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舟越保武と石彫

毛利伊知郎

舟越保武が大理石や砂岩を素材とした石彫を数多く制作し、それらが舟越作品の一系列をなして重要な位置を占めていることはよく知られている。また、舟越は石や石彫についての随筆をしばしば執筆しており、石という素材がこの彫刻家にとって非常に重要な意義を持っていたことを容易に知ることができる

ところで、周知のように、日本の明治から現代に至る具象彫刻界で、石を素材として実りある成果を残している作家は非常に少ない。さらに、近世以前においても、石は彫刻の素材として、一部の例外を除くと二次的なものであった。わが国では何よりも木が彫刻素材の筆頭であった。明治以降の彫塑は、木を彫り刻んだもの、あるいは粘土を原素材とし、ブロンズなどで鋳造仕上げしたものがほとんどであった。

このようなわが国彫塑界の一般的な状況に照らせば、石による一連の作品に豊かな成果をあげてきた彫刻家舟超保武の仕事は、石彫を抜きに語ることはできず、むしろそこに舟越の特質の一つがあるということができる。そこで、本稿では、舟越保武の石彫に焦点を当てて、その意義について考えてみることにしたい。

年譜や作家自身のエッセイ(「石の音」『石の音、石の影』所収)によれば、1940年(昭和15)、椎名町の大理石工場で朝鮮半島産の紅霰(べにあられ)と呼ばれる大理石を求め、アルス美術叢書中の石彫篇を参考書に、ササキという石屋の親方を直接の師とし、鑿(のみ)などの道具も借りて石彫を手掛けたのが、舟超保武の石彫事始であったという。

この「石の音」という文章で舟越は、大理石が「長い間の憧れ」であったと述べているし、また美術学校在学中から石彫に関心を寄せていたと述べていることから、舟越の石への関心は20代半ばの頃、彫刻家としてスタートするころに早くも眼を覚ましていたことが知られる。

美術学校卒業後、ほとんど独学に近い形で始まった石彫への取り組みは、1940年の第5回新制作派協会展への出品作《隕石》に実を結ぶことになった。続けて、翌年の第6回展に《首A》、盛岡市での松本竣介との二人展に《若い女》といった大理石の頭像が出品された。

《隕石》は、眼を閉じて瞑想する青年の頭像で、一見したところ、古代ギリシア彫刻の青年像を連想させる。引き締まった口元、整った眼鼻立ちを備えた端正で清潔感あふれる作品となっているが、後年の作品ほどに表面は磨き上げられておらず、石の結晶が目立っている。

作家自身の文章によると、《隕石》の素材である紅霰という大理石は、結晶が粗いために彫刻には不向きな石材であったという。しかし、そのころはまだ、石についての知識も乏しく、また工具なども手元になかったために、様々な苦労をしながら無我夢中での仕事であったらしい。

年譜によれば、《隕石》を制作してから2年後の1942年(昭和17)、舟越は山口県で採れる純白の大理石を入手して、ロダン風の作品制作を始めたという。戦中に制作された《小北嬢》(1943年)や、戦後の早い時期に発表された《白鳥》「ナルシス」などが、それに当たろう。

ところで、大正から昭和にかけて活躍したわが国の多くの彫刻家がそうであったように、ロダンは舟越保武にも決定的といえる影響を与えた。彼に彫刻の道を歩ませたのは、郷里盛岡で兄から与えられた高村光太郎編訳になる『ロダンの言葉』であったという。

実作品を見ても、ロダンからの影響は否定できないが、舟超は必ずしもロダン一辺倒でもなかったようだ。それは、抽象的な傾向の作品からうかがえるように、舟越が制作において幅広い造形上の好奇心を持っていたこと、また東京美術学校在校中、佐藤忠良らの級友に刺激され、ムーア、アルプ、ジャコメッティといった新しい傾向の彫刻にも関心を抱いていたことなどをあわせ考えれば、当然のことかもしれない。また舟越は、最初はロダンに魅せられて彫刻の道に進んだが、次第にロダンよりはイタリア・ルネサンスの彫刻家、さらにはフランスあたりのゴシック彫刻などから強い影響を受けるようになったと述べている。

ともかくも、ほとんど自力で始められた石彫は、1945年(昭和20)以降の郷里盛岡での疎開中も中断されることなく、松本竣介や麻生三郎らとの二人展、三人展あるいは新制作派展への精力的な出品が続けられた。

戦後間もないこの時期の石彫作品には、《師範代》〈1946年〉、首を反転させて毛繕いする白鳥の姿を優美な曲線で形づくった抽象的フォルムが特徴的な《白鳥》〈1948年〉、夢幻的な表情の女性を石塊から浮き出させた《夢の女》〈1949年〉、甘美な雰囲気を濃厚に漂わせた《ナルシス》〈1949年〉などがあり、いずれも肌理の細かい白大理石を素材としている。

ところで、舟越保武の石彫で忘れることができない作品の系列に、魚をテーマとした半抽象的な一連の作品がある。具体的な対象をモチーフとしながら、抽象表現を志向する傾向は、1948年の《白鳥》においても認められたが、それ以前にも舟越は1938年に《暴風警報器》と題された構成的な抽象作品を発表するなど、抽象表現への根強い関心があったようだ。

1953年頃から制作され始めた《魚》シリーズは、大理石を素材とし、現実の魚の形を紡錘形のようなフォルムに単純化した作品である。これらの作品では、眼や鱗の文様が彫り表されたものもあるが、そうした表現が全く省略された作品の方がむしろ多い。作家自身によると、この作品を制作した時は、ブランクーシの《魚》(ブランクーシは、1920年代以降、やはり魚の形を単純化したシリーズを制作している)を強く意識していたという(『対談彫刻家の眼』181頁)。

そして、「具象だけでこれまでやってきたけど、抽象的なものにも魅かれるものがあったことは否定出来ないね」と語っているように、具象彫刻だけにとどまらない幅広い造形への意欲があったことは、この作家の特質の一つとして忘れることができない。それは、釣り愛好家でもある舟超が渓流釣りに出かけた際、大自然によって永い歳月をかけて形づくられた渓谷の岩の抽象的フォルムに、芸術家では到底及ばない造形力を感じるという自然観・芸術観によっても、裏付けられよう。

舟越が扱う石材は、長い間大理石中心であったが、ある時期から砂岩が主要な素材となった。舟越以外に大理石彫刻を手がける作家が他にほとんどいなかったこと、また若い女性を主題とした作品が愛好者に受け入れられやすかったこともあって、大理石による作品は、舟越にとって生計を立てる上で重要であった。

しかし、作家は素材自体の美しさに頼りがちな制作態度への自省と、明るいけれども微妙な陰影に乏しい照明が主流となった現代建築と大理石彫刻とは調和しないとの考えから、大理石彫刻へ見切りをつけざるをえなくなったという。

砂岩の作品は、早い時期にも愛娘をモデルに《カンナ》〈1953年〉や《ナエコ》〈1954年〉が制作されているが、1977年頃の長崎旅行の際、偶然に諌早(いさはや)石と呼ばれる砂岩を発見し、それ以降の石彫にはほとんどこの石材が使われることになる。

いうまでもなく、舟越保武の石彫は、大理石や砂岩に直彫りしたものである。制作は素材に鉛筆で形を描きながら彫り進められるが、作者は、石の中に自分の求める形が既に埋もれて入っているのだと思うようにするという。そして、彫り過ぎることを常に恐れているためか、彫り過ぎたことは一度もなく、彫り足らない場合が多いともいう。

興味深いことに、20代後半から石彫を手掛けてきた舟越は、粘土による塑造の際にも、石彫的な手法を取り入れている。佐藤忠良との対談の中に、次のような言葉がある。

「…〈前略〉…今は同じ粘土で作ってても、僕のは塑造じゃなくなっちゃってるわけだよ。石膏にしてから、一皮、全面剥いでしまうから」。

舟越は粘土で形を作り上げていく際、石膏に移してから、大理石を研ぐ砥石で削って丁度良く仕上がる程度に、やや多く肉付けを行っていくというのだ。

このように、舟越保武の石彫作品やエッセイをみてくると、石彫がこの作家の根幹となっていることがわかる。作品数からすると、石彫よりも粘土による塑造の方が多く制作されているが、そうした塑造作品にも、彫刻的な意識が強く働いていることは上述の通りである。舟越は、古代ギリシアやエジプト、あるいはヨーロッパの中世彫刻について、それをつくった名も知れぬ石工たちに寄せる深い愛着が強く感じられる文章を数多く綴っている。それらを読んでいると、人間の力の及ばない自然の美しさと、長い時を経るほどに風格を増す強さとを備えた石に対する彫刻家の、余人にははかり知れぬ深い想いが伝わってくるのである。

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