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あいさつ

日本の近代化を画する明治維新から115年を経過した今日,さまぎまな現代的課題を抱えて行き悩む私たちは,先達の英知と努力とを振り返ることによって,新たな前進への指針を見出し得るかも知れません。歴史を学ぶことの意義は,正にこのところにあると申せましょう。美術史も例外ではありません。社会の他の分野におけるのと同様,美術の世界でも,明治の時代に,急速な西洋化が追求されました。1876年(明治9)には,イタリアより,トリノ国立美術学校教授アントーニオ・フォンタネージが招かれて来日し,わずか二年間ではありましたが,工部美術学校において,日本で初の本格的な絵画教育を施しました。その生徒たちの中から,明治洋画壇の巨匠浅井忠が出たことは,広く知られております。しかし,その二年間の教育を越えて西洋画法の奥義を極めようとフランスなどへ留学する者も現われたのです。さらに,後の世代にあっては,有為の画学生の多くが,渡欧して直接にヨーロッパ人の師から美術教育を授けられることを望みました。とくに,19世紀に至り,芸術の中心地としての名声を確立したパリには,続々と日本人留学生が赴くようになりました。

1893年(明治26)に帰国した黒田清輝は,折衷派のラファエル・コランから,印象派風の明るい色彩を学び,その新鮮な画面の輝きによって,一躍洋画壇の寵児として迎えられました。コランには,久米桂一郎,岡田三郎助,和田英作など,黒田に連なる画家たちが相次いで入門し,彼らが,東京美術学校における要職を占めたため,コラン流の折衷派レアリスムが,日本洋画壇を支配した一時期もあったのです。一方,鹿子木孟郎,中村不折などは,パリのアカデミー・ジュリアンのジャン=ポール・ローランス教室に学び,師の正統的絵画技法の修得に努め,また,その日本における普及にも情熱を傾けました。ただし,ローランス門下の日本人画学生は,本国に帰ってからはやや不遇であったと言わねばなりません。師の画風の余りに正統的であったため,彼らは,彼我の風土の違いにより深く悩まなければならなかったのでしょう。

しかし,今日の眼から見れば,いずれの画家たちも,フランスにおける修業の成果を,帰国後に十分に発揮していないようにも思えます。日本人画家は、西欧に何を学び,何を学び得なかったのでしょうか。この間いは,美術史のみならず,日本の近代化全般に関して答えを求めねばならぬ課題であります。

なお,この展覧会は,全国美術舘会議の共同企画として開催されるものであります。その趣旨に賛同を賜わり,貴重な作品のご出品を承諾下さいました内外の美術館,所蔵家の各位に厚く御礼申し上げます。

主催者

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