもらうが、それを転売してしまい、帰京しなかった。

 この年、新宿喫茶街の「ノア・ノア」で個展。

 浅草泪橋の簡易旅館「紅葉館」にもどったのは秋頃か。
3−学習院初等科が外国語教育全廃。
6−日劇にエノケン一座初出演。
7−東京オリンピック中止決定。
8−ヒトラーユーゲント来日。
10−武漢三鎮攻略祝賀会で市民が提灯行列。
1939年(昭和14)
48歳
 ひきつづき胃痛に苦しむ。皮膚は黒ずみ貧血して卒倒したり血を吐いたりして、もはや潰瘍というより癌である兆候はあきらか。九段坂病院の紺戸廉平博士より投薬を受ける。

 7月15日、友人渡辺卯一と千葉県太海海岸に遊ぶ。

 気力がなくて油絵がかけないという利行に矢野が提案し、四宮潤一に一通りの手ほどきをうけて水墨画をこころみる。「晩年、水墨で南画風のものをやり出したと聞き『きつと型破りの、独自味に豊かな面白いものが出来るぞ。』と、ひそかに期待措かなかつたのに、…」(竹内梅松「長谷川利行君を悼む」)と語ったその竹内から、胃痛の食欲不振には麩がいいときかされた利行は、一時毎日麩を買ってきて食べたこともあった。

 そんなあいだにも、憔悴しきったかれの姿は何人にも目撃されている。「晩年の利行に都電でひよっこり会ったが、その顔色は黄ばんで皮膚には死が見えてこれまでの反抗がなかった。明るい色だが長谷川利行の作品には実はこの時の彼の顔が見える」(麻生三郎「長谷川利行」)。「ノモンハン事件のあったころであったと思うが、私は麻生か吉井と神明町から大塚方面に行く夜ふけの電車に乗っていた。その時向こうの座席の端に例のよれよれ着物にうすくなったゲタをはき腕組みしている長谷川の姿があった。無精ひげと黒く日やけしたいつもの顔であったが、その物思いにふけっているらしい、伏し目の鋭さを今でも忘れることが出来ない。私たちは長谷川に声をかけなかったが、これが彼を見た最後であった」(寺田政明「放浪の画家長谷川利行」)。
 前年からこの年にかけて吉祥寺の喫茶「ナナン」で数回個展をひらく。
1−双葉山、安芸ノ海に敗れて七十連勝ならず。銀座通りで戦車が示威行進。
6−警視庁が待合料理屋などに対し深夜営業禁止。。
7−府美術館で第1回聖戦美術展。
8−市が隣組回覧板を配布。
1940年(昭和15)
49歳
 春頃、荒川区三河島救世軍宿泊所に住む。

 5月17日、三河島の路上で倒れ、行路病者として板橋区板橋町にあった東京市養育院、板橋本院に収容される。胃癌の手術を拒絶、しばしば脱走しようとした。衣笠静夫、矢野文夫、海老原省象などが見舞う。

 10月12日、知友のみとりもなく逝去。利行が一番大切にして最後まで手放さなかった作品は、スケッチブック、日記などとともに遺留品としてすべて規則により焼却された。「突然長谷川さんから葉書がきました。変わった葉書で、栄子さまには、令夫人様には、先生にはといった書き出しで、四つも五つもそんな文句が書いてあるんです。今病院に入院しているけれど、すいませんが西洋の草花とパンと西洋菓子を持って来てくれないかというような内容でした。けれども戦争中でしょう、自分のはえも追えないような時だったですからね、そのままうっちゃっといたんです。それからしばらくたったある日、長谷川さんが亡くなったことを聞きました」(藤川栄子「長谷川さんの思い出」)。「かくして、この悲劇なる“最後の画家”は昭和十五年秋、ニイチェの詩集『夜の歌』を胸に抱いてつひに滅び去つたのである」(矢野文夫『夜の歌』)。
 東京市養育院での利行 
3−内務省がミス・ワカナ、ディッ・ミネ、藤原釜足らに芸名変更を指示。
6−隅田川に勝鬨橋が完成。
8−国民精神総動員本部が「ぜいたくは出来ない筈だ」と立て看板。
10−東京のダンスホール閉鎖。
この年各地で紀元二千六百年祝賀行事。
1941年(昭和16)  1月、桜井均と天城俊彦は佐藤春夫の長編小説『わが妹の記』の装訂を利行に依頼かたがた養育院を慰問し、そこではじめて利行の死を知る。

 数日後、天城は利行の遺骨をひきとる。「一月の二十三日、空は灰色に曇ってゐたが傘を持たず風呂敷を用意して、折柄訪ねて来た年少の友二見利節を伴つて遺骨引取に養育院へ行つた。三時間も事務所で待たされた後、白紙で包まれた彼の遺骨を私は受けた。白い紙には位牌が印刷され、長谷川利行之霊位とあり私は養育院の処置に軽く感謝した」(天城俊彦「故人追想」)。

 夏、浅草公園キリンビヤホールで知友が集まり長谷川利行をしのぶ追悼会をひらく。
 8月、『美術検討』8月号で長谷川利行特集。
 9月、「長谷川利行遺作展」(9.27−29 銀座資生堂ギャラリー)
10月12日、天城俊彦の自宅で一周忌。参加者は高橋新吉、矢野文夫、伊達彦次郎。
11月、邦画荘より矢野文夫編『夜の歌−長谷川利行とその芸術』発行。
11月、「長谷川利行遺作展」(11.11−15 大阪朝日会館)
    上野・不忍池畔に建つ利行碑
3−市内の空地開墾が150万坪となる。
4−六大都市で米穀の配給通知制・外食券制度を実施。
 6−目黒のアメリカンスクール閉鎖。
10−尾崎秀実・ゾルゲら検挙。
12−真珠湾攻撃、太平洋戦争の開始。
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