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年譜

暦(歳)   半泥子事跡
1878年(明治11)   11月6日 大阪市東区本町に父滞在中出生。父15代久太夫政豊,母稔子。幼名善太郎,後に改めて久太夫政令。
川喜田家は,三重県津市の旧家で,古くから東京日本橋大伝馬町にも木綿中買店を開いていた。
1879年(明治12) 1歳 7月10日 父政豊死去(29歳)。この年 母稔子,平瀬市五郎へ再嫁し生別。以来,祖母政子の恩育を受ける。
1894年(明治27) 16歳 三重県尋常中学校で,藤島武二から洋画を学ぶ。
1899年(明治32) 21歳 早稲田専門学校(早稲田大学商学部)卒業。
1901年(明治34) 23歳 12月 分家川喜田四郎兵衛の長女為賀と結婚。
1903年(明治36) 25歳 1月 百五銀行取締役に就任。
1906年(明治39) 28歳 2月 祖母政子死去。
1909年(明治42) 31歳 7月 津市議会議員に当選。
1910年(明治43) 32歳 1月 三重県議会議員に当選。この頃から,千歳山の土で楽焼を試みる。
1912年(大正元) 34歳 1月 三重農工銀行取締役に就任。
1913年(大正2) 35歳 3月 津市議会議員に再選。初めて中国大陸及び朝鮮半島を旅行し,上海で呉昌碩と会う。この年 『唐子の友』刊行。
1914年(大正3) 36歳 1月 蒲郡常盤館の楽焼窯場で,初めて轆轤で砧形花生を作る。
1916年(大正5) 38歳 1月 三重農工銀行頭取となる。
3月 津商工会議所議員となる。この年 津市分部町の旧宅から千歳山荘に移る。
1917年(大正6) 39歳 12月 東海電線取締役,津電灯会社取締役に就任。
1918年(大正7) 40歳 1月 株式会社川喜田商店社長となる。
1919年(大正8) 41歳 9月 百五銀行頭取となる。
10月 津電灯社長に就任。
1920年(大正9) 42歳 7月 八十三銀行取締役に就任。
11月 紺綬褒章をうける。
1921年(大正10) 43歳 6月 菱川合資会社代表社員。
7月 三重共同貯蓄銀行頭取。
1922年(大正11) 44歳 4月 相互商事社長に就任。
5月 三重合同電気社長に就任。
1923年(大正12) 45歳 3月 欧米に旅行。
この年から「無茶法師」の号を用いる。
1924年(大正13) 46歳 中国に旅行。
明治生命監査役に就任。
1925年(大正14) 47歳 7月2日 長江寿泉の指図で,千歳山に両口倒炎式の
石炭窯を築く。
12月 長江寿泉が来て,初窯を焚く。
1927年(昭和2) 49歳 7月25日 フランス船ポール・レカで神戸から,仏印カンボジア,ジャワ,バリ島旅行に出発(9月に帰国)。
1928年(昭和3) 50歳 7月 紀行『じやわさらさ』刊行。
この年,中国大陸・朝鮮半島に旅行。
心身修養書『内観法』刊行。
1929年(昭和4) 51歳 京都で小山富士夫の個展を見て,出品作を全て買上げる。
11月20日 京都五条坂から陶工堀尾竹荘が来て,窯を焚く。
1930年(昭和5) 52歳 6月 私財50万円を寄付し,財団法人石水会館を設立する。
この年,分部町旧宅から千歳山荘に移る。
1931年〈昭和6) 53歳 2月 亡祖母供養のために千歳山に建立した紅梅閣の開堂式を行う。
1932年(昭和7) 54歳 5月 桑名から陶工加賀月華が来て窯を焚く。
6月 自己流で窯を焚く。また栃木県益子に橋本清正を訪ねて,3日間作陶する。
10月 東京銀座資生堂で「土くれ会」展を行う。同人は,橋本清正,西川清翠,堀尾竹荘,栗原忠二,半泥子,奥田竹石。
1933年(昭和8) 55歳 10月 石炭窯最終窯。また第2回「土くれ会」を資生堂で開く。
12月 小山富士夫設計の登窯を小山富士夫が焚く。
1934年(昭和9) 56歳 5月 多治見,瀬戸の窯を見学に行く。また,朝鮮半島と唐津の窯跡を見て歩く。
8月 自らの設計で登窯を築く。
10月 瀬戸から加藤唐九郎が来る。この頃から,轆轤の練習を始める。
11月 初窯を焚く。
この年,千歳山の轆轤場を「泥仏堂」と名づけ,号としても用いる。
1935年(昭和10) 57歳 5月 飛騨高山で窯跡調査を行う。
6月 『焼もの趣味』誌に「泥仏堂日録」の寄稿を始める。
10月 伊勢松阪の時中焼窯跡を発見。
1936年(昭和11) 58歳 5月 唐津の御茶碗窯中黒太郎右衛門を訪ねて,一窯焚く。
11月 尾張喜多山に築いた天狗窯を焚く。この月,『大伝馬町誌』刊行。
1937年(昭和12) 59歳 2月 加藤唐九郎と一時交を絶つ。
3月 初めて赤絵を試みる。
4月 東京赤坂山王下・山の茶屋で「泥仏堂無茶法師作陶展」開催。
5月 朝鮮半島に旅行し,全羅南道咸平の山田万吉郎を訪ね,望雲半島に滞在。
8月 大和月ヶ瀬の梅窯で製作する。
12月 『泥仏堂日録』を刊行。
1938年(昭和13) 60歳 8月 美濃笠原窯の水野愚陶,東京の上口愚朗入門。
この年,還暦記念に赤絵梅文茶碗六十一を制作する。
1939年(昭和14) 61歳 4月 金重陶陽が千歳山に来る。また,半泥子も備前に陶陽を訪問。
この年,千歳山紅梅閣下に茶席「山里」を造る。
1940年(昭和15) 62歳 この年,金重陶陽・素山とともに,岡山県邑久郡の虫明焼窯場を訪問して製作する。
また,荒川豊蔵と京都鳴滝の乾山窯跡を調査。
1941年(昭和16) 63歳 3月 乾山研究のため仁和寺に赴く。金重陶陽の訪問を受ける。徳川美術館嘱託となる。
5月〜6月 岡山,萩,唐津を旅行し,各地で製作。
この年,小西平内,三輪節夫入門する。
1942年(昭和17) 64歳 2月 荒川豊蔵,金重陶陽,三輪休和らと「からひね会」を結成。
3月 乾山窯跡を発掘する。
秋 荒川豊蔵の窯に滞在して製作。
1943年(昭和18) 65歳 3月 『乾山考』刊行。
12月 『千歳山半泥子六十六名(わん)鑒』刊行。
1944年(昭和19) 66歳 この年から,莫迦耶廬,鳴穂堂主人の号を用いる。
1945年(昭和20) 67歳 2月 百五銀行頭取を辞任し,会長となる。
11月 千歳山から広永に疎開する。
1946年(昭和21) 68歳 この年 広永陶苑創設。千歳山の窯を広永に移す。坪島土平入門。
1947年(昭和22) 69歳 4月 広永窯初窯。
1948年(昭和23) 70歳 2月 大阪山中商会で広永一門展開催。
11月 高島屋で半泥子作陶展開催。
1949年(昭和24) 71歳 5月 金重陶陽の来訪を受ける。
6月〜7月 福岡,山口,岡山,大阪に旅行。
この年,岡山,山口,東京で広永一門展開催。
1950年(昭和25) 72歳 4月 趣味の集り,陽炎会発足。
9月 百五銀行相談役となる。
11月 愛媛県各地で,茶陶講演を行う。
この年 日本画家・池田昌克と知り合う。
1951年(昭和26) 73歳 6月 山中商会の池田昌克展に賛助出品。
7月 為賀夫人との金婚を記念し,茶碗を友人に頒つ。
1953年(昭和28) 75歳 6月 壷中居で「池田昌克,川喜田半泥子−水墨画と陶芸展」開催。
この年,和歌山と西条市で広永一門展開催。
1954年(昭和29) 76歳 11月 喜寿を記念して,喜寿祝賀七十七碗を造る。
1955年(昭和30) 77歳 3月 夫人と九州・四国を旅行。
11月 進駐軍退去後,千歳山の本宅を再建。
1956年(昭和31) 78歳 7月 八十寿祝賀会の準備を始める。
1957年(昭和32) 79歳 5月 京都仁和寺で八十寿祝賀会開催。『半泥子八十賀百(わん)鑑』刊行
1958年(昭和33) 80歳 5月 広永窯に泥仏堂を建立。
11月 狭心症のため倒れる。
1960年(昭和35) 82歳 9月 『莫迦野廬之記』刊行。
1963年(昭和38)   10月26日 午前11時40分,老衰のため津市の千歳山荘で死去。
1964年(昭和39)   10月25日〜30日 川喜田久太夫翁記念・半泥子展開催(三重県立博物館,津 松菱百貨店)。
1966年(昭和41)   6月18日〜23日 半泥子風雅展開催(名古屋丸栄百貨店)。
1970年(昭和45)   11月3日〜8日 半泥子翁回顧展開催(大阪高島屋)。
1975年〈昭和50)    10月14日〜26日 日本の名陶展〜古代から現代まで〜に,「茶碗 一声」・「茶碗 雅茶子」出品される。
1982年(昭和57)   4月9日〜 現代の茶陶百(わん)展(渋谷東急百貨店など8ケ所を6月23日まで巡回)に,「茶碗 松の根」・「茶碗 窯の幸」・「茶碗 薄氷」が出品される。
10月15日〜30日 川喜田半泥子遺作展開催(石水博物館)
11月3日〜12月5日 現代陶芸の鬼才 三巨匠遺作展(兵庫県陶芸館)に「茶碗 赤不動」など34点出品される。
1984年(昭和59)   7月14日〜8月12日 生誕105牢記念 川喜田半泥子展開催(三重県立美術館)

三重県立美術館学芸員 毛利伊知郎/編

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