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資料

日本のゴーギャン
大正期に画家はいかに舶来したか

構成/荒屋鋪透

この資料は、日本の知識人が画家ポール・ゴーギャンをいかに受容してきたのか、その軌跡の一端を大正期に限って敷衍してみようという試みである。ゴーギャンのみならず、フランス後期印象主義の紹介は雑誌『白樺』を中心に展開されたが、本稿は明治42年夏の高村光太郎の帰国から、昭和2年芥川龍之介の死去までを扱い、下記の構成で資料の一部を提供することがその目的である。なお同時代の美術と文学を扱った、多くの著書・論文の恩恵をうけたが、特に匠秀夫氏の著作を参照させていただいたことをお断わりしたい。

 また本稿作成にあたり、東京国立文化財研究所の山梨絵美子女史、大原美術館の守田均氏、静岡県立美術館の越智裕次郎氏、岐阜県美術館の山本敦子女史、茨城県近代美術館の小泉淳一氏から、貴重な助言と協力を得た。記して感謝申し上げたい。


1.明治42年の高村光太郎と木下杢太郎

高村光太郎は、日本における最初のゴーギャン紹介者のひとりであろう。マイアー・グレーフェを翻訳した「EXOTISCHの画家 PAUL GAUGUIN」は、明治43年4、5月号の『早稲田文学』に発表された(『現代の美術』大正2年8月に再掲)。

「屋上庭園」第二号の杢太郎氏の長詩の中に「Strauss,Gauguinの曲調の」といふ句があつたのでGauguinを音楽家だと思つた人が僕の友人の中にもあつた。こんな事は其の人にとつては痛ましい無識、又其の芸術家に対しては大胆な侮辱にあたるわけである。泰西の文学家のかなり下らぬ者までも兎に角親切に紹介されつつある今日、画家や彫刻家の大粒なものの一わたりすら知られて居ないのが如何にも残念に思はれてならない。今の句の縁でPaul Gauguinの事について何か書かう、と思つたが、やはり僕自身の話よりも折紙のついた人の言の方が最初には信用があるだらうと考へて翻訳する事にした。
【「EXOTISCHの画家 PAUL GAUGUIN」『高村光太郎全集』第17巷、筑摩書房、昭和32年、P.115.】

同時期に発表された光太郎の翻訳には、ゴーギャンに関して大変興味深いものがある。例えば明治43年12月『スバル』誌上の「一八八一年独立派展覧会評」(ジョリ・ユイスマンス)。

これはユイスマンスによるゴーギャン文献として重要なJoris−Karl HUYSMANS,“L’exposition des indpendants en1881,” L'Art moderne,Paris,1883,pp.85−123.の翻訳である。

 ところでグレーフェ論文の紹介にさきだち、光太郎は「Strauss,Gauguinの曲調の」という木下杢太郎の詩句を引用しているが、これは杢太郎の詩篇『異国情調』のなかから「北原白秋氏の肖像」という詩の一節である。

性慾の如くまつ青な太陽が金色の髪を散して、
異教の寺の晩鐘の呻吟のやうに高らかに、然しさびしく、
河の底へ……底へ……底へ……と沈む時に、
幻想の黒い帆前は
滑つて行く‥…音もなく…‥
【『木下杢太郎全集』第1巻、岩波書店、1981年、p.150.】

と始まる同詩篇は明治43年2月の『屋上庭園』に発表され、「北原白秋氏の肖像」「日本在留の欧羅巴人」「邪宗僧侶刑罸圖を眺むる女」「暮れゆく島」「SAFFRAN」「『異人館遠望』の曲の序」の6編からなる。光太郎の論文のタイトル「異国情緒の画家ポール・ゴーギャン」は、杢太郎の詩篇『異国情調』に重なっている。『屋上庭園』は北原白秋、杢太郎、長田秀雄を編集同人として、明治42年10月に創刊された文芸雑誌で、パンの会の詩人たちの機関誌として、耽美的な異国趣味を漂わせた詩編を掲載したことで知られているが、この『異国情調』と同じ第2号に載った白秋の『おかる勘平』が、風俗壊乱したという理由から発禁となり、そのまま廃刊に追い込まれている。

『空にまつ赤な雲の色、玻璃にまつ赤な酒の色』から、
河に面した厨の葉牡丹の腋臭から、
日を受けたタンク蒸気の引いてゆくCadence(かだんす)から、
はた其のかげの痛ましいさ古聿(シヨコラア)の
とぎれとぎれのStrauss(しゆとらうす),Gauguin(ごうぎやん)の曲調の
うち絶えつ、またも響く柔い薫のうちから、
【『木下杢太郎全集』第1巻、岩波書店、1981年、p.152.】

この詩が発表されたのは明治43年2月。当時24歳の杢太郎はいつ、「ごうぎやん」と出会ったのだろうか。独逸学協会中学からの学友、山崎春雄に宛てた一通の書簡が残されている(明治42年8月9日)。

高村光雲の息の砕雨といふ人が近頃帰つて来たから、方寸社のかへり、大ぜいでたづねてみた。ロダンとマネの大な集があつた。ツウルウズ・ロオトレクやスタンランの皮肉な漫画をみたら、巴里の実際生活は苦しさうでいやだつた。ポオル……はゴオガンとよむんだね。Degasはやつぱりドェガアださうだ。明日はいよいよメエトルの処へゆくんだ。メエトルは兎に角日本でのZeichnerだから、粗大な面白いデツサンをかれてきて、写真にして、木版にして、表紙にするんだ。     【『木下杢太郎全集』第23巻、岩波書店、1983年、p.133.】

「砕雨」は、明治33年与謝野鉄幹の新詩社に入社し、『明星』に短歌などを発表していた高村光太郎の号。「メエトル」は東京美術学校の黒田清輝である。杢太郎は『屋上庭園』創刊号の表紙を、黒田に依頼するところである。

いよいよ屋上庭園は九月一日頃に出すよ。俺は六月の夜といふ長い小説をかいた。六号二段、四六倍版、二十四行、一段二十七字。六号活字はきつちりつめずに字と字との間にまを置く。
【『木下杢太郎全集』第23巻、岩波書店、1983年、p.133.】

四六倍版の判型を2段組にして、6号活字を詰め過ぎず1段、24行27字という細かい指示のもと、雑誌『屋上庭園』は創刊された。その創刊にむけて準備をしていた、明治42年の夏、杢太郎は高村光太郎のもとでゴーギャンを知る。「ポオル……はゴオガンとよむんだね。」という箇所からあるいはGAUGUINの綴りは知っていて、つまり名前はどこかで見ており、確認した可能性もある。いずれにせよ、詩篇『異国情調』にある「ごうぎやんの曲調」の源泉のひとつはここにあった。高村光太郎の帰朝は、ゴーギャンのみならず、印象派、後期印象主義を本格的に日本に移入した年といってよいが、ゴーギャン舶来の年にもあたるといえよう。明治42年8月号の『早稲田文学』には、光太郎帰国の記事が掲載されている。

高村砕雨氏の帰朝
青年彫刻家として又新派歌人として名を知られた高村光太郎(光雲氏の息)は多年欧米へ留学中のところ六月三十日神戸入港の阿波丸にて帰朝した。氏は彫刻以外絵画、音楽、演劇等をも研究して来たさうだ。
【『高村光太郎資料』第4集、文治堂書店、昭和48年、p.212.】

光太郎の「EXOTISCHの画家 PAUL GAUGUIN」を読んだ島崎藤村は、明治43年5月号の『文章世界』に書評をのせた。

‥…「白樺」も二号になつた。今月のゝには、画家の事を論じた有益な論文が載つてゐる。
高村光太郎君が「早稲田文学」に寄せたポール・ゴーガンの紹介、有島君が「白樺」に書い
たセザンヌの紹介、何れも私には面白く読まれた。……「早稲田文学」では高村君の訳されたゴーガンの紹介が注意を惹いた。かういふ画家のことについては幾ら聞いても飽きない。……「スバル」では、やはり高村君の書いたものを注意して読んでゐる。
【「五月の文芸雑誌」『島崎藤村全集』第17巷、新潮社、昭和27年、p.351.】


2.明治43年の上田

明治43年4月発行の雑誌『美』(1−10)に掲載された、上田敏の「ポオル、ゴオガン」fig.1.も、最初期のゴーギャン紹介のひとつである。「現代芸術の生命を豊富にしやうといふには、多少の蛮気が必要かと思つて、あまり人の噂に上らない。ポオル、ゴオガンの事を述べる」と始まるこの文章は、四百字詰原稿用紙5枚ほどにまとめられた講話だが、それが書かれた、明治43(1910)年という時期と、彼が『海潮音』(明治38)においてマラルメの象徴詩を翻訳していることを考えると意味深長な内容をもっている。てみじかに画家のプロフィルを述べたうえで、上田はさらに以下のような感想をもらす。

ゴオガンばかりでは無い、芸術に野気、蛮気、原始の感情を尊んで、やゝ倦怠した近代の作品に生気を吹込まうといふ望は、新人の胸に多少抱かれてゐる。ヱ゛ルレエヌが清新の詩風を唱道した詩の結末に、『而して余は皆文学のみ』と喝破した心を思ひ、また其友人ランボォが『酔どれ船』の詩を以て、仏蘭西の騒壇を驚かし、間も無く文学を棄てゝ、阿非利加の内地に象牙を求めに行つた痛快な一生を考へてみると、現代の文明も、そろそろ一転機に近づいたのではあるまいか。
【上田敏「ポオル、ゴオガンPAUL GAUGUIN」『美』(1−10)、明治43年4月、p.4.】

上田敏の欧米留学からの帰国は、明治41年10月。京都帝国大学英文科教授の彼は、ちょうど『白樺』が創刊された当時、「ポオル、ゴオガン」を発表した。同月、高村光太郎は『早稲田文学』にマイアー・グレーフェ論文を掲載。上田は翌年1月の『芸文』(2−1)にも、タヒチを描いたゴーギャン作品の「美術解説」を執筆し、「やゝもすれば文雅に過ぎる今日の画界に一種の蛮風を供給してゐて面白い」と述べる。「現代の文明も、そろそろ一転機に近づいたのではあるまいか」という、さきほどの『美』誌上で告げられた感慨は、同時代の知識人、芸術家たちにとっても痛切な問題であったようだ。

fig.1 上田敏「ポオル、ゴオガン」『美』(1-10)明治43年4月より

3.明治45年の柳宗悦

明治45年1月の『白樺』(3−1)に、柳宗悦は「革命の画家」を発表した。1910(明治43)年11月のロンドン、グラフトン・ギャラリーにおける『マネと後期印象派』展を紹介しながら、ロジャー・フライが企画した展覧会への、当時の英国観衆の戸惑いを冒頭に挙げ、宗悦は後期印象主義を定義しようとしている。ポスト=インプレッショニズムを、彼は「後印象派」と翻訳。

若し後印象派とは如何なるものであるかを尋ねるなら、答へは明白である。―汝が拠る可き唯一の王国を汝自身の裡に見出し、其旺溢せる全存在を真摯に表現し様と思ふならば、汝は既に後印象派の気息に於て活ける人である。……げに芸術は人格の反影である。そは表現せられたる個性の謂に外ならない。従つて芸術の権威とはそこに包まれたる個性の権威である。……表現画家(Expressionist)の名こそ彼等を表はす可き応はしい文字である。
【『柳宗悦全集』著作篇第1巻、筑摩書房、昭和56年、pp.545−547.より抜粋】

ここには、後に夏目漱石が『文展と芸術』(大正元年10月15日、東京朝日新聞)の冒頭で語った有名な言葉「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」を予告するような、力強い自我礼讃の響きがある。印象主義から後期印象主義への移行を概観した後、セザンヌ、ゴッホについて論じ、宗悦はゴーギャン論を展開する。同号『白樺』には武者小路実篤も「後印象派に就て」を執筆しているが、ふたりが後期印象主義を紹介するにあたって参照した文献は、チャールズ・ルイス・ハインド(Charles Lewis HIND:1862−1927)の『後期印象主義者たち』THE POST−IMPRESSIONISTS,である。ハインドは、ターナーやロムニー、コンスタブル、ホガース、ヴァトーなどの評伝を著した美術史家であり、1921年にはART AND I、また1923−24年にはLANDSCAPE PAINTING,などの著作を上梓している。武者小路は明治44年12月、『白樺』の「手紙四(感想)」のなかで、宗悦がハインド文献を入手した時の喜びについて語っているが、宗悦自身も中島兼子宛の手紙で、同人たちの興奮ぶりを告白している(明治44年11月24日)。

……私の今の生活は、貴嬢に語りたい程、希望と元気とに満ちてゐます、かくなつた大きな原因は、近頃私の所に届いた「后期印象派の画家」(セザンヌ、ゴオホ、ゴーガン、マティスetc.)に関する本とゴオホの絵の写真のついた事でした、武者小路や志賀等と、此一週間は、毎夜おそく迄、是等の画家の運動や自分たちの仕事の事について、語りあかしました、吾々は今元気でゐます、‥‥
【『柳宗悦全集』著作篇第21巻上、筑摩書房、1989 p.53.】

ハインド文献は、さらに雑誌『現代の洋画』の大正2(1913)年8月、第17号の「後期印象派」特集号で、木村荘八により翻訳された。かつて土方定一は萬鐵五郎の卒業制作《裸体美人》にゴーギャンの影響を見て、その源泉にハインド文献をあげている【『近代日本文学評論史』西東書林、昭和11年、p.80.】。
宗悦はハインド文献から、ゴーギャンの革命の画家たる所以を説き、白樺同人に理論的指針を与えている。

……かくて彼は一切の人為的文化の作為を棄てゝ自然に対する直覚的美を画いた。色彩と形相とに於て単純化せられたる彼の作品が最も装飾的効果に於て優れたのも必然の結果である。その筆致と云ひ構造と云ひ、そは凡て嬰児の眼にうつれる純なる自然の形象である。彼が絵画の平面的にして原始的なるも亦之が為である。げに彼は大なる嬰児であつた。従つて彼の前に提供せられたる自然は、一切の仮面を脱ぎ去りたる赤裸々なる自然そのものであつた。彼と自然と絵画とは凡て此無垢なる心の内に一つであつた。人々は只此嬰児なる事を「蛮民」「野人」なる事と解したのである。げに彼の上に加へたる是等軽侮の名辞は何等彼等の価値を毀損するものではなかつた。「余は野人なり」とは又彼自らの言葉である。習俗的芸術に慣れた人々にとつて此「野人」の絵画は又破壊の力であつた。彼も又革命の画家個性の画家である。
【「革命の画家」『柳宗悦全集』著作篇第1巻、筑摩書房、昭和56年、pp.559−560.より抜粋】


4.大正元年の斎藤輿里

斎藤輿里は、明治45年7月号の『白樺』(3−7)に、「PAUL GAUGUINの芸術」と題した文をよせている。輿里がゴーギャンの生涯を記す際に参照したのは、文末に明記されたミシェル・ピュイMichel PUYの文献である。ピュイには印象主義に関して、Le Dernier Etat de la peinture,Paris,1911.という著作があるが、輿里が依拠したものかどうか定かではない。

この年27歳の興里は、9月に岸田劉生、高村光太郎、萬鐵五郎らとフュウザン会を結成し、10月に第1回展を開催することになる。輿里は明治42(1909)年の第7回太平洋画会展に、《尼》など滞欧作10点を出品しているが【展覧会カタログ『斎藤与里とその時代』埼玉県立近代美術館、1990年】、この第1回フュウザン会展に出品された油彩画《木蔭》(1912年)fig.2.ほど、明確にゴーギャンの影響をうかがわせる作品はないだろう。森口多里は後に、輿里の《木蔭》について「ゴーガンの太い線を用ゐた要約」【森口多里『美術五十年史』鱒書房、昭和18年、p.373.】と記述している。輿里はゴーギャンの生涯を辿る前に、以下のように前置きしている。

fig.2 斎藤輿里《木蔭》1912(大正元)年
……自分を導いて呉れる、自分の芸術の神様は『強くなれ』強くなれと云つてゐる。自分は弱いから『強くなれ』と云はれるのだ。セザンヌやゴッホやゴオガンなどは初めから強い人々だつたから、彼等自身になると極めて平坦な道を歩ゐていたのだらうが、其の進み方が非常に強いものになつてゐる。其のうちでもゴオガンの絵が最も自分を圧倒する、強い生活の力を持つてゐる様に思はれる。自分はゴオガンの絵を見た時は心臓麻痺を起こしさうになつた位である。……ゴオガンの絵は非常に考へさせる力を持つてゐる。……氏の実生活と離して見る事の出来ない様な深奥な然も現実な氏の複雑した情調を考へさせるのである。……目ばかりの人には到底ゴオガンの作物を了解する事は出来なかつた。ゴオガンの芸術は確に一のミラクルである。否、凡ての芸術は一種のミラクルでなければならないと自分は思つてゐる。……ゴオガンは物の心理を描いた人である。無意に存在してゐる山や川や花や瓶でも、氏の心に接する瞬間に於て、凡ての物が、大さとか強いl悲しみとか、寂し味と云ふ様に、物皆はそれぞれの生命を担はされる事になる。……セザンヌやゴッホの絵が、或る時は其の狂熱的な処に寧ろ怖味があつて心安く近寄り悪い位な点があるのに反して、ゴオガンの絵は深刻な中にも云ひ知れぬ優味があるので徹頭徹尾懐しさの情を以つて親む事が出来る。……
【斎藤輿里「PAUL GAUGUINの芸術」、『白樺』3巻7月号、明治45年7月、pp.67−74.より抜粋】

ここには、時代の転換点に立つ不安とともに、新しい芸術を希求する画家の強い意志が告白されているが、いま注目したいのは、ゴーギャンとゴッホを対比しながら、その作品の相違と同時に、芸術家の生涯をも対照していることだろう。そうした比較は輿里に限ったことではない。

5.大正2年の岸田劉生

岸田劉生は大正2年3月の機関誌『フュウザン』第4号に、「ゴオホとゴーガン(感想)」を書いた(『現代の洋画』第17号、大正2年8月に再掲)。劉生はゴッホとゴーギャンを対比しながら、ふたりの生涯と絵画の相違に、自らが選ぶべき方向を模索している。

この二人の異つた画家は同じ時代に生れて、不思議にも、意味の深い対照を自分に示して呉れる。……自分は人間でありながら人間である事を識らない多くの凡俗を知つて居る。……彼等には誠の生活がない。虚偽と伝習との中にうごめいて居る。……自分の生活は真に人間的である時のみ深まり高まつて行く。……自分は自然と如何なる意味に於てでも合奏する時のみ人間的になり得る。……ゴーガンは讃美出来る様な境遇を択んだ。讃美し謳へる時だけがゴーガンの生活であつた。彼はすべて彼をいらだゝせるものから逃れた。……彼は自然を呪つては生きられなかつた。……ゴオホは、苦しむ時、痛い時、にも全力をつくしてその中で生きた。彼は自然を呪ふ事によつても生長し得た。……彼は坑夫に道を伝へずには居られなかつた。飢と病とで死にかゝる迄も彼は為さうとした。……ゴーガンは苦しみを避けた。……彼が神を思惟する時は、神は美しき詩である。かくて彼はプリミティーヴな土人の神像と宗教の前に涙した。……ゴーガンは自然から味ふた感動を智的にシムボライズする余裕を持つて居た。……ゴオホは製作する時に標的がなかつた。彼は自然から受ける感動の全体を跳らした。……ゴーガンは常に全体の為めに部分を択つた。そしてその全体とは即ち彼の讃美した自然であつた。詩であつた。そして標的であつた。……ゴオホとゴーガンはある宿屋で争ふた。そしてゴオホはゴーガンを殺さうとした。……二人は争はねばならなかつたのだ。……自分は詩人として画家としてゴーガンを偉大な高い人だと思ふ。……しかし、自分の生き行く事に、彼は無関心で居る。……自分はゴオホの生活の前に戦のく。彼は人間がどの位強く生きられるかを自分にしめして呉れる。生きねばならぬ。全力を挙げて。……
【『岸田劉生全集』第1巷、岩波書店、1979年、pp.115−126.より抜粋。】

ゴーギャンの影響は洋画家のみならず、日本画家にも及んでいる。国画創作協会の画家たちにそれは特に顕著である。


6.大正元年の土田麦僊と野長瀬晩花

森口多里は土田麦僊におけるゴーギャンの影響を、まず《島の女》fig.3.(1912年)に見ている。大正元年満25歳の麦僊は第6回文展日本画二科に《島の女》、《冬》を出品、《島の女》は文部省買い上げとなった。

土田麦僊のみは、「島の女」(二曲一双・文部省蔵)に於てゴーガンの感化をまざまざと示し、後期印象派の影響が若い日本画家の間にも及んだことを証拠立てたのであつた。
【森口多里『美術五十年史』、昭和18年、鱒書房、pp.286−287.

多里は、翌年の文展出品作《海女》fig.4.から、さらに具体的に、麦僊のゴーギャンヘの傾倒を抽出している。

土田麦僊の「海女」(六曲屏風一双)はその野趣ある裸女と大胆な要約と濃烈な色彩とによつて愈々ゴーガンに接近した。
【『美術五十年史』、昭和18年、鱒書房、p.289.

麦僊と同じ国画創作協会の画家、野長瀬晩花にもゴーギャンの影響が見られる。『土田麦僊の芸術』(豊田豊/猪木卓爾共著、美術往来社/資文堂書店発行、昭和12年)には以下の記述がある。

野長漸晩花はちやうど波光とは反対な角度に於ける奇人であつて、性常に放浪を好み、国展の解散せらるゝや敢て帝展に媚びるなく、満州その他の異域に放浪し漂乎と帝都に現はれ来つて個展を開催する。蓋し彼の如きはアンデルゼンが描くなる即興詩人の類ひであらう。その画風は多く美人画、女性画を主とするが、放胆なるゴオギヤニズムとアヴアン・ギャルドな新奇性は国展同人中でも殊に眼を聳だたしめるものがあつた。……
【『土田麦僊の芸術』p.133.

昭和58年に笠岡市竹喬美術館で開催された『国画創作協会の歩みT』展カタログにおいて、京都国立近代美術館の内山武夫氏は、国画創作協会展第1回展に出品された《初夏の流れ》fig.5.について、「ゴーガンヘのあこがれを強烈な色彩によってあらわした晩花の「初夏の流れ」など」と指摘しているが、大正元年の麦僊、同7年の晩花は、大正期の日本画家のゴーギャンへの接近を示す格好の作例を提供している。

fig.3 土田麦僊《島の女》1912(大正元)年


fig.4 土田麦僊《海女》1913(大正2)年


fig.5 野長瀬晩花《初夏の流れ》1918(大正7)年

7.大正2年の小泉鐵と夏目漱石

夏目漱石は大正2年11月23日の小宮豊隆宛書簡に、ゴーギャンの『ノア・ノア』を読んだ感想を述べている。

……小泉鐵といふ人がゴーガンのノア、ノアといふ訳をくれた面白いものだ君も読んで見玉へ。アーヰ゛ングの伝記などあんな長いものをかく必要があるかね、下らないと思ふ。ヘンリアーヰ゛ングは夫程の人物かね。
【『漱石全集』第15巻、岩波書店、昭和51年p.297.

小泉が漱石に贈ったのは、大正2年11月に麹町平河町の洛陽堂から出版された『ノア・ノア』。独訳からの重訳で、以前『白樺』に連載されたものである。小泉鐵(こいずみ・まがね:1886−1954)は、第二次新思潮から白樺同人となった小説家。漱石も『白樺』を通じて、後期印象主義の画家を知った。同じく大正2年7月3日清国領事館の橋口貢宛の書簡には、ゴッホを西洋の池大雅に見立てている。

……此間ゴツホの画集を見候珍な事夥しく候。西洋にも今に大雅堂が出る事と存居候。
【『漱石全集』第15巻、岩波書店、昭和51年p.262.

漱石と白樺派の作家、小泉との交際は『ノア・ノア』贈呈後、進展している。大正3年1月7日漱石の小泉宛書簡。

昨日あなたへ行人を一部送りました。ノア々々の御礼として記念の為に上げたのだから受取つて下さい。……実は昨日あなた〔の〕白樺に出た小説を読みました。半分以後は呼息がつまるやうな心持がします。まことに悲しいものです。さうして美くしいものです。私は個々の人が個々の人に与へられた運命なり生活なりを其儘にかいたものが作品と思ひます。何となればそれに接した時自分に与へられないものを見出して啓発を受けるからであります。あなたの書いたものも私にとつてその一つであります。……
【『漱石全集』第15巻、岩波書店、昭和51年pp.317−318.

漱石は小泉に『行人』を贈り、『ノア・ノア』の返礼とした。彼が読んだ小泉の小説とは、大正3年1月号の『白樺』に発表された『自分達二人』である。漱石は先の手紙のなかで、『自分達二人』の内容に「感情に訴え過ぎる」という助言を与えながらも、「あなたにもあの小説に似た悲しい事実の記憶が新らしいやうに人から聞きました。さういふ気分の所へ行人などを送るのは邪魔になる丈でせう。然し読まんでもいゝのです。たゞ受取つて置いて下さい」と配慮している。小泉は同年8月14日、漱石宅訪問を希望したらしく、漱石の返書が残っている(8月13日付)。

拝復明日御出の趣承知致しました御待ち申します、然し今日のやうな天気なら別に無理をして約束通りになさらないでよろしう御座います……
【『漱石全集』第15巻、岩波書店、昭和51年p.382.

小泉鐵翻訳による『ノア・ノア』が初めて『白樺』誌上で発表されたのは明治45年1月の3巻1号。以下45年2月(3−2)、4月(3−4)、7月(3−7)、8月(3−5)と大正2年1月(4−1)、そして最終回の大正2年10月(4−10)までの7回連載で完結した。小泉が『白樺』誌上でゴーギャンを紹介したものには他に、大正2年11月(4−11)号の「絵画は」がある。


8.大正14年の山崎省三

森田恒友の『平野雑筆』(昭和9年)に「代々木に住んで」という文章がある。大正11年2月号の『中央美術』に掲載された、画家の随筆である。文中に登場する、山崎省三とは村山槐多の詩集『槐多の歌へる−村山槐多遺著』(昭和2年、アルス)の編者で、アルス美術叢・早wゴーガン』の著者でもある。

四五年前、谷中の研究所で山崎省三君に会つたとき、「君は何処に住んで居るんです?」と聞いたら「代々木の上原に居るんです。村山君も一しよです」といふから「どうです、あの辺は好きですか」と聞いたら「好きだ」と答へてくれた。……取り立てゝ何処が面白いでもないのだけれど、代々木八幡の黒い森を左に見て、黒松の樹ち並ぶ丘沿ひの小径に、太陽を前にして、どんよりとうす日に寂しい杉や田の面に、よく私は何時とはなしに鉛筆を手に握つて居た。日を背にした松の幹は、毎もくつきりと真黒で、径の枯草は毎もほんのりと光つた。田圃の畦からはよく無数の小鳥が飛び群れた。途で人に遇つても、写生する背後から覗く人は無かつたから閑寂は好きなやうに味はひ得た。どうして私は此処へ来てから、太陽を前にして数々物を写すやうになつたか、と時々思ふこともあつた。それでも相変らず散歩する毎に、私の手帳は無意識に、太陽を前にしては、毎も開けられた。どういふ訳だか代々木の景色は太陽を前にして見る沈静な有様のみが私の眼にのこつた。村山槐太(ママ)遺作展覧会が兜屋画堂に催されたとき、代々木の景色の幾枚かゞあつた。其中の小品の素描に、初台の丘から山谷を写したものもあつた。山内侯爵の屋敷の、土塀のある景色なども彼れに描かれた。其外にも幾枚かあつた。大分近所で勉強したなと思つた。が不思議なことには彼れの写した代々木は、私が毎も向く方向とは反対の方向を向いてのみ写されたものゝ様だつた。私が毎も日に向つて立つと反対に、彼は日を背にしては眼を見張つたのだろう。私のやうに代々木の沈静を愛したと反対に、彼れは丘や樹木や家の配置を嬉んで、明るい光りを欲したらしい。
【森田恒友『平野雑筆』、昭和9年、古今書院p.39−41.

山崎省三の『ゴーガン』は大正14(1925)年8月15日発行されfig.6.、昭和3(1928)年装丁をかえて再版されているfig.7.。序に「この書はロベール・レイの「ゴーガン」に拠つてその大体は書かれたものである」と断わっているが、ロベール・レイ ROBERT REYには、Gauguin,1924,NewYork.という著書がある。山崎は同書から、大正14(1925)年のゴーギャン伝を執筆したのだろうか。1920年代にレイはいくつかのゴーギャンに関する論文を発表しているようだ。山本鼎は著書『油画のスケッチ』のなかで、山崎を紹介している。

此人は独特な自然観と、それに相応する魅惑(シャルマン)な技巧を有つた人であります。まだ二十年代の人で吾々のすぐ次の時代を受け持つべき選手(チャンピオン)の一人でありませう。
【山本鼎『油画のスケッチ』、アルス、大正10年、p.104,

大正11(1922)年、春陽会創立にあたり、森田は創立会員のひとりであったが、山崎は客員となっている。森田恒友『平野雑筆』で興味深いのは、村山槐多の制作方法である。もちろん恒友は実際に槐多が描くところを観ていた訳ではない。槐多の絵を観て判ったことを記しているのに過ぎないが、同じ風景を同じ時期に描いていた、画家同志のみが感じる視点というもの、その相違点の指摘は無視できないだろう。槐多は当時舶来した、後期印象主義の洗礼を受けた画家のひとりといえるのではなかろうか。

fig.6 山崎省三『ゴーガン』奥付1925(大正14)年

9.昭和2年の芥川龍之介

芥川龍之介の蔵書にゴーギャンの『ノア・ノア』がある。ベルリンで出版され、恐らく3版ある『ノア・ノア』中、第2のルーヴル美術館版をもとに、1926(昭和元)年発行されたものであろう。芥川の文学作品には、晩年のいくつかにはゴーギャンが登場するが、それはもはや白樺派流の啓蒙ではなく、作品のなかで次第にその主題と融和しながら、ひとつの時代の気分を代弁する芸術家なのである。

 1992年9月から開催された『もうひとりの芥川龍之介』展カタログに依拠しながら、芥川作品におけるゴーギャンを検証してみる。まず『保吉の手帳から』(大正12年)のゴーギャン。

fig.7 山崎省三『ゴーガン』表紙
1928(昭和3)年

……背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔に何処か見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後、さつさと彼の側を通り抜けた。彼は煙草の煙を吹きながら、誰だつたかしらと考へ続けた。二歩、三歩、五歩、―十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。或はゴオギャンの転生である。今にきつとシャヴルの代りに画筆を握るのに相違ない。その又挙句に気遣ひの友だちに後ろからピストルを射かけられるのである。可哀さうだが、どうも仕方がない。……
【『保吉の手帳から』より「午休み―或空想」(大正12年)『芥川龍之介全集』第6巻、岩波書店、1978年、p.95

主人公とすれ違うゴーギャン。保吉は彼がいずれ遭遇する悲劇を知っている。しかし、この一瞬に描かれたゴーギャンは、まだ不可思議な場面を強調する点景人物に過ぎない。次に『闇中問答』(昭和2年)から。

或声 ではお前はエゴイストだ。
僕  僕は生憎エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。
或声 お前は不幸にも近代のエゴ崇拝にかぶれてゐる。
僕  それでこそ僕は近代人だ。
或声 近代人は古人に若かない。
僕  古人も亦一度は近代人だつたのだ。
或声 お前は妻子を憐まないのか?
僕  誰か憐まずにゐられたものがあるか? ゴオギヤアンの手紙を読んで見ろ。
【『闇中問答』(昭和2年)、『芥川龍之介全集』第9巻、岩波書店、1978年、p.286.

ここでは、家族を捨てタヒチヘと逃避したゴーギャンが伝説として語られる。しかし、昭和2年の『夢』になると、さらにゴーギャンの画集をみる画家が登場するのである。ここに来てはじめて、芥川のゴーギャンは中心的主題を担わされる。

わたしはいつも彼女の中に何か荒あらしい表現を求めてゐるものを感じてゐた。が、この何かを表現することはわたしの力量には及ばなかつた。のみならず表現することを避けたい気もちも動いてゐた。……彼女の帰つてしまつた後、わたしは薄暗い電燈の下に大きいゴオガンの画集をひろげ、一枚づつタイティの画を眺めて行つた。そのうちにふと気づいて見ると、いつか何度も口のうちに「かくあるべしと思ひしが」と云ふ文語体の言葉を繰り返してゐた。
【『夢』(昭和2年)、『芥川龍之介全集』第12巻、岩波書店、1978年、pp.322−323.

この『夢』の主人公は、下宿の裏の土手から雀線電車の線路が見下ろせる、東京の郊外に住む洋画家である。ある霜柱の残る午後、ふと制作欲を感じた画家は、若い女のモデルを雇い、静物を描いた古キャンヴァスをつぶして、人物画を制作し始める。「モデルは顔は余り綺麗ではなかった。が、体は―殊に胸は立派」で、豊かな髪をオールバックにしている。火鉢ひとつの北向きの部屋で、すすまぬ絵筆を握りながら、画家は「この女は人間よりも動物に似てゐる。」と思い、彼女の体に、野蛮な力、「黒色人種の皮膚の臭気に近い」体臭を感じる。ある晩彼は一冊の画集をひらくが、そのゴーギャンの画集を見た夜の夢は、なんと部屋の真ん中で片手でその女を絞め殺す場面だった。翌日からモデルは来なくなり、画家は彼女の消息を尋ねるのである。『夢』では、ゴーギャンは単にモティーフやプロットの比喩としてではなく、中心主題に重要な位置をしめている。それは『文芸的な、余りに文芸的な』に語られるゴーギャンを、自身の小説に投影したかのようである。

僕は前に光風会に出たゴオガンの「タイチの女」(?)を見た時、何か僕を反発するものを感じた。装飾的な背景の前にどつしりと立つてゐる橙色の女は視覚的に野蛮人の皮膚の匂を放つてゐた。それだけでも多少辟易した上、装飾的な背景と調和しないことにも不快を感じずにはゐられなかつた。……が、年月の流れるのにつれ、あのゴオガンの橙色の女はだんだん僕を威圧し出した。それは実際タイチの女に見こまれたのに近い威力である。……ゴオガンは、―少くとも僕の見たゴオガンは橙色の女の中に人間獣の一匹を表現してゐた。……橙色の人間獣の牝は何か僕を引き寄せようとしてゐる。かう云ふ「野性の呼び声」を僕等の中に感ずるものは僕一人に限つてゐるのであらうか?……
【『文芸的な、余りに文芸的な』昭和2年、『芥川龍之介全集』第9巻、岩波書店、1978年、pp.54−55.より抜粋】

芥川は死の年、昭和2(1927)年4月から8月の『改造』誌上に、この『文芸的な、余りに文芸的な』を発表し、谷崎潤一郎との間に文学論争を起こしているが、いつたい彼は何時そのゴーギャンを見たのであろうか。たしか文頭には「僕は前に光風会に出たゴオガンの「タイチの女」(?)を見た時」とあるので、まずこの昭和2(1927)年以前の光風会展を考えてみたい。興味深いことに、前年大正15(1926)年の光風会第13回展には、松方幸次郎蒐集による水彩、油彩の一部が特別陳列されている。近年開催された『松方コレクション展』(神戸市立博物館ほか主催、1989年)カタログによると、光風会第13回展は上野竹之台陳列館において大正15年2月24日から3月19日に開催され、松方コレクションの12点の作品が展示されていたことが判る。さらに同カタログには旧松方コレクションのゴーギャン作品は6点、《若い女の顔》(現・ブリヂストン美術館)、《ボン・タヴェン付近の風景≫(現・ブリヂストン美術館)、《小さな牛飼い》(現・FBS福岡放送局)、《乾草の取り入れ》、《ヴァイルマテイ》(現・オルセー美術館)、《扇のある静物》(現・オルセー美術館)とある。このうち芥川の描写した作品に近いものがあるだろうか。タヒチをモティーフにした作品は1点《ヴァイルマテイ》。しかしこの作品はついに日本に来ることのなかった松方コレクションの1点であり、「装飾的な背景の前にどっしりと立っている橙色の女」を描いてはいない。タヒチの「橙色の女」は「装飾的な背景」を前にしてはいるが、横座りしているのである。

では大原美術館の《かぐわしき大地(テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア)》は、何時日本に来て公開されたのだろうか。この油彩の来歴は以下のとおりである。1895年、ゴーギャン自身による作品売り立ての時、ボン=タヴァン派の画家ロダリック・オコーナーによりまず購入された《かぐわしき大地》は、カミーユ・ヴェバーなる人物を経て、1921年パリの画廊ベルネム=ジュヌに飾られた。大原孫三郎はそこで見たのであろう。1987年東京で開催された『ゴーギャン展』カタログには、大原購入の日付を1922年11月2日としてある。大原美術館学芸員の守田均氏によると、1922(大正11)年購入された《かぐわしき大地》は、まず大原の郷里、岡山県の倉敷小学校で公開されているという。翌1923(大正12)年の『第3回泰西名画家作品展』である。大原氏蒐集泰西美術展は幾度か東京でも公開された。しかし《かぐわしき大地》が公開されたのは1928(昭和3)年、東京府美術館における『泰西名画美術展覧会』(2月21日−3月12日)が最初であり、これは芥川歿後の事実である。《かぐわしき大地》が展示公開された大原氏蔵泰西名画展は、昭和2年にも行なわれている。京都博物館での『泰西名画観』である。開催日時は昭和2年4月15日から30日まで。芥川は、同年2月28日から佐藤春夫らと改造社の講演旅行のため大阪を訪れているが、3月には東京に戻っており、京都での展覧会を見ていない。芥川が《かぐわしき大地》を見る可能性は全くなかったのだろうか。

松方コレクションのゴーギャンについては可能性が残されている。静岡県立美術館学芸員の越智裕次郎氏によれば、大正11年10月15日から20日にかけて、大阪毎日新聞本社で『松方幸次郎氏所蔵泰西名画展覧会』が開催されているが、その展示作品、油彩36点とタピスリー2点の中に、《ポン=タヴァン風景》《タヒチにて》という2点のゴーギャンが含まれていたという。同展は、松方幸次郎以外の蒐集家によるコレクションと合流して、さらに東京日日新聞社において、同年11月9日から12日まで『泰西名画展覧会』として開催された。これを芥川が観ているのである。


10.舶来したゴーギャン

『もうひとりの芥川龍之介』展(1992年9月−93年8月、産経新聞社ほか主催)カタログにおいて、匠秀夫氏は大正期の美術と文学との交流を、雑誌『白樺』と美術団体の二科会が全盛した前期、芸術の革命という問題意識が萌芽した後期にわけ、「はからずも、それは芥川龍之介が一高に入学して、美術展や音楽会に通いだすころから、その死のころまでにあたっている」と指摘している。明治と昭和とを結ぶ、この短いながら充実した芸術の季節に、日本の知識人はヨーロッパの芸術とほぼリアルタイムで接触した。それまでの欧米美術移入のプロセスと比較した場合、驚くべき速さで後期印象主義は日本で紹介されたことになる。ゴーギャンはロンドンで衝撃を与えた直後に日本にも上陸したのである。大正2(1913)年8月1日に発行された雑誌『現代の洋画』は後期印象派を特集。その序文をみると、C.Lewis Hind,The Post Impressi onistsを木村庄八、J.Meier−Graefe,The development of Modern Art,1908.(Entwicklungsgeschichte der modernen Kunst,1904.)を木村と高村光太郎、James Huneker,Promenades of an Impressionistを木村が翻訳していることがわかる。ハイドン文献に所載されたものを翻訳し、図版を転載する、その啓蒙のなかで、明治期とは異質な大正期の日本の芸術が育まれたといえるだろう。

本稿では、日本におけるゴーギャン受容の過程を、大正期のごく限られた知識人に焦点・?て考察した。昭和になると成田重郎、村上信彦、福永武彦といった研究者がゴーギャンをさらに詳細に分析しはじめるのだが、そこには大正期にみられた、熱気あるいは心酔の段階を通過した、醒めた視線がまず感じられる。大正期に舶来したゴーギャンはなによりもまず「現代美術」だったのである。

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