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川喜田半泥子
〜その人と芸術〜

森本 孝

12世紀末,栄西禅師(1141−1215)によって伝えられた抹茶の喫茶法は,日本独特の茶湯の形式となり発展する。僧侶・武士・公卿の間で,もっぱら天目茶碗など唐物礼讃の書院茶として流行していたが,堺や京都の商人をはじめ各地の町衆を中心に盛況を極めるようになると,端正な美しさを持つ中国陶磁器に代わって,高麗物や国焼の雑器具に見られる佗びた風情のある器が愛玩されるようになり,需要の増大に伴い,やがて国内でも茶湯で使用することを目的とした,いわゆる茶陶の制作が開始される。

室町時代まで,日本ではもっぱら農家で使う壷や瓶などの雑具が焼かれていたにすぎない。しかもそのほとんどが焼締陶であって,施釉陶器が焼成されていた美濃・瀬戸はむしろ例外的な存在であった。ところが桃山時代に入ると,茶湯とのかかわりのなかで,各地の窯場ではそれぞれの特性を生かしながら,以前のやきものとは全く質の異なる茶陶が誕生している。また京都では新たに長次郎による楽焼も始められている。それには千利休(1522−1591)や古田織部(1544−1615)など茶人の指導や影響があって,作為に満ちた作陶を可能ならしめている。

江戸時代に入り幕藩体制が確立されていくに従い,茶陶の生産は量的には増加しても,全体としての作行きは次第に画一化され一般的には低調となる。この傾向は幕末から明治維新をむかえても変わらず,桃山期の茶陶に匹敵するだけの陶技も気迫も消失していた。

大正を経過し,昭和に入り沈滞した茶陶の世界は一変する。荒川豊蔵(1894− ),加藤唐九郎(1898− ),三輪休和(1895−1981),金重陶陽(1896−1967)らが,近代の視点でもって桃山時代に生まれた伝統的な陶芸を復興させ,独自の作風を確立している。そうしたやきものの昂揚した時代を迎える少し前,素人でありながら,彼らと交友を結び,陶技を学びながらも,精神的には指導者的役割を果たした人物がいる。それが川喜田半泥子である。

川喜田半泥子は,明治11年(1878)11月6日,父・久太夫政豊,母・稔子の長男として大阪市東区本町の仮寓で生まれる。本名川喜田久太夫政令,幼名は善太郎であった。多芸多能,趣味広く,俳句,油絵,日本画,茶道などそのそれぞれに一見識を有し,特にやきものにおいては余技が嵩じて道楽三昧,金と時間を費やし,いつしか玄人では成し得ない境地に至った人物である。半泥子,泥仏堂主人,無茶法師,紺野浦二,鳴穂堂,莫迦耶慮,其飯,部田六郎その他の号があり,それらにはそれぞれ言われがある。たとえば,半泥子の号は大徳寺黄梅院好清和尚の命名によるもので「半ば泥みて半ば泥まず」の意味がある。半泥子がいかに洒脱味がある性格をしていたかは,これらの号からもうかがうことができる。

半泥子の人と芸術について記する前に作陶に至るまでの背景について触れてみる。
半泥子は川喜田商店300年の祝祭に当たり,その記念事業の一つとして,昭和11年(1936)『大伝馬町誌』を300部限定出版している。これは川喜田家に伝わる史料の集大成となっているが,この序文の執筆が加藤唐九郎で,彼はそのなかで家記に基づき川喜田家の系譜を紹介している。唐九郎の記述によると『川喜田家藤原南家,工藤氏の末流,長野氏の一族にして,家祖河北内匠頭は,伊勢の国氏北畠氏に仕へ,同奄芸郡川北(現在の津市外)の城主たるによって川北(川或は河に作る)を称した。後変遷あり,四代久兵衛藤堂家の客分たりしが,大坂夏陣後,辞して同国安濃郡納所村の郷土となる。英男久太夫本家五代を相続し,次男久三郎江戸に出て,寛永十二年大伝馬町に木綿中買店を開く,これ江戸店の開祖にして,又本書の題名たる大伝馬町と機縁を有つ最初である』とある。

伊勢は大神宮の所在地として諸国人の参集も多く,津(洞津〜あなつ〜,のち安濃津〜あのつ〜)は関東への重要な商港であり,博多津,難波津とともに天下三津の一つとしてよく知られ,木綿の産地松阪を含め早くから商業的に開けていたところであった。江戸開府以後,江戸伝馬町に出店して伊勢屋の屋号をかかげたことから伊勢商人と呼ばれた川喜田家,長谷川家,小津家などは郷土の産物である松阪木綿や茶を扱うことから出発して富豪となっている。

さて川北屋は貞享3年(1686)木綿中買商から木綿問屋となり,いつしか両替の商いも始め,地元では藤堂藩のお金方の役割も果たし,元禄14年(1701)には氏を川喜田に改めている。

九代久太夫光盛より川喜田家から歌人,茶人など代々風流好学の人が出て,余技においても名を成すことを良しとする家風が確立し,半泥子にまで至っている。
このような富豪川喜田家の16代として生まれた半泥子であるが,生後6ケ月にして祖父石水翁を失い,父も逝き,さらには祖母政子が,18歳の著さで未亡人となった母捻子を川喜田家にとどめて置くことは稔子にとって良くないということで実家に無理やり返したことから生別を余儀無くされ,それでいながら様々な期待を一身に背負って川喜田家の支柱とならねばならなかった半泥子は,祖母政子以外には心を許せる人物がなく,たくさんの手代や女中にかこまれながらも精神的には孤独な青少年期をすごしたといわれている。
半泥子は著書『莫迦野慮の記』(昭和35年)のなかで,自分の大恩人を4人あげているが,そのなかでも祖母政子刀自は特に大恩人で,「全身是大恩也」と記している。なお,半泥子は祖母の恩を忘れず,昭和6年(1931)霊廚紅梅閣を津市千歳山に造っている。
明治39年(1906)半泥子27歳のときに没している祖母政子の,半泥子に対する養育がいかなるものであったかを示す『政子遺訓』が本展に出品されている。これは政子の遺書であるが,財産に関する記述は一斉ない。彼女にとって何よりも気がかりなことは,孫である半泥子が立派に成人してくれることであった。半泥子の将来を案じ,早くから南禅寺住職の勝峯大徹禅師のもとへ参禅させ,余技として茶道,洋画,日本画,書,俳句などを始めることを推めたのも祖母であった。半泥子はこの遺訓を一生肌身離さずポケットに入れていたという。『遺訓』最後の「己を誉むるものは悪魔と思うべし。我を誹るものは善知識と思うべし。只何事も我を忘れたるが第一也」は半泥子の生涯の人生哲学となっていた。

半泥子は少年期からやきものに興味と関心を示すようになる。無茶法師の名による随筆『泥仏堂日録』において「私がやきものに手をつけたのは,大正5,6年頃であったかと思う。尤も中学生の頃からガラクタ屋の店先に立って,行燈やニシン皿とか,貧乏徳利の変り手などをヂッと見つめて居た位だから,京都などへ旅をしても第一番に五条坂や高台寺前の焼物屋を覗いて歩いたものだ」とある。半泥子とやきものとのかかわりについても祖母の存在があった。政子は,松阪市射和に居を構え,江戸で代々両替商を営み,元禄以降幕府の為替御用を命ぜられ,他に酒,醤油,荒物の商もしていた富豪竹川家の出。勝海舟と交流があり,嘉永6年(1853)彼に『海防護国論』を贈ったことで名の知られる竹川竹斎の妹であり,また竹斎の三代前の三女が沼波五左衛門弄山(1718−1777)の妻であった。弄山は江戸で陶器問屋を営む商家の主人で,生来風流の志が厚く,桑名にある本宅において茶を楽しんでいたが,乾山の『陶工必用』を入手,乾山に私淑して元文年間(1736−1740)小向村(現在の三重郡朝日町小向)に古萬古を創始した人物であった。弄山没後は息子の義明が陶業を好まなかったことから天明頃に廃業したものと考えられている。その後,桑名,四日市では森有節などが出て萬古焼を復興しているが,弄山との縁もあった竹斎もまた幕末期安政2年古萬古再興を目して射和萬古を始めている。『萬古由来書』を手に入れ,有節萬古を末流と批判しながら射和萬古こそ本流であると唱え,地域の産業振興を目的に創設したことを声明文にしている。この射和萬古は,当時にあっては優れた陶工集団による作陶であったが,青磁以外には見るべきものは多くない。

祖母からやきものとの縁について聞かされ,川喜田家と竹川家に伝わる史料(前述の萬古由来書,竹斎の声明文など)を調べるうちに,半泥子は大正5,6年には小さな楽窯を造り,長女秋子をはじめ子供や妻といっしょに手びねりを楽しんでいたという。 また,古萬古の系統をひく古安東がかつて津市郊外にあり,倉田久八によって嘉永6年(1853)再興され,文久年間窯を津市船頭町に移し,明治8,9年頃から阿漕焼と呼ばれていたが,大正初年の頃に廃業の憂き目を見ている。大正11年(1923)当時の山脇県知事が古安東の伝統が絶えたのを惜み,民間の有力者を説いて出資を請うているのに答え,半泥子も出資して窯を築き焼かせてはみたが半泥子の意に叶うものはまったく焼けず,この古安東を復興する計画は約2年で失敗に終っている。

半泥子は三重県第一尋常中学校(現在の津高等学校)に入学,このとき洋画家藤島武二(1867−1943)が教諭陣のなかにいた。半泥子は藤島から特別に洋画の手ほどきを受け,これを契機として以後親交を重ねている。赤星家の売立を見に行くことを藤島から誘われてお供したこと(『焼もの趣味』7−2)などの記述が,半泥子の随想のなかに登場してくることからうかがうことができる。半泥子は早稲田専門学校傾在の早稲田大学)に進み,同校を明治32年(1899)に卒業するや川喜田家を継ぐ。同34年23歳で分家である川喜田四郎兵衛の長女為賀と結婚,津藩主藤堂家の家臣によって明治11年(1878)創立された第百五国立銀行の後継である株式会社百五銀行の取締役に同36年就任,同42年津市会議員,翌年には三重県会議員も務め,大正8年には百五銀行頭取となる。この間,延宝7年(1679)納所村の本居を津の分部町に移して以来先祖代々住んだ本家を石水会館とし,半泥子は大正4年(1915)津市大字垂水の千歳山に山荘を構え,ここに移り住むことになる。この山荘は書院造り風の洋館の大邸宅であったという。

この頃になると元藩主や旧家が秘蔵していた名品が続々と売立てられ,それらの名品を見る機会も多くなり,古陶磁研究家や,やきもの好きの実業家や学者などが集まって研究会をつくり,あわせて展覧会を開催するグループもあった。東洋古陶磁より始まり桃山期を中心とした日本の陶磁器の素晴しさが再認識された時期である。半泥子も大正5年集古会の同人となり,内田魯庵,山中笑らと知り合い,のち泉鏡花,鏑木清方,岡田三郎助らとも交友が始まり,彼らから様々な説を聞き半泥子は古陶研究に情熱をかたむけている。特に津市に生まれ津中の5つ後輩で,東大を出て大正13年(1924)自ら東洋陶磁研究所を創設して東洋陶磁の研究のために尽力した奥田誠一(1883−1955)とは近い存在であったという。

半泥子は千歳山の土が良い胎土になることを知り,大正初年頃よりこの土を使って楽焼を始めたことを,自ら『泥仏堂日録』などに記述しているが詳しいことはわからない。大正14年(1925)7月愛知県蒲郡の楽暁師長江寿泉の設計による両口倒焔式石炭窯を千歳山の茶席松濠庵の脇に構えるまでの間は,余暇に手びぬりを楽しむ程であった。

同年12月初窯を焚き,初ロクロ作の唐津釉茶碗(銘 初音)ができる。土は千歳山の土で,寿泉から受けた土灰釉を掛け,キズを幹に見たて花を白絵付したもの。高台削りができぬため,高台は糸切りのままで,作振りは厚手で重い茶碗であった。

その後,三重県桑名の陶工加賀月華(1890−1937),京都の西川清翠,堀尾竹荘,蒲郡の寿泉などが千歳山を訪れて焼くが,無茶法師こと半泥子の意に不適であった。半泥子の本職に対する期待は惨憺たる有り様となったが,当時の本職連はたとえ陶技が優れていたとしても,茶陶の心やきめ細やかな作意を持っているわけがなく,半泥子の失望も当然の結果であったろう。

北大路魯山人(1883−1959)が行ったような,半泥子の専門職人の集団による工房造りは幻想に終り,昭和7年6月4日半泥子は自己流でやる決意をした。以後試験的に自分で焚き,論理性をもった研究も本格化する。伊勢田丸の赤土,アメリカ・コロラドスプリングの赤土,伊豆十国峠の赤土,中国明の十三陵文皇陵の鼠色の土や八達嶺萬里の長城の鼠色の土,京都西芳寺の池底の土,サイゴンの陶土など手当り次第焼いている。その結果,十三陵と長城の土が単味で天日釉になることを知り,陶土の良し悪しの判別法を体得する。

この頃から半泥子のやきもの作りに対する熱の入れ様も激しくなり,橋本清正,西川清翠,堀尾竹荘,奥田竹石(日本画家),栗原忠二(津画家)そして無茶法師を同人とする『土クレ会展』を同年10月18日より5日間,東京銀座の資生堂で開催する。この展覧会は翌年2回展で終了している。

昭和8年(1933)東京大伝馬町の川喜田商店開店300年を祝して従業員一同から新窯をいただくことになり,同4年京都大丸で開催していた小山富士夫の個展全出品作品を買い上げたこともあって,「私には出来ないから」と断わられたのを無理に頼み,小山富士夫設計による二袋煙突式の登窯が築かれた。このとき窯場も千歳山南端に移し,ロクロ場を泥仏堂と命名した。ところが12月25日小山富士夫その他が来てこの窯を焚くが失敗に終った。半泥子にはこれが幸いした。そのころになると,半泥子は,「祖先から伝来の技法と観念に拘る専門陶工は,“素人に何ができる”と大層なことを言うが,まったく何にも拘ることのない素人に勝るわけがない」という半泥子流の哲学に自信を持つ。また,トトヤの目は7つに限るとか,茶溜りには目が5,6個付いていて梅茶皮の兜巾高台であることが井戸茶碗の条件であるなど,三島手,伊羅保,柿の蔕はどうなければならないとか約束に拘るが由に,立派な贋物を珍重する羽目に陥っている,と半泥子は『焼きもの趣味』誌上にいわゆる茶人に対す批判も堂々と宣言した。半泥子によれば,竹の節高台といえど,作る人の癖と,作るときの自然の現われにすぎない。つまり,できたものであり,作ろうとして作るものではない。シャアシャア削り落としてできる竹の節は「丸っきり風にもたえぬお姫さんに藁草履をはかせたようなもの」となる。

昭和9年(1934)4月,半泥子なりに思うことがあって,サマ穴を直して験し焼きし,5月,多治見,瀬戸の窯を見学,6月にかけて朝鮮と唐津の窯跡と,現在の窯を見て歩く。8月から自分の設計で三間まである登窯を自分で築く。その特長は胴木間を一の間の二倍にしたことと,立サマにしたことである。

9月2日に加藤唐九郎が初めて来て「マア,これなら焼けます」と折紙が付いて,唐九郎の意見を入れて少し手直しを加え,11月に初窯を焚いてみたら呑気にうまく焼き上って喜ぶ。唐九郎はこの頃を,次のように語っている。「57,8才になっている半泥子にロクロ細工をっちねりから教え込んだ。日本各地の窯場へ一緒に旅行もした。私の知る限りのことは教えた。また逆に教えられるところも多かった。然し,私は自分の多忙の身をこれに費したので,他の方の仕事が目茶目茶になってしまった。私はその無責任をせめられた。八方ふさがりとなった。私は半泥子が好きだった。半泥子も私を身辺から放さなかった。私は幸福だとすら思った。しかし,これは3年以上は続かなかった。私と半泥子との間には,眼に見えない大きなクリークが横たわっていた。」(『陶説』131,1964年2月「半泥子と私」)

半泥子と唐九郎は互いに学び合うところがあったのであろう。半泥子は陶技を学び,唐九郎も半泥子流哲学から得るところがあった。

朝起きると泥仏堂に入って轆轤をひく。10時頃に百五銀行に出かけ,勤めから帰ると少しの時間をも惜しんで,飛ぶかの如く泥仏堂へ駆けつける。半泥子は,お茶碗造りをもう一生止められないと思った。そう思うからこそ耳元で囁く声があった。

オイ誰だい。窯の中でゴトゴトするのは。何ツ,窯の神さまだと。オヤ大変だ。神さまが何か仰しやるぞ。

「コレコレ無茶法師とやら,汝下手の横好きとはいひながら,朝に晩に窯の側に立ちて我が肩をなでさする事,晴雨を分かたず,陶土をもみ,轆轤に向ふては寒暑をいとはず,窯の火入れには昼夜を弁ぜず,我れ汝の熱心を嘉していふ事あり,凡そ世の名器を見るに何れも無心の作なり。ゼーゲルが倒れたりとか,また酸化焔だ,還元焔だと騒ぎて作りしものとは不覚,況して仁丹帽をかぶりて作れりとはサラサラ思はず,作者自身は名器とも凡器とも、イイとも悪いとも老へて作りたるに非ず,只々酒を飲まんが為の盃,茶を喫まんが為の茶わんを作りしまでなるぞ。土も瀬戸,信楽,唐津と限りしに非ず,自ら探し求めたるを用ひ,窯も自ら土を固めて築き,薪木も松とは限らず,あるにまかせて焚きたるまでなり。ウソと思はば瀬戸,唐津,さては朝鮮の古き窯に就きてよくよく見きはめよ。又,大きくなったら轆轤ひきにせんとて,子供を生みたる親もなければ,おとなになってからでは,ひけぬ轆轤でもあるまじ。土もみから習ふ気で少し根気よくやれば出来ると思へ,八十の手習ひも面白からずや,飯を炊くが六ケ敷しいからとて,喰はんが為には炊かずにはゐられぬ。窯たく事のみを何んで恐れる,窯も自分で考へて築くがよい。如何にも六ケ敷さうにいふは本当の事が分らぬからなり。しろうとにドシドシ作られてはモツタイがつかぬからなり,宣伝の功徳いやちこならぬが為なり,作れ作れシロウト,焚け焚けシロウト,ユメユメウタガウコトナカレ。(ドロドロといふ所なれど)ボヤボヤボヤ。

目が醒めると法師は,窯の胴木間の前の荒菰の上にウタタ寝をして居たがいまの神さまの御告は正夢のやうだ。
(『泥仏堂日録』p.11−13)

「百わん造れば百の悟り,千わん造れば千の悟り」とかの句も必然的に誕生,唐九郎からロクロひきのコツを伝授され,更に半泥子流改善が加わって,次第に半泥子の意に叶うとおり,禅でいうところの「無」の境地に近づく。

昭和10年10月,松阪市垣鼻の時中焼窯跡を発見する。時中焼は時中富古とも呼ばれ,阿波藩主12代蜂須賀重喜が裏千家一燈宗室を招いてお庭焼を始めたもの。一燈に同行した陶工が丈七で,この丈七が和泥斉時中寸丈と称して,文化文政の騎松阪に来て創始している。

昭和11年(1936)半泥子は備前の金重陶陽を尋ねている。室町末期から続く伝統ある備前焼が衰微した状況を呈した昭和初期とあって,陶陽が様々な苦難と戦いながらも,窯や棚板などの改良を重ねて桃山期の備前再現にようやく成功した直後であった。半泥子は陶陽のやきもの作りへの情熱を知り,陶陽は半泥子の茶陶に対する見識と思量に感動する。以後半泥子は備前において指導者的役割を果たすことになり,備前を代表する陶陽と半泥子は交友を深めていく。これは藤原啓の次の懐古文からもうかがうことができる。

「古備前の奥深い世界と窯の厳しさを教えてくれたのは陶陽である。焼きものの楽しさを身をもって示してくれたのは川喜田半泥子であった。半泥子さんは明治11年,三重県の素封家に生まれ,百五銀行の頭取を永らくつとめた実業家である。早くから趣味人としても知られ,57歳の時に自分の窯を構えて作陶も手がけた。その作風は悠々として,何ものにもとらわれない大らかな味わいがあった。

半泥子さんは戦前から陶陽の窯を訪れていた。私が面識を得たのも陶陽の仕事場である。二人の前で轆轤を挽かされた時は,汗びっしょりだった。半泥子さんがにこにこ微笑を浮かべて私の手さばきを見つめられていたのを思い出す。

備前には古備前という俸大な手本があるため,職人から出た人は往々にして古備前の形態から脱しきれない面が見受けられた。古備前にならうのは大切なことにはちがいないが,へたをするとそのまねになりかねない危険があった。

半泥子さんの真骨頂は,すぐれた作品をたくさん鑑賞し,伝統を正面から受けとめながら,どのようにして自分の世界を切り開くかという点にあり,私の格好の手本であった。奔放不羈にして,そこに貴人の香りが漂っていた。」(日本経済新聞1982.10.5藤原啓『私の履歴書』)

同年5月,半泥子は加藤唐九郎とともに唐津の中里太郎右衛門(のちの無庵,1895− )を訪ね,21日間滞在する。その間,古唐津の窯跡調査を行い,唐津の士で茶碗を造り一窯焼く。(このときの作と考えられる絵唐津3点が本展に出品されている。古唐津の窯がどのような形態であったかとか,半泥子は古唐津に関する見識を太郎右衛門に示し,古唐浄再興に少なからず影響を与えている。

『焼きもの趣味への随筆寄稿を昭和10年6月より依頼された半泥子は,泥仏堂日録と題し,思うところを遠慮構わず執筆する。沈滞した様相を呈する茶陶界であったから,趣味人として数奇風流に作陶する半泥子の随筆は好評を博し,同16年まで連載され,12年には単行本としても出版されている。これが縁となって,昭和12年(1937)4月23日より25日の3日間,東京赤坂山王下星が丘にある山の茶屋において『泥仏堂無茶法師作陶展』を開催することになる。同好の方だけに見てもらう予定が,表千家久田宗也,裏千家石川宗寂,洋画家の岡田三郎助,日本画の鏑木清方,その他愛陶家,学者等錚々たる推薦者もでき,大規模な展覧となった。

半泥子の最も好んでいたものは,佗びた風情を持つ井戸,三島,粉吹などの高麗茶碗であった。国焼では唐津,志野,瀬戸黒(引出黒)の茶碗であった。半泥子の作陶の中心もざんぐりとして,素朴な美しさを持つものに集中していた。事実,半泥子の手元にあった釉薬は,土灰釉と長石釉の他はほとんど皆無であったという。この作陶展の開催にあたり,各方面から「赤いもの,青いものも取り混ぜて」と要望され,それに答えるかたちで半泥子は赤絵や青磁など広範な釉薬研究を本格的に始めている。

昭和14年(1939),単に古典を再興するのではなく心の趣くままに造り,自己の想念を表出させるという半泥子の,いわば桃山時代の作陶の意に通ずる精神に賛同する金重陶陽,荒川豊蔵,三輪休雪(10代)の4人で『からひね会』を結成し,親交を深めていく。ところが昭和16年(1941)太平洋戦争が始まり,戦火が激しくなった同19年に鈴鹿市白子町千代崎に疎開,この時点で鷹ケ峰の芸術村のようであった千歳山窯での制作は終りを告げている。桃山時代の茶陶を研究し,復興に精根使いながらもそれを目標とせず,あくまで自己の想念の表出に腐心した半泥子の千歳山窯での高揚期は,からひね会結成から太平洋戦争によって精神的にも疎外させられるまでの間,とりわけ昭和16年前後と考えられる。

半泥子は昭和18年(1943)3月,『乾山考』(特製本65部)を刊行する。『乾山考』は乾山の研究には欠くことのできない貴重な文献となり,半泥子の陶磁研究者としての力量をも示すことなり,以後に起こる乾山ブームの先達となる。

乾山三世宮崎富之助妻はるから雨華庵酒井抱一へ,抱一から歌仙堂西村藐庵へ,藐庵から三浦乾也へと伝わった乾山自筆の伝書『陶工必用』を秘蔵していた池田成彬より,半泥子は特別に内見を許され写真に納める。この伝書は,野々宮仁清から乾山に陶法を伝えたことを立証する唯一の文献であるが,ともかく乾山が『陶工必用』において「世界赤白ノ土何レカ陶器ニ不成ト云事アルベカラズ,其善悪窯ヘ入レヤキ候テ試ミ可相分 度量狭少ナルハ何之道モ成就スべカラズ」と喝破していることに共感した半泥子は乾山研究に没頭する。

昭和16年(1941)3月,仁和寺『御記』を拝見,乾山に関する文書を記録,翌年2月末から鳴滝の乾山窯跡 調査に入る。半泥子に同行した者は小西平内,萩原実三,藤田幸之(等風),宮永東山(二世友雄),荒川豊蔵であった。法蔵寺古文書のなかから乾山研究上未発表の資料を幸い初日に発見することができ,水すなわち古井戸を軸とする半泥子流の周到な考証による「乾山製陶場古地図」と発掘計画が作られ,これに基づき順調に進み,また実証も成ったとの旨が『乾山窯跡考』(泥仏堂半泥子著「画説」69号,昭和17年9月)に記されている。

昭和20年8月終戦をむかえるが,大正5年頃より住み馴れた千歳山荘は進駐軍に召し上げられ,11月津市長谷山のふもとの広永に6畳と3畳それに台所という12坪の住居を建て,ここに移ることになる。簡素な佇まいであったというが,半泥子の心情は豪放で,居間,応接,食堂を兼ねる部屋に会津入一筆の『金殿玉桜』を掛けていたという。同年2月には百五銀行の取締役頭取を辞して取締役会長に就任したこともあって,俗世間から離れ,風流三昧の暮らしをしていたという。

翌年千歳山窯を長谷山中腹に移して広永陶苑を創設する。昭和22年初窯を焼いてから同33年までの10余年間,円熟期に入った半泥子は,この広永窯で作陶に没頭する。まさに本阿弥光悦の心境であったのかも知れない。

「むちや苦茶に作る茶わんの無茶法師これでのむ人茶ちゃ無茶苦茶」と歌っているように,誰も作ったことがないであろうと考えられる松の根の土を生きたまま轆轤にかけて造った『茶碗 銘 沖の石』,窯のなかで釉が弾け剥げている『志野釉はげ茶碗 銘 大さび』,見込みに釉薬を厚く掛けたため,その段階で亀烈が生じ,亀烈を含む胴や腰に手で釉を掛け,藁で巻いて焼成した『志野茶碗 銘 赤不動』などの豪快な作振り,あるいは『白掛茶碗 銘 たつた川』に見せる繊細で穏やかな作調は,桃山時代の作陶の精神を受継ぎながらも,少くとも陶技の上では桃山時代からの伝統を越えたと考えることができる。

「焼きものの場合で見ても,茶の精神といったものを生来身につけていた半泥子は,古い名器に対しても充分に心眼が開かれていたばかりでなく,いつも若もののように大胆で勝手気儘なハメのはずし方をしていますが,芯となるべき風雅の妙諦は決して踏みはずしていないことがうかがわれます。(『半泥子翁回顧展図録』のうち吉田耕三「川喜田半泥子の芸術」)と述べているように,数奇風流人として,自分の意のままに作陶するという,半泥子でしか到達できない境地に至ったことを示している。決して奇怪な形態の茶碗を作ることが半泥子流ではない。

半泥子の師が誰であったか,半泥子亡き後,広永陶苑を主宰している藤田等風氏は「半泥子は人間関係に於ても大旦那風な磊落開放的な人柄で来るものは拒まず,まして熱中するやきものの事どんな人からでもよい所を吸収したがった。だから当時千歳山へ出入りする専門陶工は多く,いわば千歳山は一時梁山泊の有り様でさえあった。道に於て一芸一能の士はどんなに年少でも先生として扱い,家族使用人にもそのように申し付けた。夫々の人から夫々の勉強をしたが,つまるところこれは濾過作用で,結局は半泥子に摂取消化されその独自性への料とされてしまった。」(『現代の陶芸第6巻』講談社)と述べている。千歳山へ来山したのは,真清水蔵六,富本憲吉(1886−1963),加賀月華,新井謹也(1884−1966),三輪休和(10代休雪),中里無庵(当時,太郎右衛門),加藤唐九郎,荒川豊蔵,金重陶陽,加藤十右衛門,小山冨士夫,加藤土師萌(1900−1968)ら多数の人たちであった。

伝統を学びながらも,何ものにもとらわれず,心の趣くまま,自ら理想とする実の世界を具現していった半泥子が,来山した人たちから学んだものは陶技研鑽のためであって,作陶する心情を学んだのは遠く本阿弥光悦(1558−1637)と尾形乾山(1663−1743)からであった。

本阿弥家には,代々刀剣の鑑定・管理・補修を家業としていたことから情報の集積があり,戦乱の世にあって光悦もいわば武家社会の中枢に位置していたが,大阪夏の陣に際し豊臣家と密通していた罪により徳川家康より自刃を申し付けられた古田織部(1543−1615)が光悦の茶道の師であり近い関係にあったこともあって,元和元年(1615)家康から京都洛北の鷹ケ峰を拝領して,本阿弥家一族と工人を引き連れ,法華信仰に生きる町衆の友と共にそこへ移り住み,以後,数奇風流に生きたことから大胆で独創的な手腕を発揮することとなった。このとき光悦は58歳であったが,もはや拘るものは何もなく作陶に興じている。光悦の好みによって生まれた茶碗には大胆さと繊細さが渾然一体と成し,自在に美を求める素人ならではの作意をうかがうことができる。なお光悦は嵯峨本の表装を考案していることや,近衛三藐院と松花堂昭乗とともに寛永の三筆の一人としても著名であったこともあり,半泥子は光悦を敬慕し,「光悦をゆめに昼寝の伽羅枕」などの句も読んでいる。

乾山は光琳を兄とし,呉服商を営む京都の富豪雁金屋尾形宗謙の三男として生まれたが,「趣味として始めた焼物に一生を打ちこんだ」ところに半泥子は共感を示し,「おらが宿そこらの土も茶碗かな」の句のとおり,乾山と同じくあらゆる土を試し,多彩な新意匠を求め,水々しい創作を発揮しようとした。

晩年に至り,半泥子は次のように述べている。
「世の中にクロートハダシという言葉がある。素人芸をほめたつもりだろうが,私に言わせればシロートハダシと書いて職人的玄人を戒める言葉とすべきだ。

ほんとうに天分ある素人は素朴ですべてつまらぬ古い約束事にとらわれず,純真集中的であらゆることに疑問と興味をもち新しい工夫創作を試みる。外から苦労と見えても御当人少しも苦しみではなく,その仕事は楽しみに満ち,時間も場所も忘れてそのことに傾倒する。念願とするところはひとえに芸術的真実の発見だけである。」(『萠春』昭和33年) このように,千利休,古田織部,あるいは光悦,乾山といった人たちによって生まれた茶陶の,とりわけ自由自在に作陶する心情が近代になって半泥子によって蘇える。黎明期にあった茶陶の世界において金重陶陽,中里無庵,三輪休和をはじめ作陶する多数の人たちに与えた半泥子の影響は小さくなかったであろうと考えられる。

半泥子は,光悦や乾山がそうであったように,やきものだけでなく多芸多趣味の人として青年時代から芸術に関心をよせ,自らの俳句等を記した生気溢れる書や軽妙な水墨画・油彩画なども遺している。また地方の社会文化事業の育成にも意を注ぎ,学校教育へも多額の私費を投じるなど,半泥子は随分スケールの大きい人物であったようである。

85歳の稀な天寿をまっとうし,昭和38年(1963)老衰のため千歳山荘で死去。「仙鶴院半泥自在居士」と戒名にも半泥の文字が入っている

(三重県立美術館学芸員)

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