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藤島武二・その生涯と芸術
前半期の藤島武二

陰里鉄郎

藤島武二が日本の近代絵画史のなかでもっとも偉大な画家のひとりであることは,誰しもが認めるところであろう。明治中期から昭和前半まで,ほぼ半世紀にわたる期間に,藤島は,いつも日本の洋画界の中核にあって日本近代洋画の目まぐるしいまでの変転のなかでその変革のいくつかに主導的な役割を果したとは必ずしもいえないにしても,藤島が遺した作品は,彼のどの時期の作品をとりあげてもそれぞれの時期の日本の油彩画として卓越した質の高い水準と芸術性を備えていて,後世のわれわれの眼を見張らせるものがある。それは,日本の近代美術の後進性ゆえに先進的な海外の美術思潮やイズムや表現にいち早く対応するといった質のものではなくて,伝統的には異質の油彩表現をほとんど体質化するまでに消化して身につけ,日本的な感性や文化的風土に,油彩表現のヨーロッパ的性格をほとんどこわすことなく融合させた表現の作品をわれわれに示していることにある。現在では,生活や意識の全般的な面に近代化をおえたかの観のある日本では,洋画とか油彩表現といってももはや特別の,異質のものではなく,自己の文化としてごく当然の,同化したものととらえられているかもしれないが,それまでには藤島に限らず多くの近代の洋画家たちの苦渋にみちた道程があり,そのなかで藤島は,ときに不遇な環境のなかでも揺ぎない信念を持ちつづけて,時流に押し流されることなく自己の芸術を確立させ,それが日本的油彩画ではない,日本の油彩画を生みだしたように思われる。

藤島芸術の展開は,日本画にはじまって国粋主義盛期の時期に洋画に転じ 黒田清輝による外光派のつよい感化から真の出発をしてはいるが,そのあとの過程は,自己を強固に保持しながらヨーロッパの絵画伝統と対決し,吸収し,周囲の状況にひるむことなく果断に自己の絵画をつくりあげていっているようである。

藤島武二が,その苦闘の75年と6カ月の生涯をおえたのは,昭和18年(1943)3月19日,東京・本郷区(現・文京区)曙町の自宅においてであった。それから数えて,今年(1983)は40周年にあたる。この機会に,あらためて藤島芸術を回顧し,検討してみたい。


修画

藤島武二は,慶応3年(1867)9月18日,鹿児島市池之上町62番地に生まれている。池之上は鹿児島市の・喧k部にあり,江戸末期の地図によると藤島家は福昌寺と稲荷川の間あたり,福昌寺の門前町の南に隣接した地にあったと思われる。これまでの先学の調査によれば父賢方は島津藩士であったが,明治8年(1875),武二8歳のころに死亡,長兄,次兄とも西南戦争に従軍して残し,母たけ子の手で育てられたという。はやくから絵画の才能をみせた藤島は,小学校をでてから鹿児島では知られていた四条派の画家平山東岳について学んでいる。われわれが,画家藤島武二の名を見出すのは,明治17年(1884)春,東京で開かれた第2回内国絵画共進会においてである。このときの『絵画出品目録』によれば,第五区鹿児島県の部に「漁樵問答・南天に鳥 圓山派 藤島武二 号芳洲」となっている。他の鹿児島県出品者16名中呉春派・四条派各1名で他は円山派であるから,この地ではこのころ円山・四条派が圧倒的に多かったものと推察される。しかし,後年藤島は,「少年の頃,私の親戚には狩野派の画家がいた。私の兄も狩野派を学んだ。私も見よう見真似で,そういう絵を描いていた。その後になって四条派の画家について絵を学んだが,最初の狩野派の画風の影響は生涯を通じてなかなか強いものがあるように思う」(今泉籍男「藤島武二先生のこと」)と語ったというが,この藤島の自覚は興味深い。後半期の油彩の筆触やその画面の構成法をみれば,よくうなずけるからである。

藤島が上京して本格的に日本画を勉強したのは明治18年(1885)から22年(1889)であった。四条派の川端玉章について学んだが,藤島自身は日本画を学ぶことに必ずしも積極的ではなかったようで,「私も洋画というものをやってみたい希望も朧気にありましたが,工部大学のうちの美術学校も,私の行った頃はもうなくなっていましたし,フェノロサとか九鬼隆一さんとかいった人達が,国粋論と共に日本画の復興に全力をつくしている時で,親戚でも日本画をやらなければいけないなどといっていました。将来洋画をやるにしても日本画を学んでいても損でないという説によって,私もいよいよ日本画をやることになり」(「私の学生時代」)と回想している。したがって明治23年(1890)からの洋画への転向は,藤島にとっては転向ではなくて,最初の目的へ帰ったにすぎないのであり,こうした意識が日本画にあきたりない思いをつよくしたに相違ない。ともあれ,藤島は,日本画修業の期間に「設色美人図」(明治20年,東洋絵画協会主催共進会),「美人図」(明治22年,青年絵画共進会)などを出品発表し,受賞さえしている。

藤島が明治23年(1890)に最初に入門した洋画家は,同郷の先輩,曾山幸彦(1859−1892)であった。曾山は,工部美術学校(明治9年開校−16年閉校)に学んだ画家で,サン・ジョヴァンニの教えをうけ,藤島の入門当時,その年の第3回内国勧業博に発表した「武者試鵠図」のころであり,明治美術会々員,工科大学助教授でもあった。曾山が大野姓に改姓したのが明治23年2月のことであるから,藤島の回想(大野に改姓・転居以降は行かなかったという)を合せ読めば藤島の曾山塾在塾期間はきわめて短かったと思われる。藤島は,それから中丸精十郎塾,ついで松岡寿のアトリエ,その後,山本芳翠の生巧館画塾と洋画の本格的な研究機関を求めて転々としている。コンテ擦筆による模写,石膏写生といった明治初期以来の洋画の勉強法に満足できず,人体モデルの素描,油彩画法の研修を求めての遍歴であったようだ。

この間に藤島は,唯一の洋画家団体の明治美術会々員となり,第3回展に「無惨」(明治24年),第4回展に「福神」「上代婦人」(明治25年),第5回展に「桜狩」(明治26年)をそれぞれ出品発表している。これらはいずれも遺ってなくて作品を見ることができないが,「無惨」は生巧館で一緒だった白滝幾之助の名で出品したもので,花の咲く木々と二人の少女,少女のひとりが折枝で蝶を打落している情景の画面で,森鴎外は,「今度の会の第一等とすべし。技芸の上よりもおおむね好き出来なり」と評した。「福神」「上代婦人」についても,鴎外は「惜むらくは色に匱(とぼ)し」としながらも,よい出来としている。明治美術会展出品目録によれば,明治25年当時藤島の住所は,「牛込柳町3番地」となっている。「桜狩」も現在は下絵2点を残すのみで焼失,見ることができないが,これは相当に周到な準備をもって制作されたものと思われる。まえの日本画の時期から,藤島は歴史画的風俗画,とりわけ婦人像を含んだ作品を描いており,こうした画面,日本的な主題,歴史画的題材は明治10年代後半から20年代にかけての反動期的復古主義,国粋主義の盛んであったこの時期の一般的傾向で,洋画ではさきにあげた曾山の「武者試鵠図」などがその代表的な作例であるが,藤島の作品もその反映であると同時に,風俗画的婦人像,装飾画的歴史画となっていて藤島自身の嗜好のあ・轤樓でもあった。

「桜狩」に関して,藤島の晩年の弟子のひとりである内田巌は,「篭や髪飾り帯付への趣味的興味の描写努力は決して見逃す事の出来ない入念さで後年の優作『芳宦xへの閑聯を示すもの」といい,「この作品は先生の処女作として伝えられるものであると同時に先生の体質の諸要素を含むものとして貴重な意味を持つと思う」(「藤島先生の絵に就いて」)と述べているが,後年の作品に見られる藤島的特質がすでに現出していたことはたしかであろう。


津時代

しかしその頃の私の境遇は,老母と,兄弟をひかえていて,徒食しているのを許さない有様でありましたので,図画の教員となって三重県の中学に赴任することになりました。(「私の学生時代」)

藤島は,上のように回想記に記しているが,藤島は「桜狩」出品のころ検定によって尋常中学校,高等女学校教員免許状をえており,三重県津市の三重県尋常中学校(のち県立第一中学校,津中学校,現・津高校)の助教諭として赴任したのは,明治26年(1893)7月のことであった。三重の伊勢新聞は,7月4日(火)の第4256号で,「中学教師の新任 藤島武二氏は昨日本県中学校教諭に任ぜられ,月俸二拾三圓を給せられる」と報じている。藤島の三重赴任は,藤島にとっては生活上の問題であった。三重県尋常中学校の側からこれをみてみると,藤島の着任の直前に教職員間の派閥争いに端を発したと見られている同盟休校事件がおこっていて,この紛擾の収拾には生徒6名の放校,8名譴責,教員の免職6名の犠牲をはらっている。このあとの人事の大異動に藤島の赴任は組込まれているのである。

三重県尋常中学校は,明治13年(1880),県立津中学校として発足し,同20年に改称,藤島着任直前に清水誠吾校長辞任,第五代校長山崎旨重に代っていた。藤島の在津期間は山崎校長の在職期間と全く重なっていて,藤島は山崎校長のもとに3年間を三重県津市にすごすことになったのである。津高校史の明治27年の職員一覧表の俸給欄をみると,校長のみ年俸で,教諭の月俸の最高は数学の森外三郎(のち第三高等学校長)の90円を筆頭に,60円,50円,40円,30円とあり,助教諭は25円,23円,20円とつづいて,教員雇の最低は9円となっている。したがって藤島は,全体では教員20名中8番目に位置し,助教諭では2位をしめている。資格の欄には「図画ヲ修メシ者」と記されている。そして,明治27年には入学試験に新たに増科したものとして,理科,体操とともに図画が付け加えられている。

津時代の藤島についてはほとんどわかっていないが,いくつか藤島自身の回想をひろってみるとつぎのようである。

私は3年間三重県の中学に奉職しておりましたが,その間,明治27年に京都で内国勧業博覧会が開かれましたので,100号位の絵を描いて出品しました。ちょうど当時伊勢にいましたので,倭姫の古事をとり「御裳裾川」と題し,五十鈴川を背景として構図したように記憶しております。倭姫が着ていられた裳に,穢がついて,それを川水で洗っている図でありました。(「私の学生時代」)

伊勢から初めの白馬会に出したのは「風景」と「少女の像」で,町芸者をたのんで画いたものです。やっばし,伊勢にいますとき,明治27年頃,京都で何回日かの博覧会がありまして,舎監室で画いた「御裳裾川」(100号位)というのを出したことがあります。(「思ひ出」)

この回想にはいくつかの藤島の記憶違いがあり,京都の第4回内国勧業博覧会は明治28年(1895)4〜7月,白馬会への出品も翌29年10月のことである。いずれも現在は失われていて詳細はわからないが,明治美術会展覧会図録によれば,「少女」は縫物をする少女であり,「風景」のほか河辺の釣人を添えた「一竿風月」を出品している。

このほかに黒田清輝の追悼座談会(『国民美術』第1巻第9号)のなかでつぎのようなことが語られている。

藤島 − それから僕が津にいた時ですね。27年に宿屋にいたが西洋人が2人きたというから出て見たら先生達(黒田,久米両氏)なんだ。妙な格好をしているから西洋人と見たんだ。
 小倉 − 鼻は高いし洋服は着ているしね。
 藤島 − 公園にクラブがあって,そこでもって西洋料理を御馳走した。その時ここの西洋料理は美味いというのだ。西洋料理臭くない,日本風だから非常に美味いと言った。あるいはそうかも知れぬ。
 久米 − 美味かったよ。

黒田と久米桂一郎とが,9年,7年の留学をおえて帰国したのは,藤島が津へ赴任した直後の明治26年夏であった。黒田とは出身地を同じくするが,黒田の在仏中に手紙を交換した間柄であっただけで,帰国まで面識はなかった。藤島が黒田といつ,どこで最初に顔をあわせたかわかっていないが津におけるそれが初対面ではなかったことは確実であろう。黒田,久米の津訪問が明治27年であったかどうかは正確にはわからない。ありうるのは,黒田関係の諸事情から推せば明治26年秋か,28年ではなかったかと思われる。

ほかには,現在藤島家に残されている二葉の写真があり,そのいずれも写真舗・佐藤三八製,津市地頭領町と台紙にあり,その1枚は明治26年撮影となっている。1杖は横向きの肖像,いま1枚は展示場を背景とした9人の群像写真で,背景が実景か書き割りかは不明である。

以上が津時代の藤島について現在知りうるほとんどすべてであり,なお調査をつづけねばならないであろう。ただ,再上京して白馬会展の第1回展に出品した水彩画10点は,すペて津時代の作品と考えられ,藤島は教職のかたわら,ひとり制作にはげんでいたのである。そして明治美術会調の重々しい作風から脱しつつあったのである。


開花

明治29年9月,東京美術学校西洋画科開設にあたってその全責任を与えられた黒田清輝は,自身は嘱託教授となり,助教授に津の中学校にいた藤島を推挙して東京へよびもどした。黒田によれば,「私が知っている人の内では,藤島君が一番洋画が巧まかったから」という。さきにも触れたように藤島は,黒田の在仏時代に手紙をかわしあっていたが,藤島が黒田の作品に接した最初は,「上代婦人」などを出品した明治25年の第4回明治美術会展に藤雅三の「雪行婦人」とともに出品された「読書」であったに相違ない。「向うから送ってきた絵も留守宅に行ってしばしば見せてもらったりして」(「私の学生時代」)いたのであった。そして「私が本当に洋画を研究したのは,美術学校助教授に就職してからである。教務をなすの傍ら,黒田君の懇切なる薫陶を受けた。特に同君が友人の態度を以て親切に指導して呉れられた雅量を感謝している。久米君も亦直接,間接に技術上有益な忠告と助言を与えられた。同君にも負うところ尠くない。」(坂井犀水「現今の大家藤島武二」)ということになる。

三重県尋常中学校から東京美術学校への転出の様子について若干触れておこう。『黒田清輝日記』(第二巻)を見ていくとつぎのような記述を見出すのである。

7月2日 木(明治29年)
 今朝和田英作つづいて岡田三郎助の二人がやつて釆た 午後天真道場ニ画を直しニ行た 又三重の藤島へ学校の助手ニならぬかと云事を云てやつた(略)
 7月5日 日
 (略)今朝三重の藤島から承知の返事が釆た(略)
 7月6日 月
 (略)久米ハ安藤の処から帰りオレハ安藤と奴の案内でDobo-Chioの茶屋ニめし食ニ行た 此処で藤島武二ニやる手紙をかいた(略)

さらに7月8日に黒田は藤島からの手紙を受けとっている。藤島は「万事非常之尽力感謝之至に不堪 中学校に於而も此際容易に転任を許さなんだが漸くやつつけてしまつた 同学校よりも公然回答をした筈と思う 何は兎もあれ僕は愉快に堪へぬ次第だ」(7月15日付黒田宛,隈元謙次郎『藤島武二』より引用)と書き送っている。中学校は難色を示した。東京美術学校長天心岡倉覚三は黒田宛に,「藤島氏儀は中学校よりは不承諾の由申来り侯に付重ねて三重県知事へ照会の処今朝回答参り来8月よりは転任差支なき旨に御座候間左様取計可申侯」(7月27日付,同前)と書き送っている。これらについて伊勢新開は「藤島中学教諭の転任 県尋常中学校教諭藤島武二氏は,今回文部省へ出向を命ぜられたり」(明治29年8月16日付)と報じた。

8月に上京した藤島は,9月開講の西洋画科の準備にあたり,一方,この時に黒田,久米を中心に創設された白馬会に参加することになった。10月7日から開催された第1回展に藤島は10点の水彩画を出品している。『黒田清輝日記』によれば,黒田は9月25日学校帰りに藤島の下宿に立寄り「面白い水絵を沢山見」ている。「春の小川」はそのなかの1点であるが,もはや画面は,いわゆる外光派的描写となっていてすでに黒田の影響の大きかったことを物語っている。

明治38年(1905)11月のヨーロッパ留学に出発するまでの白馬会時代,明治30年代の藤島は,その後半の時期に最初の高揚のときをもったといってよいであろう。それは,黒田による外光表現をいち早く消化すると同時にそれから脱皮して,今日では明治ロマソ主義絵画と呼ばれている一群の作品を発表,青木繁と並んで,あるいはそれに先駆けてその代表的な画家となったのである。白馬会の初期は,のちに高村光太郎がこの時期の日本文芸界のもっとも前衛的な集団が白馬会であった,と指摘したように活気あふれる様相をおびていた。黒田の影響は,即座に青年画家たちに及び,和田英作「渡頭の夕暮」,白滝幾之助「稽古」など明治洋画の傑作をつぎつぎと生みだした。その間にあって藤島は突出した秀作を生みだしてはいないが,「池畔納涼」「逍遥」「造花」といった黒田式外光描写の平明で温和な作品を描いている。この時期の藤島の作品は,たとえば「池畔納涼」が,「この画は木炭にてさらさらと描きなされし至て軽き画なるが,趣味はこれにて現はれて居る」(『美術評論』)と評されているように,外光派的ではあってもいまだ藤島本来の資質はさほど現われてきてはいない。完成度についての指摘などにみられるように藤島にとっては構成や描写の研究の段階であったのであろうし,資質についても自己の鉱脈を探りあてるにはいたっていない。

藤島が個性的な開花を見せたのは,明治35年(1902)の第7回白馬会展に出品した「天平時代の婦人像」(のちに「天平の面影」)においてであった。縦長の画面に古代の楽器箜篌をもって立つ天平の服装の婦人,桐の木と思われる樹木と葉,背景は金地で,下方には浮彫装飾をもつ腰壁(?),全体は,装飾画風の効果,古代憧憬のロマンチックな情感を濃厚にもつ作品となった。画面の縦枠と平行する桐の垂直線,頭部を斜めに横切る枝,腰壁の水平線,箜篌の弦の線など,内田巌はこれらによって藤島を「直線の画家」と呼んでいるが,画面構成力の豊かさを含めて,藤島が最初の自己様式の発見と完成をみたのがこの作品であったといえよう。金地背景に関していえば,明治30年(1897)第2回白馬会展に発表された黒田の「智・感・情」の先例があり,藤島の「天平の面影」から,青木繁の「海の幸」(1904)へという系譜をもつことになる。これらの作品は,当時の言葉では理想画と呼ばれている。

藤島は,つづいて「階音」(1903),「蝶」(1904)と同系例の作品を発表している。「諧音」は「天平の面影」と同様に婦人像(上半身裸体)と楽器の組合せによる画面構成であった。藤島が音楽を好んだという証はないが,画面に音楽を,または「蝶」にみられるような匂いを持ちこんでいるように,題材の選択は,のちに藤島が「エスプリ」について語り,それを「読画」と結びつけているように絵解きではない,つまり知的な判断などによるのではなく感覚を通しての表現と享受をつよく意識していた画家であったことを示している。知的な絵解きとは異なる感性の問題として象徴的表現が,詩人をつよく刺戟したとしても不思議でない。詩人蒲原有明は,ラフアェロ前派にひかれ,ロセッティの詩にも親しんでいたが,「天平の面影」に壊して雑誌『明星』に「獨絃調三首」を発表して「徂きしは千載か塵かわが手弱女 眼ざしふかくにおうは何のさがぞ−いざ君奏でよ,箜篌。−」とうたったのである。「蝶」(今回は出品されない)は,花をつまんで唇によせる少女の横萌,その周囲は色さまざまな蝶の乱舞。装飾的で甘美な画面であるが,弱々しい甘美さではなく,耽美的であると同時にすこやかな情感を感じさせる画面である。これもまた不可解といえば不可解な謎の画面でもある。内田巌は,「ホドラーを思わせる手法」としている。そして「女の情熱はいつも唇に花を喰えては 丸い指の輪の中に吹き棄てる 瞬間の魔術の凝視花は唇に吹かれて蝶となり 群れ羽搏きつゝ女の肘に髪へとまつはる」という詩をそえている。藤島は花を愛し,蝶を愛し,2000羽にものぼる蝶を描き,研究した「蝶供養帖」をのこしている。

以上のような画面に,ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやホドラー,ルドンといった画家の影響感化を指摘することもできるかもしれない。つまり ヨーロッパ世紀末芸術の反映であり,事実,寡黙な藤島は誰よりも鋭敏にそれをうけとめていたに違いないが,その詳細な過程を解き明かすことは容易ではないであろう。ただ,「天平の面影」の前年の明治34年(1901)から藤島は雑誌『明星』と密接な関係をもつようになり,表紙絵やカット,挿絵を描いていること,同年に与謝野晶子詩集『みだれ髪』の装幀を行なっていることを見逃すわけにはいけないであろう。『みだれ髪』の装幀は,アール・ヌーボー様式を明瞭に示している。『明星』表紙絵もまたそうであった。藤島は,いつ,どこでアール・ヌーボー様式とであったのであろうか。1900年(明治33)のパリ万国博はアール・ヌーボーの氾濫であった。このときに渡欧した日本の画家たちは数多い。とりわけ黒田清輝はこのときの再渡欧のときに多くの装飾美術資料を持ち帰っている。黒田に限らず,こうした例はもはやそれほどすくなくはなかったであろう。藤島の死後,アトリエ整理にあたった弟子のひとりは,若い藤島が丹念に集めたスクラップ・ブック風のものが二冊あったと伝えている。それらの中身は,当時(明治20年代から30年代)藤島が見ることのできた図版類の模写であったという。ともあれ,アール・ヌーボー様式を反映した装飾美術の仕事にたずさわったことを抜きにして藤島のロマン主義絵画は考えられないであろう。明治38年10月,藤島は「音楽六題」の絵葉書を制作しているが,それについては中田達郎の研究(「藤島武二『音楽六題』について」,『アール・ヌーボーと日本』1982年)にくわしい。藤島はこの絵葉書制作のすぐあとにヨーロッパ留学へ旅立ち,新しい展開をとることになる。

(三重県立美術館館長)

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