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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1984 > ドイツ表現派と日本近代美術 陰里鐵郎  ドイツ表現派展図録 1984

ドイツ表現派と日本近代美術

三重県立美術館館長 陰里鉄郎

日本の近代美術が,欧米先進国から多くの影響をうけて形成されてきたことはいうまでもないが.なかでも19世紀末以降は,フランスからのそれが主流をなしてきた感がつよい。主流はそうであったとしても,ときにアメリカ系の摂取もあれば,イギリスからのそれもなかった訳ではない。ドイツ絵画の影響もまた見逃すことのできない一面をつくっている。今回の展観を機に,日本の近代美術におけるドイツ表現派とのかやゝわりをすこしさぐってみたい。

試みに「表現主義」または「表現派」というた言葉を日本の美術諸雑誌のなかに追い求めていくと,もっとも早い例と思われるのを見出すのは,1913(大正2)年のものにおいてであろう。たとえば,つぎのような文章を見出すのである。

所で動的に絵画を解して,それを主観の表出(エキスプレツション,エキスプレショニズム等の語の近頃の合言葉なるを見よ)と為ると,それは画いた人と離して考へることの出来ないものとなる。(略)-思想界に於てもまた時間相を主総統とする哲学が起った。こうゆう人心の転回が絵画に咲かせた華が近来の表現主義(エクスプレショニスム)である。

これは,木下杢太郎が『美術新報』大正2年2月~8月号に発表した「洋画に於ける非自然主義的傾向」のなかの一節である。この論文は,よく知られているように,フュウザン会第2回展が開催されていたころ,前年の第1回展に出陳された諸作品を想起しながら,内田魯庵の批評や,それに反駁した岸田劉生の反論に触発された杢太郎が,それらの論を不満とし,「フュウザン式絵画に対する明なる概念」を得ようとして執筆されたもので,フュウザン会に関する当時のもっともカのはいった論評である。

さらにまた,つぎのような一文にも出会う。

後期印象派の名は表現派と言った方が妥当であると言ったハインドの言葉を丸呑して概念的情感やものの説明にむきになってあらゆる愚劣なる手段や細工をこらす暇人もでてきた。(雑誌『現代の洋画』大正2年12月号,浅枝次朗「遊戯者の群・・・・・・・仮面主催展覧会を観て」)

この『仮面』というのは,さ1912(大正元)年末に発足してこの年(1913)7月にいったん終刊となった同人誌『聖盃』が,9月に改称して再出発したもので,その同人には日夏耿之介,西条八十,森口多里のほか画家の永瀬義郎,長谷川潔,広島新太郎(晃甫)が参加していたもので,展覧会の出品者は広島,永瀬らで,他には田村とし子などの名前がみえる(1915年6月廃刊)。断言はできないが,これらは「表現派」という言葉が用いられている最も早い例である。

木下杢太郎はさらに,先の論文のなかで,「兎に角フュウザン会の絵に最も近い例を取ると独逸の青騎士派の芸術であろう。是に就いては既に石井柏亭君が多少述べられて居るやうであるが,中に就てカンディンスキイの<芸術中の精神的要素>及び同氏及フランツ・マルク編輯の<青騎士>中の諸論など他山の石ながらフュウザン式絵画の解明の鍵の役に立ち得るやうに思はれる。両者の作品の間には一見して著しい類似が覗はれる。共に伝習を蔑視する。共に色調と素描との複粗正確を蔑視する。概して絵画上の自然主義に対して著しい憎悪を持ってゐる。而して共にセザンヌ,ゴォホ等を崇拝する」と書いている。

一般に,フュウザン会は,高村光太郎,斎藤与里ら明治末期の1910年前後にフランス留学から帰国した作家を中心として結成された青年美術家の集団で,総体的には印象派,後期印象派の集団とされている。事実,高村光太郎は印象派風の作品を,斎藤与里はゴーガン風の作品を出品している。岸田劉生や萬鉄五郎,木村荘八などの若い画家たちは,光太郎や斎藤の帰国後の論評や,文芸誌『スバル』『白樺』などが明治42(1909)年ころからたて続けにおこなってきた後期印象派からフォーヴィスムにいたるまでのフランス現代絵画の紹介といった状況のなかで育っており,とりたててドイツ表現派の紹介はなされていない。しかし,それでも杢太郎はドイツ表現派との類似について言及したのであった。

木下杢太郎がフュウザン会の作品とドイツ表現派との類似を指摘したのは,諸誌の海外思潮の紹介などの事実関係とは別に,フュウザン会の作品にドイツ表現派の精神と一致するものを認めたからにほかならない。杢太郎は,フュウザン会の作品を理解する鍵をドイツ表現派,特にカンディンスキーの絵画論に求めている。この時期,1913(大正2)年に杢太郎がドイツ現代絵画についての知識を持ちえたのは,杢太郎自身がのちに書いているように,その前年(1912)にヨーロッパ旅行から帰国した石井柏亭に負うところが大きかったようである。「当時洋行中の石井柏亭君の恵む所なるカンヂンスキィの新著を抄読して新芸術的意向を模索した」と杢太郎は書いている。このカンディンスキーの『芸術,特に絵画における精神的なものについて』が公刊されたのは1912年のことであり,『青い騎士年鑑』の刊行も同年である。この迅速な反応,摂取は,一時代前の白馬会時代(1900年前後)と比較するなら驚嘆に値しよう。

木下杢太郎が『青い騎士』(今回の展覧会にはこの系列の出品はわずかである)と対照させようとしたフュウザン会の作品は実際にはどのようなものであったろうか。残念ながらフュウザン会出品の作品で現存するものは数少い。しかも,岸田劉生の「外套を着たる自画像」や萬鉄五郎の「エチュード」(現・日傘の裸婦)や「女の顔」,川上涼花の「鉄路」など遺存する作品の多くは印象派的な光の表現のあとを残した作品から,いく分マチス風のフォーヴィスムを感じさせる作品などであり,全体的には後期印象派の域をでていない。しかし同展の目録に掲載されている図版で見る限りでは,杢太郎もその名をあげている川上涼花の「夜の郵便夫」や川村信雄の「別れ」などはドイツ表現派の作風に近いように思われる。そしてフユウザン会展出品作品ではないが萬鉄五郎の同時期の作品,水彩「女の顔」(岩手県立博物館蔵)や油彩の小品「無題」(同)など,表現主義的と呼ぶほかない作品がある。いったいこのような作品は,どのような形でこれらの若い画家たちのなかに胚胎し,そして生みだされたのか,それを解明することは,いまほとんどできないが,一時的にはせよこれらの若い画家たちにとっては,自己解放に目覚め,苦悩する青春の魂の表出であり,稚拙であったにしても現代そのものの実現であったろうし,それが期せずして表現派との類似となったのであろう。

しかし,いっそう表現主義的であったのは,同時代の版画である。

明治以後の版画の歴史は,絵画史一般と同列にみていくことはできない展開をとっており,1907(明治40)年に創刊された雑誌『方寸』にはじまる創作版画の運動から近代版画の歴史が形成されることになった。

『方寸』が示した版画は,まだ自然主義的な描写の域にとどまっているが,この時期に若い版画家たちに強烈な衝撃を与えたと思われるのは,ムンクの版画である。雑誌『白樺』は,1911(明治44)年10月に泰西版画展を開催している。同誌の同人たちの洋行土産や取り寄せたもので,複製写真版も多数あったが,木版,銅版などが半数以上含まれていて約190点,そのなかに,ビアズリー,クリンガーなどとともにムンクの「心臓」「宇宙に於ける邂合」といった作品があった。1913(大正2)年4月の第6回白樺主催美術展には後期印象派の画家たちの作品複製約120点とともにロートレックの石版画,ムンクの銅版画8点が展示されている。創作版画運動の中心人物であった山本鼎はこの時期には渡欧して不在であったが,さきの引用文にあった『仮面』同人の長谷川潔,永瀬義郎は同誌の表紙を木版画で飾り,また別刷の版画を挿入したりしているが,広島新太郎をも含めてこの時期の彼らの作品にはムンクの強い影響をみないわけにはいかない。

このような動きがみられたなかで,雑誌『現代の洋画』は,1914(大正3)年2月号を版画号と銘打って編集刊行した。そのなかにカンディンスキーの「失題」と題する作品1点が色刷で紹介されている。おそらくカンディンスキーの作品紹介の最初として注目されよう。

この1914年は,近代版画史の展開のうえでは重要な年となった。版画特輯号の出現につづいて,実際にドイツ表現派の版画展が開催されたからである。かつて,この展覧会開催年は1915年とされ,多く関係年表,図書類はそれを踏襲してきていたが,1971年に国立西洋美術館において開催された「ドイツ表現派展」のあと,1914年3月,独逸シュトゥルム社日本支社主催で日比谷公園前の日比谷美術館において開かれたものであることが明らかとなり,瀬木慎一氏がこのときのカタログを発見され,その内容まで一挙に詳らかとなった。カタログは「DER STURM 木版画展覧会月録」となっていて,ペヒシュタイン,ココシュカ,キルヒナー,ヘッケル,マルク,カンペンドンク,ローゼンクランツ,カンディンスキー,シュミット=ロットルフなどのほかマリー・ローランサン,ペリアン,ホドラー,ボッチォーニ,レジェなども含まれており,70点の多彩な内容となっている。主催の独逸シュトルゥム日本分社として山田耕作,斎藤佳三の二人の名が記されて両名の短い序文が附けられている。それによれば「今回は木版画ばかりでございますが,第2回からは油絵の方も陳列します。それから新しい派の作曲家が拵らへた音楽も紹介します」ということになっている。出品作のなかからローゼンクランツの「浜辺」1点を掲載した雑誌『現代の洋画』7月号には,「未来社主催音楽会」として「新帰朝者音楽家山田耕作氏のためにリーダー・アーペントを開く。氏の独唱曲は20曲」と記されていて,おそらくこれがカタログに予告した音楽会であったろうと思われる。山田耕作は東京音楽学校を卒業して1910年ベルリンに留学し,1914年第一次世界大戦勃発まえに帰国しているが,渡欧は雑誌『シュトゥルム』創刊の年であり,ベルリン音楽学校に学びながら新分離派の活動やシュトゥルム展などドイツにおける前衛芸術の動向に親しんでいたものと思われる。山田もカタログに記しているがシュトゥルム社のヘルヴァルト・ヴァルデンは作曲家であった。斎藤佳三は,東京美術学校を卒業して1911年に渡欧,専門のデザインのみならず音楽,演劇,舞台美術などと広く関心をもち,特にオペラに興味をよせていた。帰国後には「表現派と立体派と未来派」(『美術新報』大正3年4月号)といった論評を発表したりしている。両者が『シュトゥルム』とどのようにかかわっていたのか詳細は分らない。シュトゥルム分社もその後どうなったかも分明ではない。しかし,山田の影響をうけて若い東郷青児は前衛的な作品の制作,1915年9月日比谷美術館でそれらの作品を発表している。

版画にもどると,この1914年9月に近代版画史上に特異な光彩をはなった詩と版画の同人誌『月映(つくばえ)』が,恩地孝四郎,藤森静雄,田中恭吉によって創刊されている。恩地はいちはやく非具象の表現主義の作品をみせ,さらに抒情をもった抽象主義へとすすみ,田中は翌15年には胸を病んで短かい生涯をおえるが,ムンクの影響をつよく示した作品をのこした。さらに附け加えねばならないのは,フュウザン会の画家たちの版画である。小林徳三郎は木版画「軽業」3点を同会の第1回展に出品しているが,同会で版画に意欲的であったのは岡本帰一と萬鉄五郎であった。木版画のもつ単純で直截な表現効果は,彼らの激しい情熱と詩情を託するに恰好のものであったのであろう。岡本の木版の画面はムンクに近づいており,萬のそれはゴッホから発していて,いずれも表現主義的傾向をみせている。

1910年代前半(明治未~大正初期)は動きのはげしい転換の時期であった。それにはフランスの後期印象派,フォーヴィスムの摂取が主要なモメントをなしていたとしても,ドイツ表現主義の演じた役割を決して過小評価することは許されないであろう。

1914年,第一次大戦の勃発によってヨーロッパは戦場となり,ドイツ表現派のグループは自然離散し,集団的活動は終焉した。それからの数年間,われわれは日本国内で「表現主義」という言葉をそれ程多くは見うけない。再び頻繁に見うけるようになるのは1921(大正10)年ころからである。その間,日本の美術界では,前衛的傾向はほとんどすべて「未来派」の一語でくくられたといってもよいであろう。

未来派の紹介ははやく,森鴎外が1909年(明治42)の雑誌『スバル』5月号「椋鳥通信」にマリネッティの未来派宣言十一章を紹介したことにはじまっている。1912年になると一挙に紹介記事,図版が多くなる。高村光太郎「未来派の絶叫」,カルロ・カルラ,ボッチォーニ,セヴェリーニなどの作品図版が木村荘八,瓜生養次郎らのマリネッティとの直接交渉によって『現代の洋画』に紹介されたのであった。キューピスムの紹介もほぼ同時に行なわれているが,キューピスムも表現主義も,さらにもうすこしあとには超現実主義的なものも「未来派」と呼ばれたりしている。もちろん,未来派は表現派と全く無縁ではないし,むしろ密接な関係があり,フランツ・マルクはもっともつよく未来派に共鳴していたし,パウル・クレーはカルロ・カルラを高く評価していた。ゴットフリート・ペンは「表現主義の様式は他の国々ではキューピスム,後にはシュールレアリスムと呼ばれた」と書いている。滝口修造もまた「未来派という言葉は新芸術について,もっとも早く一般の耳に入ったものであった。入りよかったという理由もあろう。未来派はその名称からして,通俗的であったから。昨年若くして世を去った女性抽象画家F君について或る新聞は最近未来派に傾倒していたというふうに書いていたくらいである。とにかく未来派はこのような通俗的な好奇心の雰囲気で唱えられていたのである」(「或る年表への註釈(1939)」)と書いている。1917年のころ,萬鉄五郎の「もたれて立つ人」,東郷青児「パラソルさせる人」などが一括,未来派と呼ばれて以来,息ながく俗耳に親しまれてきた証左である。

このようななかで,ドイツ表現派で多少とも本格的に紹介され論じられたのは,カンディンスキーであった。さきに述べた木下杢太郎に続いて,園頼三が1915年に『芸術に於ける精神的なものについて』を論じ,1917から19年にわたってカンディンスキー論を連載している(『美術新報』)。

表現主義に関する紹介,論述などが飛躍的に数多く現われるのは1921(大正10)年からである。しかしそれらはあとであげる例によって明らかなように表現主義絵画に関するものにとどまらず,芸術思潮としての表現主義,各分野,領域における表現主義についての紹介であり論述である。そのいくつかの例をあげてみると,文学においては山岸光宣がドイツ文壇の傾向としての表現主義を紹介しており,長谷川巳之吉「表現主義の映画」,斎藤佳三「表現派の活動写真」,成瀬無極「表現主義の戯曲」,茅野蕭々「表現主義について」,梅沢和軒「表現主義と文人画」といった論文が総合雑誌,文芸雑誌,美術雑誌にそれぞれ発表されているのである。1921年はまた詩人平戸廉吉が「日本未来派運動第一回宣言」を街頭で配布したときであり,映画「カリガリ博士のキャビネット」が上映されたのもこの年であった。美術界をみてみるとこの年の第8回二科会展には,前年の秋に来日したロシアの未来派の画家詩人ダビット・ブルリュック,フィアラ,ワリヤ・ブブノヴァらが作品を出品,またザッキンの出品もあった。そして普門暁,木下秀一郎らの「未来派」展は第2回展をむかえている。翌1922年に動きは一段とまし,普門,木下らの未来派は「三科インデペンデント」に発展,一方,二科会内の前衛派神原泰,古賀春江,矢部友衛らは「アクション」を結成,また日本画の分野での前衛グループは糾合して「第一作家同盟」を成立させている。「第一作家同盟」に参加した玉村方久斗(善之助).の活動に触れて,滝口修造は「なお大正11年(1922)には玉村善之助氏等の『エポック』が発刊されている。未来派ないしは表現派的な表紙デザインで,<天体の観測誤差>とか<スタビリッティヘの移動>などと名づけられている。当時封切された『朝から夜中まで』の紹介もあり,だいたいにおいて表現主義の紹介であるが,時に未来派,ダダ,立体派の作品が精力的に紹介されている。しかしドイツ語の原書によったらしく,レジェはレーゲルになり,シャガールはハガル,ドランはデラインなどとなっている」と書いている。フランス大使ポール・クローデルと黒田清輝らの尽力によって開催されるようになった「フランス現代美術展」の第1回展もこの年であった。このようにして芸術界全般にみられる前衛志向のあらわれは,ようやく日本における表現主義時代の到来を感じさせるものがある。

高見順は,昭和文学を回顧するにあたって,1924(大正13)年の時点をとりあげているが,それは新感覚派とプロレタリア派の出現の時期であり,『文芸時代』『文芸戦線』創刊からその記述をはじめている(『昭和文学盛衰史』)。さきに触れてきた日本の前衛美術も分裂,分化の時期にはいっているが,『文芸時代』の表紙絵を担当したのは,グループ「アクション」の画家たちであった。「アクション」の有力メンバー古賀春江と『文芸時代』の川端康成との親交を,高見は「個人的な意味を超えたひとつの象徴的なもの」としてとらえている。古賀は,その表現様式のうえではカメレオン的変貌をくり広げているが,一時期,表現主義の影響をつよくうけたことは明らかである。また高見順に限らずこの時期に青春を過した知識人たちが感動をこめて回想するのが,築地小劇場第1回公演のラインハルト・ゲーリングの表現派戯曲『海戦』である。

このときに開催されたのが「欧洲表現派展」であった。1924年6月,場所は丸善本店新館においてであった。どのような経緯をもってこの展覧会が成立したかは不詳だが,19作家34点で構成されており,アルキペンコ,ヤウレンスキー,カンディンスキー,クレー,ココシュカ,ノルデ,ペヒシュタイン,シュミット=ロットルフなどの油彩・水彩の作品であった。小規模とはいえ,ドイツ表現派の本格的で組織的な展観としては最初のものであったろうと思われる。

この時期の村山知義の活躍にも触れねばならないであろう。「日本画壇に爆弾を投げこむような」奔放な動きをみせ,意識的構成主義を主張して柳瀬正夢らと「マヴォ」を結成,多彩に活動した0既成の概念を打破し,表現主義を超えようと試みたのであった。

1910年代前半と20年代後半との表現主義の高揚は,しかしその間にほとんど何の脈絡もない。そして後者の時期には,一方でフランス・フォーヴィスムの第3次移植のときでもあった。ドイツ表現派が呈示した苦悩する時代の精神,人間の内面の原初的な真実といったものにはほとんど気づかぬままに広義の表現主義的傾向に軟化されてしまったようにみえる。もっともそこに至る以前に表現主義についての理解は拡大解釈されていたようである。その手がかりとなったのは,伝統的な文人画=南画であったと思われる。南画のもつ筆・墨,線のリズムや表現,東洋的精神主義の表出といった考え方に表現主義的要素を見いだすのは容易なことであったからである。それゆえに,狭義の表現主義,ドイツ的表現主義について根源的理解にはなかなか至りえなかったし,その受容も鋭角的には深化されなかった。照射さるべき人間的内面が,情趣的な皮相な抒情へとすりかえられていったきらいがある。近代の日本の洋画家たちのなかには,その落とし穴へのめりこんでいった例は少くないのである。

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