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日本洋画とラファエル・コラン

陰里鉄郎(三重県立美術館館長)

明治期,すなわち19世紀後半から20世紀初頭における日本の近代絵画の展開のなかで,大きなステップとなったもののひとつが,「外光派」の移植といわれている。このことは,フランスの画家ラファエル・コランと二,三の日本人画学生とのパリにおける解逅にはじまっている。「日本近代洋画の巨匠とフランス」展の構成の一部は,その一端を示すことになる。


ラファエル・コラン(1850−1916)をめぐる日本人画家たちのなかでも,その中心となったのは,黒田清輝(1866−1924)であったが,黒田のコランとの解逅には,それに先立ってコランを自己の師として選択したもうひとりの日本人画家,藤雅三(1853−1917)の存在を忘れてはならないし,さらに少し遅れてきた久米桂一郎(1866−1934)がこの二人に加わってくることも逸することができない。この三人が,いわばコランと関係をもった日本人画家の第一期生であった。その時期は,1890年(明治23)前後のことであった。それから約10年後の1900年,パリ万国博前後の時期に岡田三郎助(1869−1939),和田英作(1874−1959)などがコランのアトリエで学んでいるが,彼らはすべて日本にあって黒田・久米を通してフランス絵画についてのある程度と知識と技術を備えた画家たちであった。この1900年前後の画家たちを第二期とすれば,第三期生は,日本の側からいえば近代日本の国家的命運をかけた大事件であった日露戦役前後に日本を出発して渡仏した画家たちであった。この時期ともなると留学画学生たちはもはや,黒田からコラン,といった軌道に当初は乗ったとしても,ヨーロッパの地にあっては,各自の個性と才能に応じた路線を選択するようになっている。藤島武二(1867−1943)においては初めからコルモン,カロリュス=デュランといった画家たちとの接触をえらび,山下新太郎(1881−1966)はコランからスペイン画派へ,児島虎次郎(1881−1929)はコランからベルギー印象派へ,とそれぞれすすんでいるのである。

黒田清輝が,留学当初の目的であった法律学習を放棄して絵画修得をめぎして,その指導者としてコランを選んだのは,ほとんど偶然のなりゆきであった。その事情はつぎのとおりである。


1884年の春にパリに着いた黒田は,正規に法律を勉強するためにまずフランス語の勉強につとめていたが,翌85年の夏,パリに到着して間もない藤雅三と知り合っている。その出会いの場は,黒田の回想によれば,ある日曜日に教会においてであって,神父に通訳を依頼されたためであったという。留学の目的は別であったとしても絵画に関心をいだいた黒田が,渡欧以前すでに工部美術学校で西洋画を学び,洋画家として留学してきていた藤雅三とパリの地でいずれ知己となるのは時間の問題でしかなかったに違いないが,コランの作品《花月(フロレアル)(Floreal)》に接してこれに感動し,コランに面会を求めて訪問するにあたって再び通訳を依頼されたのが黒田であったのである。藤がコランの作品を識った正確は日付はわかっていないが,《花月》の制作年が1886年(明治19)であるとすれば,その年であろう。そしてその年の5月22日に黒田もコランを訪問して個人的に絵画の指導を申し出で,入門している(『黒田清輝日記』による)。藤にとってはパリ着約一年後,黒田にとっては三年後のことになる。黒田がさらに法律学習を完全に放棄して決定的に絵画修得を決意するにはなお一年間の時間を要している。その1887年の夏,日本で藤雅三に洋画の初歩を学んだことのあった久米桂一郎がパリに到着し,二人の仲間に加わっている。この三人のなかで黒田の特異な点は,過去に全くといってよいほどに絵画学習の経験をもっていなかったことであろう。この全く新規にパリで西洋絵画を勉強しはじめた弟子に対して,コランはまずルーヴル美術館へ行って彫刻像のデッサンをすることを指示したのであった。それ以後の展開は,コランの教室のあったアカデミー・コラロッシにおける石膏像の木炭素描から人体素描,そして油彩による人体習作へという,ヨーロッパのアカデミー教育の正規の過程をふんでいる。久米の場合においても大要は変りないであろう。藤の場合においては判然とはしないが,藤は1888年のサロンに《破れたズボン(Pantalon dechire)》が入選しており,その後フランス婦人と結婚,コランからも,黒田,久米からも離れ,のちにアメリカへ移り,絵画からも離れて陶業関係の仕事についていたとつたえられている。


黒田・久米がコランに師事したころのコランは1873年《眠り(Sommeil)》によって画壇にデビューしてから約10年,30歳代後半の少壮画家であったが,久米はしばしば日記のなかに「コラン親爺」と書いており,親愛と敬愛の情がうかがわれる。黒田においては,基礎的な学習をコランの教室でおえたあと,パリ郊外のグレー=シュール=ロワンに居をかえて制作しているが,制作が成るたびにコランの助言と指導をうけ,私的にも親しい関係をもちつづけている。こうした関係のなかで黒田のこの時期の作品は,初めのオランダ派的な色調から明るい色調の画面へと移行してきており,コランの影響の顕著であったことがよくうかがえる。


以上のようなことから,現代われわれの日本の近代絵画史のなかで,明治後期以後の洋画,ひいては伝統絵画の日本画の領域にまで決定的なといってもよいほどの影響力をもった「外光派」の移植が,実際には,日本絵画に直接的にはなんらの影響も波紋も与えることなしにアメリカで客死した一日本人画家の感動にはじまり,ついで別の青年による絵画に対してなんらかの自覚をもった主体的な選択ではなくて,ほとんど偶然的ななりゆきのなかでの選択でしかなかったことは,日本へ帰国後の結果が重大なものとなっただけに興味深いことである。
 帰国後の黒田,久米の日本画壇への登場はたしかに華やかなものであった。滞仏末期にフランスで描かれた作品,帰国直後に描かれた作品,それらは主題,画因,表現,いずれにおいてもこれまでの日本の絵画には見ることのなかった,自由さ,明るさに溢れた作品であった。彼らが帰国した明治20年代後半(1893年ころ)の日本の洋画壇は,明治初期の欧化盛行期の反動によって日本の伝統文化への復古思想,卑小なナショナリズムに支配されていた一般社会の圧迫をうけ,閉塞した状況のなかにあったが,そうした状況も日清戦役(1894,95)を境としてようやく新しい時代へむかおうとしていた時期における黒田,久米の登場であり,新しい絵画の出現であった。それゆえに彼らの作品とその様式は,衝撃であったと同時に清新なものとしてうけいれられることになったのである。


衝撃のなかで,もっとも大きな問題,事件となったのは,1895年(明治28),京都で開催された第4回内国勧業博覧会に黒田が出品した作品によって惹きおされた「《朝妝》裸体画事件」であった。この作品は黒田がフランスから帰国する直前の1893年春のソシエテ・ナショナル・デ・ポザールのサロンに出品した作品で,黒田にとってフランス留学期の最後の作品であった。《朝妝》と題されているこの作品は,太平洋戦争時に焼失したために現在では見ることはできないが原題名を《Le Lever》(起床)といい,若い婦人が朝,床を出て裸のままに鏡の前に立って髪に手をかけている姿を描いたもので,鏡に映じた体の前面を描き出すことによって肉体の全部が描出されている作品であった。その姿が全裸体像であったことから問題がおこったのである。日常生活のなかでは,部分的な「はだか」には慣れている日本社会ではあったが,芸術作品としての裸体像をもっていない日本の社会にとって,それは充分に衝撃的な作品の出現であったに違いない。ケネス・クラークがいうところの“the nude”と“the naked”との相違の問題である。《朝妝》事件は,一般的には風俗,道徳の問題として論じられ,批難の対象とされたが,本質的には文化の問題であり,相互に異質な文化の接触によって生じた衝撃,二つの文化の衝突したところに生じた摩擦であったといわねばならないであろう。このことは,コランの絵画様式,ひいては黒田の絵画様式を超えた問題ではあるが,当時のフランスのサロンに数多く見られた裸婦像(コランの《花月》 もそのひとつである)の絵画を,フランスで学んだ黒田が日本の絵画の世界に持ちこんだことによって生じた事件であり,その後もながく尾をひいた裸体画問題の典型的事件であり,日本の近代美術のなかでの歴史的時期を象徴した事件であったといってよいであろう。


絵画様式,あるいは流派としては,黒田,久米の絵画は「外光派(主義)」と呼ばれた。帰国直後に,彼らは彼ら自身をみずから「外光派」と称したことはなく(すくなくともその事例は私の管見の限りでは見出せない),彼らの絵画が「外光派」と規定されるようになるのは,森鴎外や吉岡芳陵(新聞記者)らの論評から導きだされたように思われる。だが,彼らはそれを自称はしていないがやがて肯定していたようである。この場合の外光派(Pleinairisme)は,プーダンに代表される1850年代末から60年代にかけての印象派の前段階として外光派ではなく,印象派以後,アカデミスムの側から印象派の表現の影響をうけてこれを折衷した一群の画家とその様式を指している。久米によれば,古典派批判という同一地点ら出発しながらも二つの方向に分かれた新しい絵画の流派があり,その一つが「瞬時の現象を捉え色彩の奇変を写さんと熱中したる印象派」であり,もう一つが「主として外気の透明なる光に包まれた物体の隠微なる消息を漏さんことを着目したる外光派」であるという。そして外光派は印象派に衝動されて起った「第二の革新」であり,印象派に導かれたことは間違いないが,構図,構成を無視せず,強烈な色彩だけに耽るのではなくて物と周周との協和をも重視しながら空気の実在を描出したものである,というのである。その代表的な画家としてパスチアン=ルパージュをあげている。コランに関しては,印象派と外光派の両方ともよく理解していて,それにアカデミー派の智識を活用している新しい型の画家,としている(明治35年=1902,8月『美術新報』掲載「仏国現代の美術」より)。この久米の記述は,明治後半期の日本の美術界における標準的な理解であったと考えられる。黒田を中心とする外光派は,自らを印象派以後の現代的な様式の絵画,現代的流派と自負していたものと思われる。


外界の明るい光と空気を感じさせる印象派的表現を備えていた黒田,久米の作品は,彼らの自負はどうであれ,1900年前後の日本の絵画界にあっては充分に清新であり,事実,当時の彼ら外光派と呼称された画家たちの画面は生気あるものであった。作品の様式もさることながら,彼らの身辺に漂っていた雰囲気,彼らの行為,行動もまた清新であった。それは,長期間にわたるパリ生活によって培われたもので,黒田らと同時期にアメリカからヨーロッパと滞欧の経験をもった美術評論家岩村透が,のちに「ここに巴里にのみ在ってほとんど他の都に見ることの出来ぬものが一つある。これが美術家の生活である。」(「巴里の美術学生」1903年)と書いているようなパリ生活によって育くまれた自由で,闊達な雰囲気であった。人間における自己形成の主要な時期をヨーロッパ文化のなかで,それも「一種固有の美術家の生活をやって居るのは巴里のほかにはない」(岩村透,同前)というパリで過した黒田,久米にとっては祖国日本は当分はむしろ異国に近いものであったし,彼らのもつ雰囲気が,洋画を志す若い商学生たちの目に魅力溢れるものに映じたのはごく自然のことであったろう。


こうしたことから黒田,久米の日本の絵画界への影響と波紋は小さくはなかったが,帰国直後に開設した天真道場と称した洋画研究の教場,さらには1896年の東京実術学校西洋商科の新設にあたって先行洋画家をさしおいての指導者として就任へとそれは一層大きくなっている。美術教育には当然フランスで経験し,見聞した教育,フランス・アカデミスムの教育法の導入を試みている。石膏像,人体像の木炭素描から油彩画へ,最終的には抽象的主題による構想画,思想をもった大構図の制作,といった教育過程を考えて実施している。教育の最終過程に設定した構想画は,黒田自身も1897年に《智・感・情》といった作品で試みることになるが,彼自身の後半期,また彼の追随者もそれは充分に成功させることはできずに終ったというほかない展開をたどっている。窮極において,黒田も外光派の域を出ることはできなかった。


現在のわれわれは,黒田,久米の滞仏期がすでに印象派の勝利の時期であったことを知っており,彼らはモネやピサロといった印象派の画家の回顧展を見る機会をもちえたことでもあるから,彼らが折衷主義者のコランではなくて,それら印象派の画家たちと密接な関係や接触をもっていたならば,という批判めいた見解をいだきがちである。だが,文化の移植は単純に併行した関係では行なわれにくいというのが歴史の教訓であろう。日本美術における江戸以前の中国美術との関係を想起すればそのことはよく理解されよう。ましてや質を異にする文化においては決して容易ではなく,相互の質の相違を明確に認識したところでは行なわれにくく,同質化に置換してこそことは容易になるが,同質化されたところには発展の段階に落差が生じるのは当然であり,移植する側がどのような段階にあるかによってなにが移植されるかが決定されてくるのであろう。コランから黒田,久米を通しての外光派の移植も,明治中期という歴史的時期においては,伝統絵画を含む日本絵画全体の問題としてではなくて,幕末期以降の日本洋画の展開における歴史の段階に応じた移植であったといえよう。このことは,コランとの関係でいえば,先に述べた第2期生までは第1期の黒田,久米と同じ線上で魅続されたが,第3期の画家たちによってようやくその路線と段階から解放されたように思われる。こうしたことから,フランス・アカデミスムの直系の移植はすこしおくれてなされ,それは日本洋画のなかではアカデミスムではなくて傍系であり在野であり,日本洋画のアカデミスムはフランスにおける在野に近いもの,といった逆転した図式が成立してしまったように見うけられるのである。


fig.1
黒田清輝
《朝妝》
1893年(焼失)









fig_2
黒田清輝
《智・感・情》
1899年
東京国立文化財研究所
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