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時よ止まれ、お前は美しいのか?――絵と映像のA感覚

石崎勝基

ところが、この〈たちまち〉というのは、本来的に何か奇
妙なあり方をするものであって、動と静の中間に座を占め
て、しかもいかなる時間のうちにもないものなのである
プラトン『パルメニデス』156D-E、田中美知太郎訳

ビル・ヴィオラの《プールの反映》(cat.no.1)は、手前にあるプールへ奥の木立から一人の男がやってくるところから始まる。カメラの位置や角度はこの後最後まで変わらない。男は画面のほぼ中央で正面を向き、プールに飛びこむべくかけ声とともにジャンプする。しかし宙に浮いたところでその姿は静止してしまう。時間が止まったかのごときさまはただ、男のみに限られているようでその後7分間のビデオのほぼ前半、水面は空気の動きに応じ揺れ続ける。後半になると水面に変化が訪れる。プールの縁を歩く人の姿などいくつかの情景が映りこむ。しかし上半の実際のプールの縁には何も見あたらない。他方水面の動きに気をとられている内に、宙で静止していたはずの男の姿はいつの間にか消え去っている。マンダ教の開闢神話における〈黒い水〉を思わせなくもない黒く染まった状態を経て、やがて水面はおさまり、最後にプールから男が上がり(いつの間にやら裸身だ)木立の奥に消えてビデオは終わる。


この作品はさまざまな問いを呼び起こすことだろう。ジャンプして静止した男と水面に映るイメージとはどんな関係にあるのか、男の消尽は何を意味するのか、プロローグとエピローグでの男と宙で静止しやがて消えていった男との関係はどのようなものか、またプロローグとエピローグで男に何か変化が起こったのか等々。作者自身は「それはある意味で、〈洗礼〉というもののそもそもの理念についての探求でした…(中略)…水は浄化の、また生誕の、そして死さえものとても力強くとても明快な象徴なのです」と述べ、また水面のイメージについて「この世界の出来事は幻でありはかないものでしかない、それらは水面の反映としてしか目に映らないのですから。現実は決して直接とらえることはできません――それはプラトンの洞窟なのです」と語っている(1)



そこに何を読みとるにせよ、何らかの解釈を呼び起こすのはプロローグ、エピローグと主要部分、ジャンプした男と水面それぞれでの時間の流れ方のずれだろう。この点について作者は、「こうしてイメージは相異なる時間の三つの水準(現実の時間、宙吊りの時間、時間の経過)に断片化され、単一の空間のイメージに似通うよう再構成されます…(中略)…それは実際、あたかも時間を彫刻したかのようなのです」と記す(2)。時間の流れ方のずれをそれと感じさせるのはカメラの固定による正面性、そして画中画をとりこんだ入れ子構造ゆえだ。この点ではたとえば、『キートンの探偵学入門』(監督バスター・キートン、1924年)の中盤の場面と比べることができるかもしれない。正面からとらえられた映画館のスクリーンに映された世界に主人公が入りこむのだが、その際、構図だけなら共通するだろう演劇でも絵画でもありえない、モンタージュという映画ならではの技法によってギャグが仕組まれていたのだった。《プールの反映》の場合上下の分割によって時間のあり方はより重層化し、同時に集中性を高めているものの、カメラの動きという映像を演劇から区別する特性をいったん封じることで、映像と演劇なり絵画との交差の内に、映像にしかありえない時間と空間のあり方が浮かびあがる。

1. "La sculpture du temps. Entretien avec Bill Viola par Raymon Bellour," Bill VIOLA Où va la video?(http://stephan.barron.free.fr/art_video/viola_interview.html)より引用(originally published as Raymond Bellour, "An Interview with Bill Viola," October, no. 34, fall 1985, pp. 91-119; also published as "Entretien avec Bill Viola: L'espace à pleine dent," Cahiers du cinéma, no. 379, janvier 1986, pp. 35-42, and the special issue "Où va la Video," edited by Jean-Paul Fargier, Cahiers du cinéma, no. 14, 1986, pp. 64-73)


2. 同上。

絵画と映像といえばさまざまな切り口が思い浮かぶことだろう(3)。構図の採用、物語の語り口、絵巻や屏風、壁画などにおける視線の誘導……近年邦訳されたドゥルーズの『シネマ2』における〈運動イメージ/時間イメージ〉という対は美術史をかじった者にヴェルフリンの基礎概念を連想させずにいまいし、映像から絵画への影響も不問に付することはできないはずだ。絵とマンガとアニメの三角関係も見落とせまい。《プールの反映》についても画中画はもとより、上下二層構図という点では伝ヤン・ヴァン・エイクの《最後の審判》(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)やラファエッロの《キリスト変容》(ヴァティカン、絵画館)、ブレイク《ヨブ記》中の数点(第2、3、5、9、14、15、16図)などの作例と、水鏡というモティーフではカラヴァッジョの《ナルキッソス》(ローマ、パラッツォ・バルベリーニ国立古代美術館)やモネの一連の《睡蓮》などと比較することができるかもしれない。とはいえこれらを概括することは力の及ぶところではないので、ここではいささか近視眼的な話に限ることとしたい。


フリードがその「芸術と客体性」でミニマル・アートにおける〈経験の持続への没頭〉に対しモダニズムの絵画や彫刻における〈瞬時性〉を擁護したことはよく知られている(4)。文末で「永遠の現在」や「恩寵」にふれている点からしてそこに超越的な意味あいを含ませていることがうかがえるとして、もとは日常的な鑑賞体験に根ざしているのではないかと推測できなくもない。たとえばフリートレンダーが鑑定においてモレッリ流の分析的方法より「全体的な印象」、「直観」を重視した点と結びつけることもできるだろうか(5)


グリーンバーグやフリードにおけるモダニズム〜形式主義批評〜品質判断の接合をどう評価するか、またフリードのいう瞬時性の内実はいかなるものかという点はおくとして、フリードの持続/瞬間の対置は、ベルクソンとバシュラールの議論を連想させもする。ベルクソンが時計の文字盤のように時間を空間化して解することに反対した点はよく知られているが、『創造的進化』4章では「私たちの通常の知識の仕掛は」、本来分割しえないはずの運動を非連続なコマに分割し、それらを連続して映すことで見かけ上の運動を表わすという「映画的な性質をもつ」と批判していた(6)。他方時間を持続ととらえるベルクソンに対し、バシュラールや大森荘蔵は瞬間ないし現在とその非連続性に時間の本来的なあり方を見てとったが(7)、さらにさかのぼれば、アビダルマ仏教以降の刹那滅論、イスラーム神学アシュアリー派の原子論やデカルトの連続創造説などにその先例を認めることができよう(8)。あるいは瞬間ではないが、ホイルの『10月1日では遅すぎる』では、順に番号をふった書類整理用の仕切りのたとえで時間のブロックの非連続性が物語られる(9)


これらの時間論について云々するのは手に余るどころでなく、そもそもそれぞれの立論の由来も同じではない。ただ面白いのは現代の研究者が解説する際、時として映画のコマをたとえに持ちだす点だ(10)。アビダルマ仏教やアシュアリー派の説明に映画をひきあいにだすのはもとより時代錯誤だが、逆に見ればベルクソンをはじめとして映画発明以降の人間にとり、映画の機構における運動ないし時間の非連続性は映画の目を引く特徴の一つと見なされたのだろう。映画がそれだけで語りつくせるものではないにせよ、ここで悪評高いモダニズム的還元を映像に対し仮に施してみるなら、コマの非連続性と時間の継起との関係をあらわにするような作品こそが映像の固有性に即したものということになりはしないだろうか。ところで彫刻的なイリュージョンを廃し平面性に達したとされるモダニズムの絵画について、平面化した絵画を物体から区別するものとして視覚的なイリュージョンは、しかしこれを保つと語られざるをえなかった(11)。その際視覚的イリュージョンは計測しうる三次元的な奥行きのそれではないがゆえに、分節しえない時間のふくらみをはらむこととなる――過去把持や未来予持から切り離しえない〈今〉というフッサールの説に対応させうるだろうか(12)。同様にコマの非連続性と時間進行とは調和では必ずしもない相のもとに現われる、すなわち継起的な時間の流れとともに展開すべき映像が、絵画的な瞬間性ないし時間の非連続性のもとに脱臼させられることになるのかもしれない。


本展の出品作でも多分に乱暴ではあるが、時間の推移がきわめて緩慢なもの(イーノ(cat.nos.14-1, 14-2)、バウカ《壁》(cat.no.6-1))、震え波打つ時間(小島(cat.no.12)、千住(cat.no.13))、時間がしゃっくりないし痙攣するもの(鷹野(cat.nos.11-1, 11-2)、オピー(cat.no.4-2) 、バウカ《BlueGasEyes》(cat.no.6-2)、テイラー=ウッド《ピエタ》(cat.no.3-1))、加速された時間(テイラー=ウッド《スティル・ライフ》(cat.no.3-2)と《リトル・デス》(cat.no.3-3))などを映像のあり方に対するこうした問いかけと見なすこともできなくはあるまい。ヴィオラにもどれば、そこでは時間の流れがずれ重層化していた。ずれ重層化したという以上時間は複数あることになり、それらを容れる、あるいは複数性の結果生じる地平が要請される。それを保証するのはカメラの固定による正面性、いいかえて絵画的瞬間性だった。では非連続なコマとコマ、瞬間と瞬間、ずれた時間と時間の断層に何が開くのだろうか?ただそれは、ハインラインの「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」において世界の再調整が行なわれる前後のはざまにかいま見られた「空虚そのもの」、「形もない灰色のもの」 (13)それ自体ではなく、それらにとり囲まれつつも、あくまで媒体であるかぎりでの枠どられた表面において現われる何かなのではないだろうか。


(三重県立美術館学芸員)


3. Cf., パスカル・ボニゼール、『歪形するフレーム―絵画と映画の比較考察―』、梅本洋一訳、勁草書房、1999。


4. マイケル・フリード、「芸術と客体性」、川田都樹子・藤枝晃雄訳、『批評空間 1995《臨時増刊号》 モダニズムのハードコア』、1995.3、p.84、p.93(Michael Fried, Art and objecthood, Chicago and London, 1998, pp.166-168)


5. マックス・フリートレンダー、『芸術と芸術批評』、千足伸行訳、岩崎出版社、1968、pp.145-146.


6. ベルクソン、『創造的進化』、真方敬道訳、岩波文庫、1979、pp.357-361


7. G.バシュラール、『瞬間と持続』、掛下栄一郎訳、紀伊國屋書店、1969;橋爪恵子、「バシュラール詩学と時間論」、『美学』、no.229、2007.6;大森荘蔵、『時間と自我』、青土社、1992;同、『時間と存在』、同、1994;同、『時は流れず』、同、1996。


8. 平川彰、「原始仏教・アビダルマにおける時間論」、『講座仏教思想 第1巻 存在論・時間論』、理想社、1974;佐々木現順、『仏教における時間論の研究』、清水弘文堂、1974、pp.123-139;谷貞志、『刹那滅の研究』、春秋社、2000;アンリ・コルバン、『イスラーム哲学史』、黒田壽郎・柏木英彦訳、岩波書店、1974、pp.144-146;井筒俊彦、『イスラーム思想史』、岩波書店、1975、pp.71-72;近藤洋逸、『デカルトの自然像』、岩波書店、1959、第6章3;中村昇、『ホワイトヘッドの哲学』、講談社選書メチエ、2007、第3章;また註10の文献など参照。

(【補註】吉田健太郎「デカルトと連続創造説−作動原因のデカルト的理解に向けて−」(『愛知教育大学研究報告 49(人文・社会科学編)』、2000.3)によると、デカルトの連続創造説は必ずしも時間の不連続性を意味するものではないという)。


9. フレッド・ホイル、『10月1日では遅すぎる』、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、1976、pp.101-111


10. 櫻部建・上山春平、『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉』、角川ソフィア文庫、1996、pp.75-76;山口瑞鳳、「飛んでいる矢は止まっているか」、『思想』、no.772、1988.10、pp.2-5;谷貞志、『〈無常〉の哲学 ダルマキールティと刹那滅』、春秋社、1996、p.104;中村廣治郎、『イスラムの宗教思想 ガザーリーとその周辺』、岩波書店、2002、p.176など。


11. クレメント・グリーンバーグ、「モダニズムの絵画」、『グリーンバーグ批評選集』、藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005、pp.69-70(Clement Greenberg. The collected essays and criticism, vol.4, Chicago and London, 1993, p.90)


12. 滝浦静雄、『時間―その哲学的考察―』、岩波新書、1976、第6章2-3;新田義弘、『現象学とは何か』、紀伊國屋新書、1968、第5章1-2など。


13. ロバート・A・ハインライン、「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」、矢野徹訳、『輪廻の蛇』、ハヤカワ文庫、1982、p.200。当箇所をジジェクはラカン的な〈現実界〉の噴出を例示するものとして引いている;スラヴォイ・ジジェク、『斜めから見る』、鈴木晶訳、青土社、1995、pp.37-41。映像という点ではやはりフィクションだが、セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』(上下巻、田中靖訳、文春文庫、1999)の狂言廻しもそうした問いと交差しているといえるかもしれない。もっとも物語中で呈示される謎解きはいささか原因と結果の一対一対応に縛られているように思われる。

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