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表現主義年譜

東 俊郎・編

  ドイツ表現主義 表現主義に関連するヨーロッパの美術
1891 ●ベルリンのグルリットGurlitt画廊でドイツ初のフランス印象派展。マネ,モネ,シスレーなどが展示された。

●ミュンヒェン,ハンス・フォン・マレースHans von MAREES(1837−1887)の回顧展をマイアー=グレーフェJulius MEIER-GRAEFE(1867−1935)が企画展示。彼は1917年にマレース会Marees Gesellschaftをはじめる。
●パリ,アール・ヌーヴォーの雑誌『ルヴュ・プランシュ(Reveu Blanche)創刊。

●1886年からこの年までヘルマン・ムテージウスHermann MUTHESIUS(1861−1927),ヘルマン・エンデHermann ENDE(1829−1907),ヴィルヘルム・ベックマンWilhelm BOCKMANN(1832−1902),日本で議事堂,裁判所など官庁建築に従事。

●ジョルジュ・スーラGeorges SEURAT歿(1859−)

*前年ビスマルク罷免され,ドイツの外交方針転換。ロシアとの間の再保障条約更新せず,関係冷却。
*3月,フランス資本を導入してシベリア鉄道起工。
*8月,露仏協約。
*「なぜいわゆる普仏戦争後の泡沫会社濫立時代のドイツは─それは1870年から1890年までの時期であるが─完全に精神的荒廃の印象を呼び覚ましたのであろうか。……文学と絵画の領域では事実なんの見るべき成果もなかった……」(ヘルマン・ブロッホ)
1892 ●2月,ベルリン,マックス・リーパーマンMax LIEBERMANN(1847−1959),ルートヴィッヒ・フォン・ホフマンLudwig von HOFMANN(1861−1945),ヴァルター・ライスティコフWalter LEISTIKOW(1865−1908)などグループ「十一人」Die Vereinigungder XI結成。

●4月,ミュンヒェン,フランツ・フォン・シュトゥックFranz von STUCK(1863−1928),フリッツ・フォン・ウーデFritz von UHDE(1848−1911),ヴィルヘルム・トリューブナーWilhelm TRUBNER(1851−1917),ローヴィス・コリントLovis CORINTH(1858−1925),ハンス・トーマHans THOMA(1839−1924)などミュンヒェン分離派を結成。

●11月,ベルリン芸術家協会,Verein Berliner Kunstler,エドワルド・ムンクEdvard MUNCH(1863−1944)の作品55点を展示したが,スキャンダルをひきおこし一過間で閉展。芸術家協会のうちムンク擁護派は自由美術家団体を創立。

●ムンク,この年の10月から1895年夏までベルリンに住む。
●スイスの画家クーノ・アミエCuno AMIET(1868−1961),パリのアカデミー・ジュリアンでブーグローに学んでいたが,この年ゴーギャンのいるポン・タヴェンPont Avenを訪れ,エミール・ベルナールに会う。その後スイスに帰ってフェルディナント・ホドラーFerdinand HODLER(1853−1918)に会う。

●アメリカ生まれの画家リオネル・ファイニンガーLyonel FEININGER(1871−1956),この年から翌年にかけてパリのアカデミー・コラロッシに学ぶ。

●ベルリン,シュテファン・ゲオルグStefan GEORGE(1868−1933)を中心として『芸術草紙Die Blatter fur die Kunst』創刊。

●パリ,サロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダンSalon des Artists Independants 展deで前年亡くなったスーラの回顧展。

*「ワイマール革命のずっと前から,ドイツの芸術においては,ブルジョワ芸術から大衆芸術への移行,つまり,印象主義から表現主義への移行がみられたのである。」(1919年1月,ケスラー伯Harry Graf KESSLER(1868−1937)の日記)。
1893 ●6月,ミュンヒェン,分離派第1回展。コロー,ミレー,クールベ展示される。

●6月,ミュンヒェン,ドレスデンに続いて前年ベルリンで中断したムンク作品展を水晶宮で開催。

●ミュンヒェン,フェルナン・クノップフFernand KHNOPFF(1858−1921),ヤン・トーロツプJan TOOROP(1858−1928),ファン・デ・ヴェルデHenri van de VELDE(1863−1957)のベルギー新様式芸術展をひらく。ミュンヒェンのユーゲント様式に与えた影響は大きい。

ベルリン,官展落選作品展。ムンク,ケーテ・コルヴィッツKothe KOLLWITZ(1867−1945)ら出品。

●ファイニンガー,ベルリンへ移る。
●ミュンヒェン,アドルフ・フォン・ヒルデブラントAdolf von HILDEBRAND(1847−1921),『造形芸術における形式の問題Das Problem der Form in der bildenden Kunst』刊行。

●7月,ムンクの作品『雨のクリスチャニア』をワルター・ラーテナウWalter RATHENAU(1867−1922)購入。

●パリ,サンボリスムの劇場『制作座Theatre de L’CEXre』創設。

●11月,パリ,デュラン=リュエルDurand−Ruel画廊でゴーギャン展。
1894 ●ベルリン,フェルディナント・ホドラーの作品『夜』(1890年)をクンストパラストに展示。
●7月,ベルリン,ムンクに関する初の著書『エドワルド・ムンクの作品Das Werk des Edvard Munchs』が出版され,ポーランドの小説家スタニスラフ・プシビシェフスキーStanislaw PRZYBYSZEWSKI(1863−1927),マイアナー=グレーフェ他2名のムンク論が収録される。

●ミュンヒェン郊外のダッハウで,アドルフ・ヘルツェルAdolf HOLZEL(1853−1934),ルートヴィッヒ・ディルLudwig DILL(1848−1940),カール・ラングハマーKarl LANGHAMMER(1868−1901〉は新ダッハウ派を結成,フランス印象派を追って自然描写を研究。

●オットー・ミュラーOtto MUELLER(1874−1930)ドレスデン・アカデミーに入る。
*1月,露仏同盟成立。
*10月,フランス,ドレフュス事件起こる。
1895 ●ベルリン,ムンクの個展にあわせて雑誌『パンPan』創刊。ビールバウムOtto Julius BIERBAUM(1865−1910),マイアー=グレーフェが編集し,リーパーマンとともにグループ「十一人」を結成したヴァルター・ライスティコフ,フォン・ホフマンも協力。ライスティコフのアトリエには,ゲルハルト・ハウプトマンGerhart HAUPTMANN(1862−1946),マックス・ハルベMax HALBE(1865−1944)などの劇作家,演出家オットー・ブラームOtto Brahm(1856−1912),翌96年ベルリン国立美術館長となるフーゴー・フォン・チューデイHugo von TSCHUDI(1851−1911)らが集う。
●ワシリー・カンディンスキーWassily KANDINSXY(1866−1944),モスクワのフランス印象派展でモネの『積藁』(1891年)をみて強い刺激をうける。
●シュトゥック,ミュンヒェン・アカデミー教授となる。
●11月,パリ,ヴォラールVollard 画廊で初のセザンヌ個展。
●エルンスト・バルラッハErnst BARLACH(1870−1938),パリのアカデミー・ジュリアンに学ぶ。

*日清戦争後の極東の処理をめぐってドイツは,フランス,ロシアとともに三国干渉。
*ドイツの商工業における驚異的な進出をめぐって,イギリスの雑誌『新評論The New Review』に論文「ドイツ製Made in Gemamy」が掲載,その題は流行語となる。
1896 ●1月,ミュンヒェンで雑誌『ユーゲントJugend』創刊。オットー・エックマンOtto ECKMANN(1865−1902)考案の装飾文様とともにやがて「ユーゲント・シュティールJugendstil」という名称がつかわれはじめる。おなじ年,ミュンヒェンでもうひとつの文芸雑誌『ジンプリツィシムスSimplicissimus』が4月に誕生,しだいに前衛芸術に多くのページをさくようになる。
●アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーAlexej von JAWLENSKY(1864−1941)とマリアンネ・フォン・ヴェレフキンMarianne von WEREFKIN(1870−1938)ペテルブルクからミュンヒェンに出る。
●カンディンスキー,ドルパト大学教授に指名されたが固辞,モスクワからミュンヒェンに出て,ユーゴスラヴイア出身の画家アントン・アツベAnton AZBE(1859−1905)の画塾に通ううちに,やはりそこで絵画を学ぶヤウレンスキー,ヴェレフキンを知る。当時,カンディンスキーがアトリエをおいたミュンヒェン市内シュヴァービング地区はドイツの芸術の都ミュンヒェンの前衛的芸術活動の中心であり,カフェー・ステファニーCafe Stefanyやカフェー・ルイトポルトCafe Luitpoldには,ライナー・マリア・リルケRainer Maria RILKE(1875−1926),フランク・ヴェーデキントFrank WEDEKIND(1864−1918),ハインリッヒ・マンHeinrich MANN(1871−1950)とその弟トーマス・マンThomas MANN(1875−1955)が集っていた。
●ウィーン・アカデミー教授オットー・ワーグナーOtto WAGNER(1841−1918)『現代建築 ModerneArchitektur』刊。

*4月,アテネで第1回オリンピック開会。
1897 ●ベルリン,前年国立美術館長となったチューデイが,ドガ,モネ,ロダンなどの購入をめぐって保守派と対立。
●ミュンヒェン,水晶宮Glaspalastで国際美術展。ホドラーの『夜』と『語調』が金賞をうける。この年の前後ユーゲント・シュティールの頂点となる。
●ミュンヒェンでホドラーの『夜』をみた一人にエミール・ノルデEmil NOLDE,本名Emil HANSEN(1867−1956)がいた。ノルデはこの年.ホドラーとアルノルト・ベックリンArnold BOCKLIN(1827−1901)の収集家ゲオルク・ヒルトGeorg HIRTH 経営の『ユーゲント』に掲載された彩色素描『山岳絵葉書』を大量に印刷して得た金をもとに,本格的な絵画修業を積もうとスイス,ザンクト・ガレンSt.Gallenの工芸美術館を辞職。
●ミュンヒェン,ウィリアム・モリスWilliam MORRIS(1834−1896)を中心としたイギリスの美術工芸運動Arts and Crafts Movementの影響をうけて,『手工芸のための共同工房Vereinigten Werkstatten fur Kunst im Handwerk』が創立。ヘルマン・オープリストHernann OBRIST(1863−1927),アウグスト・エンデルAugust ENDELL(1871−1925),ペーター・ベーレンスPeter BEHRENS(1868−1940),リヒャルト・リーマーシュミートRichard RIEMERSCHMID(1868−1957)らが参加,水晶宮での美術展に出品,活発に活動。この工芸運動はベルリン,ワイマール,ダルムシュタットへ波及してゆく。
●ウィーン,芸術家協会を脱退したグスタフ・クリムトGustav KLIMT(1862−1918)を会長としてウィーン分離派(正しくはオーストリア造形芸術協会Der Vereinigung BildenderKunstler Osterreichs)が結成される。建築家ヨーゼフ・ホフマンJosef HOFFMANN(1870−1956),ヨーゼフ・マリア・オルブリヒJosef Maria OLBRICH(1867−1908),画家コロマン・モーザーKoloman MOSER(1868−1918)など約20名が参加。
●エーリッヒ・ヘッケルErich HECKEL(1883−1970),ケムニッツ(現在はカール・マルクス・シュタット)のギムナージウムに入学。上級にエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーErnst Ludwig KIRCIINER(1880−1938)がいた。
●ポール・ヴァレリーPaul VALERY(1871−1945),イギリスの『新評論』に『ドイツの制覇La Conquete Allmande』を発表。これはのちの1915年フランスの『メルキュール・ド・フランスMercure de France』に再録された。

●ドレスデンの民族博物館はこの頃からニューギニア,カメルーンなどドイツ植民地の彫刻収集をはじめる。

*グスタフ・マーラーGustav MAHLER(1860−1911),ウィーン国立歌劇場監督となる。
*ドイツ,ティルピッツAlfred von TILPITZ(1848−1930)提督のひきいる東洋艦隊は清の青島を占領。ティルピッツはこの年海軍大臣となって海軍増強につとめる。
1898 ●ベルリン,ケスラー伯,ファン・デ・ヴェルデの協力をえてケラー・ウント・ライナー画廊でドイツ初の新印象派展。
●ミュラー,ドレスデンを離れ,ミュンヒェン・アカデミーのシュトゥック教室に入る(しかし再びドレスデンへ戻る)。このシュトゥック教室には,ザンクト・ガレンから出てきたノルデも入学を希望したが果たせず,フリードリッヒ・フエールFriedrich FEHR(1862−?)の画塾に通う。のちにノルデは「カンディンスキーやクレーと,そしておそらくマルクとも知りあっていたなら,どんなに素晴らしかっただろう。皆その頃ミュンヒェン・アカデミーの学生だったのだ。」とくやしがっている。
●そのパウル・クレーPaul KLEE(1879−1940)はこの年10月ベルリンからミュンヒェンヘやってきて,やはりミュンヒェン・アカデミーをめざすが,アカデミー校長ルートヴィッヒ・レフツLudwig von LOFFTZ(1845−1910)にすすめられ,その弟子格のハインリッヒ・クニールHeinrich KNIRRの画塾で準備。
●フランツ・マルクFranz MARC(1880−1916)はミュンヒュン大学での研究を神学から哲学に移す。
●アルフレート・クビーンAlfred KUBIN(1877−1959)もこの年ミュンヒェンに出,ミュンヒェン・アカデミーヘ入る。
●ウィーン,分離派の機関誌『聖なる春Ver Sacrum』が1月発刊される。ウィーン以外にもパリのピュヴィス・ド・シャヴァンヌPuvis de CHAVANNE(1824−1898),オーギュスト・ロダンAuguste RODIN(1840−1917),ベルリンのリーバーマン,ミュンヒェン分離派のシュトゥック,ウーデ,新ダッハウ派のヘルツェル,ディル,ライブツィヒのマックス・クリンガーMax KLINGER(1857−1920)の他,ロンドン,ブリュッセル,ヴォルプスヴェーデに会員をもつ。
●3月,ウィーン分離派の第1回展。
●ベルリンにカッシーラーCassirer画廊ひらかれる。
●雑誌『パン』にポール・シニャックPaul SIGNAC(1863−1935)の「新印象主義」が掲載。
●ロシア,セルゲイ・ディアギレフSergei Pavlovich DIAGILEV(1872−1929)、美術雑誌『美術世界Mir Iskusstva』を刊行(−1904年)。ロシアの民旅文化の伝承とともに,ベルリン,ミュンヒェン,ウィーン,パリの動向を紹介することをめざす。

*4月,米西戦争起こる。
*ドイツ,第一次艦隊法案成立。清の膠州湾を租借。
1899 ●ベルリン,前年度の官展でヴァルター・ライスディコフの大作『グリューネヴァルト湖』が落選したのをきっかけに,グループ「十一人」の発展形態として,リーバーマンを会長とするベルリン分離派が生まれ,この年から活動。5月,第1回展。
●ベルリン,文学芸術誌『ディー・インゼルDie Insel』創刊。編集はビールバウム,ルドルフ・アレクサンダー・シュレーダーRudolf Alexander SCHRODER(1878−1962)。この雑誌は1902年まで続いて,インゼル書店の母胎となった。
●ミュンヒェン,ノルデ,ヘルツェルの住むダッハウヘ行く。10月,アムステルダムを経てパリヘ。
●ミュンヒェン近郊のダッハウで,レオ・プッツLeo PUTZ(1869−1940)ら「ディ・ショレDie Scholle」を結成,第1回展をひらく。
●12月,ブレーメン,パウラ・モーダーゾーン=ベツカーPaula MODERSOHN−BECKER(1876−1907),初の個展をひらくが不評。翌年1月パリに出て,アカデミー・ジュリアン,アカデミー・コラロッシに学ぶ。
●6月,パリ,シニャック,前年『パン』に発表した論考にもとづいて「ウージェーヌ・ドラクロワより新印象主義までD'Eugene Delacroix au Neo-impressionisme」を発表。
●ウィーン,カール・クラウスKarl KRAUS(1874−1936),雑誌『たいまつDie Fackel』を創刊。
●ジョヴァンニ・セガンティーニGiovanni SEGANTINI歿(1858−)。

*ウィーン,1890年に汎ドイツ党を結成したゲオルク・シェーネラーGeorg Schonerer(1842−1921)は,オーストリアをプロテスタント化するとともに,統一ドイツを再建する「ローマからの分離運動」を提唱。
1900 ●ローヴィス・コリント,10年間住んだミュンヒェンをあとに,ベルリンへ移り,リーパーマンや,翌1901年ベルリンに移住したマックス・スレーフォークトMax SLEVOGT(1868−1932)とともにベルリン分離派の支柱となる。
●ミュンヒェン,ミュンヒェン・アカデミーにのちに「青い騎士Der Blaue Reiter」にあつまった3人の画家カンディンスキー,クレー,マルクが入学。カンディンスキーとクレーはシュトゥックの教室に,マルクはガブリエル・フォン・ハックル Gabrielvon HACKL(1843−?)とヴィルヘルム・フォン・ディーツWilhelm von DIEZ(1839−1907)にそれぞれ学ぶ。因みに,カンディンスキーが組織したミュンヒェン新美術家協会Die Kunstlerver−einigung Munchenの2回展に出品,「青い騎士」にも参加したチェコ人オイゲン・フォン・カーラーEugen von KAHLER(1882−1911)が,翌1901年ミュンヒェンに出,クレーと同じコースを辿ってシュトゥック教室に入っている。
●ドレスデン,秋,マックス・ペヒシュタインMax PECHSTEIN(1881−1955〉工芸美術学校に入る。
●ノルデ,パリのアカデミー・ジュリアンに通う。パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとその友人でリルケの妻となるクララ・ヴェストホフClara WESTHOFF(1878−1954)に会い,ヴォラール画廊でセザンヌをみて深く印象づけられる。7月,ノルデはパリを去る。
●3月,パリ雑誌『ルヴュ・プランシュ』の評論家フェリックス・フェネオンFelix FENEON(1861−1944)の計画によるスーラ展がひらかれる。
●4月,パリ万国博美術展でクリムトの『哲乳』,シュトゥックの工芸作品『応接室家具』が金賞を受賞。
フリードリッヒ・ニーチェFriedrich Wilhelm NIETZSCHE歿(1844−)。

*ドイツ,第二次艦隊法成立。イギリス海軍の脅威となりはじめる。
1901 ●ガブリエーレ・ミュンターGabriele MUNTER(1877−1962)ベルリンからミュンヒェンヘ。アカデミーは女子学生をとらないので,女子美術学校Die Schule des Kunstlerinnen-vereinsで学ぶ。
●ミュンヒェン,オープリストとヴィルヘルム・フォン・デプシッツWilhelm von DEBSCHITZ(1871−?)はシュヴァービング地区に「実験工房Lehr−und Versuchsatelier fur angewandte und freie Kunst」をひらく。
●ミュンヒェン,カンディンスキー,アカデミーをやめ,5月頃,前衛芸術家集団「ファーランクスPhalanx」を組織。ロルフ・ニッキィRolf NICZKY(1881−?),ヴァルデマール・ヘッカーWaldemar HECKER,ヴィルヘルム・ヒュスゲンWilhelm HUSGEN(1877−1962),エルンスト・シュテルンErnst STERN(1876−1954)らが加わって,8月に「ファーランクス」第1回展。しかし反響はほとんどなかった。冬,シュヴァービング地区ホーエンツォレルン街の「実験工房」の向い側に「ファーランクス」画塾をひらき,カンディンスキーをはじめ,ヘッカー,ヒュスゲンなど教鞭をとる。
●オイゲン・フォン・カーラーはプラハからミュンヒェンに出て,はじめクニールに,それからアカデミーのシュトゥックに学ぶ。
●ダルムシュタット,ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィッヒ後援の芸術家村がウィーンから招かれたヨーゼフ・オルブリッヒの全体計画のもとに完成。ミュンヒェン共同工房のペーター・ベーレンスも参加。
●ドレスデン,キルヒナー,工科大学Die Techninsche Hochschuleで建築を学びはじめる。
●ケムニッツ,ヘッケルはケムニッツの文芸サークルでカール・シュミット=ロットルフKarl SCHMIDT−ROTTLUFF(1884−1976)と知り合う。
●ドレスデン,国際美術展に,クリムトをはじめウィーン分離派が出品。
●ハーゲン,クリスチャン・ロールフスChristian ROHLFS(1849−1938)はカール=エルンスト・オストハウスKarl-Ernst OSTHAUS(1847−1921)がフォルクヴァングFolkwang美術館とともに設けた美術学校に招かれる。
●3月,パリ,ベルネーム・ジュヌBernheim-jeune画廊でゴッホ回顛展。この展覧会を通じてマチス,ドラン,ヴラマンクの交友はじまる。
●アンリ・ル・フォーコニエHenri Le FAUCONIER(1881−1946)パリに出て,アカデミー・ジュリアンに学ぶ。
●ベルリン,マックス・ラインハルトMax REINHARDTの「響きと煙Schall und Rauch」,エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンErnst von WOLZOGENの「ユーバープレットルUberbrettl」が開店し,ベルリンのキャバレー文化しだいに盛んとなる。ミュンヒェンも少しおくれてこれに続き,キャヴァレー「十一人の死刑執行人Die Elf Scharfrichter」はアヴァンギャルド演劇をプログラムにとりいれた。
●ウィーン,クリムト,美術アカデミー教授職を拒否され,アカデミスムヘの反感さらにつよまる。この後のクリムトは「ウィーンの洗練された上流階級の画家・装飾家」(ショースキー)となり,主に婦人肖像画をてがける。

●ベックリン歿(1827−)。
●トゥールーズ=ロートレック歿(1864−)。
*1月,イギリスのヴィクトリア女王歿し,エドワード七世が即位。

*この頃ベルリン郊外で山野を歩きまわるグループが生まれ,たちまち北ドイツ一帯にひろがってゆく。もともとは非政治的な学生中心の運動であった。「ワンダーフォーゲル運動が生まれた時代の特色は,青年の老年に対する闘争であった。」(ハンス・ブリューアー)。

*「表現主義は,中産階級の青年運動であり,中庸に対する倦怠感と不満とに根ざした,世界的規模における反逆の一部であった。つまりそれは知的な洗練と創造性の点でより高度な水準に立った一種のワンダーフォーゲルであったといってよい。」(ワルター・ラカー)。
1902 ●1月,ミュンヒェン,カンディンスキーはロルフ・ニッキィに代わって「ファーランクス」の会長となる。1月,「ファーランクス」第2回展,ダルムシュタットの芸術家村からベーレンスら4名,ミュンヒェンの共同工房からリーマーシュミートら3名が出品する。
●3月,ベルリン,ムンク,ベルリン分離派展に油彩28点出品。ムンク2度目のベルリン滞在(−1908年)。
●春頃,ミュンヒェン,ガブリエーレ・ミュンターは「ファーランクス」の画塾へ移る。
はじめヒュスゲンに学ぶ。
●5月,ミュンヒェン,「ファーランクス」第3回展。コリントが出品。
●8月,ミュンヒェン,「ファーランクス」第4回展,フィンランドのアクセリ・ガレン=カレラAkseli GALLEN-KALLELA(1865−1931)が出品。
●ベルリン,この年カッシーラーCassirer画廊でクビーン展。
●ドレスデン,ペヒシュタイン,工芸美術学校をやめアカデミーに入学(−1906年)。
●ドレスデン,キルヒナー,工科大学で建築学を学んでいたフリッツ・ブライルFritz BLEYL(1880−1966)を知る。
●ドレスデン,アルノルトArnold画廊でフランス印象派,新印象派展。
●ワイマール,ファン・デ・ヴェルデ,ワイマール大公の芸術顧問となり,ベルギーの工芸運動がドイツに浸透。●ハーゲン,フォルクヴァング美術館でゴッホ展。クリスティアン・ロールフス強く刺激される。
●クレーフェルト,5月,カイザー・ヴィルヘルム美術館で北欧絵画展。ムンク,ガレン=カレラ出品。
●ベルリンの人口200万人をこえる。(1871年,ドイツの首都となった頃の人口は約82万人)
●イタリア旅行中のクレー,ナポリでマレースのフレスコをみ・驕B
●オットー・エックマンOtto ECKMANN歿(1865−)。

*ウィーン,グスタフ・マーラー,妻アルマを通じてクリムト,コロマン・モーザー,マックス・クリンガーMax KLINGER(1857−1920)と交遊。

*1月,日英同盟成立。
*この年シベリア鉄道,ウラジオストックまで開通。
1903 ●ベルリン,ベルリン分離派展にノルデ,ホドラー,モネ,マネ,トゥールーズ=ロートレックなど展示。
●ベルリン,ヘルヴァルト・ヴァルデンHerwarth WALDEN,本名ゲオルク・レーヴインGeorg LEVIN(1878−1941)は音楽を主体にした芸術協会をつくる。
●キルヒナーは,しばらくミュンヒェンに滞在し,オープリストとデプシッツのアトリエで学ぶ。
●5月,ミュンヒェン,「ファーランクス」第7回展にモネの作品16点出品。
●5月,ミュンヒェン,ヤウレンスキー,ミュンヒェン分離派展に出品。この後コリントからベルリン分離派展への出品要請がある。
●8月,ミュンヒェン,ペーター・ペーレンスはカンディンスキーにデュッセルドルフ工芸学校の職をあっせんしたが,カンディンスキー固辞。
●ミュンヒェン,ダヴィット・ブルリュークDavid BURLJUK(1882−1967)とウラジミール・ブルリュークWladimir BURLJUK(1886−1917)がアツベの画塾に入る。
●ミュンヒェン,ドイツ各地の分離派の連合をめざすドイツ芸術家連盟Der Deutshe Kunstler-bundが生まれる。初代会長はレオポルト・グラーフ・フォン・カルクロイトLeopold Graf von KALCKREUTH(1855−1928)。第1回展は翌年5月,ミュンヒェン分離派展と同時開催。
●ウィーン,ウィーン分離派から派生してヨーゼフ・ホフマン,コロマン・モーザーら,ウィーン工房Die Wiener Werkstatteを設立。フリッツ・ヴェルンドルファーFritz WARNDORFERが援助し,クリムト,オットー・ヴァーグナーが協力。バウハウス運動の先駆。
●ウィーン,ウィーン分離派展に印象派,新印象派の作品が展示される。
●ルートヴィッヒ・マイトナーLudwig MEIDNER(1884−1966),ブレスラウ・アカデミーに入る。
●パリ,パウラ・モーダーゾーン=ベッカー,リルケ夫妻と日本美術展をみる。
●パリ,「サロン・ドートンヌ」創設,10月の第1回展にマチス,ボナール,ルオー・シュトゥックら参加。
●マックス・ベックマンMax BECKMANN(1884−1950),ワイマール・アカデミーを去りパリヘ。半年滞在。
●フランツ・マルクもこの年ミュンヒェン・アカデミーの友人フリードリッヒ・ラウアーFriedrich LAUERとパリ旅行。
●シニャックの「ウージェーヌ・ドラクロワから新印象主義へ」(1899年)の独訳刊行。
●アルノルト・シェーンベルクArnold SCHONBERG(1874−1951)ベルリンから再びウィーンに帰る。
●この年のウィーンとベルリンの分離派展にゴーギャン初出品。なお,11月,パリのヴォラール画廊でゴーギャン回親展。

●ポール・ゴーギャン歿(1848−)。
●カミーユ・ピサロ歿(1830−)。

*2月,ドイツ・トルコ間にバグダッド鉄道条約締結。ベルリンからビザンティウムをへてバクダットへ至る3B政策推進。
1904 ●1月,ミュンヒェン,「ファーランクス」第9回展にクビーン出品。
●1月,ウィーン,ウィーン分離派展にホドラーの作品が展示される。ヨーゼフ・ホフマンはこの展覧会のためにユーゲント・シュティールの建物を設計し,ウィーンを訪問したホドラーはこのホフマンやクリムトに会う。
●4月,ミュンヒェン,「ファーランクス」第10回展。ジュール・フランドランJules FLANDRIN(1871−1947),シャルル・ゲランCharles GUERIN(1875−1939),ピエール・ラプラードPierre LAPRADE(1875−1931),フェリックス・ヴァロットンFelix VALLOTTON(1865−1925),それにシニャック,トゥールーズ=ロートレックなどフランスの画家の作品を展示。前年からミュンヒェンに滞在していたキルヒナーは,この展覧会に感激。ドレスデンに帰る。
●ベルリン,この年からムンクはベルリン分離派の正会員となる。冬の分離派展にはファイニンガー,カンディンスキー,ムンクとともに出品。
●ベルリン,カッシーラー画廊でセザンヌ展。ミュンヒェンにも巡回する。カッシーラー画廊ではゴッホ展もひらかれた。
●ベックマン,ベルリンヘ移住。
●一方,カールスルーエ・アカデミーに学んでいたアドルフ・エルプスレーAdolf ERBSLOH(1881−1941)はミュンヒェン・アカデミーヘ入る。
●ミュンヒェン.カンディンスキーは上記展覧会の組織、出品のほかこの年からガブリエーレ・ミュンターと各地に旅行。
●5月,ミュンヒェン,ミュンヒェン分離派展にクリムト出品。
●ドレスデン,ヘッケルは工科大学の建築学科に学び,兄のマンフレート・へッケル Manfred HECKELを通じてこの年の春ドレスデンから帰ったキルヒナーを知る。またブライルも仲間になる。
●デュッセルドルフ,アウグスト・マッケAugust MACKE(1887−1914),デュッセルドルフ・アカデミーに入る。
●パリ,カンディンスキーはこの年から1910年まで毎回サロン・ドートンヌに出品。この年はヤウレンスキーも出品した。
●ミュンヒェンのブルリューク兄弟,パリに出て,エコール・デ・ボザールのコルモン教室に学ぶ。
●マイアー=グレーフェ『現代芸術発達史Die Entwicklungsgeschichte der modernen Kunst』刊行。

*2月,日露戦争はじまる。
*4月,英仏協商が成立。アフリカにおける相互の権益を承認するとともに,とくに中東においてドイツと対立の姿勢を明らかにする。
*マックス・ウェーバーMax WEBER(186−1920),『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を刊行。
1905 ●ノルデ,この当時前衛美術の収集にもっとも意欲的だったハーゲンのフォルタヴァング美術館でゴッホの作品にうたれる。オストハウスはノルデの作品を購入,またロールフスにも会う。
●パウル・カッシーラー,ベルリンとハンブルクでゴッホ展を組織。
●ルートヴィッヒ・マイトナー,ブレスラウからベルリンヘ移る。
●バルラッハ,ベルリンに居を定める。
●ドレスデン・シュミット=ロットルフはこの年からドレスデン工科大学の建築科に入り,ヴィルヘルム・クライスWilhelm KREISの設計事務所に通いはじめたヘッケルと再会。ヘッケルの仲介でキルヒナー,ブライルを知る。
●6月,ドレスデン,キルヒナーとブライルの卒業を機に,ヘッケル,シュミット=ロットルフをあわせた4人でグループを結成,「ブリュッケBrucke」と名づける。この頃の制作には,ムンク,ゴッホ,ゴーギャン,マチスなど後年大きなインパクトをうける画家の影はあきらかになっていない。しかし,11月,アルノルト画廊でゴッホ展がひらかれ,各人強い刺激をうける。このアルノルト画廊はドレスデンにおける前衛絵画のセンターのひとつで,ブリュッケはしばしば出入りした。また彼らはドレスデンの民族博物館へも足をはこんで,南洋彫刻をみている。
●ミュンヒェン,マルクはスイス出身の動物画家ジャン・プロエ・ニースレJean Bloe NIESTLEに出会う。
●ハインリッヒ・カンペンドンクHeinrich CAMPENDONK(1889−1957),クレーフェルトKrefeldの工芸美術学校に入学,ハーグ生まれの象徴主義画家でデザイナーのヤン・トルン=プリッカーJan THORN PRIKKER(1868−1932)に学ぶ。
●ウィーン工房の建築・装飾になるストクレStoclet邸(ベルギー),オランダのデ・スティルDe Stijl運動にも影響をおよぽす。
●ハイデルベルク大学の美術史学者ヘンリー・トーデHenry THODE(1857−1920),現代美術に関する講義で,マイアー=グレーフェやチューデイ,画家ではマックス・リーパーマンが代表するフランス追従の傾向を,ドイツ美術の純粋な発展を阻害するものとして批判し,逆にベックマンやハンス・トーマを賞賛する。
●ベルリン,マックス・ラインハルトはドイツ劇場の総監督となり,『ヴェニスの商人』『真夏の夜の夢』などを斬新な集団演劇として演出。
●3月,パリ,サロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダン展で,ゴッホとスーラの回顧展。
●10月,パリ,サロン・ドートンヌに出品したマチス,ヴラマンク,ドラン,ルオーの作品を批評家ルイ・ヴォークセルLouis VAUXCELLESはフォーヴLes Fauvesと呼ぶ。
●クレー,パリに旅行、オディロン・ルドンOdilon REDON(1840−1916)に会う。この年クビーンもパリでルドンに会っている。
●ヤウレンスキー,ディアギレフが企画するこの年のサロン・ドートンヌでのロシア美術展出品をきっかけにパリに出,マチスを知る。
●ケスラー伯,ロダンを通じてマイヨールAristide MAILLOL(1861−1944)を知り,そのパトロンとなり,マイヨールはドイツとの縁が深くなる。オストハウスもケスラーの仲介でマイヨールの作品を購入。
●ベルリン,リヒャルト・シュトラウスRichard STRAUSS(1864−1949),『サロメ』初演。「意図的な醜悪さ,金属的な響きと晦渋」と評される。
*1月,ロシア,ペテルブルクの血の日曜日事件にはじまった第1次革命運動。10月の勅令発布から反動の時期に入る。
*3月ドイツのヴィルヘルム2世のタンジール訪問に端を発する独仏対立のモロッコ事件。
「これ以後の10年間,ヨーロッパの若者たちは差し迫る戦争の雰囲気のなかに暮らし,呼吸していた。」(ステュアート・ヒューズ)。
*アインシュタイン,『運動体の電気力学について』を発表。
1906 ●ベルリン,ノルデ,グルリット画廊で初の個展をひらく。「ミュンヒェンやベルリンで私は多くの新しい美術を見ていた。ゴッホ,ゴーギャン,ムンクの作品を知ってそれに感動し,それを賞賛し愛した。私はそれらに取り組まねばならなかった。」(ノルデ)
●春,ベルリン分離派に,ノルデ,ベックマンが出品。
●ミュンヒェン,ヤウレンスキー,ミュンヒェンの近郊ボイロンBeuronに住む元ナピ派の画家ヤン・フェルカデJan VERKADE(1868−1946)と交友。
●クレー,この年からミュンヒェンに定住,ミュンヒェン分離派展に出品。
●1月,ドレスデン,ノルデ,アルノルト画廊で近作展。その色彩の激しさに驚いたシュミット=ロットルフはノルデをブリュッケに勧誘し,ノルデも夏すぎアルゼンAlsenをひきはらってドレスデンに定住。
●2月,ドレスデン,ザクセン美術協会でムンク展。
●ドレスデン,ヘッケル,ドレスデン・アカデミーの学生ペヒシュタインをキルヒナーとシュミット=ロットルフに紹介。ペヒシュタインもブリュッケの一員となる。
●9月,ドレスデン,ザイフェルトのガラス照明具工場で,この地での最初のブリュッケ展。キルヒナー,ヘッケル,ペヒシュタイン,シュミット=ロットルフ,ブライル,ノルデが出品。この冬12月−1月のブリュッケ第2回展には,ミュンヒェンのカンディンスキー,スイスのクーノ・アミエ歿も参加。
●1月,ドレスデンのアルノルト画廊で後期新印象派展。ゴッホ,ゴーギャン,ポナール,ヴァロットン,ヴュイヤールを展示。
●カールスルーエ,セザンヌ,シニャック,スーラなど後期印象派展。アレクサンダー・カーノルトAlexander KANOLDT(1881−1939)はこれをみて大きな衝撃をうける。
●ベルリン,ドイツ絵画1775−1875展(チューディが企画)。
●ベルリン,カール・シェフラーKarl SCHEFFLERを編集主幹とする美術雑誌『芸術と芸術家Kunst und Kunstler』発行(−1933年)。
●ワイマール,ムンク,ケスラー伯とニーチェ,その妹エリザベトの肖像画を描く。宮廷でワイマール美術工芸学校教授ファン・デ・ヴェルデに会う。マックス・ラインハルトの注文でスケッチ制作。またケスラー伯が館長をつとめるワイマール大公美術館で,11月,ムンク個展。
●エゴン・シーレEgon SCHIELE(1890−1918),ウィーン・アカデミーに入学。
●1月,ウィーン,ミートケMiethke画廊でゴッホ展。オスカー・ココシュカOskar KOKOSCHKA(1886−1980)それをみる。
●ペテルブルクでディアギレフ,美術世界展をひらき,ヤウレンスキー,ラリオーノフらと出品。
●ファイニンガー,パリヘ旅行(−1907年)。
●カンディンスキー,ミュンターとパリに定住。
●マイトナー,パリのアカデミー・ジュリアンに学ぶ。セザンヌ,マネ,ゴッホに心酔。またモディリアニと交友。
●10月,パリ,サロン・ドートンヌでゴーキャンの大回顧展。
●ポール・セザンヌ歿(1839−)。

*1月−4月,列国のモロッコ問題討議(アルヘシラス会議)。
*9月,汎ゲルマン会議。
1907 ●1月,ベルリン,カッシーラー画廊で,ムンク,コリントらと展覧会。
●3月,ウィーン,ミートケ画廊でゴーギャン展。
●カンディンスキー,6月にミュンヒェンヘ帰る。
●9月,ドレスデン,リヒターRichter画廊でブリュッケ第3回展。この展覧会後,ノルデはブリュッケを脱退,ベルリン分離派の一員となる(−1909)。
●10月,ドレスデン,ザクセン美術家協会展でクリムト,ゴッホ.ドガ,セザンヌなど展示。
●ペヒシュタイン,秋からイタリアヘ旅行。冬パリでケース・ファン・ドンゲンKees van DONGEN(1877−1968)に会ってブリュッケ加入をすすめる。
●マッケ,パリで修業のあとベルリンへ赴き,コリントの門を敲く。
●ベルリン,ベルリン分離派展にカンディンスキー,ノルデ,クリムト,マイヨール,マチス,ムンク,シュミット=ロットルフ出品。
●ミュンヒェン,マルク2度目のパリ遊学。帰国後本格的に動物研究。
●ウィーン,ココシュカ,ウィーン工房に入り,シーレとともにクリムトを助ける。戯曲『殺人者,女たちの望みMorder,Hoffnung der Frauen』を書く。
●ベルリン,ムテージウス,芸術と産業と職人技術の協力をめざすドイツ工作連盟Der deutsche Werkbundを組織。機能主義的発想があらわれ,ユーゲント・シュティールの流行を大きく転換させる一因となる。
●ベルリン,ペーター・ベーレンス,ヴァルター・ラーテナウの「総合電気会社(AEG)」の設計および技術顧問となり,工場と製品を包括する産業デザインにとりくむ。当時のベルリンにおいてもっとも活動力にあふれたベーレンスの事務所で,ワルター・グローピウスWalter GROPIUS(1883−1969),ルートヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエLudwig Mies van der ROHE(1886−1969),ル・コルビュジエLe CORBUSIER(1887−1965)らが参加する。
●パウラ・モーダーゾーン=ベッカー,ヴォルプスヴェーデで歿(1876−)。
●マッケ,ベルンハルト・ケーラーBernhard KOEHLERの援助で,彼とともにパリに出る。
●ファイニンガー,再びパリのアカデミー・コラロッシに通い,かたわらマチスのアトリエにも出入りする。(−1908年)
●10月,パリ,サロン・ドートンヌでセザンヌ展。
●ブルリューク兄弟はオデッサに帰り,この年モスクワでミハイル・ラリオーノフMikhail LARIONOV(1881−1964),ナタリア・ゴンチャローヴァNatalia GONCHAROVA(1881−1962)と共同展をひらく。

*7月,ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟更新。
*8月,イギリス・フランス・ロシア三国協商成立。
*ウィーン,アドルフ・ヒットラー,リンツから出て,ウィーン・アカデミーの試験をうけるが失敗。
1908 ●4月,ドレスデン,リヒター画廊でゴッホの大展覧会。キルヒナー,ヘッケル,シュミット=ロットルフらこれに圧倒される。
●5月,ウィーン,ココシュカ,ウィーン工房から詩画集『夢みる少年たちDie Traumenden Knaben』を出版。ウィーン工房主催の芸術綜合展「クンストシャウKunstschau」展でもココシュカの作品はセンセーションをまきおこす。
●9月,ドレスデン,リヒタ一画廊でブリュッケ展。ヘッケルとシュミット=ロットルフはオルデンブルク,ペヒシュタインはパリ,キルヒナーのみドレスデンに残っていた。この同時期リヒター画廊はマチスとそのフォーヴの仲間たちファン・ドンゲン,ヴラマンク,マルケなどの展覧会を催し,キルヒナーにとってフォーヴの色彩と出会う最初の機会となる。
●12月,ブリュッケのグラフィック作品,はじめてベルリン分離派展に登場。
●ベルリン,国立美術館長フーゴー・フォン・チューディは,近代フランス絵画を擁護する「破壊的な芸術観」をもっているという理由で解任される。(翌年ミュンヒェン国立絵画館長となる。)
●オットー・ミュラー,ベルリンに住む。彫刻家ヴィルヘルム・レーンプルックWilhelm LEHMBRUCK(1881−1919)を知る。
●ドレスデン,ペヒシュタインはアカデミーのオットー・グスマンOtto GUSSMANN(1869−?)教室の特待生としてイタリアに旅行,帰途パリにたちよる。マチスの生徒で,以前はミュンヒェン・アカデミーのシュトゥック教室にいて,ベルリン分離派とも交渉のあったハンス・プルマンHans PURRMANN(1880−1966)に会う。またケース・ファン・ドンゲンや,すでにブリュッケに参加していたフランツ・ネルケンFranz NOLKEN(1884−1918)にも会う。晩秋に帰国しドレスデンではなくベルリンに住む。
●デュッセルドルフ,デュッセルドルフ・アカデミーの有志が集まり分離派運動の一環として「ゾンダーブントSonder bund」を結成。マックス・リーバーマンを名誉会員とする。
●アレクサンダー・カーノルト,カールスルーエからミュンヒェンに出る。
●アルバート・ブロッホAlbert BLOCH(1882−1961),ニューヨークからミュンヒェンヘ。
●ヴィルヘルム・モルグナーWilhelm MORGNER(1891−1917)はヴォルプスヴェーデヘ行き,ゲオルク・タッペルトGeorg TAPPERT(1880−1957)に学ぶ。
●カンディンスキー,ミュンター,ヤウレンスキー,ヴェレフキンはこの年の夏をムルナウMurnauで制作に費す。
●ワイマール,ファン・デ・ヴェルデの工芸美術学校は正式にワイマール大公立工芸美術学校となる。
●ベルリン,ローヴィス・コリント『絵画学習Das Erlernen der Malerei』刊。
●作曲家エドガー・ヴァレーズEdgar VARESE(1885−1965),ベルリンに住む。
●ヴィルヘルム・ヴォーリンガーWilhelm WORRINGER(1881−1965),『抽象と感情移入Abstraktion und Einfuhlung』を刊行。抽象の観念を明確にし,「表現主義のイデオロギー的基礎づけ」(B.S.マイヤース)に貫献した。カンディンスキーヘの影響が大きい。
●ベルリン,マッケ,春イタリアに遊ぶ。パリのケーラーに呼ばれ,フランス印象派絵画収集のアドヴァイスをする。フェリックス・フェネオンに会う。
●ウィーン,建築家アドルフ・ロースAdolf LOOS(1870−1933),エッセイ『装飾と罪Ornament und Verbrechen』発刊。
●パリ,ハンス・プルマンとサラ・スタインはマチスの画塾を組織。生徒の多くはドイツ人。12月,ベルネーム・ジュヌ画廊でスーラ回顧展。
●ヨーゼフ・オルブリッヒ歿(1867−)。
●ヴァルター・ライスティコフ歿(1865−)。

*7月,青年トルコ党の革命。
*10月,ブルガリア独立宣言。
*10月,オーストリアはボスニア,ヘルツェゴヴィナを併合。
1909 ●1月,ベルリン,カッシーラー画廊でマチス展,キルヒナーこれをみて強く刺激される。
●1月,ミュンヒェン,カンディンスキーとヤウレンスキーはベルリン分離派に出品するなど,すでにミュンヒェン分離派をはなれつつあったが,この年ミュンヒェン新美術家協会Die neue Kunstlervereinigung Munchenを組織し,カンディンスキーが会長となる。ミュンヒェン国立絵画館館長となったチューディの仲介でタンハウザーThannhauser画廊を借りることができ,12月第1回展をひらく。カンディンスキー,ヤウレンスキー,ミュンター,ヴェレフキン,アドルフ・エルプスレー,アレクサンダー・カーノルト,クビーンの他カール・ホーフアーCarl HOFER(1878−1955),モイセイ・コーガンMoissej KOGAN(1879−1938),ピエール・ジリューPierre GIRIEUD(1875−1940),ユーゴスラヴィアの女流画家エルマ・ポッシErma BOSSI(1885−1952)などが参加。
●5月,ウィーン,クンストシャウ第2回展。エゴン・シーレとココシュカの作品,論議を呼ぶ。しかしクリムトの唯美・装飾主義に反発するアドルフ・ロースがココシュカの後援者となり,カール・クラウス,ペーター・アルテンベルクPeter ALTENBERG(1859−1919)をはじめウィーンの文化人を紹介する。
●6月,ドレスデン,リヒター画廊でブリュッケ展。
●ドレスデン,夏ヘッケルとキルヒナーは戸外制作のためモーリッツブルクMoritzburgへ行く。この後ヘッケルは4月からダンガストDangastに滞在するシュミット=ロットルフと合流。ベルリンのペヒシュタインはこの年から毎夏をニッデンNiddenにすごす。ブライルはこの年ブリュッケを脱退。
●11月,ベルリン,カッシーラー画廊でセザンヌ展。キルヒナー再びベルリンにシュミット=ロットルフとともに出て,これを見る。
●ファイニンガー,ペヒシュタイン,この年からベルリン分離派に出品(−1911年)。
●ベルリン,国立美術館館長には,美術史家カール・ユスティCarl JUSTI(1832−1912)の甥ルートヴィッヒ・エスティLudwig JUSTI(1876−1957)が就任。
●クレーフェルト,カンペンドンクは工芸美術学校をやめ,アウグスト・マッケのいとこヘルムート・マッケHelmut MACKE(1891−1936)と共同のアトリエをもつ。
●ウィーン,ココシュカの戯曲『スフィンクスとかかし』。
●クビーン,小説『裏面Die andere Seite』発表。
●ミュンヒェン,ドイツではじめてのピカソ展,タンハウザ一画廊でひらかれる。
●パリ,「フイガロLe Figaro」でフイリッポ・マリネッティFilippo MARINETTI(1878−1944)は『未来派宣言manifesto futurista』を発表。
●パリ,ディアギレフ主催のセゾン・リエス第1回公演(1911年正式にロシア・バレー団結成)。

*バルカン半島の汎ゲルマン主義と汎スラヴ主義の角逐,この頃から烈しくなる。
1910 ●1月,ミュンヒェン,マルクはブラークルBrakl画廊で初の個展。それを見たマッケと知りあう。夏,ベルリンの実業家ベルンハルト・ケーラーがマルクのパトロンとなる。
●3月,ベルリン,ヘルヴァルト・ヴァルデンは,ウィーンの個人誌『たいまつ』を範にとった文学批評週刊誌『嵐 Der Sturm』を創刊。新分離派展もとりあげペヒシュタインをほめる。ヴァルデンはこの『嵐』をウィーンでも刊行したが,そのウィーンでアドルフ・ロースにココシュカを紹介され,ベルリンに招いて同誌の「今週の顔」欄を担当させた。
●ベルリン,ベルリン分離派第20回展でノルデ,ペヒシュタインなど若手画家が大量に落選したのをきっかけにリーバーマンを会長とする分離派の保守化に反発してペヒシュタインら新分離派運動を広げ,5月,マハトMacht画廊で新分離派第1回展をひらく。ドレスデンのブリュッケ派,キルヒナー,ヘッケル,シュミット=ロットルフ,ペヒシュタイン,オットー・ミュラー,タッペルト出品。ノルデは不出品。
●6月,ベルリン,カッシーラー画廊でココシュカ初の個展。
●7月,デュッセルドルフ,ブリュッケはオストハウスの仲介で「ゾンダーブント」展に参加。この展覧会には他にカンディンスキー,ヤウレンスキー,マチスを筆頭とするフランスのフォーヴィスト,ファン・デ・ヴェルデやモーザーも出品した。
●9月,ドレスデン,アルノルト画廊でブリュッケ展。オットー・ミュラー,クーノ・アミエ出品。この展覧会はワイマール大公美術館へも巡回。
●9月,ドレスデン,アルノルト画廊でゴーギャン展。ブリュッケ展と同時開催。
●9月.ミュンヒェン,タンハウザー画廊で新美術家協会第2回展。ピカソ,ブラック,ヴラマンク,ルオー,ル・フォーコニエ,ブルリューク兄弟,ドラン,ファン・ドンゲンなどが新たに参加。1回展と同じ酷評と無視にあうなかで,その頃ジンデルスドルフSindelsdolfに住むフランツ・マルクがこの展覧会にうたれ,カンディンスキーに手紙を出す。マルクは翌年1月,新美術家協会に入会。
●10月,ベルリン,新分離派第2回展。ノルデ出品。
●ドレスデン,新分離派運動を通じて知ったオットー・ミュラーをブリュッケに加え,夏そのミュラーを同行して,キルヒナー,ペヒシュタイン,ヘッケルはモーリッツブルクヘ行く。ヘッケルとペヒシュタインはその後,ダンガストのシュミット=ロットルフに合流。
●ウィーン,フーゴー・ヘラーHugo Heller書店の画廊でシェーンベルク個展をひらく。
●ベルリン,グローピウス,ペーター・ベーレンス事務所から独立。
●ミュンヒェンのモイセイ,コーガン,ベルリンのレーンブルックはパリに出て,それぞれマイヨール,ブランクーシを知る。
●2月,パリ,ルオーはドゥリュエDruet画廊で初の個展。
●この頃パリの芸術家,モンマルトルからモンパルナスヘ移る。
●カンディンスキー,モスクワ,ペテルブルク,オデッサをまわり,オデッサでブルリューク兄弟に接触。国際美術展にヤウレンスキーとともに出品。また12月から翌年1月のモスクワの「ダイアのジャック」第1回展にも,ヤウレンスキー,ブルリューク兄弟、カーノルトらとともに出品する。モスクワにあったブルリュークの家は,ロシア未来派の巣窟となった。

●アンリ・ルソー歿(1844−)

*この頃リルケはフリードリッヒ・ヘルダーリンFriedrich HOLDERLIN(1770−1843)の作品を知り,リルケの影響がきわめて大きかった青年運動を通じて,ヘルダーリンの復活がはじまる。
*フランクフルトで第1回のドイツ社会学会。ゲオルク・ジンメルGeorg SIMMEL(1858−1918),ヴェルナー・ゾンバルトWerner SOMBART(1863−1941),フェルディナント・テニエスFerdinand TONNIES(1855−1936),マックス・ウェーバー,エルンスト・トレルチErnst TROELTSCH(1865−1923)が報告する。
*パリ,セゾン・リュス,イゴール・ストラヴィンスキーIgor STRAVINSKY(1882−1971)の『火の鳥』オペラ座で公演。ドビュッシー,ラヴェル,フローラン=シュミット,ファリャなど聴きにゆく。

*5月,ドイツ,ツェッペリン伯Ferdinand von ZEPPELIN(1838−1917),飛行船ドイツチュラント号による旅客輸送に成功。
1911 ●1月,ベルリン,ペヒシュタインが『嵐』の口絵を描いたのがきっかけとなり,ブリュッケの作品が使われだす。
●4月,ベルリン,グルリット画廊で小規模なブリュッケ展。
●10月,マルクのすすめで,マッケとカンペンドンクはマルクのいるジンデルスドルフに移る。
●10月,ベルリン,キルヒナーとペヒシュタイン,MUIM−Institut(美術学校:MUIMはModerner Unterricht in Malereiの略語)をつくる。
●11月,ベルリン,新分離派展。ブリュッケ,カンディンスキー,ヤウレンスキー,マルク,ヴェレフキン,ノルデが出品。
●秋,キルヒナーとヘッケルはドレスデンを去ってベルリンヘ。シュミット=ロットルフもあとを追い,ブリュッケ同人のすべてベルリンに定住。ベルリン在住のココシュカ,彼らと交遊。
●フランス美術崇拝の風潮に反抗したカール・ヴィネンCarl VINNEN(1863−1922)は「ドイツ芸術家の抗議Ein Protest deutscher Kunstler」を発表,それに対してただちに反論「芸術の闘いのなかでIm Kampf um die Kunst」がだされ,ヴィネン側にはヴィルヘルム・トリューブナー,シュトウック,コルヴィッツら,反対陣営にはリーパーマン,スレフォークト,クリムト,カンディンスキー,ヴォーリンガー,オストハウス,カッシーラーなどが結集し,ドイツ美術界を二分した。
●ミュンヒェン,夏,新美術家協会のエルプスレー,カーノルトら協会運営に関するカンディンスキーの主張が過激すぎると批判,不穏な情勢となる。
●ミュンヒェン,タンハウザー画廊でクレーの個展。クビーンは作品を買ってカンディンスキーにみせる。同じ頃ルイ・モワイエLouis MOILLIET(1880−1962)を通じてクレー,カンディンスキーを知る。
●12月,ミュンヒェン,新美術家協会展にカンディンスキーが出品しようとした作品『コンポジションV』をめぐって意見が対立したあげく不出品が決定されたので,カンディンスキー,マルク,ミュンター,クビーンは退会。ヤウレンスキーとヴェレフキンはカンデインスキーの予想に反して残留した。脱会したカンデインスキー,マルクはただちに「青い騎士Der blaue Reiter」を結成。
●12月,ミュンヒェン,タンハウザー画廊で同じ日,新美術家協会展と「青い騎士」展が開かれる。新美術家協会展(これが最後となった)にはエルプスレー,カーノルト,コーガン,ジリュー,ヤウレンスキー,マリアンネ・フォン・ヴェレフキンらが出品。一方の「青い騎士」展には,カンディンスキー,マルク,ミュンターの他,マルクが誘ったカンペンドンク,ニースレ,マッケ,それにブルリューク兄弟,アルベール・ドローネー,エリザベト・エプシュタインElizabeth EPSTEIN,アルバート・ブロッホ,アルノルト・シェーンベルクらが出品。直前に死亡したオイゲン・フォン・カーラー,1910年に逝去したアンリ・ルソーの作品も展示された。
●デュッセルドルフ,ゾンダーブント展はピカソ,ブラック,ヴラマンク,ドランなど若手フランス画家が出品。これら新しい芸術家の総称として表現主義者という言葉が同年春のベルリン分離派展の展評につづいて同展の批評にあらわれる。
●ココシュカ,ベルリンからウィーンヘ帰り,美術工芸学校で教える。グスタフ・マーラーの未亡人アルマと同棲。
●ベルリン,シェーンベルクの音楽会にカンディンスキー,マルク出席。「この新しい音楽はカンディンスキーを思い出させる。もはや協和音も不協和音も存在しない。」(マルクからマッケヘの手紙)。またシェーンベルクは,この年に刊行した「和声論Harmonielehlre」のなかで「大切なのは自分自身に耳を澄まし,自分自身の内部を深く見つめる能力である。内部では本能の人間がはじまり,そこでは幸いにも理論が一切崩れてしまう。」と語っている。
●4月,パリ,サロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダンに初めてドローネー作品。それをみたエリザベト・エプシュタインが友人のカンディンスキーに連絡,のち「青い騎士」展に招待。
●この年ファイニンガーもサロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダンに出品。パリでドローネーを知る。
●ノルデ,オランダ・ベルギーを旅行し,ジェームス・アンソールJames ENSOR(1860−1949)に会う。
●ベルリン,フランツ・プェムフェールトFranz PFEMFERT(1879−1954),雑誌「アクツィオーンDie Aktion」を創刊。

●オイゲン・フォン・カーラー歿(1882−)。
●フーゴー・フォン・チューディ歿(1851−)。
●フリッツ・フォン・ウーデ歿(1848−)。

*「企業によって大急ぎで建設された」「醜く,味気ない石造りの海」であり,「世界の高級娼婦の中で一番醜いが,しかし一番入念に洗ってある」ベルリン,そのベルリンのシンボルともいえるクーアフュルステンダムの「西区カフェーCafe des Westens」はボヘミアンの溜り場であり,表現主義者たちの根城であった。
*一方そのベルリンは,保守的な学者,なかでも自然科学系学者を優遇する,「教授文化Professore Kultur」の街でもあった。後にノーベル化学賞をうけたワルター・ネルンストWalter NERNST(1864−1941)の豊かな生活ぶりは有名である。この年1,100万マルクの基金により,カイゼル・ヴィルヘム科学振興財団とカイゼル・ヴィルヘルム研究所が創立される。

*9月,トリポリをめぐってイタリア,トルコ間に戦争が勃発,トルコはドイツに援助を求める。
1912 ●1月,ベルリン,マルクはキルヒナー,ヘッケル,ペヒシュタイン,ミュラー,ノルデに会って「青い騎士」第2回展への出品を要請する。
●2月,ミュンヒェン,ゴルツGoltz画廊で「青い騎士」展(版画・デッサン・水彩のみ)。「青い騎士」同人の他,キルヒナー,ペヒシュタイン,ノルデ,ヘッケル,ミュラーのブリュッケ,ベルリン新分離派のゲオルク・タッペルト,モルグナー,ロシア未来派のゴンチャローヴァ,ラリオーノフ,カジミール・マーレヴィッチKasimir MALEVITCH(1878−1935),およぴ,クレー,アルプ,クビーン,ブロッホ,ピカソ,ブラック,ドローネー,ドランなど多彩な顔ぶれ。
●3月,ベルリン,ヘルヴァルト・ヴァルデン,デァ・シュトゥルムDer Sturm画廊をひらき,まずココシュカ展,ついで「青い騎士」展,未来派展とつづく。
●3月,ベルリン,新分離派展。カンディンスキー,マルク,マッケ出品,一方ブリュッケは全員不出品。春のベルリン分離派展のほらは,ブリュッケではペヒシュタインのみ出品。
●4月,ベルリン,グルリット画廊でブリュッケ展ひらく。批評家たちにもっとも高く評価されたのはペヒシュタイン。この同じ4月,マンハイムでペヒシュタイン回顧展があり,ミュンヒェン,ベルリンにも巡回する。
●5月,ケルンで国際的な現代美術展,「ゾンダープント」開催。クーノ・アミエ,ブロッホ,ヘッケル,ホドラー,ホーファー,ヤウレンスキー,カンディンスキー,カーノルト,キルヒナー,クレー,ココシュカ,マッケ,マルク,パウラ・モーダーゾーン=ベッカー,モルグナー,ミュラー,ムンク,カウエン,ノルデ,ペヒシュタイン,ピカソ,シーレ,シュミット=ロットルフ,ファン・ドンゲンが一堂に会する。
●8月,ハンブルクのコメーターCommeter画廊でブリュッケ展。個展をすでに開いたペヒシュタイン,キルヒナーから出品を拒まれ,ブリュッケから離れてゆくことになる。
●この年シュミット=ロットルフは親友のファイニンガーにブリュッケ入りをすすめるも固辞される。しかしこのシュミット=ロットルフを通じてファイニンガーはヘッケル、ミュラー,ペヒシュタイン,クビーンを知った。
●この年,ゴッホ,ゴーガン,セザンヌ,マチスらフランス画家の現代美術への貢献をたたえるマルクと,ドイツ美術の優位を固守するベックマンの問に論争。
●1月,ベルリン,ヴァルデン『表現主義者Die Expressionisten』刊。
●3月,ベルリン,雑誌『嵐』にマリネッティの「未来派文学技術宣言」の独訳を掲載。
●ゲオルク・グロッス,ベルリンに出る。
●4月,ウィーン,ミートケ画廊でベルリン分離派展。ベックマン,コリント,リーバーマン,スレーフォークト出品。
●5月,ミュンヒェン,ベルンハルト・ケーラーの援助で『青い騎士年鑑Der blaue Reiter Almanach』出版。亡きフーゴー・フォン・チューディに献げられた。またこの年カンディンスキーの『芸術における精神的なものUber das Geistige in der Kunst』刊。
●6月,ハーゲンのフォルクヴァング美術館で現代美術展ひらかれる。
●7月,スイス,チューリッヒでスイス表現主義のモデルネ・プントDer Modernebund展。ハンス・アルプHans ARP(1887−1966)アミエ,ジョヴアンニ・ジャコメッテイ,カンディンスキー,クレー,マルク出品。
●ジャコモ・バルラGiacomo Balla(1871−1958),デュッセルドルフのレーヴェンシュタインLowenstein家の壁画制作。
●パリ,マルク夫妻とマッケ,ドローネーに会う。これより先に,カンデインスキーの紹介でクレーもドローネーを訪ねる。
●パリ,ベルネーム・ジュヌ画廊で未来派展がひらかれ,スキャンダルをひきおこす。
●モスクワ,「青い騎士」の第1回展はベルンハルト・ケーラーの援助で,「ダイヤのジャック」展で陳列された後ドイツに戻って各地を巡回。

*夏,ブルガリア,セルビア,モンテネグロ,ギリシアはバルカン同盟を結成し,10月,対トルコ戦争起こる。(第一次バルカン戦争)
*ドイツ,第三次艦隊法成立。
1913 ●ベルリン,ペヒシュタインがぬけたあとのブリュッケの再結束をはかって計画されたキルヒナー編集の機関誌『ブリュッケ年代記Chronik der Kunstlergruppe Brucke』の記載をめぐって意見が対立,ついに未刊におわるとともに,5月,ブリュッケ解散。
●2月,ベルリン,「シュトウルム」画廊でのドローネー展にあわせて,ドローネーはアポリネールを同道してベルリンヘ。途中ボンでマッケに会う。
●2月,ベルリン,グルリット画廊でペヒシュタイン回顧展。
●9月,ベルリン,第一次世界大戦前ドイツで最後の国際的展覧会,第1回ドイツ秋季サロン展Deutscher Helbstsalonがへルヴアルト・ヴァルデンによって組織される。この時もベルンハルト・ケーラーが財政的に援助した。ブロッホ,ダヴィッド・ブルリューク,カンペンドンク,シャガール,ドローネー,ファイニンガー,ヤウレンスキー,カンディンスキー,クレー,ココシュカ,クビーン,マッケ,マルク,ミュンター,アンリ・ルソー,カルラ,セヴェリーニなど15ヵ国90人の366点をあつめた大展覧会となる。
●秋,ベルリン,ベルリン分離派のうちのリーバーマンに共感する一派と,新分離派を脱退したブリュッケ系の画家,バルラッハ,ペヒシュタイン,ベックマンらが合体して「自由分離派Freie Sezession」を創設。この離合集散劇のなかで,もっとも前衛的でもあったノルデ孤立。
●10月,ハーゲンのフォルクヴァング美術館でキルヒナーの初個展。
●この年.マリネッテイ,ベルリンを訪れる。
●ベルリン,ヘッケルはグルリット画廊で個展。この年の暮から翌年にかけて,フリッツ・グルリットはブリュッケの画家の個展を順にひらく。
●1月,クレーはドローネーの論文の独訳「光についてUber das Licht」を『嵐』に掲載。
●この年ミュンヒェンに来たフーゴー・バルHugo BALL(1886−1927)は「青い騎士」の同人たちと交際,表現主義演劇に加わる一方,雑誌『革命Die Revolution』創刊に協力する。
●パリ,アポリネールの『キュビスムの画家たちLes Peintres Cubistes』刊行。ドイツでもヴァルデンが直ちに出版。
●パリ,ロシア・バレー団,ピエール・モントゥー指揮でストラヴィンスキー『春の祭典』初演。
●2月,ニューヨーク,現代美術の展観アーモリー・ショウArmory Show。ドイツ表現主義作品は,前年の「ゾンダーブント」を視察したウォールト・クーン Walt KUHN(1877−1949)の意向が反映したためか,カンディンスキーとキルヒナーのみ。
●モスクワ,ラリオーノフの「光線主義」マーレヴィッチの「絶対主義」など前衛絵画運動活発となる。

*5月,ロンドン条約締結後,第二次バルカン戦争勃発。これに敗北したブルガリアはトルコとともにドイツに接近する。
*ドイツ,戦前のワンダーフォーゲル運動はピークをむかえ,マイスナー山で大集会おこなわれる。
1914 ●4月,ベルリン,自由分離派展。バルラッハ,ベックマン,ヘッケル,キルヒナー,リーパーマン,ペヒシュタイン,レーンブルック,マイヨール,ミューラー,シュミット=ロットルフ出品。
●ミュンヒェン,美術批評家ヴィルヘルム・ハウゼンシュタインWilhelm HAUSENSTEIN(1882−1957)によってミュンヒェン新分離派が組織され,ヤウレンスキー,クレー,カーノルトなど創設委員となる。5月の第1回展にヘッケル,ホーファー,ココシュカ,マッケ,ペヒシュタイン,レーンブルック,ノルデが出品。カンディンスキーとマルクは参加しなかった。
●ベルリン,ヴァルデンはアポリネールの紹介でマルク・シャガールMarc CHAGALL(1887−)を知り(すでに前年のドイツ秋季サロン展に出品),シュトゥルム画廊でシヤガール展をひらく。シャガールはベルリンに滞在,その後故郷ヴィテブスクヘ戻る。
●8月,第一次世界大戦がはじまり,マルク,マッケ,カンペンドンク,シュミット=ロットルフなど続々召集される。最初の戦死者はマッケか(9月26日),カンディンスキーはすぐミュンターとスイスに逃げ,チューリッヒをへて年の暮,ロシアヘ入る。
●ワイマールで美術工芸学校長だったファン・デ・ヴェルデも戦争のためドイツを去り,その際グローピウスを後継者に指名したが,グローピウスの召集のため実現は1918年まで延期される。
●ノルデはニューギニアの学術調査を終え,チューリッヒ,ベルリンをへてアルゼンに帰る。
●キルヒナーも志願し砲兵隊にはいる。
●ペヒシュタイン,ジェノヴァから出航,スエズを通り,セイロン,インド,中国,フィリピンを巡る。
●4月,クレーはマッケ,モワイエとともにチュニジア旅行。その後マッケはボンに帰り,兵役につく。
●パリに住み,ドームLe Domeに集まっていたドイツ人画家たち祖国へ帰る。
●ヴァルター・ハーゼンクレーヴァーWalter HASENCLEVER(1890−1940),前年発表の詩集『青年Der Jungling』につづく戯曲『息子Der Sohn』によって表現主義文学の代表とみなされる。
●パウル・フェヒターPaul FECHTER(1880−1958),『表現主義Der Expressionismus』刊。

●アウグスト・マッケ歿(1887−)。
●エルンスト・シュタードラーErnst STADLER(1883−)戦死。

*6月,オーストリア皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺され,7月オーストリアはセルビアに宣戦布告。翌8月ドイツはフランスに侵入開始し第一次世界大戦はじまる。マックス・ウェーバー,トーマス・マン,ジンメル,ハウプトマンなどさえにもみられた熱狂的愛国主義。社会主義者の大部分も祖国防衛論にかたむく。「われわれは,他のだれより身にしみて身の毛のよだつこの平和の世界に苦しめられてきた。それは,腐敗した悪臭を放っていた。芸術家はこの世界にうんざりしていただけに,その浄化とすばらしい希望をもとめて神をほめたたえた。」(トーマス・マン「戦時随想」)
1915 ●ヘッケルは志願看護兵としてフランドルへ赴き,そこでベックマンとアンソールに会う。
●第一次世界大戦によってドイツの敵国となった日本軍は極東のドイツ植民地を攻撃,その際日本軍につかまって長崎に送られたペヒシュタインは,春,サンフランシスコに到着。アメリカを横断して,秋ベルリンに帰りつく。
●戦争の直前にロシアに帰ったままドイツへ戻れなくなったヤウレンスキーは,スイスのザンクトプレクスに住み,クーノ・アミエと交遊。またホドラーやこれもスイスに避難するストラヴィンスキーを訪問。ロシアにいたラリオーノフとゴンチャローヴァは,ローザンヌのディアギレフに合流するし,ベルンにはレーニンとジノヴィエフがひそむなど,スイスにはロシア人が多かった。
●いっぽうロシアに帰ったカンディンスキーは,この年末ミュンターとストックホルムに行く。
●ココシュカ,ポーランドで重傷を負い,ウィーンで治療。
●この戦争から文化宣伝がはげしくなり,ドイツは世界に誇る指揮者とオーケストラをスイス,オランダ,スウェーデンに派遣したが,戦争ポスターにも力をいれる。ドイツのポスターはフランスに比較して,「表現主義的で初期構成主義的」だとされた。
●表現主義のもっともすぐれた詩人,アウグスト・シュトラムAugust STRAMM ロシア戦線で死亡(1874一)。

*7月,ベルリン,プロテスタント神学者ラインホルト・ゼーベルクReinhold SEEBERG(1859−1935)をはじめとする352人の大学教授による誇大妄想的な戦後ヨーロッパ処理のいわゆる「ゼーベルク覚書」が提出される。ゼーベルクは1925年ベルリン大学総長となった人。
1916 ●3月,ミュンヒェンにいたクレー徴兵。同じ頃フランツ・マルク,ヴェルダンで戦死(1880−)。
●9月,ベルリンの『ディ・アクツィオーン』エゴン・シーレを紹介。
●ベルリン,ペヒシュタイン動員され,西部戦線へ。
●ベルリン,ヴァルデンは一種のサロンであるシュトルム・アーペンデSturmabendeをはじめる。
●戦争以来,あらゆる情報の中継地となったチューリッヒで,フーゴー・バル,エミー・ヘニングスEmmy HENNINGSがはじめた「キャバレー・ヴォルテールCabaret Voltaire」にトリスタン・ツァラTristan TZARA(1896−1963),ハンス・アルプ,リヒャルト・ヒュルゼンベックRichard HULSENBECK(1892−1974)らが集まってダダDADAを叫ぶ。カフェー・オデオンにはジェームズ・ジョイスJames JOYCE(1882−1941)が常連でいて,この年『若き芸術家の肖像A Portrait of the Artist as a Young Man』を完成。
●プラハでハーゼンクレーヴァーの『息子』初演。

●7月,オディロン・ルドン歿(1840−)。
1917 ●身心障害のため除隊し,ドイツのサナトリウムで治療をうけていたキルヒナーは,この年スイスヘ移り,ダヴォスDavosに住む。9月、ここでスイス初の個展をひらいた後,やはりスイスにいたヴァン・デ・ヴェルデの紹介でクロイツリンゲン Kreuzlingenのルートヴィッヒ・ビンスヴァンガーLudwdig BINSWANGER(1881−1966)の精神病院にはいる。
●ヤウレンスキーはチューリッヒに出る。
●モルグナー,西部戦線で戦死(1891−)。
●ベルリン,ヘルヴァルト・ヴァルデン,ロータル・シュライアーLothar SCHREYER(1886−1966)と協力して表現主義の実験劇場シュトゥルム・ビューネStumbuhneをつくる。
●ココシュカ,ドレスデンに定住。戦傷を癒す。
●4月,チューリッヒにダダ画廊がひらかれ,クレー,カンディンスキー,ココシュカ出品。ココシュカの『スフィンクスとかかし』も上演された。
●カンデインスキー,モスクワに住む。
●エドガー・ドガ歿(1834−)。
●オーギュスト・ロダン歿(1840−)。

*ロシア,2月革命。レーニンはスイスを脱出して,10月革命を指導。12月,ドイツとロシアは休戦協定を結ぶ。
1918 ●2月,ベルリン,チューリッヒから来たヒュルゼンベックは新分離派会館でドイツ最初のダタ講演。4月にダダイズム宣言。未来派と表現主義を諸悪の根源として批難。ヨハネス・バーターJohannes BAADER(1876−1958),ジョン・ハートフィールドJohn HEARTFIELD(1891−1968),ゲオルク・グロッス,それにヒュンゼルベックなどダダイストの言動は,しだいに政治化してゆく。

●12月,ベルリン,ペヒシュタイン,ミュラー,シュミット=ロットルフ,ファイニンガー,オットー・ディックスOtto DIX(1891−1969),G.タッペルト,セザール・クラインC'esar KLEIN(1876−1954),ブルーノ・タウトなどが合流して,表現主義,未来派,キュビスムを綜合する精神の革命をめざして「11月グルッペNovembergruppe」を組織し,その芸術的社会的綱領としてパンフレット「全芸術家にAn Alle Kunstler」を発刊。

●ベルリン,ヴァルデン『表現主義−芸術の転換点Expressionismus−Die Kunstwende』刊。
●キルヒナーは退院。この年チューリッヒのクンストハウスでキルヒナー展ひらかれる。
●フランツ・ネルケン戦死(1884−)。
●ヘッケル,ベルリンに戻る。
●モスクワ,カンディンスキー,地方美術館の設立に協力。モスクワのSWOMAS(自由国家美術学校)で教える。
・怎Qオルク・ジンメルは表現主義への共感を示す講演「現代文化の葛藤」のなかで,「表現主義の芸術家は内容上ただ自己自身にのみ従順な生に運動の刺激を与える〈誘引〉をもって〈モデル〉に置きかえるのだ」といっている。
●エルンスト・プロツホErnst BLOCH(1885−1977),『ユートピアの精神Geist der Utopie』刊。表現主義的な哲学作品(アドルノ)。
●11月,グローピウス,ブルーノ・タウトBruno TAUT(1880−1938)は「芸術のための労働評議会Der Arbeitsrat fur Kunst」を創設,「市民芸術の終焉という意識の上に,大衆文化の構築を目指していた。」(平井正)。「11月グルッペ」と連帯行動をとる。

●フェルディナント・ホドラー歿(1853−)。
●グスタフ・クリムト歿(1862−)。
●エゴン・シーレ歿(1890−)。

*1月以降ドイツ各地で水兵の反乱,ストライキ頻発。11月,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位。シャイデマンはドイツ共和国創立を宣言し,ハウプトマンら熱狂的に歓迎。
1919 ●ペヒシュタイン,ベルリンヘ戻る。
●4月,ワイマール,ファン・デ・ヴェルデの工芸美術学校の精神を新しい皮袋に盛ったバウハウスBauhaus(正しくはDas Staatliche Bauhaus)をグローピウスが創立。「11月グルッペ」の会合で知りあったファイニンガー,ヨハネス・イッテンJohannes ITTEN(1888−1967),ゲルハルト・マルクスGerhard MARCKS(1889−?),オスカー・シュレンマーOskar SCHLEMMER(1888−1943)が教える。
●ベルリン,シュミット=ロットルフ,リーパーマンに代わって自由分離派の会長となる。
●オットー・ミュラー,プレスラウ・アカデミー教授となる。
●オスカー・ココシュカ,ドレスデン・アカデミー教授となる。
●ベルリン,ヴァルデン『新しい絵画Die neue Malerei』刊。
●カンディンスキー,モスクワのINCHUK(絵画文化研究所〉の創設に協力する。ナウム・ガボNaum GABO(1890−1977),アントン・ペヴスナーAnton PEVSNER(1886−1962)の兄弟に会う。
●6月,ベルリン,ダダの『デア・ダダ』創刊。「表現主義とシュトルムに代表される古典主義的教養の後裔に対し.残忍きわまりない戦いを挑むこと。」
●9月,ベルリン,トリビューネ劇場Tribune Theaterでエルンスト・トラーErnst TOLLER(1893−1939)の『変容Die Wandlung』初演。表現主義演劇ブームのきっかけとなる。「1918年以後になると,美術館は現代美術の作品を買いはじめ,さまざまな展覧会が催されるようになった。昨日のアウトサイダーは,今や新しいインサイダーとなった。」(ワルター・ラカー),表現主義絵画が一応の市民権をもちはじめるや,ダダは表現主義の死亡宣告をとなえる。
●この年,チューリッヒ・ダダのツァラはパリヘ,アルプはケルンへ行き,ダダ各地に波及。チューリッヒのダダ画廊は閉鎖。
●ベルリンの彫刻家レーンブルック自殺(1881−)。
●オーギュスト・ルノワール歿(1841−)。

*6月,ヴェルサイユで講和条約。ドイツ全土に不満高まる。「これは平和条約ではない。他日新たな戦争を,もはや戦争に耐えることのできないこの古い大陸に引き起こすだろう。」(クラルテ宣言),「この講和は20年間の休戦にすぎない。」(フランス軍総司令官フォシュ将軍)。
*6月,ミュンヒェンでドイツ労働者党が結成される。ヒットラー7番目の党員となる。
*オスヴァルト・シュペングラーOswald SPENGLER(1880−1936),『西欧の没落Der Untergang des Abendlandes」第1版。
1920 ●6月,ベルリン,オットー・ブルヒァルトOtto Burchard画廊でベルリン・ダダの頂点である第1回「国際ダダ見本市Internationale Dada-Messe」がひらかれ,オットー・ディックス,ゲオルク・グロッスの強烈な戦乱革命シーンが,のち,ドイツ軍侮辱の罪で告訴される。
●9月,ミュンヒェン,クレー,バウハウスに招かれる。
●10月,ミュンヒェン,ヴィルヘルム・ヴォーリンガーはゲーテ協会で講演「表現主義の危磯と終焉」を行う。「人びとは表現主義を突然背後から見,その背面を見た。そしてその時,表現主義は突然自分自身に絶望しつつある芸術の終焉間際の大恐慌のようにみえた。」
●ダルムシュタットで「ドイツ表現派展」。
●ブレーメンで「ムンクとブリュッケ派の画家たち展」。
●リーパーマン,プロシア芸術アカデミー総裁となる(−1933)。
●2月,ベルリン,マルモルハウスで映画『カリガリ博士Das Kabinett des Dr.Caligari』封切。
●ミュンヒェン,ダニエル=アンリ・カーンワイラーDaniel-Henry KAHNWEILER,『キュビスムヘの道Der Weg zum Kubismus』刊。

●アメデオ・モディリアニAmedeo MODIGLIANI歿(1884−)。

*3月,エーアハルト海兵旅団の解散騒動に端を発した右翼の反革命カップ一揆は5日天下におわる。
*この年紙幣マルクは金マルクの1/13に下がり,大インフレの萌し。
*ミュンヒェン,ヒットラーは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の綱領発表。
1921 ●カンディンスキー,モスクワからベルリンヘ。
●ミュンヒェン,表現主義の雑誌『ゲニウスGenius』廃刊(1919−)。その編集者カール・ゲオルク・ハイゼCarl Georg HEISEは表現主義はすでにファッションと化したとして死を宣告。
●クレーは,ミュンヒェンからワイマールへ居を移す。
●「青い騎士」の一員だったアルパート・プロッホはアメリカに帰り,シカゴ・アカデミーで教える。
●パリ,ダダも最盛期をすぎる。

*3月,マンスフェルト地方で労働者が蜂起。ドイツ共産党のゼネスト戦術は失敗におわりコミンテルンとともに左翼勢力は大きく後退する。
*5月,連合国の対独賠償請求がきまり,ドイツ側も受諾。
*8月,ドイツ代表として休戦条約に調印したエルツベルガー暗殺される。
1922 ●6月,カンディンスキーはバウハウスヘ招聘され,そこの「フォルム・マイスター」となる。
●10月,ベルリンでソヴィエト新国家支援のもとに第1回「ロシア美術展」。
●カンペンドンク,エッセン・アカデミー教授となる。
●スイスのヤウレンスキーは,この年,終生の地となるヴィースバーデンヘ移住。
●パリ,モンテーニュMontaigne画廊で最後のダダSalon Dada,Expostion Internationale展

*4月,レーニン引退し,スターリンが書記長となる。
*4月,ドイツ,ソ連とラッパロ条約締結。
*6月,ベルリンでヴァルター・ラーテナウ暗殺される(1867−)。「そのとき,白い海燕のように新聞売子たちが散歩道に殺到してきた。『ヴァルター・ラーテナウ暗殺さる!』恐慌が勃発し,それは全国を震撼した。一気にマルクが暴落し,幾兆という空想的な気違いじみた数字に達するまで,もはや止まるところを知らなかった。」(シュテファン・ツヴァイク)
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